「疵」
この物語はわざと曖昧にしている部分があります。
-----------------------------------------プロローグ--------------------------------
人は必ず死ぬ。
この世を去る瞬、己の身の置かれ方にも拘る。
「こんな風に死にたい」、「あんな風に死にたくない」等終わりにまで夢を見る。
中には人知れず亡くなることを恐怖にさえ感じる者まで。
そんな思いを持ちながら「自分は不幸だ」なんて抜かす奴がいる。
その日どう生きるか必死な同類がいることも知らずに。
人は必ず思う。
何故自分に生が宿ったのかを。
その理由を探って生き、一生を終える者もいる。
これが地球上の最も知性の高い「人間」という生き物の愚かさだ。
生命に意味などないのに・・・。
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毎朝これだ。
長い嫌な夢を見たと思ったらすぐその内容を忘れ、身体に纏わりつく鉛の様な倦怠感を抱えながらベッドの傍の床を覗く。
「やっぱりある…」
目が覚めると必ずそこにあるのは。
死体だ。
いつからかは覚えていない。
気づいたら毎朝そこにあって日が昇るまえにアパート近くの廃れた工事現場の砂を掘ってそれを埋める。
これが俺の毎朝のルーティンになっている。誰かに見られる恐怖はある。
見られる人によっては、俺の人生が終わるのかもしれない。
無意識のうちに誰かを殺しているのかもしれない。
だが、不思議なことに前に埋めた死体は次の日に無くなる。
テレビで報道される気配はないし近所で騒ぎになったこともない。
俺はやっぱり狂っているのだろうか…。
そう思いながら再びベッドで横になる。
今日は大学が休みでアルバイトにシフトも入っていない。
後は自由に過ごせる。
そう、自由に…。
『ピッピッピッピ!』
目覚まし時計が鳴っている。
「…止めないと」
ピタッと何かの滴る音が響く。
俺はベッドではなく床に座って眠っていたようだ。
「こんなに寝ぐせが悪、かったけ…」
右手の中にリストカットが赤い液体に染まっている。
「えっ…!」
そして目の前に死体がうつ伏せに倒れている。
目覚まし時計の騒がしい音が響く部屋で思考が一瞬停止した。
同じ朝に死体が2回出ることは今まで無かった。
とにかく埋めなきゃ。
俺は死体を肩車していつもの場所に向かうために玄関に出た。
外は少し明るいが人は通っていない。
「よし、いける」
廃れた工事現場につくと、とにかく速く近くのシャベルを持って穴を掘った。
無造作に死体を穴に投げた。
ドッスンという音とともに砂を死体の上に被せる。
サッ、サッ、サッ。
埋また。
心臓の鼓動が破裂しそうに五月蠅い。
とりあえず一呼吸。
気持ちを落ち着かせると後ろから人の気配を感じた。
振り返るとドッサドッサと慌てて走る足音が聞こえた。
急いで後を追うと、自分の住んでいるアパートに向かう人影が見えた。
僅かな光で見えたのは風と体の揺れとともに宙に舞う長い髪だった。
頭が真白になった。
「見られた…」
何とかしないと。
「どう、しよう…」
その時頭に浮かんだ唯一の解決法は。
「殺すしか、ない!」
俺は自分の部屋に戻った。
心拍数が上がり神経が興奮してじっとしていられない。
「クソ、どうしたらいいんだよッ!」
落ち着け、冷静になって考えろ。俺は相手の顔を見ていない。
すなわち、相手も俺の顔を見ていない。
それに相手は長い髪をしていた。
99.9%女の可能性がある。
相手も冷静じゃなかったはずだ。
だから衝動的になり俺に住んでいる場所を教えるような行為をしてしまった。
あとはこのアパートに住んでいる長い髪の女を見つけるだけ。
問題は…。
「俺に相手を殺すことができるのか?」
無意識以外に殺人を犯したことはない。
意識のある俺は人を殺すどころか、まともに会話ができない。
こうなったらやり方は一つだ。
「その女と同じ部屋で寝るしかない!」
は? いやいやいや、正気か?
無理に決まっているじゃん!
