2話(1)【入学式の日】
まだ何も音沙汰がないということは大丈夫なのだろうか。
担任となる教師の話をぼんやりと聞きながら先ほどの皇太子との一件を思う。
その場で名乗らなかったとはいえ、彼は皇太子。
本気で何か処分を下そうとして調べれば、私がどこの誰かなんてとっくに判明しているだろう。
というか、そもそも私が誰かなんて実は分かってて敢えて聞いた可能性もある。
だから、大丈夫。
(と、思い込まないとやってられない)
気を紛らわせるために教室全体を眺める。
黒板に向かって長机が2列に並んだ教室は、私が現実世界で経験した学校の教室とは雰囲気が随分違った。
傷ひとつなく、もちろん落書きの痕すらない長机は、重々しいダークブラウンの木製。
それに合わせた色の背もたれ付きの椅子はガタつかず、クッションもないのにお尻が痛くならず座り心地がとても良い。
さすが貴族の子女が通う学校だ。
乳白色の壁も、アーチ型の窓のガラスも磨き上げられている。ざらついた黒い石畳の床にはチリひとつ落ちていない。
特にどこが自分の席、という決まりはなく好きな場所に座れるため一番後ろの端に陣取った。
先ほどの一件が原因なのか私が美形すぎるからいけないのか、皆が真面目に前の方に座っているのか理由は不明だが。
誰も私と同じ机に座りに来なかった。
あと3つも席があるのに。
3つも席が余るってどうなんだ。
必要な連絡事項を話終えて教室から教師が出て行く。
今日はもう帰るだけだ。
教師が居なくなった途端にざわざわと生徒たちが話し始めた。
そういうところはどこの学生も同じだ。
(でも先生がいる間は誰も話さなかったなーすごいなー)
ふと、チラチラとこちらを伺いながら話すグループが男女問わず何組かあることに気がついた。
雰囲気的に良い方の噂話じゃなさそうだなーと思いつつ、その内の3人組のお嬢さんたちに笑いかけて手を振ってみる。
きゃっと可愛い声が聞こえた後、
「どうしましょう、素敵ですわ…!」
「ダメです…! 関わらない方がよろしくてよ!」
とヒソヒソ声が聞こえた。
(素敵ですわだってー! ほんとイケメンて楽しい……!)
社交会に出席したときもそうだった。
私が声をかけるとすこぶる嬉しそうにしてくれたり、
「デルフィニウム公爵家の長男の心を射止めるのは誰?」
と噂されたりするのは気分が良かった。
めちゃくちゃ楽しい。
正直私は、ここで友達が出来なくても痛くも痒くもない。
だから内緒話が下手すぎで全部聞こえていても傷つかないしショックでもない。
なんなら15歳の学生のノリなんてついていける気がしないので、少し遠巻きにしてくれるくらいがありがたい。
さて、自分の噂話に聞き耳を立てるのも面白かったが、健康な15歳の体は空腹を訴え始めた。
もう昼前だ。
さっさと食堂へ行って食事にしよう。
と、立ち上がろうと机に手をつけた時。
「皇太子殿下をやり込めてたの君だよな?」
と、柔らかく人懐っこい声に話しかけられた。
顔を上げると、落ち着いたモスグリーンの少し癖のある短髪で長身の男子生徒がこちらを見下ろして微笑んでいた。
私はそのまま真顔で固まった。
「あ、急にごめん! 俺はエラルド・ユリオプス。伯爵家の長男だ」
一人称は、俺。
「さっき皇太子と話してるところを見てた大勢の中の1人なんだ」
垂れ目気味の優しい形の目、輝く瞳は明るい黄色。
「君、本当に勇気があってカッコよかったな。あれはあの女の子が可哀想だったから……」
体に対して少し大きめの制服の上から見ても分かる、発展途上ではあるが15歳とは思えない鍛えられた体。
どう考えてもみんなが避けようとしている私に、声を掛けてくる勇気。
「すぐに声をかけたかったけど見失ったんだ。だから同じクラスでよかった」
爽やかすぎるオーラ!
