第三章 覚醒者
「あの……蘭子ちゃん。どこに行くの? 学校の時間でしょ?」
エプロン姿の女性が心配そうに声をかける。その姿は若く、二十代後半くらいに見える。
「さぼりま~す。じゃあね。お・ば・さん!」
蘭子と名前を呼ばれた方は高校生くらいの少女だった。伸ばした茶髪に化粧をして大人びた印象を受ける。二人の遣り取りから分かる様に二人は親子だった。だが、蘭子は明確に、自分の母親に当たる、九龍恭子に反抗心を持っていた。
「だ、駄目よそんなの……学校にはちゃんと行って。じゃないとお母さん心配――」
「誰がお母さんだ! 母親面するな! この変態やろう!」
心配だよと恭子が続けようとした時だった。蘭子が噛み付く様に絶叫する。そこに反抗心とかそんな物はまるで無く。ただ憎しみだけがあった。
「お前が! お前がお母さんを壊したんだ! そして……私の家族を壊した」
「蘭子ちゃん……」
恭子は蘭子の言葉にショックを受けた様に固まった。やがてその瞳からは涙がぼろぼろと零れ出した。
「もう私に話しかけるな」
蘭子はそれだけを言うと玄関の扉を開けた。背後では、恭子が泣き崩れていた。
(畜生……畜生……)
蘭子はバイクに跨るとアクセルを吹かした。ライダースーツに身を包んだその姿は傍目から見てもスタイルが良い。
ムシャクシャした気分を抱えたまま、蘭子はバイクを発進させた。目的地は決まっている。
しばらくバイクを無心で走らせた。バイクに乗っている間だけ、蘭子は日常から解放される様な気がした。
蘭子がバイクを止めた場所そこは一件のバーだった。街に一つはあるであろう、至って普通の外観で。お洒落というよりは落ち着きそうな外観だった。もちろん、店は真昼間で開いている筈も無い。しかし蘭子は特に迷う事無くバーのドアに手をかけた。
静かな音をたて、ドアが開く。店の中にはカウンターとテーブル席があり、こじんまりとしているが、綺麗な内装だった。
「おう、来たのか、不良娘」
蘭子が声のしたカウンターの方を見る。すると、Tシャツにジーパン、頭にはバンダナを巻いた。ラフな姿の女性が居た。
「おばさん! ただいま!」
蘭子はさっき、恭子に言ったのとはまるで違うトーンで親しみの篭った声で笑みを向ける。
「何がただいまだコラ。ここはてめえの家じゃねえぞ、学校はどうしたコラ」
バンダナの女性はカウンターに手を着いたまま乱暴な口調でそう言った。しかし、それが素なのか蘭子が特に気にした様子は無い。
彼女はこのバーの主人であり、バーの店名にもなっている、九龍雪だ。
「さぼっちゃった」
「何で?」
「面倒臭かったから」
蘭子は隠す事無くそう答えた。するとそれだけ聞けて満足したのか、雪はそうかと言うとグラスを磨き出した。
「ねえ、おばさん。テレビ見ていい?」
蘭子が聞くと、雪はカウンターから蘭子に向かってリモコンを放り投げた。
『昨夜未明、埼玉県川越市、本川越駅まで無差別殺人事件がありました。被害者は三十名。いずれも大きなやけどがあり、警察では犯人の行方を追っています』
「最近多いね、こんな事件」
蘭子がテレビを見ながらポツリと呟く。
「ねえおばさん知ってる? ここ最近の事件って化け物の仕業じゃないかって言われてるらしいよ」
「化け物ねえ……お前意外とメルヘンな事信じてるんだな」
雪はカウンターからアイスの載ったお皿をトンと蘭子の前に置いた。
「ん、ありがとう。おばさんが作るアイスは美味しいから好き」
「美味いのは当たり前だろ。お前の好みに合わせて作ってるんだから。今回はアイスに合う酒をかけた。それだけで何か高級感出るだろ?」
「うん、何か複雑な味って感じ」
蘭子はくすぐったそうに笑ってにアイスを口に運んだ。そうしていると高校生らしい少女の様なあどけなさが見えた。
「あ~あ。私もおばさんみたいになりたい。自分のお店を持ってこんな風に自由に生きたい」
「あまり私は勧めないけどな。自由って事はそれだけ孤独って事だ。人との関わりが薄い分、寂しい思いもしなきゃならない」
「人との関わりなんてうざったいだけじゃん」
諭す様な雪の言葉にあからさまに蘭子は不貞腐れた。しかし、その瞳の中に寂しさが混じっている事を雪は理解していた。
「お母さんとは上手く行ってないのか?」
「あんなの……あんなのお母さんじゃないよ!」
雪の言葉に蘭子は過剰に反応した。泣き出す寸前の顔を浮かべる蘭子を雪は静かに見返す。
「蘭子。大丈夫だ落ち着け」
雪は蘭子の頭を撫でた。小さい子供をあやす様に、実際、雪にとって蘭子は自分の子供の様に面倒を見て来た子だった。
「お前はまだ恭子さんを憎んでるんだな……」
「当たり前じゃん。あいつが居なかったら私の家族はあんな風にはならなかったよ。全部あいつが悪いんだ。あいつがお母さんからお父さんを取ったりしなければ……う、ぅう……」
頭を撫でられながら蘭子は小さく泣いた。それを黙って雪は受け止める。
「蘭子。お前は義姉さんが好きだったから辛い気持ちも良く分かるよ。けどな……恭子さんはお前が考えている様な人じゃないよ。お前の事を本当に愛しているし、お前の事を本当に考えてくれているよ」