恋愛経験ゼロの俺がなにを真面目なトーンでほざいているんだ。
「とりあえずこのアパートに住む女性を把握するところからだ」
俺は部屋に落ちたリストカットを洗って昼までアパートの廊下で過ごした。
あの後から眠れる訳がない。
このアパートは2階建てで、俺の部屋は205の一番端の部屋である。
隣の204は空いていて。
後は把握していない。
「あ、あのー」
考え事していると右隣から死にそうな小鳥の様な声が耳に入った。
「や、家賃を回収に、参りました。」
大家の娘か。
おどおどしていて少し小柄な女子高生。
髪の長さは、肩を2センチ超えるくらいか。
対象外だな。
「わかりました。財布取ってきます」
さよなら4万円。
お金を渡すと彼女はぎこちない仕草で頭を下げて振り返った。
後ろ姿の髪型は頭の後ろで輪っかを作るような編み方がされていた。
「ちょっと待って大家の娘さん」
「は、はいなんでしょう…?」
呼び止められるのが意外だったか、少し困惑しているような様子を見せる。
ヤバイ、呼び止めたのは良いがどうやって髪のことを聞くか。
あの髪が編んでいなければ対象の相手の髪の長さに十分なり得る。
問題はいつ編んだかだ。
よし、とりあえず当たり障りのない感じで切り出すか。
「そ、その髪型可愛いね」
「な、ナンパ!」
違――う!
「いい、いいえ、そうじゃなくて」
「な、な、な、な何ですかいきなり⁈」
ダメだ。このままだとダメだ。
殺人以外の罪で社会から抹殺される。
「じ、実は俺美容師目指していて、その髪型に興味を持っただけだ」
もちろん全部嘘だ。
俺でもわかる…。胡散臭い!
完全に女を口説こうとして途中で断念したやつの口調にしかなっていない。
「なるほど、おばあちゃんが編んでくれたんです。ですので、詳しいやり方が…」
この子純粋だ!
「いつ編んでくれましたか?」
「昨日です」
対象外だな。
いらない労力使ったきがする。
疲れた…。
「わたし、他も回らないといけないので、失礼していいですか?」
「あ、うん。ごめん」
そして少女は去った。
「はぁ…。コンビニいこう」
このままだと怪しまれるばかりだ。
とにかく早くて今晩実行したい。
わかっている天と地がひっくり返っても無理なのだろう。
しかし、このままだとなにもはじまらない。
いや、なにも終わらせられない。
201の部屋を過ぎた階段を降りると少し不穏な空気が漂っていた。
「だからさぁ、ちょっとくらい良いでしょ?」
「だ、だめです!」
「良いじゃん、こんなにお願いしているんだからさぁ」
なにあれ?
大家の娘がヤンキー女に襲われている。
「言うことを聞かない子は食べちゃおうかな?」
「ひぃ!」
獣が獲物を襲う風景を彷彿させるような光景だ。
眺めていた俺と獲物の目が合う。
「た、助けてくださぁい!」
は?
いや、どうしろと!
しかし、このまま見過ごす訳にも。
「なぁにアンタずっとうちらを見つめて。 変態か?」
獣が目で威嚇してきた。
うわぁ、やっぱり関わりたくねぇ。
「あんたもさぁ三春ちゃん。一回ぐらい家賃安くすれば良いじゃん。減るもんじゃないし」
いや、減るよ。
「き、決まりですので、できません!」
「固いこと言わないでさぁ」
どこからか都合よく助け船がこないもんかね?
「ちょっと高下さん。また三春ちゃんをいじめてるんですか?」
本当に来た!
眼鏡をかけたジャージ姿のお姉さんだが現れた。なぜか凄みを感じる。
「あん?」
二人の目が合う。
こ、これはどうなるんだ!
「なんだ、佐紀さんか。 ご無沙汰すっ。」
え?
「ご無沙汰すっ、じゃないよ。 なにしてるの?」
「聞いてよ佐紀さん~ 三春ちゃんが家賃安くしてくれねぇんだよ」
「いや、なんで安くしてくれると思ってんだよ!」
ごもっともなツッコミだ。
話している二人をほっといてとりあえず大家の娘の安否を確かめる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい大丈夫です。 いつものことなので…」
この子受け身すぎるだろ。
少し脅せばビビッてこのアパートの住民の情報を全て吐きそうだが、もちろんそんなことはしない。
信頼を得て聞き出すほうが無難だ。
「警察に相談したほうが…」
「いいえ、私がもっと…、しっかりしないと!」
拳に力を入れて力強く言い放った彼女は少し不憫に思えた。
なぜそこまで無理するのか理解できない。
「ちょっとあんた、なぁに三春ちゃんに気安く話しかけってんの?」
獲物を横取りされそうになっている野生動物かの如く俺を見つめる金髪女。
だが、俺も引くわけにはいかない。
情報のためだ…!
