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天台宮の門  作者: 徳田武威
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第六章 それぞれの六ヶ月

「これからどうする? 嶽神たけかみ?」

 無人の荒野を見下ろして、真赤な真紅の髪を持つ女性が隣に立つ男に話しかけた。

「む……何だ赤神。決まっているだろう。俺の任務は月の巫女を生涯に渡ってお守りする事だ。それこそが我が至上の喜び」

 筋骨隆々といった感じの男がそれに自信満々に答えた。何を馬鹿な事を聞くと、豪快に笑う。

「ああ、うざい、うざい。汗臭い……あのね。嶽神。言っとくけど私、もう赤神辞めるわ」

「…………」

 女の言葉に嶽神は固まった。

「な、何だって! き、貴様。ぬえ人を封印してこれからだという時に、何を訳が分からない事を言ってるんだ!」

 耳元で怒鳴る嶽神に対し女はうるさそうに耳を塞ぐ。

「だから丁度良いじゃない。ぬえ人は封印されて私はお役御免ってわけよ。私、結構この土地気に入ったわ。あっちこっち旅行したいのよ。この前聞いた砂漠っていうのも見てみたいし、知ってる? 砂漠。海みたいに砂が広がってるんだって」

「知らぬわそんな事は! 貴様は天道の最高戦力の一人という自覚があるのか!」

「有るわよ。そんな物はちゃんと、だからこそ、私は天道の戦士を辞めるの。今の時代に私の力は必要ないからね。まあ、あんたは残りなさいよ。一人くらい月の巫女様守ってあげなきゃ、あの人が可哀想だからね」

 女がからかう様に嶽神の鼻をつついた。

「むぅ……仕方ないな……お前は言い出したら聞かないからな。だが、まあ、確かにお前の言うとおりだ。俺達は戦う為に居るのではない。人々の平和を守る為に居るのだ。その事を久しく忘れていたわ」

「ふふ、あんたのそういう優しい所私は嫌いじゃなかったよ。後は頼んだよ。青神、嶽神」

「うむ。楽しんで来い。オーロラっというのも綺麗だと聞いたぞ。朱雀すざくよ」

 嶽神の言葉に微笑みで答え、朱雀は炎と共に、宙へ消えた……。

「いや、別に術使わんで普通に去れよ。力使いまくっとるじゃないか……」

 嶽神のぼやきは誰に聞かれる事無く宙に消えたのだった――。




(コントロールしようとするのでは無く。意志と炎を一体化させる)

 蘭子は静かに目を閉じる。すると蘭子の周りを取り巻くように炎の渦が天へと上っていった。

「うむ。素晴らしい。やはり赤神の後継者だ。その才は比類ない」

 隣で見ていた三剣が小さく頷いた。それを確認すると、蘭子は炎のイメージを止める。すると炎は自然とその勢いを弱め、やがて消えた。

「どう? 大丈夫だった?」

 玉の様な汗を浮かべながら、蘭子は三剣にそう尋ねる。

「ああ、凄まじいな。とても修行を始めて三ヶ月とは思えない。最早、君に勝てる術者は俺を含めて五人もいないだろう――だが」

 手放しの賞賛だった。しかし、それに反してその表情は優れない。

「だが……それでも高位のぬえ人には敵わない。君は十分すぎるほど良くやっているが、何分時間が足り無すぎる。まだ、自らの器に眠る力の十分の一も発揮出来ていない」

 蘭子は雷鬼と戦ったときよりも、格段に強くなっていた。しかし、それでもまだ、雷鬼にも遠く及ばない事を、蘭子自身が一番良く分かっていた。

「どうすれば、その眠ってる力を使えるようになるのかな?」

「そうだな……私も始めの頃は自分の大きな力に振り回されてばかりだった。だが、力にイメージを与えてからは、力を自由に使える様になった」

「イメージ?」

「そうだ。例えば俺の話しになってしまうが。俺は、千里眼という力を持っている。だが、始めは感覚が掴めず、遠くの物を見たり、近くの物を細かく見たりする事しか出来なかった。だが、この千里眼の使用法を八つに分け、それぞれに名前をつける事によって、技の精度は増し、一つ一つの切り替えも容易になった。例えば……『清浄眼しょうじょうがん

 三剣がそう唱えると、その瞳が青に染まった。

「これが清浄眼。時間を千分の一まで圧縮する技だ。そしてこれが『縄縛眼じょうばくがん』相手の体の自由を奪う技だ」

 三剣の瞳の色が青から赤に変わった。それと共に、蘭子の体がまるで幾多の縄に絞められた様に動けなくなる。

「まあ、こういう感じだな。体系化する事で使いやすくなる力もある」

 三剣が説明を終えるとその瞳の色は元の黒色に戻った。それと同時に蘭子の体に自由が戻る。

「イメージね。でも私そういうの結構苦手だわ。第一、技という技だって無いんだから」

「いや、別に俺と同じ風にする必要は無いんだ。赤神である君の強みは圧倒的な術力だ。だからその力を最大限だせる強さのイメージを描けばいいんだ。例えば、君が一番強いと思う物を炎のイメージに乗せるとかかな」

「一番……強い物……」

(強いって何だろう? 雷? 鉄? 軍隊? ……どれも違う気がする私にとって強い物)

 その時、蘭子の頭に自然と雷鬼と戦っていた憲次の姿が浮かんだ。

(やだ……どうして私…………でも、あの人は私を守ってくれた。男の人に守られたのって生まれて始めてかもしれない)

 自然と顔が赤くなるのを蘭子は感じていた。そしてそれと同時に胸の中が熱くなる様な気がして来た。

(何だろう……守りたいあの人を、寂しそうだったあの人の隣に……)

 蘭子の体から自然と炎が現れた。しかし、その炎は熱を持っておらず、代わりに黄金色に輝いていた。

「お、おおぉ…………」

 思わず三剣は感嘆の声を上げてしまっていた。それほどに練り込まれかつ強大な力だった。

 しばらくするとふわっとした軽い音を残し、蘭子の炎は飛散した。そしてそれは周りの邪気を祓ったかの様に、キラキラと周囲を輝かせた。

「はぁ……はぁ……」

 力を使っていた蘭子が息を切らす。すっきりとした虚脱感が全身を包んでいた。

「凄いな。これならば、雷鬼とも互角に戦えたろう。それにしても何故急にこれほどの力が? 何か掴んだのか?」

 三剣にしては珍しく興奮した様に蘭子に詰め寄った。

「あ、う~ん。掴んだというか……う、うう~」

 憲次の事を考えていたとは言えず、蘭子の返答は歯切れの悪い物となった。

「? いや、何にせよ素晴らしい。これなら次の段階に入れる。次は術を肉体の運用に利用する方法だ……と、その前に少し休憩しようか?」

 三剣が蘭子の疲労に気付いて笑みを浮かべる。すると蘭子は苦笑いを浮かべてそれに頷いた――。

 蘭子が天道に来て三ヶ月が経った。その間ぬえ人達の活動は何故かぴったり止まっており、月に二、三人天道の者に討たれる者がいるくらいだった。蘭子はそんな平穏の中、三剣から戦士としての基礎を学んでいた。体術からその術の使用に至るまで。蘭子はこの三ヶ月間に叩き込まれていた。今では天道での生活にも馴染んでいた。だが……。

「ここはちょっと大げさ過ぎるんじゃないかなぁ……」

 蘭子は部屋を見渡した。その部屋はまるでホテルのスイートルームの様だった。豪華な家具にお姫様が眠っていそうな大きなベット。ドンと置かれたテレビも蘭子の家の物の十倍はありそうな、テレビというよりはシアターと言った方が相応しい代物だった。

 確かに光月はここに来る前に、何でも揃えるとは言っていたが、些か過剰なんじゃないの? と突っ込みたくなるほどの気の遣いっぷりだった。

 更に言うなら天道の者達は皆、大歓迎ムードで、蘭子の事をお姫様の様に大事に扱った。

「何かちょっと疲れるかも」

 しかし、今まで普通の生活をしていた蘭子にとってその環境の変化は心地良い物では無く。寧ろ疲労感をもたらす物だった。それはきっと天道の者が、蘭子自身を見ているのでは無く。赤神としての蘭子を見ている事が分かりきっているからだろう。蘭子はそのまま服を脱ぎ捨てると、下着のままベットにダイブした。クッションの良いベットが蘭子の体を優しく包み込む。