「嘘よ……嘘言わないでよ……あいつがしたことおばさんも知ってるでしょ!」
「そうだな……知ってる。けどな、蘭子。人は間違えるんだ。それは誰だって同じで、大人だって子供と同じ様に間違える。お前も大人になれば分かるよ」
雪の笑みは名に反して、人の心を溶かすような笑みだった。しかし、その笑みには何とも言えない苦い物が混じっている様に見えた。
「分かんない。そんなの分かるなら大人に何かなりたくない」
「そうか……そうだよな。お前には子供のままで居て欲しい」
雪はそういうと蘭子の頭から手を離し、マルボロの袋を開けた。灰皿を置きタバコを吸う様は蘭子の目から見ても憧れる物であった。
「どうせ暇なら今日はうちの店を手伝っていけ。明日も学校をサボるんだろ? 恭子さんには私から電話しておいてやるよ」
「本当に? うん! 手伝う!」
蘭子は雪にカウンター越しに抱きつきながら、瞳に滲む涙を払った。
「く、俺は雷鬼様、直属部隊の豪鬼だぞ! 貴様分かっているのか!」
頭に角を生やした鬼が正面の闇に向かって咆哮する。
「ほう……雷鬼の部隊の者か……そうか、雷鬼は復活したんだな。これで銀聖を入れて、二人神柱の封印が解けたと言う事か……」
闇から聞こえてくる声、しかしそれは声だけで、豪鬼にはまるで相手の姿が見えなかった。
「貴様! 何故俺達を殺そうとする! 貴様ら同胞では無いのか! どこの部隊の者だ!」
「何故? ……そんなの決まってる。お前らが邪魔だからだよ」
闇から聞こえるせせら笑う声は豪鬼を怒らせるのには十分だった。
「何ぃ……こそこそと隠れる事しか出来ない者が生意気な……」
豪鬼はそういうと、体に深く力を溜め込みだした。それだけで、豪鬼の体は筋肉が隆起し、浅黒く変容していく。
「何だそりゃ? 日焼けサロンでも行ったのか?」
挑発的な物言いに、自信満々の表情で豪鬼が笑う。
「くく、好きに言うが良い。だが最早貴様に万に一つの勝機も無い」
「ほほう。黒くなったら偉そうになった。どれ、一手試してみようか?」
闇はそういうと会話を止め、一瞬の後、黒い物体が豪鬼に向かって襲い掛かった。
『ガギィイイイイイイイン!』
まるで金属を打ち鳴らした様な音が響いた。打たれた豪鬼は平然とその場に立っている。
「はははは、無駄だ。無駄だ。この状態になった俺の体は鋼鉄より硬い。貴様の弱々しい攻撃では傷一つつけられんわ」
それは自信の表れか、大きく腕を広げ豪鬼が笑う。それはどこからでも掛かって来いと言っている様だった。
「なるほどな。確かに硬てえや。でも硬いだけなら芸が無いな」
「何ぃ?」
「予告しておくぜ。次の攻撃。受けようとは思わない事だ、もし受ければお前は確実に死ぬ」
「ふははは。面白い。俺はここから一歩も動かん! 殺せる物なら殺してみるが良い」
豪鬼は再び力を込める。すると先程よりも更に体は鋼鉄色に染まった。
「さぁ! 来い! 次に貴様が攻撃をして俺に触れた時が貴様の最後にしてやろう」
豪鬼は叫び、そして構えた。既に闇からの攻撃の速さには慣れていた。後は自分に攻撃して硬直した相手にカウンターの一撃を叩き込めばそれで済むと豪鬼は確信していた。
「じゃ、遠慮なく」
すると豪鬼の予想に反して、今まで闇に同化していた者が簡単に姿を現した。
闇から現れたのはジーパンにニット帽を被った青年だった。池袋辺りにはいくらでも居そうな青年。その青年は軽い調子で豪鬼に近づくとペタリと豪鬼の胸にガムの様な物を貼った。
「な、何だ貴様……どういうつもりだ」
敵意の無い攻撃に完全に虚を突かれ思わず豪鬼は相手を見た。青年はそれにヘラヘラと笑みを浮かべている。
「確かに一撃攻撃したぜ。じゃあな」
青年はそう言うと再び闇に消えた。豪鬼はポカンとそれを見送る。
「な、何だというのだ奴は……」
豪鬼は胸についたガムを取ろうとする。しかし、それは伸びるばかりで取れない。するとその時、遠くから木霊の様に声が響いて来た。
『あ、ちなみにそれ爆弾だから。それが十個あればビルが一つくらい吹き飛ぶ奴だぜ』
豪鬼はそれを聞いて慌てて剥がそうとするが剥がれない。何か特殊な材質がガム状の物には含まれていた。
『それじゃ。さよなら』
「糞ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
豪鬼の絶叫は、爆発音によってかき消された。爆煙が風に流された後には木っ端微塵になった肉片があちこちのコンクリートにへばり付いていた。
「雷鬼か……残り二つ。天台宮の門は開きつつある……どうすっかな。今の天道じゃ、まず銀聖には敵わねえ。かといって銀聖を放って置けば俺達の命もねえ……」
青年は先程得た情報を元に思案していた。最早先の戦闘の事など眼中にもない。
「妖籠会の為にも新しい戦力がいるな。R1シリーズの完成を急ぐか……」
青年は決定した事に一つ頷くと、そのまま闇の中に消えた……。
「何で! 何でよ! 私が悪かったら謝るから! ねえ、捨てないでよ貴方!」
「すまん。真理子……私が悪かったのだ。私が仕事にばっかりかまけてお前の事を見てやれなかったばかりに……こんな事になってしまった」
