ポールモールには敵わない
「いいなぁ……」
夜空に吸い込まれていく紫煙を見て、思わず僕は呟いていた。
ふわりと空気が動いて、焦げたようなにおいが鼻先を掠め、
「――欲しいなら、あげるよ」
鼓膜を優しく揺らす、ゆったりとした低い声。
差し出された手には、煙草が一本だけ飛び出ている、赤い箱。
僕は慌てて、両手と首を横に振った。
「い、いえっ、僕は、煙草は、吸いませんので……」
「うん、知ってる」
八尋さんは、生まれたての月のように細い笑みを浮かべて、手すりに寄りかかった。
「でも、すごく物欲しそうな眼をしているから、てっきり、吸ってみたいのかと」
「……そんなに、物欲しそうにしてましたか?」
「うん、とっても」
八尋さんは、ポールモールを、指の根本あたりで挟み、口を覆うようにして、煙を吸い込む。バックには、地べたを這いずるビル街と、煌々と輝く満月。唇が露わになって、白い煙が夜陰に溶ける。
「――ほら、やっぱり」
「……えっ?」
「ずっと見てるから。やっぱり、煙草に興味、あるんじゃないの? 吸ってみる?」
誘い込むような艶美な声音。
「――いえ……」
大きな手に収まる小さな箱。
「……いいえ、僕は――」
耐え切れず、両手を上げて、しかし煙草は受け取らず、僕は、
「――貴方に、吸われたいんです」
八尋さんの手を、握りしめた。
八尋さんは、会社の先輩だ。一昨年入社した僕より、十五歳も年上の。
「芦田……と、く、さ、かな? 合ってる?」
初めて会って、名前を呼ばれた時、僕はただ俯いて、がくがくと頷くことしかできなかった。会社に入ったばっかりで、緊張していたということもある。けれど、それよりなにより、八尋さんの第一印象が、ニコリともしない、冷徹で怖そうな人だ、としか思えなかったのだ。小綺麗にセットした髪。腫れぼったい瞼の奥の鋭い目。ややくたびれたスーツは、彼がベテランであることを窺わせる。意味もなく机の上に目をやって、そこに、かなり使い込まれた銀色のジッポが置いてあるのを見て、余計に怖くなる。大嫌いな煙草のにおいが鼻について、僕は今すぐ逃げ出したくなった。
ところが、
「良かった」
と言われて、恐る恐る顔を上げ――微笑む彼のその顔に、目が釘付けになった。
「トクサって、あれでしょ。植物の。俺の実家の庭にも、あったなぁ。結構好きだったんだよね、あれ」
見た目に反して、その声は柔らかく。ぬるま湯のようにゆっくりと話した。
想像に反して、その顔は穏やかで。小春日和のように仄かに笑った。
「俺は、八尋徹。これから、よろしくな、芦田」
「――はい。よろしくお願いします」
しっかりと交わした握手が――日焼けしていない手が、硬い掌が、骨ばった指が、その温もりが――僕の心臓を掴んで、今も放してくれない。
無意識的に、僕の目は、彼の左手を見ていた。
薬指には、何も着いていない。
それから一年経って。
八尋さんが、かなり優秀なお人であると、傍にいて実感して。
憧れは強くなる一方で。これは、憧れだけじゃないと気づいて。
二年経って、想いは一層色付いて。
かっこいいところも、可愛いところも、寂しげなところも、たくさん見つけて。
褪せることのない気持ちに、焦りが加わって。
「――貴方に、吸われたいんです」
言ってから、しまった、と思った。なんてことを口走ったんだろう、僕は。これじゃ、告白――いや、というか、普通に考えて意味の分からない言葉じゃないか。
僕はお酒も苦手だから、酔っていて、という言い訳も通用しない。混乱した頭が重たくて、僕は俯いた。
それにしても、あぁ、包み込んだ八尋さんの手は、冷たい――。
ふわりと空気が動いて、焦げたようなにおいが鼻先を掠めた。
「吸いたい、じゃなくて、吸われたい、なのか」
ベランダの縁にしゃがんでいた僕と、八尋さんの目が合った。
生まれたての月のような細い笑みが、変わらず浮かんでいる。
「正しい認識だね。確かに、俺が愛してるのは、ポールモールだから」
はっきりと告げられて、僕の心が少しだけ軋んだ。正しく理解してもらえて、その上で断られた。でも、応えてもらえないことは覚悟していたから、大丈夫だ。拒絶されなかっただけマシだ、と言い聞かせる。
八尋さんは「そんな、捨てられた子犬みたいな顔をするなよ」と笑い混じりに言って、煙草を食んだ。
「うわっ、ぷ」
唐突に煙を吹きかけられて、僕は思わず目を瞑り、半身を引いた。有害な煙が目に沁みて、涙が滲む。
歪んだ視界の中で、やっぱり八尋さんは薄く笑っているのだ。
そして、