「…………憲次さん。大丈夫かな」

 シーツを手繰り寄せながら蘭子は呟いた。そうして気付く、自分が最近ずっと憲次の事を考えている事に。

「会いたい……」

 そして、蘭子はこの感情を認めていた。生まれて初めてかも知れない。確かに蘭子は憲次に恋心を抱いていた。

(戦っていればいずれまた会える――そんな気がする)

 結局の所、それが蘭子の原動力となっていた。蘭子はベットに突っ伏しながら、まだ見ぬ憲次の事を思うのだった。




「キィシャアアアアアアアアアアアアアア!」

 二足歩行の蟷螂の様な獣が、その両腕についた鎌を振り回した。

 憲次はそれを髪を切らせるような、まさに紙一重でかわす。

「フゥ!」

 そしてがら空きになった脇腹に、空手の山突きを放った。包帯に覆われた腕は、獣の腹部に衝突すると、その筋肉を貫いて、内蔵を飛び出させる。

「キィ……キィ……」

 よろめく獣、その頭部に容赦無く憲次のハイキックが決まり、獣はその命の鼓動を止めた。

「ほう……今のは知能が低い奴じゃが弱くは無いぞ。中の中じゃ。それを力を解放せんで倒すとは……確実に強くなっとるのぉ」

「そうか……実感は湧かないが。何というか、相手の攻撃がコマ割みたいに見えるんだ。その中で自分だけが普通に動けているような感じだ」

「それはお主の反射系数が高くなってるんじゃよ。最早、ぬえ人の中でもトップクラスの反射能力じゃ。それだけ、ぬえ人の力が幾多の戦いを経て、お主の体に馴染んできたのじゃろう。何せ、毎日の様に数多の敵と戦って来たのじゃ。お主のキャリアは天道の歴戦の戦士でも遠く及ばん。これまでの三年の戦いの日々は無駄ではなかったといったところか」

 秋姫が憲次の成長をぶっきらぼうだが、そう評した。憲次は師であり唯一のパートナーである秋姫に頷く。

「秋姫。今の俺なら銀聖とどこまでやれる?」

 率直に憲次は聞いた。秋姫も特に考える様子も無く、明け透けに答える。

「お主が妹を殺された瞬間の銀聖にならば、今のお主なら勝てるじゃろう。しかし、今の銀聖は完全と言っても過言じゃない状態じゃ。更に言うなら、奴は今この瞬間にも恐らく強くなっておる。ぬえ人の中でも最も研鑽を積んできた男じゃからな。言うならば努力する天才じゃ。今の奴に勝つ可能性は限り無くゼロじゃ」

 秋姫の絶望的な物言いにしかし、憲次は眉一つ動かさなかった。その様子はもう絶望的な状況でも決して屈しないという強い意志が感じられた。

「どうじゃ? 復讐を辞めたくなったか?」

 憲次の正面に歩み寄り、試すように憲次を見上げる秋姫。そんな秋姫にコツンと憲次は拳骨を落とした。

「馬鹿いうな……だが、今日は終わりにする。ホテルに戻るぞ」

 微かだが、憲次がリラックスした様な声を出した。この三年間で二人が作り上げてきた空間が唯一憲次を戦いの瞬間から解放していた。

「そうじゃな。早く戻って菓子が食べたい。今日は新作スイーツの発売日じゃからな」

「この間も同じ事言ってたな……そんなにお菓子は毎回発売されてるのか?」

「馬鹿者! こないだのはセブンイレブンじゃろ! 全然違うわド阿呆!」

 結構な剣幕で怒られ、憲次は若干引きながらも秋姫の肩を押さえる。

「分かった。分かった。買ってやるから早く帰ろう」

「うむ。そうするがいい。今日は二千円くらい買うから覚悟するように」

 秋姫の不穏な発言を聞きながら、憲次が戦いの場を後にしようとした時だった。

 カッと一瞬憲次の眼の前が発光し、何も無いはずの空間に亀裂が入った。

「離れろ! 秋姫!」

 憲次が叫び。一瞬で臨戦態勢に入る。訳の分からない現象には反射的に警戒レベルがマックスまで跳ね上がる。それがこの三年間の戦いで得た習性だった。

『パリン!』

 そんな音と共に空間が割れた。いや、実際には割れたというのが正しいのかは分からないが、憲次にはそれ以外の表現が浮かばなかった。

 憲次が冷静な戦士の目でそれを凝視していた時だった。

「あっ……と」

 そんな可愛らしく間抜けな声と共に、トンと憲次の胸に空間から現れた人影がぶつかった。

(なぁ…………!)

 敵ならば確実に憲次が殺されていただろう。だが、もちろん簡単に懐に入られる憲次じゃない。間合いへの侵入を許したのはそれだけの理由がある。

 憲次は拳をその人物の頭上、二センチ程の所で止めながら、その顔、妹の涼香に酷似したその顔を見た。

「き、君は……」

「あ……私ったら、ごめんなさい。まだ術を完璧にコントロール出来て無くて……」

 上目遣いで、恥ずかしそうに笑う光月がそこに居た。

 その顔に相反するように憲次の顔が一瞬泣きそうに歪む。不意に現れたその顔に、涼香が生き返ったのかと夢想してしまった。

「あの……大丈夫ですか? どこか傷めてしまいましたか?」

 光月がペタペタと憲次の体の具合を確かめる様に触る。

「だ、大丈夫だから! や、止めろ!」

 憲次は慌てた様に光月の肩を掴むと、その体を引き離した。

「ご、ごめんなさい……」

 光月は叱られた子供の様にシュンとなった。憲次はそれに罪悪感を感じたが、結局何も声はかけられない。

「で? 月の巫女がたった一人で何の用じゃ? しかも術まで使って。よく許可が下りたな」

 秋姫が見かねた様に光月に声をかけた。光月はそこでようやく自分の役割を思い出したのか、顔を上げる。

「いえ。許可は取ってません。私が勝手にここまで来ました」

「おいおいおい。天道の重要人物が単独行動か? 大丈夫なのか? そんな事して。お主さほど戦闘力は高くないじゃろ? 今頃天道の方は大騒ぎになっとるぞ」

「大丈夫ですよ。書置きして来ましたから」

 ムフーと鼻息荒くドヤ顔をする光月。

「いや、全然大丈夫じゃないじゃろそれ」

 秋姫は天道が今頃大混乱に陥っているのを想像して溜息を吐いた。

「で? 何用じゃ? わしらにマーキングしていた術を使用してまで。よっぽどの非常事態の様じゃが」

「はい。実は……そちらの相模さんとどうしても、もう一度お話したくて」

「……て?」

 先を促す秋姫に光月はコクンと首を傾げる。

「? それだけですが?」

「それだけ! お主は憲次に会う為だけに、術まで使ってここまで来たのか!」

「はい! 連絡先が分からなかったものですから。仕方ありませんよね」 

「……………………はぁ」

 秋姫は疲れた様に溜息を吐いた。それほどに光月の行動は常識の範疇を越えていた。

「良かったら少しお話したいのですが……宜しいですか?」

 光月は遠慮がちにそう言った。憲次はその視線を受けると固まったまま押し黙った。

「そうか。ではわしは外そうかのう。憲次。わしは先にホテルに戻っておる。良いな?」

 秋姫はその様子を見て、自分の出る幕が無い事を悟ったのか、さっさと帰り道を歩き出す。

「お、おい。秋姫」

 珍しく狼狽した様子で憲次が秋姫を呼び止めたが、秋姫はそれを完全に無視して、子供とは思えない健脚でその場から居なくなった。

「………………く」

 後にはもちろん。憲次と光月が残される。憲次は態度こそ無感情に見えたが、その実、胸中では自分でも制御出来ない様々な感情が入り混じっていた。

 光月はそんな憲次にホッとする様な笑みを浮かべると。

「とりあえず歩きませんか? 月がとっても綺麗ですよ」

 そう言って憲次の返事を待たずにゆっくりと歩き出した。その歩みだけで人を緊張から解く様な自然な歩み。

 憲次は仕方無く。その横に並んだ。何故か、そのままバックレてしまおうとは思わなかった。

 しばらく二人で街路樹を歩く。憲次はそこで歩きながら、自分が今何処に居たのかを改めて認識した。今まで形の変化は分かっていても、道は道。木は木。花は花とそれぐらいの感情しか抱かなかった。それなのに光月と一緒に居ると、それらの景色が一つ一つ鮮明に見えた。