「止めてください。彼女怖がってるじゃないですか?」
大家の娘の前に立って、明らかに不利な闘いに足を踏み入れる。
そして獣の目の瞳孔の奥を見つめるように視線を離さない。
この闘いは負けても、大家の娘に恩を着せばいいだけだ。
「ほう…、ちくわ男かと思えば、少しは骨がありそうじゃねぇか?」
嫌味を吐く獣は戦闘態勢に入る。
その瞳孔は開き、指と首の骨を鳴らす。
場の空気が一変する。
「覚悟、いいね?」
俺…、俺、死ぬかも!
「た・か・し・たさん。暴力は禁止って言いましたよね?」
獣の後ろで凄みを放つ地味な姉さんは一瞬にして獣の戦意を喪失させる。
「ち、違うんです佐紀さん。 彼を試そうと思って殴り合いを…!」
「それを一般的に暴力というんです」
この二人はどういう関係なのだろうか。
気になるがとりあえず助かった。
「あの、ありがとうございます…」
獣は眼鏡女に気を取られている。
今ならいろいろ聞けそうだ。
「三春さんっていうんですね?」
「は、はい」
「あの二人の関係はご存知だったりします?」
俺の質問に少し考える三春さん。
「ごめんなさい、よくわからないです」
なるほど、他の住民の情報が得られる質問を投げかけてみよう。
「毎回こんな感じだと他の方も迷惑ですよね」
「他の方というのは?」
通じてない?
「このアパートに住んでいる他の方ですよ?」
「このアパートには三人しか住んでいないですよ?」
え?
つまり、この中に目撃者がいると…。
金髪のヤンキー女は確かに長髪だ。
だが、あんな感じで他人を威嚇する奴ならあの現場で逃げたりするのだろうか?
それにあの地味眼鏡のお姉さんはどうだろう?
髪は短い。
いわゆるボブヘアに近い。
そう言えば、なぜ十部屋もあるこのアパートに三人しか住んでいないのだろう?
「駅近くに新しいアパートが建てられてから誰もここに住まないです」
なるほど、筋は通っている。
これはヤンキー女にほぼ確定で良いだろう。
逆に都合が良いのかもしれない。
ノックアウトされて無意識になれば勝手に奴が死ぬのだろう。
そしたら全てリセットだ。
ヤンキー女は説教されていて長くなりそうだ。とれあえず頭の中整理しながら近くのコンビニにむかった。
あんな人間はそもそも嫌いだ。
死んでもどうも思わない。
あいうタイプの人間は必ずまた絡みにくる。
それで命を失ったら自業自得というものだ。
俺はコンビニで飲み物とおにぎりを買って帰路についた。
その時だった。
「おい、あんた」
後ろから聞き覚えのある声が俺を止めた。
思ったより展開が早い。
「ちょっと面貸しな」
人が通らない静かな池の近くでヤンキー女は足を止める。
あまり考える必要もなかった。
全部こいつがやってくれた。
自分自身の最期だと知らずに…。
「あんた、三春ちゃんのことどう思ってるの?」
振り返らず後ろ姿のまま問いかけてくる。
質問の意図がよくわからん。
しかし、この場所に連れてきたってことは殴る気なのだろう。
だったら、俺がどう答えようが結果はもう見えている。
「どうも思っていません」
次の瞬間俺の足が宙に浮いた。
胸ぐらをつかまれ、獣女は近距離で俺の顔を見つめていた。
涙を流しながら。
「あの子を…、大切にしろチクショー‼」
は?
「あの子はなぁ、昔から無理をよくする子なのよ‼」
これはどういう状況だ?
「うちは叔母としてなにもできやしねぇ!」
お、叔母ぁ!