お父さんは辛そうな顔をして眼を逸らしたまま、お母さんと視線が交差する事は無かった。
どうして二人とも謝ったのに仲直りしないの? 小学校では二人が謝ったら仲直りするよ。
私には二人がどうして喧嘩しているのか分からなかった。ただ、泣いているお母さんを見るのは嫌だった。私はお母さんが大好きだから……。
「そんな……そんなにあの女が良いの? 若いからなの? 私が歳をとっているからなの?」
「歳は関係ない……ただ、私はもうお前と一緒に居ることは出来ないよ。私はもう一生お前のした事を忘れられないし、お前も私のした事には耐えられないだろう。だから別れよう。それが一番正しい事なんだ。今までが遅すぎるくらいだったんだ」
お父さんの言葉にお母さんは力を失ったかの様に深く泣いた。胸が張り裂ける様な泣き方だった。お父さんとお母さんはその後、離婚した。幼いながらにお父さんとお母さんが離れ離れになるのは辛かった。しかし、私の思いなんて置き去りで、私は裁判という物でお父さんに引き取られる事になった。私とお父さん二人の新生活が始まると、始めはぎこちなかったが徐々に慣れてきた。だが、そんな時、お父さんにこう告げられた。
「お父さん。結婚しようと思う」
「え……何で……」
私はショックだった。心の何処かでお母さんと再婚して欲しいという気持ちがあったし、新しいお母さんなんてお母さんだと思えない。
「お前にもお母さんは必要だろ」
――違うよお父さん……私が欲しいのは知らないお母さんじゃない。幸せだった昔なのに。
「馬鹿ぁ……」
私はその場から逃げて自分の部屋に入った。ベッドに飛び込むと、お母さんが誕生に買ってくれたぬいぐるみをギュッと抱きしめた。
――新しいお母さんが来たら、お母さんの居場所が無くなっちゃうお母さんが帰って
来れなくなっちゃう。
私は新しいお母さんを憎んだ。来なければ良いのにと心から願った――。
「こんにちは、蘭子ちゃん」
それから一ヶ月後、知らない女の人がお父さんに連れられてやって来た。若くて綺麗な人だった。ショートカットにした髪は、キラキラと輝いて、化粧をしてない顔はそれでも素朴で可愛らしかった。
「誰ですか?」
私が怯えながら尋ねるとお父さんが代わりに答えた。
「恭子さんだ。これから蘭子のお母さんになる……お父さんの結婚相手だ」
「っ……!」
恭子さんの目にも私がショックを受けたのが分かったのだろう。気遣う様な視線を向ける。
「あの、蘭子ちゃん。突然だからびっくりすると思うけど……私、蘭子ちゃんの為なら何でもするから……だからこれからよろしくね」
「帰ってよ!」
しかし、私がしたのは明確な拒絶だった。
「私は新しいお母さんなんて要らない! お父さんの馬鹿! 結局この人が好きなだけじゃない! 私の事なんてどうでもいいんじゃない!」
私は身を屈めて近づいてきた恭子さんを思いっきり突き飛ばした。そしてそのまま自分の部屋に向かって走り出す。
「待て! 蘭子!」
お父さんの怒鳴り声が背後から聞こえた。お父さんがあれほど感情を露にするのは始めての事だった。
「いいんです聖司さん。私は大丈夫だから……」
背後からの声を意図的に無視して私は自分の部屋に駆け込んだ。
「もうやだぁ……」
もう誰も信じられなかった。お父さんは私じゃなくあの女を選んだ。私の事なんてどうでもいいんだ……。
私はお母さんの事を思い出した。お父さんに拒絶された時のお母さんの顔、お母さんと私が過ごした最後の日、あんなに綺麗だったお母さんは目に見えるほどやつれていて、一気に歳を取ってしまった様に感じた。
「お母さん……」
私は幸せだった頃を思い出して机に突っ伏して泣いた――。
それから数年、子供の力ではどうにもならず、私はお父さんの保護下で育てられた。
でもどうしても納得出来なくて、恭子さんと仲良くすることは無かった。三者面談も、運動会も、卒業式も、入学式も、恭子さんは来たがったけど全部来ないでと拒絶した。
そうした日々が続き、お父さんともほとんど私は会話を交わさなくなった。学校にも行かなくなり、夜遊びする事が増えた。そうすると後は決められたルートの様な物で、私は不良の集団に入り、連日好き勝手に暴れ回っていた。家に居ると苛々するので帰る気にもならなかった。
何度も警察の世話にもなった。その度に身元引受人として恭子がやって来ては泣いて私に懇願した。『もうこんな事はやめてと……』
それがまた、自分の世間体ばかり気にしている様に見えて、私は余計にむしゃくしゃした。不良との繋がりもより一層強くなった。そんなある日、いつもの様に自転車の窃盗で警察に厄介になっている時、恭子はどうしても来れなかった様で、代わりに雪おばさんがやって来た。
雪おばさんに会うのは本当に久しぶりだった。小学生の低学年くらいまでは良く遊んで貰って色んな所に連れて行って貰った。いつも格好良い男勝りな雪おばさんが私は大好きだった。
「おばさん久しぶり」
調書は後日取ると言われ、私は待合室で待たされていた私は現れた雪おばさんに気軽に声をかける。すると雪おばさんは無言で自分のサンダルを脱いだ。