『お兄ちゃん。今日ね、桜ちゃんとカラオケに行ったんだ~。あれで桜ちゃん超歌が上手いの。本当に歌手になれそうなくらい。そう言ったら桜ちゃん真赤になって超テレちゃって、可愛かったなぁ~はは!』

(涼香ともこんな風に一緒に歩いた……)

 不意に、涼香の影と、隣を歩く光月が重なった。

「風が気持ち良いですね」

 すると光月が目を細めながら気持ち良さそうにそう口にした。

(な、何を思っていたんだ俺は……)

 光月が喋った事で正気に戻った憲次は、自分が一瞬でも光月と涼香を重ねた事を深く恥じた。

(容姿が似てるだけだ……それだけなんだ……こんな事で心を動かすなんて……俺は……)

「あの……何か悪い事しまえしたか? 私?」

 返事の無い憲次に、拗ねた様に、頬を膨らます。

「い、いや……してない。君は……何も……」

「なら、ちゃんとお話してください。私が独り言、言ってるみたいじゃないですか」

「あ、ああ……すまない」

 すっかり光月のペースに巻き込まれていた。それと同時に、こんな風にはっきりと物を言うのかと憲次は思う。

「相模さん。今日は私、貴方も一緒に戦ってくださいと、お願いしに来たんです」

 光月は憲次の前で立ち止まると、憲次と視線を合わせて言った。憲次はその事ならば前に話した様に断ろうと思っていた。

「でも、今日会って事情が変わりました」

 だが、光月が口にした言葉は憲次の予想していた物では無かった。憲次は若干の驚きを無表情の仮面に隠しながら、光月を見る。

「もう戦うのを辞めてください。憲次さんはもう普通の生活に戻ってください」

 予想もしてなかった話だった。そして、憲次にとって考慮した事も無い事だった。

「私、初めて会った時は大丈夫だと思っていたんです。憲次さんはきっと自らの力をその優しい心できっと制御してくれるって……そう思っていました。けど、今の憲次さんは戦いに呑み込まれています。そうまるで、人間を辞めたがっている様……」

 悲しい目で光月は憲次を見た。そしてその目は憲次の神経を逆撫でした。

「元の体に戻す事は無理ですがぬえ人を宿している箇所は切除する事が出来るはずです。そうすれば、普通の生活は送れるはずです。安心してください。ちゃんと天道が生活のサポートは致します。それに……これ以上貴方が戦い続ければその体は持たない。死んでしまいますわ」

光月の提案は本当の事なのだろうと憲次は思った。自らが戦いを辞めれば、一生不自由の無い生活を目の前に居る少女が提供してくれるのだろうと。

 だから憲次はそれを鼻で笑った。

「論外だな。はは、人間を辞めなくちゃあいつらには勝てないじゃないか」

 憲次の乾いた笑みに光月はぞっとした。生まれてから初めての経験だった。

「だ、だからもう戦うのは辞めてくださいと――」

 光月の言葉は憲次の伸ばした手に遮られる。

「戦いを辞めて不自由の無い生活に? 普通の生活ね……そうか、君はまだ勘違いしてるね。俺はね、もう死んでるんだよ。妹を、涼香を殺されたその時に俺の人生は終わった。今の俺は復讐を果たす為だけにここに居る。俺の存在価値はそれだけだ。今君が言ってるのは、俺にただ生きてるだけの置物になれって事さ。そんなの俺にとっては死んでるのと一緒だ」

 これほど長い言葉を発したのは憲次にとって本当に久しぶりの事だった。

 憲次の言葉を受けて、まるで憲次に殴られたかの様に光月は硬直した。言いたい事はある。しかし、それが言葉にならない。そんな表情だった。

 憲次は光月のその顔を見て会話は終わったと悟った、だから……光月の脇をスッと歩き去る。

 憲次とて、人に話しかけられる事が、この三年間無かったわけでは無い。しかし、人は完全なる拒絶には立ち入れない。それは立ち入ればきっと自分が傷付く事を知っているから。

「君には一生俺の気持ちは理解出来ない。だから早く帰りな。気をつけて……さようなら」

 涼香を傷つけた様な若干の後ろめたさ、それすらも断ち切る様に憲次は歩む――。

 歩もうとした。

 だがその足は、服の肘の部分を握られる事で止められた。

「嫌です……」

 光月だった。憲次の肘を強く握った顔からは涙がボロボロと零れていた。

「絶対このまま返しませんから」

 駄々っ子の様な反応に意外すぎてどんな顔をして良いのか憲次には分からなかった。

「何が俺の気持ちは分からないですか……勝手な事言って……じゃあ聞きますけど相模さんは私の気持ちが分かるって言うんですか?」

 光月の顔は泣きながらも明確に怒りに燃えていた。

「相模さんは知ってますか? 助けなきゃいけない人が目の前にいるのに助けに行っちゃいけない気持ちを。小さい頃から友達ともろくに遊べず、学校にも行けず、世界を守れと言われ続ける気持ちを、どれくらい分かるって言うんですか?」

 鬱憤が今まで溜まっていた鬱憤が光月から漏れ出していた。

「怒りたい時も怒れず、泣きたい時も泣けない。ただそれらしく、私だって生きている置物ですよ! それでも貴方みたいに捻じ曲がってませんけどね! ああ、羨ましい! 憲次さんは怒りたかったら怒って、憎かったら憎んで! 妹さんの死も好きなだけ悲しんで! ああ楽チンな人生ですよ! 羨ましいですよ本当に!」

 衝動的に憲次は光月の胸倉を掴んでいた。光月の言葉は自分の今までの歩みを馬鹿にする様な物だったから。しかし、光月は憲次に胸倉を掴まれながらも、憲次への攻撃を止めない。

「ほら! 直ぐに怒った! いいですよ。私を殴りたければ殴っても! でも絶対この手は離さない。離したかったら私を殺しなさい! 馬鹿にしないでよ! 殴られたら大人しくなると思わないでよ! 私はお姫様なんかじゃない! 大嫌いよ! 貴方みたいにウジウジしてる人なんて!」

 最早子供喧嘩の様だった。そして怒ったその顔は――。

 憲次は振り上げかけていた拳をダランと垂らした。何と言うか毒気を抜かれた。参った。激切れした女の子の涙にここまで威力が有ろうとは憲次は苦笑するしか無かった。

(いや……それ以上にこの子は……)

 もう隠す方が不自然だった。憲次は認めた。顔だけじゃないこの子は心根まで涼香にそっくりだと。何も感じずにいれるはずの無いのだと悟った。

「悪かったよ」

 だから憲次は光月の頭をあやす様に撫でた。涼香にしていた様に、優しく、自然に。

 憲次の突然の行動に、光月は怒った顔も忘れ、キョトンとした顔を浮かべた。それは憲次にとって、かなり笑える物だった。勿論、笑うような事は無かったが。

「君を傷つけた事は謝る。君の気持ちも確かに俺は分からない。だから泣き止んでくれないか? 俺の負けだ。もう君を泣かす様な事は言わない」

 久しぶりに人間らしい言葉を発した様に憲次は感じていた。そんな憲次の言葉を受けて、コクンと小さく光月は頷くと、その手を離して、服からハンカチを取り出して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭いた。

