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歪んだピースは外れない

 

 橋を渡り校門まで差し掛かったところで、忙しなくオアシスロードを走り回る文月を見つけた。

 彼女は雨のなかでも計測をやめない。墜落は全て自分のせいだと思い込んでいる。


 何が一体彼女を駆り立てているのだろうか。


 ピンク色の可愛らしい傘を差して文月は地面に屈んでいる。

 店先からの照明が彼女の横顔をほんのりと照らし出す。

 僕は思わず顔を背けてしまった。

 今までも文月からの期待はひしひしと感じていた。

 その彼女の顔が失望に歪むのは見たくない。


 スクールバックから伸縮計測器を取り出したときだった。

 彼女は僕の存在に気付き、慌てて立ち上がった。


「宮前くん、大丈夫?」


自分のことは顧みず、文月は僕のことを心配してくれていた。

瞳にも普通の人なら必ず抱くであろう失望の色は、一切見当たらない。


「身体はね……文月は何してるの」

「……グライダー落ちちゃったよね。私のせいかもと思うと、申し訳なくて……次はきっと飛べるよ、宮前くん。私信じてるから」


 決然と宣言する彼女からは、落胆の欠片も見られない。

 墜落したとき文月の顔を恐くて見られなかったが、今と同じような表情をしていたのだろう。


「……どうして、文月はそこまでして僕に期待するの……?」


 言うと静かに彼女は睫毛を下げてしばらく地面を見つめた。

 二人の間を埋めるのは雨音だけだ。


 長い沈黙のあとに、文月は静かに口を開いた。


「……私宮前くんに失望できないの。失望したらダメなの。失望したら、もう一生誰も信じられなくなる……私と初めて会ったとき、覚えてるかな?」

「裏山のときでしょ?」


 文月と初めて裏山で会ったときに僕は崖の上へ一緒に行こうと誘われた。

 拒否したら死ぬとまで言われれば断ることなどできなかった。


「そうだよ。私ってバカでドジだから中学時代からイジメられてた。高校に入ってからもイジメの張本人がいるから似たような状況だったんだ。人が恐くて、信じられなくて……でも誰かを信じなきゃ信じてはもらえないよね。でも、今でもそうなんだけど……私、人が恐い」


 イジメがしばらくなくなったと思えば、再びイジメられる。

 主犯格と同じクラスのため周りの人も自分に寄りつかない。

 誰も彼女に期待しない。人を信じられる基盤ができなくて当然だ。


「もう私は限界だった。人が恐くてどうしようもなかったの。でもあるとき私は宮前くんを見たの……いつも他人を避けているのがわかって、私は……この人と少し似てると思った。私は誰からも期待されないのに対して、宮前くんは期待から逃げているなって自然とわかった。兄さんが何をしているか知りたかったけど、私だけじゃ崖の上には行けない。何とか私は自分を変えたいと思ったけど難しい。そこに宮前くんが山に来た。一緒に崖に行ってもらおうと思った。同じ期待の悩みを持ってるこの人なら信頼できると思ったんだよ?」