「うち馬鹿で、不良だから、どう接したらいいかわかんなくて、結局困らせてしまう…」
頭の処理が追い付かない。
このヤンキー女と大家の娘は、叔母と姪の関係ってこと⁉
「うちの姉貴は旦那を失ってから仕事漬けで碌にあの子の面倒が見れねぇってのに、うちは… 会話すらまともにできない!」
こいつには心があったのか…。
胸ぐらをつかまれている手が震えて、その振動は服越しでも伝わる。
「あの、服伸びるので降ろしてもらってもいいですか?」
我に返った不良女は「わりぃ」と言って俺を放す。
「そんなに三春さんを思うなら家賃は払わないといけないと思いますが…」
俺のこの質問に深い意味はない。
単純に知りたくなった。
あの時、この人の中で何が起きていたのかを。
「うち、常識ってものがなくてなぁ、 仕事も長続きしねぇのよ。 だから一時期免除してもらおうと思って」
この人、不器用すぎる。
「あんた弱そうだけど、あの子の瞳を輝かせた初めての野郎かもしれん。 だから大事にしてやって欲しい」
そう言われて以降言葉は出なかった。
あまりにも予想外な出来事に混乱が収まらない。
そんな俺を置いといてヤンキー女は「あとは頼んだ」と言い、去っていった。
なんだかスッキリしない。
それに、肝心な証拠隠滅の機械を失った。
その気も一気に失せた。
とりあえず気持ちを整理する必要がある。
俺は持っていたことすら忘れていたコンビニの袋をもってアパートに帰った。
気づいたらもう昼になっていた。
どうにかして目撃者を殺すという計画も崩壊しつつある。
そんなことより金髪の女の言葉が頭から離れない。
あんな体でも、誰かを大切に思っているんだな…。
俺は、自分のことをもっと冷徹な人間だと思っていた。
最近何を観ても耳にしてもなんとも思っていなかった。
なのに、どうしてあの女の言葉がこんなに響くのだろう。
そしてなんだろうこのモヤモヤとした気持ちは。
自分の中の蟠りが言葉にならない。
俺はテレビとベッドしかない自分の部屋でうろうろしているとインターホンが鳴る。
また宗教団体なのだろうか?
「先日も言いましたが加入するつもりは…」
扉を開くと三春さんがそこにいた。
「あの、今朝のお礼にこれを渡しにきました」
食品用のプラスチックの入れ物に色鮮やかなカップケーキが綺麗に並べている。
手に取ると少し重みを感じる何グラムあるのだろう?
「これ三春さんが作ったんですか?」
「は、はい!」
瞳を輝かせ透き通る声で返事をする三春さんに愛おしさを感じた。
なんだこの純粋な少女は⁉
今朝までただの情報の詰め込みとしか見ていなかったのに…。
「すごく、格好良かったです…」
顔を赤らめてそういう少女に、心臓を貫かれたような感覚。
平常心を保つのが精一杯。
「私もあんな風に自分の恐怖に立ち向かう勇気があれば…、お母さんを少し楽にさせられるのに」
項垂れてしまう少女。
その姿には悲しみと悔しさの重みで頭が下がっているように見えた。
「私、昔から臆病で何もできなくて、だから凄く格好いいと思いました。 足があんなに震えてまで…」
ビビッてたのバレてるー!
「私、何のために存在しているのでしょう?」
それは答えるべきなのだろうか?
愚かな質問だと思った。
生に意味などない。
慰めの言葉を投げかけるつもりはない。
自分の考えを曲げる行為は嫌いだ。
だから俺の答えは…。
『あの子はなぁ、昔から無理をよくする子なのよ‼』
・・・。
「俺は三春さんが何もできないと思いません。
学校に行きながらも今日のように家賃集めしているし、こんな美味しそうなカップケーキが作れるじゃないですか。 俺からしてみれば宝の持ち腐れです」
俺はどうしてしまったのだろう。
今日の俺は明らかにおかしい。
普段は他人に関心なんて感じない。
なのに、目の前の少女の泣く姿がみたくないなんて…。
「あ、ありがとうございまふ!」
先よりも顔を赤らめて顔を両手で隠しながら感謝を述べる少女。
「わ、私はこれでお暇します!」
そういって彼女は去った。
「寝るか…」
眠れたのはたったの2時間。
起き上がると体が軽かった。
「あ、そう言えば寝ると死体が…、ない!」
死体の処理が面倒だから普段は夜以外に寝ないようにしていた。
しかし、今日はいろいろありすぎて、疲れですっかり忘れていた。
だが、その死体がない。
「良かったー」
とりあえず安心だ。
心なしか空気も軽く感じる。
喉が渇いたから、コンビニで買って冷蔵庫に置いたカフェオレのプルタブを引き、缶飲料独特の豪快な音と共にそれを喉に流し込んだ。
ここでカップケーキの存在を思い出し、一つ手に取って一口齧った。
やわらかいスポンジに口の中でそれと絡まる生クリーム。そこに再びカフェオレを流し込む。
それらの行動に伴う感想と感情が「うめぇ!」
と言う一言でその全ての意味を表す。
それにしてもいろんな意味でウマいカップケーキだった。
まるで自分は生きていて良いんだと述べられているような気分。
窓から茜色の光がキッチンを染める。
俺はもう一つカップケーキを手に持って外に出た。
2階のアパートの廊下から見える夕焼けはこんなに奇麗だったけ?
