赤い月が見る夜は
赤い月が見る夜は、外に出てはいけません。
赤い月が見る夜は、化物達が歌い出す。
見ろよ、あれは人間だ。強欲な化物が歌い出す。
本当だ、あれは人間だ。貪欲な化物が歌い出す。
俺達の全部が欲しいかい? 無欲な化物が歌い出す。
だったらお前の居場所をおくれ。謙虚な化物が歌い出す。
赤い月が見る夜は、外に出てはいけません。
赤い月が見る夜は、化物達が歌い出す。
悲しき夜の化物は、光を求めて歌い出す。
◆
田舎に住んでいる私には、幼いころから父がいなかった。
寂しくなかったと言えば嘘になるけれど、その代わりにお母さんとメアリーおばさんが親となって、私を大切に育ててくれた。
「いいですか、サリー? 窓から外を見てご覧なさい。赤い月が出ているでしょう? こんな夜は、外に出てはいけませんよ。化物が出てきますからね」
お母さんは、昔から私によく言っていた。
ただの歌でしょ、と私が答えた時は、凄い表情をしてこう答えた。
「サリー! 愚かな子! あの歌は本当なのです! 私の友達のメアリーは、赤い月が見ている夜に外に出て、化物になってしまったのですよ!」
「でも、メアリーおばさんは生きているでしょう?」
「あれはメアリーではありません! 私にはわかります! メアリーは化物になってしまったのです!」
そう言われても、私にはよくわからなかった。
メアリーおばさんは優しい。お母さんよりも優しい。厳しく言ってくるお母さんに比べて、メアリーおばさんは優しく、諭すように言ってくる。
お母さんもメアリーおばさんも、私のことを思って言ってくれるのはわかってる。でも、厳しく上から押さえるように言ってくるお母さんに比べて、優しいメアリーおばさんのほうが、私は好きだった。
でも、そんなメアリーおばさんも、私にはよく言った。
「よくお聞き、サリー。赤い月が見ている夜は、外に出ては駄目ですよ? 寂しがりの化物は、人間を恋しく思っているの。だから、人間になりたいの」
どこか懐かしそうに外を見ながら、そう言ってきたメアリーおばさんを見て、私は何も言えなかった。
お母さんとメアリーおばさんにそう言われていたのは、今から十年も前のこと。五年前に流行り病で二人は死んでしまったから、私に注意をしてくれる人はもう誰もいない。
二人が死んでしまってから、私は近くのパン屋に住み込みで働き始めた。当時は子どもだったけれど、五年も経てば既に一流……とは言わないければ、それなりに美味しいパンも焼けるようになる。
接客だって慣れたものだ。ほとんどのお客さんが近くに住む常連さん、ということもあると思うけれど、五年前よりはだいぶ自然な笑顔を見せることができるようになったと思う。働きはじめて一年間は、接客なんてさせてもらえなかった。
そう考えると、私の人生はいい人に恵まれたんだと思う。小さい頃は二人の母親に、母親が死んでからは、優しいパン屋さんに救われた。本当に、感謝してもしきれない。
そんな風に感謝をしながら働いていたある日のこと、その日はとても忙しかった。
ミスター・ワンと呼ばれている、とても有名な人が村に来たらしい。
そんな人が来るなんて思っていなかった村人達が大慌てだ。私達も大慌てで準備をすることになった。
そのおかげで、今日は帰るのがいつもよりも遅くなってしまった。おまけに今日は赤い月が登っている。だから、お二人も心配して私に言ってくれた。
「サリー、本当に大丈夫かい? 今日は赤い月が出ているじゃないか」
「大丈夫ですよ。家は近くにありますから。」
「そうだとしてもねえ……」
「サリー、何かあったら大声で叫ぶんだよ? 絶対に駆けつけるからね」
「もう、心配しすぎですよ」
私の家とパン屋さんまでは、歩いて二分くらいだ。このくらいの距離だったら、多分大丈夫。
そう思っていたのが、間違いだった。
走って帰って、そろそろ家にたどり着きそうだと思った時、その人は現れた。
仕立てのいい服を着た、少し小太りな男の人だった。でも、全身黒色の服で固めていて、今の時間帯では確実に不審者にしか見えなかった。
でも、今日は赤い夜が登っている。化物だと勘違いした私は、恐怖で声も出ず、固まることしかできなかった。
よく見れば、男の人も困惑していることがわかったんだろうけど、私は動転していて、そこまで余裕がなかった。
そうして十秒もすると、徐々に落ち着くことができた。男の人が律儀に待ってくれていたのも、その理由だと思う。
そして、私が落ち着いた頃を見計らって、男の人は私に聞いてきた。
「君は、全てを欲しいと思うかい?」
全てとは、何? そもそもあなたは誰?