これは!
(推し――――!!)
エラルドと名乗った彼を穴が開くほど見つめたまま、脳内の私はのたうち回った。
ドンピシャ。
どう考えても推し。
推し的な意味でとてつもなく好み。
今ならヘッドバンキングが出来る。
「……? シン……? で、合ってるよな……?」
なんの反応も返さない私に顔を近づけてくる。
少し不安そうに揺れる声もいとおかし。
萌。
だめ、語彙力が来い。
落ち着いて、落ち着いて何か返事をしなければ、と深呼吸をする。
この際、緊張していると思われても構わない。とにかく何かを言わなければ。
「……ああ。さっきのことがあった後に声をかけてくれる人がいると思わなくてな。驚いてしまったんだ。すまない」
自分で思っているより声が裏返ったりせず、まともに話が出来た。早口にならないように呼吸を意識して話す。
上手に笑顔が作れているのか、鼻の下が伸びてはいないか、鏡が欲しい。
「シン・デルフィニウム。公爵家の長男だ。よろしく。エラルド、と呼んでいいか?」
なんとか自己紹介をして手を差し出す。
即座に握り返される。
剣を握る習慣があるのだろうか。
手のひらに豆がある、私より少し大きくゴツめの手だ。
「もちろん、よろしく!」
公爵家にも怯まない心の強さ。
飛び切りの笑顔。
会って間もなさすぎる間柄だが。
前言撤回だ。
15歳のノリとか関係なく、エラルドとは仲良くしたい。
(絶対絶対絶対好き…!)
学生生活に潤いをありがとう神様。
◇
用のなくなった教室で話すものなんだしせっかくだから一緒に食事でも、とスマートにナンパに成功して並んで回廊を歩く。
この学校には身嗜み確認のための鏡がそこかしこにあった。
通りすがる時に衣服や髪が乱れていたら、さっと直したり近くのトイレなどで整えるためだ。
そこに映る自分とエラルドの絵面が良すぎて永遠に眺めたかったし、ニヤける顔を隠すために腕で顔を覆って咳払いする羽目になったしで大変だった。
さすがに3回目でエラルドに「風邪か?大丈夫?」と覗き込まれ、蹲りそうになるのを耐えた。
(しまった……! ご飯一緒になんて言うんじゃなかった死ぬ……初対面なのに一挙一動に萌えすぎて死ぬ!! ここまでドンピシャだと自分がイケメンでも心臓に悪い!)
なんとか爽やかフェイスと健やかボイスに慣れてきたころ、驚愕の事実が判明した。
「落下速度を落とす呪文!?」
「んー、正確には落下を止めたかったんだ。でもあんまり魔術って得意じゃなくて。詠唱が間に合わなくてゆっくり落ちるだけになってしまって……」
アンネが落下した時。
離れたところからそれに気付いたエラルドは、助けるための魔術を飛ばしていたらしい。
(道理で2人とも怪我がないわけだ)
高さのある木から落ちて、人と人がぶつかって、なんともないとは凄い奇跡だとは思っていた。
「どうしてあの場で名乗り出なかったんだ。皇太子が怪我をしなかったのは君のおかげじゃないか」
「名乗り出ると言うか、止められなかったのを謝ろうとは思ったんだけど……皇太子の怒鳴り声を聞きながら急いであの場に着いた時には、君が『器が小さい』って言い放ってるところだったんだ」
その様子を見て、何もしない方が良さそうだと判断したらしい。
「不甲斐ないなと思ったけど、下手に入っていったら話がややこしくなるだろ?」
助けに入らなくてごめん、と申し訳なさそうに笑われて、首を左右に振る。
「2人に怪我がなかったから切り抜けられたようなものだ。皇太子が怪我をしていたら話が変わってきていたしな。今こうしていられるのも君のおかげだよ。ありがとう」
エラルドは私の言葉が意外だったのか、目を丸くして瞬きをする。
それから嬉しそうに微笑んだ。好き。
そうか、じゃああのまま私が助けに入らなくても、エラルドがアンネを助けていたのかもしれない。
別にあんな頑張る必要もなかったのか。
まぁあの場でとりあえず様子見、という選択肢はなかったとは思うが。
思うのだが。
(……私、青春の始まりをひとつ潰したか!?)