「綺麗だよねー」
隣から聞き覚えのある声がした。
声がしたほうを見ると、いつの間にかそこにいたのは今朝も会った地味な眼鏡のお姉さんだった。
「そのカップケーキ、三春ちゃんが作ったやつだよね?」
改めてその声を聴くと、もっと前より知っているような気がする。
そんなお姉さんは何かを誇らしく思うような表情で俺を見つめる。
「美味しいですよ。 食べます?」
「ありがとう、でも遠慮しておく。 高峰君が貰ったものでしょ?」
高峰君…。 それは正しく自分の姓であった。俺は今日会って名乗ってもいない相手に名前を呼ばれて一瞬困惑する。
「…何故俺の名前を?」
俺の問いに「やっぱりか…」と返すと眼鏡と髪をまとめていたゴムを外す。
「これなら、わかるかな?」
今朝あった時のボブヘアに戻っただけだと思ったら、眼鏡を外したその姿にだんだん既視感を覚えてくる。
「先輩…?」
髪型が短くなっているが間違いない。
俺のアルバイトと大学の先輩だ。
大学では接点はないが、アルバイトでは世話になることはしばしばある。
しかし、何故先輩が俺の住んでいるアパートにいるのだろうか。
「わたしもこのアパートに住んでいるのよ。びっくりしたでしょ?」
「び、びっくりしたところじゃありませんよ! 驚愕ですよ!」
「ふふ、そうだね」
先輩が軽く笑う。
この人が僕に笑顔を見せるのは初めてかもしれない。
「ごめんね教えなくて、わたしもいろいろあるのよ。 あと単純にタイミングもなかったし…」
この人眼鏡をかけると5歳ぐらい歳をとるんだな。
一つ年上なのに…。
「それにね高峰君。 わたし、いわないといけないことがあるの…」
先輩は夕日をみながら神妙な顔をする。
俺に伝えないといけないことはなんだろう?
西に向かう太陽は徐々に沈んでいき空は紺碧色に染まっていく。
少しだけ冷たい風が吹くと先輩は答えた。
「わたし見たの、今朝あなたがしてたこと」
俺を見かねた太陽はその存在を消す。
そして夜とともに強い風が場の空気を一気に冷ます。
「少し、寒くなってきたね。 お茶いれるから上がって」
先輩はそういうと201の部屋に入った。
俺の頭の中は不思議にも冷静だった。
仕方がないことだ。
うん、これは仕方がない。
そう自分に言い聞かせて先輩の後を追う。
先輩の部屋の玄関は思ったより散らかっていた。
女性の部屋は整っていて良い匂いがするものだと思っていたから軽く幻滅をする。
多分この状況に頭の処理がまだ追い付いていないのだろう。
今冷静に先輩の部屋を観察できるのはそのせいなのだろう。
「遠慮なく入ってー」
リビングに入るとそこには大きな机に紙が散りばめられていた。
よく見ると漫画だった。
「ごめんね。すぐどけるから」
「先輩、漫画描いてたんですね…」
「内緒だからね。 ほら座って、座って」
先輩は原稿をどけると椅子を引いてくれた。
気づけば俺は未だにカップケーキを手に持っていた。
なんか食べる気も失せた。
カップケーキを机に置き座ると先輩はお茶を置いてくれた。
先輩は俺の近くに座る。
「・・・」
「・・・」
二人してなにも喋らなくなった。
俺はとりあえず頭に浮かんだ気になることから質問することにした。
「…何故、上がらせて貰えたんですか?」
「高峰君にならいろいろ話せるかなって思って…」
先輩はどういうつもりなのだろう?
