番外編☆アンネの入学式
※副題の通り番外編です。
※この話はアンネの目線です。
※アンネの過去話も少しだけ。
木々の間を、必死に走った。
でこぼこの獣道で挫いた足が痛い。
後ろから大人の腕がのびてくる。
7歳の脚力で逃れられるはずもなく、いとも簡単に腕を掴まれた。
恐怖で涙も出なかった。
呼吸すらままならない。
私はただ、山菜を取りに来ただけだったのに。
「お父様! こっちです!!」
張りのある高い声が耳に届く。
ただひたすらもがいていた手を、柔らかい手に握られた。
目の前に見えたのは綺麗な深緑の瞳。
続けて大きな手が、力強く私を抱き寄せ後ろの怖い人から引き離した。
たくましい背中に庇われながら隣を見ると、銀髪と褐色肌の綺麗な男の子の横顔があった。
私と同い年くらいのその子は、私の手をしっかりと握ってくれている。
あっという間に怖い人が木に括り付けられた。必死で気がつかなかったけれど、3人も男の人が居たらしい。
その様子をぼんやりと見ていると、綺麗な男の子が私の足元にしゃがみ込んだ。
なんだろう、と思ったら、何か長い呪文を唱えている。
ピカピカと光り輝いたあと、挫いた足が少し軽くなっていた。
「あ、ありがとうっ」
「うん、他に痛いところはない?」
優しく微笑んでくれた顔に安心して、その子にしがみついてわんわん泣いてしまった。
男の子は抱きしめて背中を撫でてくれた。
私の声に気づいた大人の男の人は、
「もう大丈夫だ」
と、頭を撫でてくれた。
◇
その3年後のこと。
当時の皇帝陛下が崩御された。
私の恩人たちはなんと、この国の皇帝陛下と皇太子殿下になったのだ。
そんなにも身分の高い方たちだったことを、その時に初めて知った。
絶対にあの人たちの役に立つ!
10歳でそう決めた私は、街の図書館に通い詰めて必死に勉強した。
それはもう、がむしゃらに。
あの時の男の子にもう一度会いたくて。
そして、皇族や貴族の子女が通うという、この国で最も高水準の教育が受けられる学校に進学できることになった。
◇
入学の日。
生徒代表の挨拶をしていたのは、銀色の髪、褐色の肌、そして美しい深緑の瞳の皇太子殿下だった。
あの時よりもずっと大人っぽくなっているけれど、変わらず綺麗な男の人。
この方と同学年として3年間過ごしていける。
それだけで心が躍るようだった。
そして、入学式が終わって教室に向かっている途中のこと。
木の上から、か弱い声が聞こえた。
見上げると可愛らしい灰色の子猫。
どうやら降りられなくなったらしい。
「待っててね、助けてあげるから!」
座学はたくさんしたけれど、魔術はあまり学んでいなかった私は木に登った。
抱いて降りるのは難しかったので、片手で子猫を降りられそうなところまで誘導してあげた。
そこまでは良かった。
子猫が助かったのが分かると気が抜けてしまって。
次の瞬間私は木から地面に真っ逆さま。
「きゃー!」
「!?」
思っていたよりは衝撃は少なかった。
でも、なんだか地面に違和感を覚えて下を見る。
そこはなんと皇太子殿下のお腹の上!
私は驚いて飛び退いた。
「大変申し訳ございません! お怪我は……っ」
「この無礼者が!」
空気を裂く様な怒鳴り声に私は固まった。
皇太子殿下は立ち上がりながら私を見下ろす。
「一体どういうつもりだ」
記憶の中の温かい深緑は今は冷たい刃のよう。
私は地面に膝をついたまま、凍りついたみたいに動けなかった。
大きなお怪我はなさそうで良かった、と安心する気持ちもあった。
しかしとんでもないことをしでかしたのだと、指先の震えが止まらない。
そして自分でも驚いてしまったのは。
私はどうなるのかとか、そんなことよりも。
あの優しい男の子は本当にこの人なのかと。
私に向けられる鋭い声を聞きながら、今まで勝手に築き上げていた皇太子殿下の理想像がガラガラとくずれていってしまって。
そのショックが心の大半を占めていたこと。
なんて自分勝手なんだろう。
「顔を上げて。怪我はしていないか?」
自分の心に戸惑って、何も出来ないでいるうちに1人の生徒が私のそばに来てくれた。
太陽に輝く金色の髪。
私を気遣う澄んだ青い瞳。
全てを包み込むような優しい笑顔。
凛としたとても綺麗なその男の人は、私を庇う様に背を向け、皇太子殿下と対峙した。
◇
怒っている皇太子殿下を宥めて、私をその場から助け出してくれたその人は「ただの田舎貴族だ」とおっしゃるだけで、詳しくは教えてくださらなかった。
教室まで送ってくれる道中、「木に登るのは危ないから、次にそういった場面があったら人を呼ぶように」と念を押される。
物語の王子様のように優しい人だった。
私がお役に立ちたいと思って勝手に想像していた皇太子殿下は、まさに、あんな風に優しい方だったの。
強いお叱りを受けたのは自業自得なのだけど。
その方が、有力な公爵家のご長男だと私が知ったのはもう少し後の事。
教室で先生のお話を聞きながら皇太子殿下のことを思う。
私は結局、きちんと謝ることもせずにその場を逃げてきてしまった。
きちんと謝らなければ。
お話を聞いていただけるといいんだけれど。
◇
お昼ご飯を食べる前にお話をしようと、広い校内を探し回った。