ていうか野次馬としてアンネとエラルドと皇太子のイベント観たかった!!
いやイベントってなんだ異世界とはいえこれは実際にある世界で、別にゲームやらなんやらではなく生きている人間のことなのだから不謹慎か。
今更だけど。
エラルドと会話しながら頭はぐちゃぐちゃと色々考えていたが、そうこうしている間にようやく食堂に着いた。
と、その時。
「ようやく見つけたぞシン!!」
女性声優が少年の声を担当した時のような張りのある美少年声が、背後から私を呼び止めた。
その声には聞き覚えがあり、振り返るとそこには声帯に似合う美少年が、拳を握りしめて立っている。
耳にかかる長さのショートヘアは艶のある黒色で、長い睫毛が縁取る吊り気味の大きい目は澄んだ紫色。
怒っているのか興奮しているのか、私と同じ白い肌は頬が紅潮し、形のいい眉はつり上がっている。
「ネルス!久しぶりだな。また大きくなったか?」
「伯父上たちのようなことを言うな!」
母方の親戚、ネルス・クリサンセマム。
母の実家で集まる際などは同い年ということもありよく子守りを、いや、よく一緒に遊んだものだ。
色々あって忘れていたが、彼と同じ学校に通うのを楽しみにしていたのだ。
久しぶりとは言ったものの、入学祝いの集まりがあったため、一番最近会ったのは1ヶ月も前ではない。
美少年であることなど関係なく、親戚の子というのは15歳になっても抱きしめたくなるくらいかわいい。
学校という公の場のため我慢しているが。
私は急な登場人物に呆気に取られているエラルドに声をかけた。
「突然すまなかったエラルド。こちらは母方の親戚で、クリサンセマム侯爵家のネルス。ネルス、こちらは級友で、ユリオプス伯爵家のエラルドだ」
交互に手で指し示しながら紹介すると、エラルドが先に手を出した。
なんだか「好青年ー」という効果音が聞こえてくる気がする。
「シンの親戚なのか!よろしくな。ネルス、と呼んでいいか?」
「ああ、僕もエラルドと……いや、申し訳ないがそれどころじゃない!シン!お前入学早々、皇太子に無礼を働いたそうじゃないか!!」
(げっ)
エラルドに対して、ネルスは「美少年ー」の効果音と共に礼儀正しく握手を返す。
しかし、本来の目的を思い出したらしいネルスが改めてこちらを睨め付けた。
長身のエラルドと小柄なネルス、2人の身長差が最高とか思っている場合ではなくなった。
もうネルスの耳にまで届いているとは。
まぁあれだけの人数の前でやらかしたのだから、当然と言えば当然だ。
流石にため息が溢れ、額に手を当てた。
「もう私だと特定されているのか。親戚のお前に迷惑をかけてすまないな」
「いや、どこの家の者かまではまだ情報は回っていない。だが!」
ずいっと一歩近づいて睨み上げてくる。
「クラスの女生徒たちが噂話をしていたんだ。その男は金髪碧眼、庇われていた女生徒が羨ましくなるほどの美男子で、ごく短い詠唱で魔術を操ったと。そんな天才的な化け物、シンという名を聞かずともお前以外にいてたまるか!!」
なんだかとても褒められた気分だ。
思わず隣へ視線をやると、微笑ましそうな表情をしているエラルドと目があった。
うん、かわいいよねこの子。とつられて口元が緩んでしまう。
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてない!!」
照れ隠しともツッコミとも取れるその言葉は、食堂の扉の前で盛大に響き渡った。