「あの、あなたは?」
「僕は、彼らの代わりに問うているだけだ。全てが欲しいのなら、イエスと答えればいい。それだけで君は全てを手に入れることができる」
嘘は言っていないと思った。不思議な説得力が、男の人の言葉にはあった。
「ただし、その選択には代償が必要だ。とても小さな代償だ。君は全てを手に入れる代わりに、君の居場所を失うことになる」
その言葉に、私は思う。お母さん、メアリーおばさん、パン屋さんと常連の人達。狭い狭い世界だけど、世界で一番大切な人達を。大切な居場所を。
「あなたは誰なの?」
「……ミスター・ワンという名前を聞いたことあるかな?」
その言葉に、私は頷いた。だって、誰もが彼の名前を知っているから。
ミスター・ワン。世界一有名な人。世界で一番お金持ちな人。田舎に住んでいる私でも知っているような、国王様よりも有名な人。
「知っているみたいだね。僕はミスター・ワンと呼ばれている。世界一有名な男らしいけど、僕は彼らの代わりに動いているだけだ。僕は彼らの得てきた全てを使って、彼らのために動いているただの影武者だ」
これも多分本当だ。ミスター・ワンの後ろには彼らがいて、ミスター・ワンは彼らとともに生きている。
ミスター・ワンがこれほど凄い人になれたのも、きっと彼らのおかげなのだろう。
「全てを手に入れたのならば、全てのことが自由になる。生活の苦しいあのパン屋を救うこともできる」
「ジョナサンさん達を……」
ジョナサンさんとダイアナさん。私がお世話になっているパン屋の経営している夫婦だ。
生活が苦しいのは知っている。最近、店を畳もうかと相談しているのも知っている。一度、私をクビにしてくださいと頼んだけれど、ジョナサンさんは優しく笑って頭を撫ででくれただけだった。
あの優しいパン屋さんのご夫婦は、私の親みたいなものだ。どうか助けてあげたいと思う。
だから、きっとこの選択は間違っていない。
「……欲しいです」
「全てが欲しいかい?」
「欲しいです」
「全てを自由にしたいかい?」
「欲しいです!」
「いいだろう。契約成立だ」
その瞬間、私は見た。ミスター・ワンの後ろで、影の化物達が喝采をあげていた。仲間の誕生を喜んでいた。仲間の解放を祝っていた。
そして、影でできた私に似た誰かが、私の家に入っていった。私ではない私が、私の家に入っていった。
待って、そこは私の家。言いたかったけれど、言えなかった。もう既に、私はそれを失っていたから。
私は、私の居場所を失っていたから。
そうか、これが居場所を失うということ……。
私は人間を失っていた。影でできた私に似た誰かが代わりに私となって、私はこれから影の化物として生きていく。
さようなら、お母さん。さようなら、メアリーおばさん。さようなら、ジョナサンさん、ダイアナさん。
お母さんの言っていたことは正しかった。メアリーおばさんの言っていたことは正しかった。
赤い月が見る夜は、化物達が見ていると。
寂しがりの化物は、人間になりたいと。
そして、メアリーおばさんは、影の化物と入れ替わってしまったと。
もしかしたら、メアリーおばさんも影の化物となって、この中にいるのかもしれない。そう考えると、寂しくないような気がしてきた。
「さて、新たなる化物よ。あなたは何を望む?」
(優しいパン屋さんを救ってください)
「了解した、優しい化物よ。何、簡単なことだ。僕があのパン屋のパンを食べて、美味しいと宣伝すればいい。きっとパンも売れるようになる」
(ありがとうございます)
声の出せない私の声は、ミスター・ワンにしか聞こえない。
これからは、彼と影の化物達が私の家族だ。
◆
それからのことを話すとすれば、ミスター・ワンの言葉通りになった、という一言で済むだろう。
ミスター・ワンが優しいパン屋さんの宣伝をすると、国中だけじゃなく、世界各国からジョナサンさん達のパンを求めてお客さんがやってくるようになった。
こうしてパン屋は救われた。代わりの私も、私と同じように笑顔を振りまいて、一生懸命接客しているらしい。頑張ってくれているようで良かったと思う。
でも、もしかしたらダイアナさんは気づいているかもしれない。私が私じゃなくなったって。
私から見ても、代わりの私には違和感を覚える。ジョナサンさんは……大雑把だから気にしないかな? でも、ダイアナさんは細かいことにも気がつく人だから、私と同じように違和感を覚えているかもしれない。
でも、もういいかな。ここはもう私の住む場所じゃない。私の居場所じゃない。
今の私の居場所は、ミスター・ワンの後ろだから。私と同じような化物のいっぱいいる、ミスター・ワンの後ろだから。
化物達は、何かを救うために自らを犠牲にした人達だった。だから、もう一度人間として生きていけることを願っている。もう一度人間として生きていきたいと思っている。
私もいずれそうなるのかな? 永遠の生を生きて、いつか人間として生きたいと思うようになるのかな?
きっと、私もそうなるのだろう。私も、化物のように人間になりたいと思うようになるのだろう。
だって、私は化物になったのだから。