 似た悩みを持っているだけで、一度も話したことがない人を信頼するのは異常だ。

 信頼とは本来階段のように一段一段積み重ねて登っていくものだ。

 だけど文月は信頼の階段を一足で飛び越えてしまった。

 それほどまでに彼女は追い詰められていたのだろう。


 信じようとしなければ、誰からも信じてはもらえない。


 彼女は自分の心の傷に耐えながらも僕を信じることに決めたのだ。


 文月の今までの不可解な行動に納得がいった。

 控え目であるのにときに大胆なまでに僕に抱きつく。

 全ては僕へと寄せる全幅の信頼の結果だった。


「嫌いに……なったかな?」


 申し訳なさそうに、文月はおずおずと訊ねる。

 文月の幾度となく繰り返された問い。

 僕に嫌われたくない彼女にとって、過去を話すことは自分を拒絶されるかもしれないことに繋がる。

 もし僕が嫌いと答えれば、彼女は本当に死んでしまうかもしれない。


「いや、嫌いになんかならないよ」

「重くて……ごめん。私宮前くんしかいないの……私、宮前くんを信じ続けてもいいかな……?」


 文月の瞳が涙に濡れる。

 僕に嫌われることを文月は最も恐れている。

 惨めな自分のことを彼女は僕に話したくない。

 だけど彼女が勇気を持って話してくれて僕はようやく気づけた。


 傘を放り投げ、僕は彼女を抱き寄せた。

 文月の身体が強張るのを肌で感じた。


「僕には重いくらいがちょうどいいんだ。信じ続けてもいいよ。それが僕にとっても必要だよ」


 誰にも存在を認めて貰えない少女は人にイジメられた。

 仲良くしていたと思ったら、裏切られ人を信じられなくなってしまった。

 でも信じようとしないと自分を信じてはもらえないことも少女は知っていた。

 深い葛藤。

 裏切られれば今度こそ、自分はもう立ち直れない。

 だから少女は信じ続ける。例え裏切られても、自分がそう思わず信じ続ける。


 普通の人なら、信じて期待していた人が失敗すれば、落胆もするだろう。

 しかし文月はしない。

 失望した瞬間に、裏切られたと思った瞬間に彼女はもう一生誰も信じられなくなる。

 少女は、失望しない。いや、失望できない。


 それはもう信頼ではなく狂信、妄執に近い。


 だけど僕にはそれが必要だった。


 失敗しても、文月なら僕に期待し続けてくれる。

 それが文月にとっては必要で、僕にとっても必要だった。

 存在の全肯定。失敗しても自分を認めてくれる人が僕にはいなかった。


 ここまでずっとそうやって育ってきた。

 普通の人なら両親がそれに当たるのだろう。

 だから僕はこんなにも失敗が恐かった。

 存在の基盤があやふやだったのだ。


 二人は歪なパズルのピースだ。今まで誰とも合うピースがなかったけれど、歪な二つの存在はようやく一つの形になった。二つ合わさっても歪かもしれないけれど、互いにもっと前よりは生きやすくなる。


 今はまだ文月は僕以外信じられないし、僕への信頼も歪だ。

 でも僕が文月の期待に応えて信頼を返せば、人を信じてもいいのだと思えるようになるはずだ。

 いつか人並みに信頼を築けるようになって欲しい。


 僕は失敗と失望が恐いけど文月は失望もせず期待し続けてくれる。信頼し続けてくれる。

 いつか、失敗をしても恐くないと思えるようになりたい。

 それまでは文月が僕の存在を認めてくれる。


「文月……前に自分には何もできないって言ったよね。文月が僕を信頼し続けてくれるだけで、僕は飛べる。これって……文月にとってできることのうちに入らないかな」


 僕に身体を預けた文月が、ふるふると顔を横に振り手をそっと僕の胸に寄せる。


「ううん、私……ようやく自分にもできること……見つかったのかな」

「もっと沢山、これから見つかると思うよ。僕と一緒に探していこう」


 僕が身体を外すと、文月の指が服の裾を掴む。彼女らしく控え目だ。

 恥ずかしげに僕と地面に視線を行ったり来たりさせる。


「あの……ね、ついで何だけど……私、宮前くんのこと好きになってもいいかな……?」


 恥ずかしさと緊張、そして幾分かの恐怖が入り交じった声音に、僕はこう答えた。


「良かった……そっちの期待にも応えられそうだよ」


 いつの間にか雨が止んでいた。

 文月は傘を地面へと置いて僕と向き合う。


 改めて彼女のことを思い返してみる。僕は文月に惹かれていたんだと思う。

 だけど昔のトラウマのせいか、僕は文月を心のどこかで遠ざけていた。

 文月の過去を知り、自分を知りようやく文月と向き合うことができた。


 どちらともなく僕たちは相手を抱き寄せた。

 文月の体温は暖かくて、雨に濡れた身体を優しく包み込んでくれる。


 長い睫毛に大きな瞳。僕の方が背が高いため自然と彼女は上目遣いとなる。


「僕は文月のこと、好きだよ」

「えへへ、私もだよ」


 僕の胸に顔を埋めていた文月が、にっこりと笑う。

 そして何かを決意したように背伸びをし始める。

 彼女の顔が近づき、心臓が跳ね上がる。瞼を閉じて桜色の唇をちょっこりと文月は突き出す。


 なにこれ、キスしろってこと? やっていいの? 僕が? 


 僕は深呼吸をして、彼女の顔を見つめ直す。本人も恥ずかしいのか、頬がうっすらと上気している。

 あまり長く待たせるのもマナー違反だろう。

 まずここから、彼女の期待に応えようと思う。


 僕は文月の唇に自分のをそっと重ねた。

 小鳥がついばむような簡単なキスだ。抱き寄せた彼女の身体から緊張と力がふっと抜ける。

 急に文月が愛おしくなり、キスが終わってもいつまでも僕は抱きしめ続けた。


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