「あの……私、ごめんなさい」

 そして、真っ赤になった顔で憲次に謝る。自身、今までこんなに感情を爆発させた事が無かったのだろう。耳まで真っ赤になった顔は視線が泳いでいた。

「いいよ。別に」

 まだ感情は上手く表せないが、自然な、昔の口調で憲次は言う。

「でも、俺は戦いを辞められない。もし、ここで辞めてしまったら、妹への気持ちも嘘になってしまう気がするから。だから、邪魔はしないで欲しい。俺を止めないで欲しい」

 憲次は静かにそう言った。これだけは譲れない想いだから。

 光月は俺の言葉に頷きかねた。だから代わりに自らも言葉を発した。

「分かりました。相模さんの戦いは止めません。その代わり私達にも協力させてください」

「協力?」

「はい。今は恐らく秋姫様の呪印で体を調整しているのでしょ? その包帯を見れば分かります。だからそれに私の術も付加したいのです。私は攻撃には向きませんが人の細胞を活性化させる術を使えます。人としての力を強くすれば、ぬえ人の力を使う比率も減るはず。それだけで、体の負担も違うはずです。更に天道の術の基礎を少し学べば、術は使えないでしょうが、気を自らに蓄える術も得れるはずです。確かに戦いを積む事が一番近道かもしれませんが、修行さえ積めば、強くなれるはずです。だから、私達と一緒に戦ってください」

「………………」

 憲次は光月の提案に少し思案した。憲次に引っかかっていたのは魔境の言葉。

『天道の連中も、表は綺麗だが裏は腐りきってやがる』

 恐らく魔境の言っていた事に間違いは無いのだろう。嘘を言っている様には見えなかった。

 だが、目の前に居る無垢な少女が何かを隠している様にも見えなかった。そして、さっき光月は確かに言った。助けなきゃいけない人が目の前にいるのに助けに行っちゃいけない気持ちが貴方には分かるかと。

 この言葉を言った光月を信じれないなら、自分はもう化け物ですらないのだろうと憲次は思った。そして、これは涼香を守れなかった自分が自らにする最後の願い。

(この子を戦いの輪から解放する)

 憲次は静かに決意した。自分はもう堕ちる所まで堕ちた。これからも下っていくだけの人生だと。ならば、その前にこの少女をその輪から救ってみせる。

「分かった。一緒に戦うというのはまだ承知出来ないけど。一緒に天道に行くよ。君の力を貸してくれ」

「本当ですか?」

 光月が感極まった様に両手で口を押さえた。それに憲次は頷く。

「だけど、一回ホテルに行ってもいいかな? 秋姫が多分怒ってる」

「はい。それは構いません! では行きましょう。ご一緒します!」

 そう言うと光月は憲次と手を繋いだ。

「…………あの……何?」

「いや……手を離したら何処か遠くに行ってしまいそうだから」

 どうやら手を離す気は無いらしい。手を握ったまま、光月は子犬の様な目で憲次を見た。

「ふ、信用ないね」

 憲次は特にその手を振り払う事無く。逆にそっと握り返した。それに光月が一瞬目を見開いたが、直ぐに堪え切れ様にハニかんだ。

 二人はホテルまでの道を歩いた――。

「随分仲良くなったんじゃな」

 憲次と光月の様子を見ると秋姫は嫌味ったらしくそう言った。

「秋姫。これから天道の所に行こうと思う」

 憲次は前置きも無く用件だけを口にした。すると秋姫の顔が若干不機嫌そうになる。

「なんじゃ? こんな小娘に垂らし込まれたのかい? だらしないの~。そんなに妹が恋しかったか? 何だったらわしがお兄ちゃんとでも呼んでやろうか?」

 情け容赦ない非難の連続だった。憲次の隣に居た光月が居心地の悪そうに身を竦めてしまうほどの態度だった。

「そうだな……確かに、俺は妹恋しいだけの男だよ。だからあっさりこの子に懐柔されちまった。無関係に思えないからな。涼香を守れなかった俺の慰みなんだろうこれは。チャラにはならないけど、この子を助ければ、ちょっとはマシになる。それだけの為に俺は天道に行くんだ。だから秋姫。それが気に入らないなら、お前はここで俺を見捨てて良い」

 憲次が揺ぎない口調でそう言うと、秋姫は拗ねた様にソッポを向いた。

「でもな、秋姫。俺はお前が一緒に居てくれたからここまで来れた。だから例えお前がどうしようとお前には感謝してる。俺を生かしてくれてありがとう。三年間一緒に居てくれてありがとう」