私が不思議そうな顔でそれを見ていると、雪おばさんはそのままサンダルを手に掲げ、私の頭の上に思いっきり叩き落した。
パアン! と警察署に乾いた音が響く。全員がポカンとする中、雪おばさんは何度も無表情のままサンダルで私を叩き続けた。
「痛い……おばさん痛いよ!」
涙が出るほどの衝撃が頭に走る。しかし、雪おばさんは全く容赦が無かった。
「ちょ、ちょっと待ってください。お母さん。警察署で暴力は困ります」
雪おばさんをお母さんだと思ったのか、警察署の職員が集まってきて、雪おばさんを止めた。全員顔が引き攣っていた。
「いや、私こいつの叔母なんで」
雪おばさんはそう弁明して殴り続ける。いや……そういう事を言ってるんじゃないだろう雪おばさん。
「やめて、ちょっとやめてください。暴力は」
何人にも止められ、ようやく雪おばさんは止まった。
ボコボコにされた私は高校一年生にしてボロボロと泣いていた。久しぶりに大人から本気で怒られた気がした。
「別に自転車パクるのは良いけど。お母さんに何処に居るのかはちゃんと言え。心配してる」
雪おばさんの言葉に警察官がぎょっとする。
「うぅ……だって恭子嫌いなんだもんおおおおおん」
私は泣きながら本音で接していた。硬い殻をぶっ壊された気がした。
「そうか……じゃあ、行くぞ。恭子さんには私から連絡しておく」
雪おばさんはそう言って私の手を引いて歩き出した。警察官は呆然としながら私達を見送っている。雪おばさんに連れられた私は軽トラックの助手席に座らされた。荷台には酒瓶が積まれている。
「…………蘭子」
「……ぐす……な、何?」
「腹減ってるか?」
「……減ってる」
「そうか……じゃあ、私の店に行くか」
雪おばさんは携帯を取り出して、私に投げた。
「今日は私の家に泊まるとお母さんに電話しろ。家の番号くらい分かるだろ」
「え……いいの? 帰らなくて」
「帰りたいのか?」
「ん、うんうん。帰りたくない」
「なら早く電話しろ」
雪さんに言われるまま私は家に電話した。すると、泣きそうな声で恭子が出た。
「私、今日雪おばさんの所に泊まるから」
私は簡潔にそう言うと相手の返答も待たずに電話を切った。雪おばさんはその遣り取りに特に興味は示さなかった――。
店に着くと雪おばさんは直ぐにオムライスを作ってくれた。昔食べたどこか懐かしい味。
食べ終えたら私はすっかり眠くなっていた。こんなにも居心地の良い空間は久しぶりだった。
「蘭子これからは夜遊びするな。学校をサボってどっか行くな。不良の連中と付き合うな。以上だ。分かったか?」
昔から変わらずのズバズバした物言いだった。一層の事、清清しい。
「さぼりたくなったらうちに来い。夜遊びしたくなったらうちで働け、不良に因縁つけられたら私に言え。私がボコボコにしてやるから……いいな? 分かったか? 理解したか?」
ぶっきらぼうだったが私は逆らう気になれずこくんと頷いた。
「良し。じゃあ寝ろ。いつまで起きてんだ。早く寝ろ」
雪おばさんは言う事が済むと一人納得した様に頷いた。展開の早さと自由奔放さは相変わらずだった。
「あ、おばさん……」
「うん? 何だ? トイレか? 風呂か?」
私は雪おばさんともっと話がしたかった。このまま寝てしまうのは勿体無い気がした。
「えっと……見たいテレビが有るんだけど見て良い?」
駄目だろうな~と上目遣いにおばさんを見ると、おばさんは腕を組んで何かを考え、がさごそとカウンター内を探った。
「……見たら寝ろ」
おばさんがリモコンを投げる。
「うん!」
私はそれを笑顔で受け取った――。
「おい、起きろ。風邪引くぞ」
ゆさゆさと肩を揺すられ、蘭子は目を開いた。時刻は深夜三時。雪の店も営業時間を終了し店の片付けも終了していた。その日一日蘭子はバーで働いていた。だがしかし学生の身に三時まで起きているのはきつく、一時くらいには既に目を閉じ、カウンターで眠ってしまっていた。
「あ、ごめん……寝ちゃった?」
「別に良い。眠たきゃ寝ろ。布団で寝ろ」
蘭子の体には薄手の毛布が掛けられていた。恐らく雪が掛けたのだろう。蘭子は雪の優しさに触れた様な気がして、毛布をギュッと抱き締めた。
「ねえおばさん……私ね昔の夢見ちゃった」
蘭子は視線をテーブルに落としたまま呟いた。雪は黙って洗い終わったグラスを拭いている。
「すまんな……」
無言の空間の中、雪がポツリとそう口にした。え……と蘭子が雪を見る。
「お前が辛い思いをしてるなら、それは私達大人が悪いんだ……兄貴も私も決して強い人間じゃなかった。それがお前を傷つけた……」
「そんな……おばさんが謝る事じゃないよ……おばさんが居なかったら私は……」
蘭子は複雑な表情を浮かべる。大好きな雪に謝られるのは決まりが悪かった。
すると雪は蘭子が見た事も無い。穏やかな笑みを浮かべた。それは同性の蘭子から見ても、引き付けられる様な神々しい笑みだった。
「私はお前を愛しているよ……蘭子。けどな、私よりもお前を愛している人が居るんだ」
雪から愛という言葉を聞くとは夢にも思って無かった蘭子は、それだけで、瞳から涙を零した。自分が誰かに愛されていると知っただけで、堪えきれない感情が溢れた。