殺人を犯した本人を近くに置くなんて正気ではない気がする。
「もっと驚くと思ったんだけどね。 これでも私の漫画はそこそこ有名なんだよ?」
話しをそらしている…。
でも確かにそうだ。一コマしかみていないが今ブームになって、アニメ化までする予定だ。精神的に病んでいる主人公が自分のトラウマと闘い、人生で成り上がる熱いヒューマンドラマが特徴の漫画である。
「最後の原稿ですか。先の?」
「よくわかったね」
それなら躊躇しなくても良さそうだ…。
「先輩、ごめんなさい」
俺はそういうとズボンのポケットからリストカットを出した。
椅子から立ち上がってそれを先輩に向ける。
先輩は俺の顔を冷静に見つめる。
「佐紀先輩…。俺は先輩を今から殺します」
それでも先輩は顔を変えずに「どうして」と訊く。
「俺は一番自分の周りにいる人間にだけ見られたくなかったんです。」
必死に震えそうな手と声を抑えて先輩の質問に答える。
先輩はそんな俺を置いて、ゆっくりと右肘を机に置いてその手のひらに顎を支え考えるすぐさをする。
「そうだよね。わたしが誰にも言わないって言ってもその保証もないしね」
「・・・」
「わたしもね。見たということ隠したくて髪を切ったの。後ろ姿は絶対みられると思ってね。高峰君は観察力が冴えてるから」
先輩は深呼吸をして続く。
「でも、高峰君は誰に見られたか知らず、不安になると思って話したのよ。こうして秘密にしていた漫画も見せた。あとね…、高峰君は他人を傷つけることはできない」
先輩は俺の目を凝視しながらそう言い放つ。
俺は言葉が出せなかった。
「な、何故そんなことが言えるんですか!」
口籠ってやっと出てきた言葉だった。
先輩は優しく微笑む。
「高峰君は自分が思っているより優しいよ。アルバイトではミスが多くて怒られることが多いけど、新人のミスはさりげなくフォローしてる。でしょ?」
佐紀先輩がそういうと急に体が熱くなり、気づいたら頬に温かい水滴が流れていた。
リストカットを持っていた手が震える。
先輩の顔みることができなくなった。
耐え切れずその場を去った。
できるだけ遠くへ走った。
真っ暗な道を走って、あてもなく駆ける。
気づいたら誰もいない公園のベンチに座って肩から息をしていた。
疲れた…。
いつまで走ったんだろう?
瞼が重くなり横になる。
寒い…。
そしていつの間にか眠りに就いてしまった。
目が覚めると暗闇に慣れた視界に入ったのは倒れている2体の死体。
俺は一体を背中に抱え。
もう一体を引き摺っていつもの場所まで運んだ。
もう誰かに見られても構わない。
そう思ってここまで来たが、誰ともすれ違わなかった。
そしてまた穴を掘る。
穴に一体を放り投げる。
「ここに、いたんだね…」
後ろから声がした。
振り返らなくてもわかった。
「一人にしてください。先輩を殺してしまうかもしれませんよ?」
「だから、高峰君は他人を傷つくことができないって」
先輩は息が切れている。
もしかして、ずっと俺を探していたのだろうか?
「その死体、いや今までの死体の顔をまともに見たことないでしょ?」
「その必要はありません…」
先輩の足音が近づく。
先輩は俺の隣に立つと。
「見てあげてよ」
先輩は俺の肩に手を置きそう呟いた。
死体の表情を確認する。
そこに倒れていたのは俺自身だった。
凄く悲しくて苦しそうな表情をして倒れている。
僅かな光が空を照らす。
先輩は俺の前に袖をめくった腕を見せる。
「わたしも高峰君と同じなの」
塞がって痕になった無数の切れ疵がそこにあった。
「高峰君はもう自分を殺して生きなくていい」
先輩は一歩後ろに下がってそう呟いた。
朝日はまた昇りどこからか鳥のさえずりが響き始める。
振り返ると、太陽に照らされる先輩の姿があった。
そのあと、先輩と共にリストカットと自分の過去を地面に埋めた。