「ありがとう……か。何じゃ憑き物が落ちたような顔しおってムカつくのぉ。用が済んだらわしなんてお払い箱か、この恩知らずめ」

「いや……そんなつもりは……」

「馬~鹿! 馬鹿! わしも一緒に行くわい。こんなひょっとでの小娘に玩具を取り上げられるのを黙って見てるわしでは無い。一緒について行くからな!」

 秋姫がぽかぽかと憲次の胸を叩く。可愛らしい行為だが、その威力は常人ならば肋骨が粉砕してるであろう威力であった。

 憲次はぐしゃぐしゃと乱暴に秋姫の頭を撫でた。秋姫も抵抗せずされるがままにされていた。

「ふん。では行くか。光月よ。案内せい。ちなみにわしの主食はケーキじゃから、そこら辺気をつけるように」

「分かりましたわ。秋姫様」

 光月は二人の遣り取りが無事終わったのにほっとした笑みを浮かべる。

「では行きましょう。私の術で天道の総本山にご案内します」

 光月は祈るように手を組んだ。すると目の前の空間がひび割れた様に亀裂が走る。

「ふむ。見事じゃ。簡単にやっておるが、空間を操る術は制御が難しい。ひょっとしたら銀聖も使うかも知れん。憲次よ良く見ておけ」

「ああ、この術を敵が使ってきたとしたらどう対処すればいい?」

「いや、そんな……対処とか無理じゃよ? 気配とか無いから。完全なる不意打ちじゃから」

「…………」

 憲次は黙ったまま秋姫を見た。秋姫は何を言ってんの? こいつはといった顔で見返す。二人の間に大きな溝を感じた瞬間だった。

「空間が開きました。私に続いてついて来て下さい」

 光月が憲次達を先導する為に先に異空間に入ろうとした時だった。

「わし一番~」

 秋姫がすると光月の脇から入り込む。

「あ! 駄目ですよ秋姫様! 座標の固定が!」

 予想外だったのだろう。追いかける様に慌てて光月も異空間に入る。

「……………………ふう」

 取り残された憲次は呆れた様に溜息をつくと、その後に続いた――。

「光月様!」

 切羽詰った様な声の三剣に、憲次達一行は迎えられた。

「あら、三剣さん。ただいま帰りました。相模さん達も一緒です」

 光月がそれとは対照的にゆっくりとした動作で応じた。

「心配しました! あんな置手紙一つで、どうして私を呼んでくださらなかったのか!」

 三剣は珍しく怒っている様子で厳しい口調になっていた。それに光月は困った様に頷く。

「直ぐに帰ってくるつもりだったので……それよりも、御三家様にこれから会いに行きます。良かったら、三剣さんも来て下さいますか?」

「は? いや、それは……急過ぎるのでは? 正式な手続きを踏まなければ御三家は気分を害されるでしょう」

「気分を害する?」

 その発言に気分を害したかの様に光月の目に剣呑な色が灯る。

「気分を害するのはこっちの方です。世界を救う為に我々は動いています。座して動向を見守るだけの人達にとやかく言われる筋合いはありません」

「こ、光月様?」

 いつもと違う様子の光月に、正直言って三剣は圧倒されていた。

「何かお主悪影響与えてない?」

「……どうかな?」

 そんな様を傍目で見ていた憲次と秋姫は完全に我関せずだったが。

「こちら相模さんと秋姫様。ご紹介は不要ですね。では参りましょう。三剣さん。ついて来るか来ないかは貴方が決めてください」

 光月の言葉に驚きながらも、三剣はスッと頭を下げる。

「我が主は光月様ただ一人、誰に付いて行くかなど初めから決まっております」

 三剣は最早、迷わなかった。主が迷わないならば、自分が迷う理由は無い。三剣の信条は光月の為に一振りの剣であり続ける事だから。

 光月を筆頭に、憲次、秋姫、三剣の四人は御三家の神殿へと向かった――。

「御三家様。お話が有って参りました」

 光月は神殿の中、誰も居ない空間に向かって声を上げた。居なくてもいる。それが御三家達だった。

『何だ? 月の巫女』

 反響する様な三人の声。それと共に、空席だった座布団に既に三人の老人の姿があった。

「はは。妖怪じじい共がまだ生きておったか」

 秋姫が三人の老人を見て、可笑しそうにクスクスと笑う。

「御三家様。こちらに居るのは皆今回の戦いに関係のある者達です。問題は無いでしょう?」

「問題は有る」

「それは天道の秩序」

「三剣はともかく、他の者は著しく秩序を乱す」

「秋姫よ。お主は天道に関わらぬという契約だったはず」

「更に言うなら、そこの男。ぬえ人の気配がするぞ、悪しき物をその身に宿している」

 三人の老人の目がぎょろっと一斉に憲次を向いた。その目を憲次は涼しい顔で受け止める。

「一つお聞きしたいのです。御三家様。今回の戦い。貴方がたはどういった思いで戦っているのですか?」

 光月は全ての思惑を遮ってそう口にした。すると憲次に向いていた視線が、全て光月に向く。

「無論、天道の安定を守る為の戦よ」

「天道が民を導く。故に天道さえ揺るがなければ問題ない」

「お前もそう教えられて来た筈だぞ光月」

 御三家の言葉を受け、光月が強い視線を返す。

「では……導くべき民の身は、守るべき対象には入ってないと?」

「無論。簡単な話だ。一時的に民が減っても、我らが揺るがねば、世界の平穏は守られる」

「民の事など、敵を殲滅してから考えればいい事」

「千年先の平和を望むならば、現在における多少の犠牲はやむ終えない」

 御三家は言い切った。そこに迷いなどはまるで無く。ただ、脈々と続いたシステムを守ろうとする意志だけがそこにはあった。

「そうですか……」

 光月は呆れた様な深い溜息を吐いた。

「ならば、もう貴方達の指示には従えません」

 上げた顔と共に、光月はきっぱりそう宣言した。

『何?』

 声が重なる。それに光月は毅然として答える。

「私はもう目の前の命が散っていくのに耐えられない。それに、目の前で苦しんでいる人が居るのに、平然と見過ごして、千年後に例え平和が訪れても、きっと誰も笑えない。犠牲の上に成り立つ正義では誰も幸せになれないです」

『それは天道の今までの行いを否定することぞ』

「ええ、構いません。私は否定する。これまでの天道を。そして私が変えてみせる。もう誰一人だって涙を流したりしない世界を作ります。それが月の巫女である私の本当の使命です!」

 凛と清浄な気が室内に流れる。憲次はその風を心地よく感じていた。

『………………』

 御三家が完全に沈黙した。しかし、しばらくすると再び一人が口を開いた。

「月の巫女よ。お前が出した答えなら」

「それが天道の総意」

「好きにするが良い。我等はいつだって黙って見守るのみ」

 しわがれた声が遠ざかっていく代わりに、御三家の方から小さな玉が転がって来た。

「使うが良い。紅玉を、我等が最後の秘宝。戦うと決意したのならば、必要であろう」

 その言葉を最後に、幻の様に御三家が消えた。光月は転がって来た玉を手に取る。

「これは……紅玉こうぎょく

 真っ赤に光る玉を手に取り、光月が呟く。その赤はまるで見る者を引き込む様な魔性を放っていた。

「じじい共にも多少の心が有ったという所じゃろ。まあ切り札も手に入ったし良いじゃろ」

 秋姫の言葉に光月は深く頷いた。

「ええ、これで本当に天道にも全戦力が揃いました。では行きましょうか」

 憲次達は光月の先導で神殿を出る。光月は神殿から少し離れた場所で口を開く。

「とりあえず。相模さんと秋姫様のご用意しましたからご案内しますわ」

「別にわしは憲次と一緒でいいぞ? 今までそうして来たしなあ?」

「うん。別に構わないけど」

「! いえ、そういうわけには。部屋は余っていますから使ってください!」

 憲次達の様子にぎょっとしながら、光月は半ば強引に二人を引き離す。

「そ、それでは行きましょう! きっとお二人とも気にいってくださいますから!」

 慌てた様子の主を見ながら、三剣は部下にどう説明しようかと頭を悩ますのだった――。

「何か外が騒がしいね」

 蘭子は自分の髪をセットしてくれる。侍女に声をかける。侍女と言っても、主従関係を好む蘭子ではないのでお互いにフランクである。

「ああ、この地に珍しく来訪者が来たんですよ。それもかなり変わった方が。

 侍女である女性はあまり外の事よりも蘭子の髪の毛に夢中であった。

「へ~それどんな人?」

「ああ、言っても分からないかも知れないですけど、一人は小さい女の子で、もう一人は腕を包帯でグルグル巻きにした男の人です」

「! それ何て名前の人!」

「? ……確か……秋姫ちゃんと……相模さんだったかしら? 何でも男の方は化け物憑きらしいですよ。天道がそんな人を招くなんて珍しいです。光月様が連れて来たらしいだけど、光月様も急に居なくなって何をしてるんだか……」

 憲次と聞いた時から蘭子の目の色が変わった。

「ちょっと、美佐子みさこさん」

「はい?」

 侍女である美佐子は突然呼ばれて首を傾げる。

「私を光月ちゃんより可愛くして、今すぐ」

 ともすれば冗談に聞こえそうな台詞だが、蘭子の目は全く笑っていなかった。

 ゴクッと美佐子はそのプレッシャーに唾を飲み込んだ。そして、直ぐにこれが色恋沙汰だと悟った。

「ほ、本気なのね。蘭子ちゃん」

「勿論。私はその為にここに来た」

「わ、分かったわ……」

 美佐子は携帯を取り出すと、あちこちに電話をかけだした。

「ちょっと、今すぐ来て頂戴。フル装備で、仲間に声をかけられるだけかけて……馬鹿、何をする気だって? 女の戦場が今ここにあるんだよ! 早くしな!」

 ――十分後。

 蘭子の部屋には総勢十人の侍女達が集まっていた。

「蘭子ちゃん。最強の布陣だよ。これだけ揃えば、シンデレラだってお姫様にしてやれる」

「美佐子さん。ありがとう!」

 スタイリストにヘアー、メイク、エステティシャンと天道の美の巨匠達がそこには居た。

「じゃあ早速やりましょうか。一時間くらいかかるけどいいわね?」

「はいお願いします」

「じゃ、みんなスタンバイ。東洋の気功と西洋の美容を組み合わせた天道の技術、存分に振るいなさい!」

『はい!』

 美佐子の号令で全員が群がるように蘭子に向かって行った。それは正しく戦場の様な有様だった……。

 ――それからきっかり一時間後。

「ふぅ……ふぅ……さ、さすがに疲れたわ。本気の気功を使ったのは五年ぶりよ」

 げっそりとして五年は老け込んだような顔をした美佐子が終了を宣言した。その周りには何をしたらこうなるのか、疲れ果て大の字に寝転ぶ美の巨匠達が居た。

「よっこらしょ。ほら、蘭子ちゃんこっち来て、一緒に鏡見ましょう」

 美佐子に連れられて、蘭子は鏡の前まで移動した。

「わぁ! な、何これ!」

 鏡を見て蘭子は悲鳴を上げた。だがそれはネガティブな物では無く嬉しい歓声だ。鏡に映ったその姿。自分で言うのも何だが見た事も無いような綺麗で清楚な女の子がそこには居た。