「私にはおばさんしか居ないよ。他に私の事を愛してくれる人なんて居ない」
雪はグラスにノンアルコールのカクテルを注ぐと、蘭子の前にトンと置いた。
「いずれ分かる日が来るさ……さあ、もう寝ろ。いつまでも子供が起きてるんじゃない。さっさと寝ろ」
「うん。分かった」
蘭子は雪の言う通り、バーの二階に上がっていった。
カウンターでは雪が一人タバコに火をつけていた――。
翌日、蘭子はバイクに跨っていた。その隣ではバンダナスタイルの雪がタバコを吸っている。
「気をつけて真っ直ぐ帰れよ。恭子さんには今帰るって電話しておくからな。俺に恥をかかせるんじゃないぞ」
「うん。分かってる。じゃあおばさん。また遊びに来るね」
「ああ、留年しない程度に来い」
「ふふ、そしたらおばさんの所に就職だね」
「お前なんぞいらんわ」
軽口を叩きあい、蘭子はバイクを発進させた。そのバイクも雪のお下がりだった。雪がバイクに乗っていると聞いたからバイクの免許を取った。雪は蘭子にとっての憧れその物だ。
風を感じながらバイクを走らせる。その時だけは無心になれた。家までの道がもっと長ければ良いと心の中で思っていた。中央通りの三車線を五分ほど走れば、家の前の小道に入る。蘭子が普段通りの道を無意識に走っていた時だった。
『ガラガラガラガァアアアアアアアアアアアアアアアア!』
突然、晴天だった空から一筋の雷が鳴り響き。地面に直撃した。
「きゃぁ!」
蘭子が悲鳴を上げる。地面がうねりを上げて振動した。
(じ、地震?)
関東大震災が起こったのかと思うほどの揺れだった。蘭子は必死にバイクを制御する。
『ぎゃぁあああああああああああああああ!』
すると遠くから断末魔と言うような、人が心から恐怖した時に出る声が蘭子の耳に届いた。それはどんどん広がっていく。蘭子の周囲では車同士がさっきの揺れで玉突き事故を起こしていた。あちこちから上がる悲鳴。周囲一体が混乱の極みにあった。
「な、何この気持ちの悪さは……」
しかし、そんな中、蘭子だけは別の感情に支配されていた。臓腑がひっくり返る様な、自分の内部から何かが生み出されようとしている様な奇妙な感覚。
「う、うちに帰らなきゃ……早く……帰らなきゃ……」
蘭子はよろつく足で何とか立ち上がると、バイクに跨った。ヘルメットをするのを忘れていたが、それさえも気にならなかった。
蘭子はただ衝動的にバイクを発進させた――。
「おらぁあああああああああああああああああああ!」
バリバリバリ、男の体から青いイナズマが放出される。それは高い熱を持ち、周囲のコンクリート塀を破壊した。
「行くぜてめえら、派手にぶっ壊せ! 豪鬼の弔い合戦だ。ここら一体火の海にしちまえ!」
革ジャンにジーパン。アメリカンなファッショに身を包んだ青年が叫ぶと、その背後からうぉおおおおおおおおおおおお! と野太い声が続いた。
これだけならば、ただの不良の集団の暴動にも見えなくも無いが、その者達の額には人外の者を示す角が生えていた。そう、五十を超える鬼の集団が、住宅街を破壊しながら歩いていた。
それはさながら死神の行列で、頑丈なはずの家がまるで、バターの様に破壊されていた。
「はははぁ! 久しぶりの地上は最高だな! 力が溢れて止まらないぜ!」
その風格からリーダー格だと直ぐに分かる青年が、その手を翳すと、そこから放出されたイナズマが逃げ惑う人を一瞬で黒こげにした。
「雷鬼様! 女は殺さないでくださいよ! 俺達が犯すんで!」
青年は部下であろう男に雷鬼と呼ばれた。雷鬼は部下の言葉に笑みを深くする。
「はははは! そうだな。ただ黒こげにしたんじゃ勿体無い。俺達を裏切った人間には、地獄を見せてやらなきゃな。おい! 野郎ども、女は犯せ! 男は八つ裂きにして殺せ! 犯して殺して奪いつくせ! 俺達が失った物の大きさを、こいつらにも分からせてやれ!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおお!」
鬼達の顔が狂気に彩られた。鬼は次々に女に向かうと洋服をお菓子の紙の様に剥いて行く。
「に、逃げろ。律。早く!」
恋人を逃がそうと青年が鬼の前に立ち塞がった。まるで勝ち目の無いのに、恋人を守る為には諦めない。強い意志を持った少年だった。
「うるせえ」
だが、そんな勇気も圧倒的な暴力の前には無力だった。鬼が蝿でも追い払う様に軽く腕を振るうと、それだけで、青年の首が弾けとんだ。
「嫌……いやぁあああああああああああああああ! きょうちゃん」
恋人が目の前で殺され、少女が泣き叫ぶ。そんな少女の口を強引に塞ぐと、鬼はいやらしい笑みを浮かべた。
「いいなぁ……その顔。ふふ、安心しな。今の男を忘れるくらい可愛がってやるからよ」
「フグゥ……ぐぐ……」
女の瞳から涙が零れ、股間からは失禁して熱い物が地面を濡らす。
鬼は楽しそうに笑うと、自らのズボンを脱いだ――。
同時刻。九龍邸付近。
始めは恭子も地震だと思っていた。だが、周囲から聞こえる絶叫でそれが、戦争にも似た野蛮な侵略行為が行われているのだと、恭子は気付いた。
この日本で何故……警察は?
