unsung hero(三十と一夜の短篇第7回)
町中で肩車をして歩く親子を見て、セッカはこっそりため息をついた。
父親の肩に乗る子どもは、セッカの娘と同じくらいだろう。頭にしがみつく子どもに、重たくなったなあ、なんて言っている声が聞こえてくる。
ちらりと自分の隣を見ると、そこには大きな袋を抱えて歩くセッカの娘がいた。袋の中にはあちらこちらの店で買った食材や日用品が詰まっている。
赤ん坊のころに比べればずいぶん大きくなった娘だが、まだまだ幼い子どもの域を出ない彼女には、荷物で膨らんだ買い物袋は重たいだろう。
けれども娘は文句も言わず、軽い荷物だけを持ってもたもたと歩く父親に合わせてゆっくりと進む。
セッカは、思うように動かない自分の体がもどかしい。娘に重たい荷物を持たせて歩くことが心苦しい。本当は荷物をすべて自分が持って、娘を肩にかついで家まで歩きたい。
けれど、それはできない。
かつてのセッカならば楽にこなせただろうけれど、今のセッカにはできない。きしむ体でどうにか歩き、力の入らない腕でわずかな荷物を持つことで精一杯だ。
まるで役立たずな自分なのに、妻は自分の代わりに働いて家庭を支えてくれている。ろくに抱っこもしてやれない自分なのに、娘はまだ小さな手を貸してセッカを支えてくれる。何も返せるものがない自分に、地域の人々は何かと気を配って自分たち家族を支えてくれる。
たくさんの人に支えられて送る日々を振り返れば、自分の不甲斐なさに落ち込むばかり。
体を壊す原因になった過去の自分の行動を後悔はしていない。後悔はしていないけれど、もう少し違うやりようがあったのではないかと、セッカは悩んでしまう。
家に着くとセッカは夕食の支度、娘は宿題をする。
居間の机でかばんを広げる娘に背を向け、セッカは台所で作業用の椅子に腰かけた。この体は立っているだけでもすぐに音をあげるのだ。あれだけ多くの人に支えられているというのに、さらに無機物にまで支えられなければ気が済まない自分の体を情けなく思う。
セッカが体を壊したのは最近のことではない。たくさんの人に助けられて生きている年月は決して短くない。色々なことがあったし、何度も落ち込んでそのたび自分の気持ちに折り合いをつけて過ごしてきた。
それなのに今さら己の情けなさに打ちひしがれている原因は、数日前の娘とのやりとりにある。
いくら考えたところでセッカの体が完全に回復することはないのだけれど、考えずにはいられない。だからと言って、妻に弱音を吐く気にもなれない。彼女ならば背中を叩いて励ましてくれるとわかっているのに愚痴をこぼすのは、余計に情けない気持ちになるに違いない。
セッカはこぼれそうになるため息をそっと逃して、夕食の支度をもたもたと進めるのだった。
妻と娘とセッカの三人で夕食を食べ、三人で手分けして片付けを終えた。妻が娘を寝かしつけている間、居間の椅子で体を休めていたセッカは、ふと部屋のすみの棚の上に置かれた紙に気がついた。
背もたれから起こすだけできしむ体に落胆しつつ痛む手足を動かして、見つけた紙を手に取る。
そこには、娘のつたないがていねいな文字が書かれていた。セッカは何気なく目を通す。
『わたしの家族
わたしの家にはお父さんがいます。お母さんはいつもお仕事に出かけるけれど、お父さんはいつも家にいます。
お父さんがいない友だちの家は、お母さんが仕事に行くこともあります。お父さんとお母さんがどっちも働いている友だちもいます。だけど、わたしの家みたいにお父さんがいつも家にいるところはありません。
わたしのお父さんは身体を壊しているから、仕方ないのだそうです。わたしのことを抱っこできないのは少し寂しいけれど、わたしは優しいお父さんが大好きだから気にしていませんでした。
だけどこの間、近所に引っ越してきた男の子に、そんなの変だ、と言われました。そんなのはごくつぶしって言うんだ、と言われました。
それで、家に帰ってお母さんとお父さんに聞いてみました。お父さんはごくつぶしなの? って。
そしたら、お母さんはそんなことを言うのはどこのどいつだ、と怒りました。お父さんは困った顔で笑って、一応、昔働いたぶんのお給料みたいなものはもらっているから、ごくつぶしではないつもりだよ、と言いました。それから、お父さんが家にいるのは嫌かな、と聞かれたので、わたしは首を振ってううん、と答えました。お父さん好きだから、嬉しいよ、と言いました。そしたらお父さんがにこにこして、それを見たお母さんも笑っていました。
わたしのお母さんは働き者でちょっと怒りっぽいけど、楽しいことが大好きな面白いお母さんです。わたしのお父さんは他のお父さんと違うところが多いけど、いつも笑顔の優しいお父さんです。
わたしは、わたしの家族が大好きです。』
読み終えて、セッカは震える手で口元を覆った。いつもならばこの震えは体の不調から来るものだけれど、今このときばかりは違うと言える。
こぼれるのは熱いため息。
自分の思う理想の父親には、どう頑張ってももうなれない。けれど、そんなことはどうだっていいくらいに胸が熱かった。
胸がいっぱいで苦しい。苦しいけれど、胸を満たすのは苦い思いではない。
娘の書いた作文をそっと元に戻して、セッカは立ち上がる。いつもよりも軽く感じる体で目指すのは、娘と妻のいる寝室だ。