 そしてそれは紛れも無く自分。お姫様しか着なさそうな私服を完璧に着こなしている自分の姿が鏡に写っていた。

「ふふ、素材が良いからね。自信を持って言える。今の蘭子ちゃん。世界で一番可愛いよ」

 美佐子が震える手でグッと親指を立てた。周りには先ほどまで倒れていた巨匠達が一緒に鏡に写る蘭子を見ていた。

「うっ……ありがとう皆」

 蘭子は自分のあまりの変貌ぶりに涙が出そうになった。女性は誰でも綺麗になりたい物。その夢が今完全に実現していた。

「駄目よ! まだ泣いては駄目!」

 しかし、それを険しい顔で美佐子は嗜める。

「化粧が落ちるわ。目蓋も腫れる。だから泣いたら駄目。泣くなら、好きな人の心を奪ってからにしなさい」

 何もかもお見通しと言ったように、励ますように美佐子は蘭子の肩を強く叩く。

「はい……ありがとうございます」

 蘭子はそれに照れたように頷く。

「蘭子ちゃんここに来てからずっと修行漬けだったわね。私達いつも頑張ってる蘭子ちゃんを見てたわ。でもね、年頃の女の子なんだから、世界と同じくらい恋愛も大切なのよ。だから今の気持ちに真っ直ぐ誇りを持ちなさい」

 蘭子はその言葉に再び泣きそうになるが、ぐっと我慢する。

「そ、そんな事言われたらまた泣きそうになっちゃうよ」

「うんうん。じゃあ早く行きなさいよ。愛しの彼が待ってるんだから」

「うん。じゃあ行ってくるね」

 蘭子は最後に全員に対してお辞儀をすると待ちきれない様に駆け出した。

「若いっていいわね~」

 その背中を見守った美佐子がうっとりとした様子でそう言うと。

「でも大丈夫何ですかね? 化け物憑きの人を天道の赤神が好きになるって」

 一人がそんな事を言ったので、美佐子は腕を組んでうんうんとしばらく考える。

「別に良いんじゃない? 許されざる恋って感じでなんか燃えるじゃん」

『…………』

 全員がそれに一瞬無言になる。

「確かにいいかも」

 しかし、一人がそう言うと皆が深く頷いた。

「あ、そう言えば花より団子のDVD買ったんだけど見る?」

『見る~』

 美佐子の提案に全員が手を挙げて賛同する。

 深い事は考えない者達であった――。

「ここの敷地内にある者は全て自由に使ってください。何か欲しい物があれば、侍女の方に、外出する時は結界を張っているので声をかけてくださると助かります」

 光月は総本山の説明を簡単にした。秋姫と憲次は黙って聞いていた物のリアクションが少ない為、いまいち反応が分かり辛い。

「それじゃあお疲れでしょうから、今日はこれくらいにしておきますか?」

「うむ。そうするが良い。とりあえず、明日までにわしの部屋の冷蔵庫にプリンを入れられるだけ入れておくように」

 偉そうな秋姫の態度を微笑ましそうに見ると、光月がその視線を憲次に向ける。

「今日はその……色々とすみませんでした。お、お休みなさい」

「お休み」

 憲次は特に気にしていなかったのだろう。軽く返事を返すと部屋のソファーにすっと座った。

 光月はその無愛想さにクスッと笑って、憲次に貸した部屋から出ようとした。

『コンコン』

 するとその時、遠慮がちにノックの音が響く。

「はい。どなたですか?」

 ドアのすぐ近くに居た光月が返事をする。するとノックした本人がびっくりした様な声を上げた。

「え! あ、光月ちゃん居たのね。あの……憲次さんに挨拶したいんだけど? 居る?」

「あ。いらっしゃいますよ。相模さん。蘭子さんです。開けても宜しいですか?」

「……好きにしてくれ」

 憲次はソファーに座ったままそう答えた。多少距離が縮まったとはいえ、この三年で構築された無愛想は相変わらずだった。

「どうぞ。入っても良いそうですよ」

 光月がドアを開ける。すると、顔を恥ずかしそうに俯かせた蘭子が居た。

「え! なんですか蘭子さん! すっごく可愛い!」

 変身した蘭子の姿を見て、光月がはしゃいだ様に大きな声で驚いた。

「ちょ、ちょっとね。あのお邪魔します」

 蘭子はおずおずと部屋に入った。憲次は特にソファーから動く様子が無かったので、必然、蘭子が憲次の正面に立つ事になった。

 憲次は視線を上げる。普通の男性なら誰もが振り向く美貌の持ち主になった蘭子だが、憲次は特に何かを感じた様子も無く。蘭子の言葉を待っている様子だった。

 それに蘭子は若干がっかりし、心が折れそうになるが何とか気持ちを持ち直して口を開いた。

「あ、あの、この前の事お礼を言いたくて! この間助けてくれてありがとうございました」

 バッと優雅な服装とは対照的に勢い良く蘭子は頭を下げる。

「いや……俺が勝手にやった事だから礼なんて言わなく良いよ」

 憲次はそう言うと再び視線を落とした。もう話が終わった物だと思っていた。

「そんなわけにはいきませんよ! 私は、私がこうして生きて、お母さんとも分かり合えたのは憲次さんのおかげなんですから!」

 蘭子は憲次を下に見るような事を憲次が言うのも嫌で何故か怒鳴ってしまっていた。

 憲次はそれに目を見開いて驚くと、直ぐに小さく笑った。

「全く。今日は本当に女の子に良く怒られる日だ……とりあえず座ったら?」

 強制するでなく、自然に憲次は自分の対面のソファーを勧めた。蘭子は勧められると椅子とりゲームをしてるかの如き勢いでソファーに座る。

「あ、あの改めて、私、九龍蘭子って言います。よろしくお願いします」

「相模憲次」

 憲次は端的に答えた。まるでそれ以外自分のプロフィールが無いようだった。

「あのお久しぶりです……元気したか?」

「まあ、それなりには」

(元気か……縁遠い言葉だな)

 常に命を懸けて戦う憲次に、元気かどうかはあまり意味を成さなかった。あるのは生か死かただそれだけだった。

「そ、そうですか……わ、私も、ここに五ヶ月間くらい居て、ここで修行して、もう結構自在に炎が扱える様になったんです。これなら憲次さんと一緒に居ても足手纏いにはならないくらい強くなったはずです」

「? そうか……大変だったね」

 はなから一緒に戦う気の無い憲次の返事はあやふやな物だったが、興奮していた蘭子にはその意図は伝わらなかった。

「だ、だからあの……一緒に居させてください! あの日の恩返しをさせてください!」

 懇願だった。その必死の表情からしかし憲次は目を逸らす。

「いや……悪いけど。恩はなんて感じなくいいよ。俺は誰とも一緒に戦おうと思っていないしね。ここに来たのだって体を調整しに来ただけなんだ」

 それは憲次からの拒絶だったが、蘭子は諦めなかった。

「なら、なら一緒に戦わなくてもいいです。ただ私も一緒に連れて行ってください!」

「何故そこまで一緒に居ることに拘るんだ? 俺に何か用があるなら今聞くよ」

聞き分けのない子供の様な蘭子にさすがの憲次も溜息を吐きながらそう言った。すると、蘭子は一瞬声を詰まらせながらも叫んだ。

「好きなんです! 一緒に居たいんです! ただそれだけなんです! なんか良く分からないけど一目惚れって奴だと思います! 助けて貰ったあの日からずっと好きです!」

 突然の告白に素の表情を浮かべる憲次。秋姫も光月も、驚いた様に蘭子を見ていた。

「いや……ちょっと君が何を言ってるのか良く分からないと言うか……困るな。俺は今そんな事に気を取られてる時間は無い」

 憲次としては至極真っ当な事を言ったつもりだったが、それは蘭子にとって聞き捨てならないものだった。

「そんな事って何ですか! 私はその為に今まで頑張って来たんです! 憲次さんが今、どんな状況なのか分からないですけど、私だって真剣なんです!」

(何を言ってるんだ……そんなくだらない事の為に戦うって……そんな理由で命を懸けられるのか?)