そんな疑問は外で暴れまわる人外の鬼達を見て恭子の中からすっかり消えてしまったが。
警察も対応出来ないと分かると、人々は逃げ惑った。しかし、そんな中、家から出た恭子がした事は真っ先に逃げる事では無く。周囲をキョロキョロと何かを探す様に彷徨っていた。
「蘭子ちゃん……蘭子ちゃん!」
必死に蘭子の名を叫ぶ。それをする事で鬼に見つかるリスクが増すことも構わずに、恭子は帰って来てる最中であった蘭子を探し続けていた。
「蘭子ちゃん! 蘭子ちゃん! どこ! 居たら返事して! お願いよ! 蘭子ちゃああああああああああああああん!」
髪を振り乱しながら叫ぶ恭子。
「は~い」
その返事にぎょっとして恭子は背後を振り返った。だがその声は蘭子の様に高くて凛々しい物では無く。下卑た男の物だった。
「ひぃ……」
思わず恐怖で引き攣った声を上げる。恭子の視線の先、そこには身の丈二メートルは越そうかという鬼の姿があった。
「へへへ、ちと歳はくってるが良い女じゃねえか。決めたお前は俺の肉便器にしてやるよ」
鬼が迫る。しかし、恭子の体は恐怖でまるで動かなかった。ライオンに遭遇している様な、いや、それ以上の威圧感を鬼から感じてしまっていた。
鬼はその恐怖を味わう様にわざとゆっくりと近づいて来て、恭子の洋服に手を伸ばした。
「い、嫌……」
「そそる、そそるなぁ。大人の女がまるでガキの様に絶望するのは。へへ……へへ」
鬼の長い舌が恭子の首筋を這った。ザラザラと突起の付いた舌に、あっ……と思わず恭子が声を上げる。
「はははは! ははははは!」
興奮した鬼が恭子の服を脱がそうとした時だった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
女性の雄々しい叫び声と共に、ウイリーしたバイクの前輪が、鬼の側頭部を直撃した。
「ぬうおぅ……」
金属バットに殴れてもビクともしない体だったが、さすがに百キロを超える速度のバイクの衝撃には耐え切れず、鬼が吹き飛ばされ尻餅をついた。
「何だぁ貴様!」
「はぁ……はぁ……」
激突した衝撃でバイクから振り下ろされた少女が息を切らせながら立ち上がる。
「蘭子ちゃん!」
その少女を見て、恭子が歓喜の声を上げた。それは正しく恭子が必死になって探していた娘だったのだから。
「良かった……無事だったのね」
恭子の目が感激で潤んだ。その恭子の様子に胸がチリチリする様な感覚を感じながら、蘭子は鬼を睨みつける。
「ぐくく……その女の娘か? 中々どうして、こちらも結構良い女じゃねえか気も強そうだ」
バイクで轢かれた事などまるで無かった事の様に鬼は平然と立ち上がった。その目にはまるでハンティングで粋の良い獲物を見つけた様な嗜虐的な色に染まっていた。
「あ……うぅ……」
蘭子の歯がガタガタと震える。正直、正面に立つだけで体が全く言うことを利かなくなった。
どうして自分はこんな事をしたのだろう……と、蘭子は後悔していた。自分の大嫌いな母親が襲われてるの何て放っておけば良い。母親が死んで自分が生き残れば、それが自分が一番望んでいた事では無いのか? と。
「ぐくく……貴様に歯向かった事を後悔させてやる。何、殺しはしないから安心しろ。殺した女を犯す趣味は無いからな」
鬼は笑うと、その巨大な手を伸ばした。それは大蛇の様に蘭子の首を締め上げると、そのまま片腕で蘭子の事を持ち上げた。
「う、うぁ……」
余りの苦しさに蘭子が足をバタバタさせながらもがく。しかし、それは鬼を喜ばせただけで、鬼はその余りにでかい指を使って、玩具でも弄る様に、蘭子をデコピンの要領で弾いた。
「う、あう! あっ!」
蘭子から悲鳴が上がる。鬼は殺さないように絶妙な力加減で蘭子を嬲った。
するとじわっと蘭子の股間が湿った。首を絞められた苦しさと、鬼の打撃の衝撃で蘭子は地面にジョボジョボと自らの尿を晒す事になった。
「ははは! 漏らしているのか? くく、傑作だな! ん? 恥ずかしくないのか? 人に見られながらお漏らしして?」
「ち、畜生……」
蘭子の瞳から涙が零れる。女子高生が自らの失禁を見られて平気なはずが無かった。死んでしまいたい様な羞恥心に見舞われていた。
「さぁ……て、じゃあ臭い服を脱がして存分に楽しませて貰おうか」
鬼が乱暴に蘭子の上着を剥ぎ取る。蘭子の上半身を守る物は、ブラジャーしかなくなり、蘭子が絶望に引き攣った声を上げた時だった。
「止めろぉおおおおおおおおおおおおおおお!」
雄々しい声を上げ、恭子が手に持った石で思いっきり鬼の事を殴りつけた。