もう通常の昼食の時間は終わりそうな時間に、ようやく皇太子殿下に出会えた。
もう遅いけれど、よく考えたらまず食堂へ行けばよかったかもしれないと、緊張で空腹を忘れていた私は気がついた。
皇太子殿下はお1人で裏庭のベンチに座っていた。
激情の中にいた今朝とは違って、静かな表情で空を見上げている。
その横顔は、昔と変わらず綺麗で。
でも少し寂しそうに見えた。
勇気を振り絞って声をかけると、
「わざわざ目の前に現れるのかこの不敬者が」
眉間に深く皺が刻まれたけれど、不快というよりは驚いた顔をして私を見ていた。
「本当に申し訳ございませんでした。朝のことは私の不注意が招いたことです。お怪我はございませんでしたか?」
「怪我をしていれば、貴様はもうこの場にはいない」
改めて深く頭を下げると、厳しい口調だけれど怒気は含まない声が降ってくる。
まるで、朝とは別の人とお話しているようだ。
怪我がないことにホッとして、私は土を見つめたまま口元を緩めた。
「良かった……」
「頭をあげろ。何をしに来た」
許しを得て前を向くと、皇太子殿下と真っ直ぐ目があったので、背筋を伸ばす。
きちんと、言いたいことを伝えなければ。
私は音が鳴らないように気をつけながら、大きく息を吸う。お腹の前で揃えた手をぎゅっと握った。
「きちんと、謝りたくて。もしも私を退学に、とお考えならチャンスが欲しくて」
「チャンス?」
先を促すような相槌に勇気付けられた。
強く頷いて、少し渇いてしまった口をとにかく動かす。
「はい。私は、皇帝陛下と皇太子殿下のお役に立てる人間になるために……いえ、貴方に会うために、この学校に入学したんです!」
「……私に……」
「だからっ! あの、都合がいいですが! 絶対に『あの時、退学にしなくて良かった』って、殿下に思っていただきますので! このままここで勉強させてください!」
皇太子殿下が途中、何かを呟いたような気がしたのに止められなくて。
一息で。
少し、早口になりながら。
全部言い切ることが出来た。
勢いに任せてもう一度、深々と頭を下げる。
「……」
皇太子殿下が黙ってベンチから立ち上がるのを感じる。
手が震えるのを抑えて言葉を待った。
すると長い指が優しく私の顎に触れて、上を向くように動かされる。
顔が近い。
遠くから見ても近くで見ても、近寄り難いほど芸術品のように整っている。
シン様も同じくらい美しい人だったけれど、ずっと柔らかく微笑んでいたから恐怖なんて一切感じなかったのに。
殿下は少しだけ、怖い。
間近にある記憶通りの深緑の瞳に、私の戸惑った表情が写っていた。
「で、殿下……?」
「貴様、名前は?」
「あ、アンネ・アルメリアです」
逃げ出したい心を叱咤して答える。
殿下の目にはどんな風に私は映っているのだろう。
歯と歯が合わさって、顔に力が入っているのだけは分かる。
そうしていると、皇太子殿下の目がフッと細まった。
「覚えておこう、特待生のアンネ・アルメリア。せいぜい励め」
美しい弧を描いた唇で、私を力づけてくれる言葉が紡がれる。
分不相応だと断じられてもおかしくはないと思っていた。
でも皇太子殿下は、そんなことは言わずに受け止めてくれたのだ。
それがとても嬉しくて、はしたないかもなんて思い至らずに歯を見せて笑ってしまう。
声も分かりやすく跳ねた。
「ありがとうございます!」
「ふん。ところで……」
「は、はい」
手を離して再び目線を逸らしてしまった皇太子殿下。
逸らしてしまった、というよりは。落ち着かないのか何か思案しているのか、目線が彷徨っていた。
しばらくそうしてから、気まずそうに話し始めた。
「……お前は怪我は無かったのか」
「え……」
「私にも、人の心はある。その……あの時にまず言うべきことはそれだったと」
皇太子殿下の言葉はそこで途切れる。
私はきっと、言いたいことをお伝え出来たことで安心してしまっていたのだろう。
なんと、私のお腹の虫が、今、さっき、ここで。鳴ってしまったのだ。
「あ、いえ、あの、その……申し訳ありません、ずっと殿下を探しててお昼食べてなくてっ」
目を丸くしてらっしゃる皇太子殿下。
私は顔が熱くなっていくのを感じながら、言い訳するようになんとか口を動かした。
「私! あの、怪我してませ、ん!!」
質問には絶対にお答えせねばならないと思って出てきた声は、羞恥のあまり大きな声になってしまった。
皇太子殿下は私から顔を背けて頷く。
「あのようなことは、二度と……っ、いや。まだ、食堂は開いて……っ」
長い髪と、隠した口元でどのような表情をなさっているか直接見えないけれど。
震える肩と声が、笑わないように耐えてらっしゃることを私に教えていた。
ううん、あれは、きっと、我慢しきれていない。
でも、せっかく隠してくれているのに「笑ってらっしゃいますよね?」と聞くわけにはいかなかった。
「は、はい! 行ってきます!」
私は皇太子殿下に背を向けると、走り出した。
ああ、本当に恥ずかしい!
それでもわかったことがある。
私のことを心配してくださった!
皇太子殿下のお優しい心は、きっとそのままだ!
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