 憲次にとって蘭子の思考は完全に理解不能だった。その為、どうしたらこの話に決着をつけられるのか、答えが出せない。

「ふ……初代の赤神にそっくりじゃな。あやつも自分の感情のままに動く奴だった。感情の前では理屈は二の次。炎を使う者はそれくらい激情じゃなきゃならないのかも知れん」

「そうですか……ふふ、私とは違う。蘭子さんが羨ましいです」

 光月と秋姫は、憲次と蘭子の遣り取りを見ながら、お互いに笑う。

「いや、でも俺は誰とも一緒に居る気も無い。君も俺みたいのを好いても時間の無駄だ。もしそれが戦う理由なら。直ぐに辞めて普通の生活に戻ったほうが良い」

「嫌です! この間あった時からずっと秋姫ちゃんとは一緒に居るじゃないですか! 不公平ですよそんなの!」

「ふ、不公平? いや秋姫は俺のパートナーだ。秋姫が居ないと戦いを続ける事が出来ない」

「じゃあ私もパートナーにしてください!」

「き、君は本当に何を言ってるんだ……」

 二人の遣り取りはそれからも続いた。蘭子も何故か意地になっていた。いつもはこんなに粘る事も無いのだが、それでもこうしているのはきっと。

(この人を放っては置けない……)

 初めて会った日に見せた憲次の悲しげな瞳を忘れられなかった。

 そして二人は最早言葉も無く睨み合っていた。どっちも自分の意見を譲らないといった決意の様な物があった。

「ちょっと話があるのですが……宜しいですか?」

 そんな二人の間にするっと光月が入ってくる。光月は二人の視線が自分に向いたのを確認すると、微笑を浮かべた。

「このお話は明日しようかと思ったんですが。お二人ともいらっしゃるし、丁度いいから今、ここでお話してしまいますね」

「話って何?」

 蘭子は不思議そうな顔で光月を見た。何か現状と関係のある事だろうかと蘭子は考える。

「はい。ぬえ人との戦いについてです」

「ん?」

 意外と真面目な話だったのに驚いて、蘭子は身構えた。

「この六ヶ月間。殆どぬえ人達の姿が見えませんでした。しかし、先日ようやくぬえ人達の現在地を発見しました。その中にはもちろん銀聖も居ます」

 憲次は静かに目を閉じた。そして自分に確認する。まだ殺意は衰えていないかと。

(まだ……あの日のままだ) 

「この六ヶ月間、銀聖は城を作っていたようです。その名も骸城。銀聖独自の術が練られていて、かなり強固な城になっています。恐らく銀聖はもう隠れるのをやめて、私達との全面戦争に備えているのでしょう。天台宮の門という弱みがある以上。長引けば私達にとって不利になります。だから危険を承知で天台宮の門が開く前に戦いを挑みたいのです」

「しかしのう……銀聖を倒した所で天台宮の門が開かれるのには変わりが無いのじゃろ? その辺どうするじゃ?」

「そうですね。秋姫様の言う通りです。確かに銀聖を倒した所で全てが解決するわけではありません。しかし、最悪なケースは銀聖が復活したぬえ人を統率するという事です。ただでさえ、今なお封印されているのは凶暴でぬえ人の中でも一騎当千のツワモノ達です。仮にそれらが統率の取れた軍隊になったら、もう人間に勝ち目はありませんからそれだけは阻止しなければなりません。仮に銀聖を討てれば、後は世界中の退魔師と協力しながら、ぬえ人の対策をしていけば良いと考えています」

「初めからそういった人達と手を組んで戦えば良いんじゃないの?」

 光月の台詞に蘭子が当然と言えば当然の疑問を投げかけた。しかし、それは光月に苦い表情を浮かべさせる。

「私も出来ればそうしたいのですが……他の退魔師の方もぬえ人だけには構ってられないと、更にいうなら天道はその存在を世間から秘匿していますから、あまり他の方の覚えも良くないんです。協力は得られません」

「そうなんだ……」

「だけど、今回は人数がいても駄目です。恐らく銀聖は天道が全勢力を上げて攻め込んで来ることを想定しているはずです。だから必ず、そういった物に対応する策があるはず」

「ふむ。そうじゃろうな。して、どうするつもりじゃ?」

「ええ、ですから、少数精鋭の奇襲を仕掛けようと思います」

「奇襲か。まあ悪くないわな。しかしどうやって? 相手もそれくらい警戒しておるじゃろ」

「そうですね。だから私の空間移送術を使います。これなら任意の場所に移動出来ますから。これで、敵の内部まで一気に入り込みます。しかし、この術には致命的な欠点があります」

「欠点?」

 蘭子が首を傾げると光月は首を縦に振る。

「この術は術力の消費が激しいのです。ですから、一度に移動出来る者は少ない。相手にマーキングをしてあれば座標が固定されているので楽なのですが、それも今回はありませんから、一度に移動出来るのは私を含めて五人が限界でしょう」

「五人……でも、結構行けるんだね」

「ふふ、そうでしょうか? 蘭子さん。ちなみに今、骸城に居る兵士は確認出来ただけでも五百は居ましたよ」

「ご、五百……」

 光月の言葉に蘭子は青ざめた。雷鬼の様な者が侵入出来る人数の百倍いるというのだから、戦力差は絶望的だった。

「ですから、最高の五人で挑みたいのです」

「ほう……最高の五人とは?」

「はい。移送術を使う私、青神の三剣さん赤神の蘭子さんそして……秋姫様と憲次さんです」

 光月は全員の顔を見渡しながらそう言った。しかしその顔は言葉ほど優れていない。

「勿論。この作戦は危険が伴います。私が死ねば帰りの術は使えませんし、戦いも先ほど言った様に命懸けになるでしょう。ですから無理強いはしません。蘭子さんも憲次さんも秋姫様も、もし嫌なら、嫌と言って貰って構いません」

 光月の言葉に重い空気が流れる。しかし、そんな中、一番最初に口を開いたのは憲次だった。

「願っても無いな。銀聖の元に送ってくれるなら。何なら俺だけ送って、君はそのまま逃げればいい。俺は帰りの便なんて用意して貰わなくても結構だ」

「ふふ、お主が行くなら行かぬわけにはいかぬな。ちゃんと見届けてやらんとな師匠として」

 踏ん反り返ったまま秋姫が憲次に追随する。これで二人しかし蘭子は座ったまま俯いている。

(どうして……体が震える……)

 蘭子の体は意図せず震えていた。雷鬼の時に感じたリアルな死。それが今無意識に蘭子の体を縛っていた。如何に強くなろうと赤神としての才を受け継ごうと……蘭子はまだ十七歳の高校生に他ならなかった。

「やめておけ」

 小さいが良く響く声だった。震えて自分の殻に入り込んでいた蘭子が顔を上げてしまうほどの、淡白だがどこか優しい声だった。

「君は良くやった。もう十分だ」

 憲次はそう続けた。責めるでもなく本当に蘭子の事だけを考えた言葉だった。だから、蘭子の胸にもスッと染み込んだ。

(憲次さん……自分も死ぬかもしれないのに……私の事を……)