「ナンダァ? 邪魔をするな!」
バイクの衝撃にも耐えた鬼にそんな物が効くはずも無く。鬼は気分を害したかの様に、恭子の頬を張った。
まるで紙切れの様に吹き飛ぶ恭子を見て、蘭子は目を見開いた。何をしてるんだあいつは、さっさと逃げれば良いだろ。自分の事など置いて。
私とお前はそういう関係だろ――と。しかし、現実は違った。
「その子を離しなさい。今すぐに……殺すわよ」
気弱な、普段自分が詰り続けていた恭子が気丈にも鬼の事を睨みつけていた。自分が恐怖し失禁してしまうほどの相手を目の前に一歩も引かず……何の為? と純粋に思った。いや……。
(わ、私の為か……)
状況はどう見てもそうだが、心がそれを受け入れなかった。だが、そんな蘭子の混乱を他所に、現状は続いていく。
「貴様、どうやら殺されたようだな」
恭子の言葉に鬼の目の色が変わった。最早、遊ぶ気は無く。完全に恭子を殺す事を決めた目をしていた。標的を恭子に定めた鬼は、首を締め付けていた蘭子を空き缶を捨てる様に投げ捨てた。鬼にとっては大した事が無くても生身の人間がそうされて無事なはずも無く。蘭子は地面に叩きつけられる。
「蘭子ちゃん! 大丈夫!」
さっきまでの凛々しい顔は何処に行ったのか、一転して恭子は蘭子を心配そうな顔で見た。
「な、何でだよ……」
蘭子は立ち上がりながら、恭子を睨みつける。
「わ、私を置いて逃げれば良いだろ。私はお前の事が嫌いなんだよ! お前も私が嫌いだろ! だったら……早く逃げちまえよ!」
蘭子は泣き出しそうな声で叫んだ。自分の幸福な家族を壊した対象に守られる事が嫌だった。
いや……怖かったのだ。
そんな蘭子の言葉に、恭子は苦笑いを浮かべた。こんな時に場違いな、困ったなぁ~と言ったような笑み。
「逃げられないわ……だって私は蘭子ちゃんのお母さんだもの」
「…………っ」
絶句する蘭子に恭子は言葉を続けた。
「嫌いになった事なんて一度も無い。初めて会ったその日から、可愛かった蘭子ちゃん。こんな可愛い子が私の娘になってくれるなんて、最高に幸せだと思ってた……だから絶対に守るの、どんな事が有っても、嫌われたって構わない。蘭子ちゃんが幸せならそれだけで、私は十分すぎるほど十分なんだから」
「はい残念家族ごっこは終了だ」
そんな空気も読まずに、鬼が張り手で恭子の顔面を殴りつけた。ぐしゃっという音をたて、恭子が吹き飛ばされる。
「はぁ~スッキリした。アレでしばらく喋れんだろ。待たせたな。お母さんの前で犯してやるよ。まあ、お母さんはもう死んだかも知れないがな。がははははは――」
「ま、守る……蘭子ちゃんを」
うわ言の様に呟かれた言葉が、鬼の哄笑を止めた。鼻をくだかれながら、額から血を流しながら、それでも尚立ち上がり、娘を守ろうとする母の姿があったから。
「大丈夫よ……蘭子ちゃん」
潰された顔で、恭子がにっこり笑った。
「ああ、もういい。しつこい。お前は死んで良いぞ」
鬼は呆れた様に傍らにあったコンクリートブロックを拾い上げると、まるで野球のボールを軽々と恭子に投げつけた。
それは凄まじい速度で恭子に迫った。当たれば確実に即死する勢い。そんなコンクリートブロックが凝縮された時間の中、無慈悲に恭子に迫ってくる。
恭子の身に迫る危機に、蘭子は混乱していた。胸から競り上がってくる感情がそのまま言葉になろうとしていた。
「――お母さぁああああああああああん!」
初めて恭子を母親だと思った。そして同時に始めて恭子を助けたいと思った。
『ジュゥウウウウウウウウウウウウウウ』
すると唐突に恭子に迫っていたコンクリートブロックがこの世から消滅した。
だがそれは正しい認識ではない。それはスローで見れば分かるが、コンクリートブロックは消滅したのでは無く焼滅した……焼き尽くされたのだった。
「な、何ぃ?」
鬼はその類稀なる動体視力でその一部始終を見ていた。そしてそれを行った人物を見る。
「貴様! 何をした一体! 人間では無いのか!」
鬼が睨み付けるの先、そこに居たのは先ほどまで恐怖にただ震えていただけの少女。
九龍蘭子がそこに居た。
「まだ……色々と割り切れないけど……」
蘭子はゆっくりと立ち上がる。その周囲には炎の渦が蘭子を取り囲む様に渦巻いていた。
「とりあえず、お前はぶっ殺すわ!」
蘭子の感情に呼応するように、炎が一際一層、激しく輝いた。
「な、何故だ。さっきまでただの人間だったのに、これではまるで……赤神!」