「浮気性な男なんて、君は、嫌いだろう?」
と。
誘い込むような艶美な声音。嫌悪と拒絶ではなく、真摯で丁重な断り。
「……ずるいですよ、その言い方」
「そうかなぁ」
「そうです。……もう、何も言えなくなっちゃうじゃないですか」
あぁ、くそ。――かっこいいなぁ、やっぱり。
八尋さんは立ち上がった。するりと、僕の両手から離れていく、手。
何事もなかったかのように、彼は再び手すりに寄りかかって、煙草をふかす。
バックには、煌々と光る満月。地べたで煌めくビル街。口元を覆うようにして、煙を吸い込んで、吐き出す。夜陰に溶ける煙。
僕はきっと、八尋さんに好かれている。けれど、どんなに頑張っても、愛されはしないんだろう。だって、煙草を片手に立っている八尋さんが、この世の何よりもかっこいいと思ってしまうから。
駄目だ。――ポールモールには、敵わない。
「お、そろそろ、お開きかな」
八尋さんは灰皿に煙草を押し付けて、ひょうきんな仕草で体を起こした。年度末のパーティーは、ようやく終焉を迎えるらしい。宴会場の中は、酔っぱらった人間たちの手によって酷い有様になっていた。「あぁあ、こりゃ大変だ」と、他人事のように呟く、八尋さん。
それから、僕の方を見て、
「締めのラーメン、行くだろ」
いつもこうだ。飲み会があるたびに、八尋さんはそう言って奢ってくれる。
僕はそのぬるま湯から立ち上がれないで、ずっと浸っている。
けれど、今日ばかりは驚いたし、困惑した。さっき告白したばっかりなのに、まったく変わらないで、平然と、飄々と、同じように誘ってくれるなんて。
普段なら即答する僕が、答えあぐねていると、
「あー、そっか。今のは俺が、無神経だったな。ごめん」
「えっ、いえ、そんなことは……!」
「でも俺、芦田と行くラーメン、好きだからなぁ」
「っ……」
意味が違う、と分かっていても、赤面するのを抑えられない。幸運にも、八尋さんは夜空を見上げていて、こちらを見ていなかった。
「っつっても、芦田につらい思いさせるなら、それはそれで嫌なんだよね。だから、」
と。
僕を見下ろして。
「つらかったら、離れてくれな。自分を大切にしろよ」
笑わずに、そう言った。
八尋さんは、煙草みたいだ。つらいと分かってるけど、健康に害があると知っているけど、やめられない。恐ろしいまでの中毒性。他の何かでは代え難い、唯一無二の嗜好品。
だから僕は、やっぱり、離れられないし――離さない。絶対に。
僕の脇をすり抜けて、八尋さんは窓を開け、室内に戻ろうとする。
そのワイシャツの袖を掴んだ。
「……芦田?」
「――駅前に、新しいラーメン屋が出来たの、知ってますか?」
八尋さんは、まだ少しだけ気遣わしげにしていたけれど、やがて、微笑んだ。
生まれたての月のように、細く柔らかい笑み。
「……もちろん。そこに行こうと思ってたんだ」
滔々と流れる夜闇より緩やかで、艶美な声。
まだ僕の方に気を遣いながらも、隠しきれなかったのか、ほんの僅かに深まった笑みが、僕と一緒にラーメン屋に行けることを喜んでいる。
確信した――僕は一生、この人をやめられない。
やめる気もない。
不毛でも、報われなくても、浪費だとしても、それでも。
――この人が、ポールモールを愛するように。
おしまい
★おまけ~ラーメン屋にて
「あ」
「どうしたんですか、八尋さん?」
「昨日、大量にカレー作ったこと、忘れてた」
「あー……でも、カレーなら、しばらく大丈夫ですよ」
「いや、それがさぁ、ちょっと、調子に乗っちゃって、すごくたくさん作っちゃったんだよねぇ。――なぁ、よかったら、片付けるの、手伝いに来てくれない?」
「そっ、それは……八尋さんの、お宅に、です、か?」
「うん」
「………………」
「……どうした?」
「いえ、あの……八尋さんのお宅に行ったら、僕……その、自分でも、何するか……」
「……あー、なるほど。そういうことか。――……駄目だなぁ、俺」
「え? 何がですか?」
「どっちも男だから、どうしたらいいのか、分からないや。どっちかを、女と仮定すればいいのかなぁ。――うちに呼んだら襲われる、ってことは、俺が女ポジ? ――ん? 待てよ。芦田、さっき『吸われたい』って言ってたよね。ってことは、芦田が女ポジ? ――……あれ、どうした、芦田?」
「……いえ…………ほんと八尋さんって、イケメンですよね……そういうところ、大好きです、僕」
「…………君も大概、正直者だよなぁ」
吐き出した煙の中に、『嫌いじゃない』と呟くのが、聞こえた。