寝ている二人の横に潜り込めば、今日はいつもよりも気持ちよく寝付けそうな気がした。
提出された宿題のひとつを読んで、教師は頭を悩ませた。
教師は女生徒の父親が働かない、いや、働けない理由を知っている。この町に以前から住む大人はみんな知っているはずだ。そして、どこの家でもそれとなく、女生徒の父親に敬意を払っているのだろう。子どもは親の態度を真似るものだから、事情を知らなくとも女生徒の家族の在り方をからかう者はいなかった。
しかし、田舎から越してきた少年の家族は知らなかったのだろう。それは女生徒の父親であるあの方自身が望まなかったためであり、仕方のないことである。
自身の成したことを語られたくないとあの方が望んでいるから、教師は彼女にも、引っ越してきた少年にも真実を伝えることはできない。けれど、あの方のことをけなされて黙っているのは悔しい。
悩んだ教師は、ペンを手にとった。
翌日、教師は室内を見回した。女生徒は行儀よく座っているし、田舎から越してきた少年もいる。休んでいる生徒がいないことを確認してから、教師は紙束を取り出した。
「みんなが昨日書いてくれた家族の作文を読みました。みんな良く書けていました。今から返すので、端の人から順番に取りに来てください」
生徒たちが素直に席を立ち教卓の前にやってくるので、ひとりずつ感想をひと言伝えては手渡しで返していく。作文の最後にはそれぞれ二言、三言ほどの感想を書いてあるので、受け取った生徒は席に戻り自分の作文に書かれた感想を読んでは嬉しそうな表情を浮かべている。
自分の書く感想を楽しみにしている生徒が少なからずいるとわかって、教師は嬉しくなる。全員分の作文を読み、感想を書くのは簡単なことではない。しかし、喜んでもらえていたとわかると、苦労が報われる。
けれど、今日はその喜びに浸ってはいられない。作文を返し終えた教師は、卓の中かさらに紙を取り出した。
「今日は先生も作文を書いてきたので、今から読みます。聞いてください」
きょとんとした顔の生徒たちを前に、教師は読みはじめる。
『わたしの家族
わたしには父と母、みっつ離れた妹の三人の家族がいました。
父が働きに出て母は家事の合間に繕い物をして小銭を稼ぐ、裕福ではないけれど食べるに困ることはない、なんてことない普通の一家でした。
けれど、わたしが十歳のとき、そんな普通は突然に壊れました。
魔王が現れたのです。
魔王は町を破壊しました。たくさんの人が死にました。わたしの父と母も、死にました。幼い妹の手を引いて、どうにかこうにか逃げ出したわたしでしたが、見渡す限り魔王の配下が暴れまわり、安全な場所などありません。
瓦礫の下に潜り込んでなんとか生き延びていたわたしと妹でしたが、どこもかしこも壊れた町に絶望したそんなとき、あの方が来てくれたのです。
あの方は勇者の剣を携えて、町にはびこる魔王の配下を次々に斬り払いました。たったひとりで魔王に挑んだあの方は、ついに魔王をも打ち破りました。
わたしと妹は生き延びて、生き残った町の人々とともにあの方に感謝しました。けれどあの方は、自ら動くこともままならないほどに傷ついていました。魔王の攻撃によるものだけではありません。勇者の剣という、人の身に過ぎた力を振るったがために、あの方の体はまともに動くことさえできないほどに脆くなり、弱りきっていたのです。
彼に命を救われたわたしたち町民は、町の再建にあたってあの方に町の英雄として在ってほしいと望みました。実務は町長が行うので町を救った英雄として名を、魔王を倒した勇者としてその偉業を残させてほしいと望みました。
しかし彼は首を横に振りました。
自分が魔王を倒したのは、守りたい人がこの町にいたからだ。この町を守るために戦ったのではないから、その話を受けるわけにはいかない。
彼を支える女性もその言葉に頷きました。
わたしたちが求めるのは平穏な日々、なんでもない幸せ。彼の行動に感謝を示したいというなら、祭り上げるのはやめて。彼のことを吹聴しないで、いち町民として扱ってほしい。
そう言って立ち去ろうとする二人をなんとか説得し、彼の働きに対する報奨金という名目でいくらかの金銭を受け取ってもらう約束を交わし、かわりに、彼が英雄であると口外しないことをすべての町民が約束しました。
そうしてみんなが町の復興に力を尽くし、十数年がたった今、町はかつての賑わいを取り戻しつつあります。町を救ったあの方も、この町のどこかで大切な方と幸せな家庭を築いていることでしょう。
わたしと妹は、亡くした父母に恥じないよう日々を過ごし、語られることのない英雄への感謝を胸に、今日も元気に生きています』
読み終えた教師は、紙を置いて生徒たちに顔を向けた。
「誰にでも、色々な事情があります。それぞれの家にはそれぞれの在り方があります。どんな形が正しいかなんて、決まっていません。みんな、それぞれの家族を大切にしてくださいね」
言い終えた教師がぐるりと教室を見回すと、驚いたような顔をした生徒が幾人か見えた。その中にあの方の娘もいた。
伝わっただろうか。はっきりと名前を出したわけではないけれど、きっと大丈夫だろう。
英雄になることを望まなかった彼だけれど、その偉業は忘れ去られるべきではないと思うから。
ひっそりと生きる英雄がいるならば、その英雄のことをひっそりと伝えていく者がいてもいいはずだ、と教師は教室を後にした。