真っ赤に燃え上がる紅蓮の炎。それは過去の大戦で、青神と並び同胞を虐殺した炎の遣い、天道が最強の戦士が一人、赤神を思い出させた。赤神が現れる戦場には、焼け野原だけが残る。オーバーキルの代名詞。青神が研ぎ澄まされた刃と称され、赤神が爆弾と称されていた事は、先の大戦を生き残ったこの鬼も知っていた。
「燃えろ!」
蘭子が叫ぶ。始めて使う力だが、何故か蘭子はその使い方を瞬時に理解していた。蘭子の力の使い方、それはつまり感情の解放に他ならない。感情が力であり、感情が炎という形を成す。炎を生み出すのでは無く。吐き出すイメージで、蘭子はその力を振るった。
蘭子の周囲で渦を巻いていた炎が、まるで大蛇の様に、鬼に向かって放たれる。それは回避も防御も不可能な技で、鬼の腕に接触した瞬間にその腕を焼き落とした。
「ぐ、ぐぁあああああああああああああああああああああああ!」
鬼が絶叫する。最早、狩られる側と狩る側の関係は逆転した。
「何だ! どうした!」
しかし、その絶叫は鬼の仲間にその危機を知らせる効果はあった。数十の鬼がまるで飛ぶ様に、蘭子達の周りを囲んだ。
「赤神だ! 赤神と同じ力を使う者がいる!」
腕を焼かれた鬼が叫ぶと、周囲に集まった鬼達に張り詰めた空気が流れる。
「赤神だと! 俺の仲間は奴に殺された! 俺にやらせろ! 俺が殺してやる!」
「馬鹿、落ち着け、本当に赤神なら、全員でかからないと殺されるぞ! 冷静になれ、一斉にかかるぞ!」
ここに居る鬼達は粗野に見えても、戦いを経験している戦士達だった。人を超えた者達の一斉攻撃が蘭子に襲いかかた。
「うるさい!」
だがそんな物はキレた蘭子には関係なかった。炎は四方に爆発し弾丸の様に鬼を粉々にした。
『……………………』
断末魔の叫びも残させない。圧倒的な力だった。その様子はまさしく爆弾。善悪の区別なく全てを吹き飛ばした。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
鬼を全滅させた蘭子が地面に膝をつく。フルマラソンを走り抜けた様な、体の力が全部抜ける様な虚脱感が体を包んでいた。それに伴って体を包んでいた炎は初めから無かったかの様に消えていた。
「蘭子ちゃん!」
恭子はフラフラになりながら、蘭子に抱きついた。
「大丈夫なの? 蘭子ちゃん!」
額から血を流し、力を失って地面に倒れた蘭子を心配する恭子。そんな恭子に蘭子は苦笑いを浮かべる。
「大丈夫って……あんた……いや、お母さんの方こそ大丈夫?」
「っ……蘭子ちゃん……わ、私の事……お母さんって……」
恭子が堪え切れない様に口を押さえた。だが、溢れて来る涙は止められなかった。
「ちゃんと聞くよ。お母さんの話……今まで大分時間が経ったけど、お母さんとちゃんと話したい……それが私にとって不都合な事であっても、私、最後までちゃんと聞くから」
「うん……ありがとう。蘭子ちゃん……話そうゆっくり……お母さん、全部話すから、今まで蘭子ちゃんとずっとお話したかったから……」
ぎゅっと恭子が蘭子を抱きしめた。始めて感じる母の感触は意外なほどの暖かさを蘭子に与えていた。二人が隔たりのあった時を埋めるように抱き合っていた時だった。
『バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ!』
空気が弾ける音があったならば、正にこんな音だろう。
「…………殺されちまったのか。お前ら……」
口調は軽薄だった。しかし、そこには悼むような、静かな悲しみがあった。
革ジャンにジーパンのラフなスタイル。髪は始め黒髪だったが、発せられる光と共に、黄金色に染まっていく。現れたのは鬼達の王、雷鬼だった。
「お前が……殺したのか?」
「そうよ……でも、悪い事したなんて思ってない。あんた達は私の大事な物を傷つけた」
「ああ……そうだよな……」
雷鬼は予想に反して蘭子の意見に同調した。その反応に蘭子は若干、気勢を削がれた。
「昔もそうだった。突然天道の民とか名乗る奴が現れて、俺達の生活を滅茶苦茶にしやがった。だから……悪いも良いもねえのかも知れねえ。相容れないなら戦うだけだ。そうだろ?」
雷鬼は笑った。悲しみを深い底に押し込めたそんな笑み。それは、鬼に対して無条件に敵意を抱いていた蘭子の心を揺さぶった。
「お前は俺の仲間を殺した。それは仕方ねえ……でもケジメはつけさせて貰うぜ」
雷鬼から発せられる稲妻が人間が視認出来る限界まで輝いた。
「俺は奴らのリーダーなんでな」
雷鬼の圧倒的な力に蘭子は……静に死を覚悟した