 不器用な憲次の優しさを感じ、蘭子は胸が温かくなるのを感じた。

「私も……行くわ」

 ソファーに座ったままだった蘭子が立ち上がる。そこには先ほどまでの震えは無く、ただ凛として堂々とした少女の姿があった。

「いいんですか? 蘭子さん。本当に死ぬかも知れませんよ?」

「ふふ、死なないわよ光月ちゃん。皆で生きて帰る。もちろん憲次さんも。その為に私の力が必要なら思う存分使って頂戴」

「…………皆さん。ありがとうございます」

 光月は深く頭を下げた。それしか命を懸けて戦う者に出来る事はそれだけだった。

「月の巫女としてでは無く私個人としてお礼を言わせてください。ありがとうございます」

 光月もまた決意を込めた目で全員を見た。これで全員の意思は決まった。

「では決行は一週間後。皆さん準備をしておいてください」

「うむ」

「うん。分かった光月ちゃん」

「………………」

 三者はそれぞれの態度でそれに応じた――。




『ジャキン……ジャキン……』

 金属が擦れ合う様な鈍い音が森の闇に響く。だが音に反してその音を発する者の気配は酷く希薄だった。

『ジャキン……ジャキ……』

 その音がピタッと止まる。この音を発していた人物が止まった為だ。

「何か用か? そこの男」

 どこか艶のある声が森に響いた。その声の持ち主は鎧を着込み、静かな視線を闇に向ける。

ぬえ人三柱が一人華秦の姿がそこにはあった。

「たくよう……いつまで待っても隙が出来ねえじゃねえか面倒臭いから出てきちまったよ」

 レゲエファッションに身を包み現れたのは、妖籠会幹部の魔境。

「何か用かと聞いているんだが?」

「はは、用か? まあ野暮用だが、華秦さんよぉ。お前みたいな重要人物が一人でうろちょろしていいのかい?」

 頭に巻いたタオルの位置を調整しながら魔境が尋ねる。

「関係ないな貴様には」

「はは、関係ないねぇ……随分悠長なもんだ。ま、折角だから用件を言っておこう。華秦よ。今ここでお前を狩らして貰う事にした。こんなチャンスを逃すのは勿体ねえからな」

「ふぅ……私を狩るか。少しは出来る様だが私に勝てるつもりか?」

「余裕だ馬鹿。余裕過ぎてちょっと戸惑ってるくらいだ」

 魔境が手を高く挙げる。華秦は構えもせずそれを見ていた。

「それじゃ。まあさようなら」

 魔境が手を振り下ろした。

『パスン!』

 乾いた音と同時に、無数の対戦車様ロケットランチャーが華秦の体に目掛け飛んでいく。それはとてもかわせる様なものでは無く。華秦に激突し爆発した。

「お、ちち……」

 魔境が蝙蝠の羽を広げて爆風からその身を守る。

「やべえ警戒しすぎた。完全に木っ端微塵だろこりゃ」

 煙幕が巻き起こる中、魔境は満足そうに頷く。しかし――。

「この程度で私を倒せるつもりか?」

 煙幕から聞こえる平静な声。それと共にブン! と剣を振る音が響いた。

 その一振りは立ち込めていた煙幕を一気に振り払った。華秦は剣を薙いだままの姿勢で魔境を睨んでいた。

「ははは、まあ、予想以上にタフだな。ぬえ人でも普通無事じゃ済まないんだが……だが、お前が予想以上というのは予想していた」

「ふむ。まだ策があるのか?」

「当たり前だ。ぬえ人三柱の一人を殺す切り札がロケットランチャーだけのわけねえだろ。こっからが切り札だ」

 再び魔境が手を挙げる。すると華秦を囲むようにして数人の人影が現れた。

「これが俺の切り札。R1シリーズだ」

 魔境が切り札と呼んだ集団は何というか取り留めの無い集団だった。背格好も年齢も性別もバラバラ、唯一着込んだボディーアーマーを除けば大よそ繋がりの見えない者達だった。

「何だこいつらは? 普通の人間では無いか?」

 華秦が不審な目でその集団を睨む。

「ふふ、まあ普段は普通の人間だがな。こいつらは俺の研究の被験者さ」

「被験者?」

「ああ、通称R1シリーズ計画。簡単に言うとぬえ人の一部を人間に移植するって計画だ」

「何?」

「だが、人間にぬえ人の体は普通適応しない。人間にとってぬえ人の細胞は猛毒だ。だが一部分だけ、適応出来る部分があった何だか分かるか?」

「興味も無い」

 華秦が剣を魔境に向ける。

「おい。ちょっと待てもう直ぐ説明が終わるから。まあ結論から言うと人間の脳だ。人間の脳に移植する分には死ぬことは無い。まあこんな感じになっちまうが」

 魔境が指差す集団の瞳は、どれも虚ろな色をしていた。まるで麻薬中毒者の様なゾンビの様な様子で立っていた。

「これで成功か? とても戦力になるとは思えんが?」

「確かに、そう見えるな。更に言うならば、副作用として、並行的な思考が出来なくなっている。料理をしながら歌うとか、勉強しながら音楽を聴くとかっていうのはこいつらには出来ねえ。その代わりにこいつらは常人の五十倍の反射速度と、思考速度を得た。つまり戦闘においては相手が止まって見えるって訳だよ」

 魔境は説明を終えると華秦に背を向けた。

「じゃあ説明も済んだし、さっさとやろうか。一人一人が雷鬼と戦える位の戦闘力の持ち主だからまあこの人数相手じゃどうにもならんと思うけどな……やれ」

 魔境の指示と同時に獣の様な速度で集団が華秦に向かって跳んだ。

「さて……戦闘の映像をパソコンに送って……華秦の死体はどうするかな? 綺麗な女だからマニアに売って金にしても良いが……どうせなら俺の研究に使おう。R1シリーズの改良に使えるだろうからな」

 R1シリーズの勝ちを確信し、魔境が携帯電話を操作していた時だった。

「悠長だな……背後から切っても良いのか?」

 魔境の首筋に冷やりと冷たい感触がした。それと同時に魔境はあらぬ力でその場から離れる。

(ば、馬鹿な……何故生きている!)

 魔境は距離を取り、剣を突きつけた人物を睨みつける。するとそこには平然とした顔で剣を構える華秦と、首を落とされた無数の死体があった。

「ぜ、全滅だと!」

 魔境は目の前の現実が理解出来ず、思わず叫んでいた。実際、華秦が幻術を用いて自分に最悪の光景を見せているのかとも考えたが、それはまずありえないと悟った。

「さっき貴様はこいつらが雷鬼と同等だと言ったが、それは酷い勘違いだな。雷鬼はこんなにも弱くなかった。確かに反応は良いようだが、戦闘経験が足り無すぎる。分かっていてもかわせない剣がある事をまず教えてやるべきだったな」

 華秦は本当にくだらない物を相手にしたと言わんばかりに溜息を吐いた。実際魔境は見ていなかったが、華秦の攻撃は余りにも滑らか過ぎて、戦い慣れて無いものには、いつ攻撃に移ったのかが理解出来ない。武術でいうところの無拍子を華秦は用いていた。

 そしてそれに対し自らの切り札を一蹴された魔境は無意識に歯軋りをしていた。自分が華秦の戦力を見誤っていた事をここにきてようやく悟った。

「何者かは知らないが、襲ってきた以上はここで死んでもらうぞ」

 タンッと小さな音をたて、華秦は地面を蹴った。それは本当に軽い物だったが、それに反して魔境に接近する華秦の速度は弾丸の様に鋭い。

「ちぃ……」

 あっさりと自分の間合いに入られた魔境は次の攻撃を避けられないのを悟り、舌打ちをした。

「終わりだ」

 達人の居合い斬りの様に、踏み込みと抜刀が一体となった一撃が魔境の首に迫る。このままいけば間違いなく魔境の首は他の死体と同じく落とされるだろう。

(畜生………………しょうがねえ)

 魔境は降参するかの様に両手を前に出した。しかし、それは降参の意を示した物では無く、その真意は直ぐに明らかになった。

『ギャァアアアアアアアアアアアアアアア!』

 突如、魔境の両腕が狼に変化し、その狼はそのまま咆哮を上げながら、華秦に襲い掛かった。

「シィ!」

 華秦はしかし、咄嗟の事態にも関わらず、魔境を狙っていた剣の方向を変えると、そのまま二頭の狼を切り捨てた。

 だが、その間に既に魔境は危険域からの離脱に成功していた。そして、脇目も振らずその場から逃走した。

「逃がした……か」

 華秦は魔境に追いつけないのを悟ると、剣を鞘に収めた。




「畜生……いてえな。畜生。用意はしていたが使いたくなかったぜ、こんな切り札はよ」

 ボタボタと両腕から血を流しながら、魔境が呻く。

「だがまあ、死ぬよりはマシか……しかし、両腕は失うは、R1シリーズも失うわで、踏んだり蹴ったりだぜ。華秦……予想以上だ。あそこまでバケモンとは……単純な戦闘力だけなら銀聖よりも上だ。天道の二神でも恐らく厳しいだろう」

 魔境は表情を険しくする。考えるのは勢力バランスだった。いかに天道とぬえ人を戦わせ、自分が優位に位置に立てるかを思案する。

(駄目だ……どう見ても、圧倒的にぬえ人側が有利だ。銀聖の智力と華秦の武力。更には屈強な兵隊のオマケつきじゃ……天道に勝ち目はねえ)

「早く戻って組織の方針を纏めなきゃな……このままじゃ銀聖の一人勝ちだぜ」

 魔境は出血で霞む意識を必死に繋ぎとめ、妖籠会への道を急いだ……。






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