1.記憶
最近、一花があの場所の名前をよく口にするようになった。
大学の学生寮で生活しているにもかかわらず、しょっちゅう僕の住む裏野市のアパートにやって来るようになったのも、あの事件と無関係ではないはずだ。
「あの場所」というのは、裏野ドリームランドのことだ。かつて千葉県裏野市に存在した遊園地である。「海辺の遊園地」として多くの人々に親しまれ、小学校の遠足といえば、まず初めに候補が挙がるのはこの場所だった。
しかしそんな夢の国は、今からちょうど十年前、園内で発生したとある事件が引き金となり、廃園を余儀なくされた。園内で一人の少女が姿を消したのである。
――ドリームランド女児誘拐事件。
当時九才だった被害者は、地区の子供会であの遊園地に来ていた。実はその子供会のメンバーには僕も含まれていたのだが、その日は別の男友達と行動していたため、被害者である少女の姿は見ていない。
少女の母親がふと目を離した隙に、忽然と姿を消したのだという。最初は単なる迷子だと思い、迷子センターでアナウンスをしてもらい、遊園地スタッフにも捜索をしてもらった。しかし、どんなに待てども少女は見つからず、あっという間に時間は過ぎ去り、じきに閉園時間がやってきてしまった。とうとう捜索には警察官も加わり、前代未聞の大捜索が行われた。
少女が姿を消してから九時間が経過しようとしていた時だった。一匹の警察犬が、あるアトラクションの中で吠えた。通常は係員でも滅多に立ち入らない場所で、少女は瀕死の状態で発見されたのだ。
「あの日のことは殆ど記憶にないけど、最近よくあの遊園地が夢に出てくるの」
一花と付き合ってもう五年の月日が経とうとしている。やっと彼女がどんな人間であるかわかってきたつもりでいたのに、最近またわからなくなりつつある。
「もしかしたら、忘れていたことを少しずつ思い出してきてるのかもしれないね。あの日も近づいてきてるし……」
窓の外をじっと眺めながら、一花はつぶやいた。彼女は、例の誘拐事件の被害者である。どうやらあの事件のことを思い出すつもりでいるようだが、世の中には思い出さないほうが幸せという事もたくさんあるというのに、なぜ今頃になってそんなことを言い出すのか、僕にはわからない。
「ねえ、今度行ってみようよ」
「えっ……」
「もう子供じゃないし、そろそろ現実と向き合わないと。私来年留学だし、時間がない」
一花はそう言った。僕は焦っていた。一花が昔の記憶を取り戻し、すべてを知ってしまうのを、止めたかった。知れば、必ず後悔するはずだ。一花があの出来事から十一年も目を背け続けてきたのは、単なる「逃げ」などではなく、これから生きていくために必要な「自衛」であるはずだ。忘れる必要があったから忘れたというのに、今更どうして思い出そうとするのか。正直、僕自身も深く知ろうなんて思わないようなことを……
「今更どうした? もうあの遊園地は廃墟だし、犯人も逮捕された。焦ることは何もないよ」
そうだ。犯人はもう逮捕されている。そして、本人は知らないだろうが、もうすでに社会復帰しているはずだ。
「一回だけでいいから。連れて行ってくれない? 何か思い出せるかも」
「思い出してどうする」
「だって、世間はあの人の顔も本名も知らない。今あの人がどこで何をしているのかはわからないけど、あの人が何をした人間なのか知らずに接してる人って、たぶん多いと思う。事件についてお母さんにどれだけ聞いてみても何も言ってくれないし、ネットは嘘ばっかり。そして何より私にはあの日の記憶がない。……たぶん、お母さんも周りのみんなも、あの事件をなかったことにしたいのかもしれない。だけど私は夏が来る度にちょっとずつ記憶が戻ってきて、もう少しで思い出せそうなの。思い出すことが第一歩だって本にも書いてあったし」
一花は窓の外を眺めたまま、目も合わさずにそう言った。
「なかったことにしたくないの、私は。」
その日の夜、悪いとは思いながらも僕は一花のスマートフォンの検索履歴を盗み見た。「裏野ドリームランド」「誘拐」「殺人未遂」「犯人」「被害者」「今」「過去」「夢」「記憶の整理」……
履歴にはそんな言葉がびっしり並んでいた。未送信メールを開いてみると、どうやらメモとして使っているようで、事件に関係する情報がコピーされていた。しかし、このスマートフォンは数日後、一花が風呂場に持ち込んだ際にうっかり水没させてしまった。
一花が現段階でどれだけ記憶を取り戻しているのかわからないが、このまま放っておけるはずがなかった。
大学が夏休みに入ると、一花は僕のアパートにしょっちゅう顔を出すようになった。
一花は一人でもあの場所に行くつもりかもしれない。僕は漠然とそう思った。彼女には昔から、一度決めたことは必ずそうするという妙な頑固さがあった。危険だ。あんなところに一人で行かれては困る。
「一花」
僕は相変わらず窓の外ばかり眺めている一花に言った。
「……本当に行くんだね?」
一花は無言で頷いた。彼女が熱心に眺めているのは、裏野ドリームランドがある方角だった。