第一章 兄弟の日常
「ただいま~」
高校の制服に身を包み、学校指定の鞄を持った青年が靴を脱ぎ捨て家に上がる。どこにでもある普通の光景。
「お帰り~お兄ちゃん」
そんな声の主を出迎えるのは、妹であろう、若干のアニメ声という様な高い少女の声だった。
「おう。今日は早いな涼香」
リビングのソファーに座りテレビを見ていた少女、涼香に兄である相模憲次は声をかける。
「うん。今日は部活休みなんだ~だから早いの。ていうか、お兄ちゃんも早いね」
「俺はいつもこんな時間だ。帰宅部だから」
「あははは、枯れてるね~。お兄ちゃん青春してないんじゃないの~」
涼香は中学生にしては大人びた顔で、クスクスと笑った。笑うと長くて綺麗な黒髪がフワフワと揺れる。
「あ~あ。そんな事言うならさっきコンビニで買ってきたプリンは俺が二つとも食べよう。」
憲次がそう言うと、涼香は慌てた様にソファーから手を伸ばした。
「うそうそ! 格好良いお兄ちゃん。私、お兄ちゃんの事、尊敬してます!」
「はは、ほらよ。可愛い奴め」
憲次はそう言うと涼香の頭を撫でながら、コンビニの袋を差し出した。単純というか、シスコンの様に見える。
「うん。お兄ちゃん大好き」
妹である涼香も頭を撫でられて嬉しそうに目を細める。こちらも兄である憲次の事を好いているのが見て取れる。憲次がソファに座ると二人は揃ってプリンを食べ始めた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん? 何だ?」
テレビに視線を向けていた憲次が涼香の呼びかけにスプーンを銜えたまま答える。
「今日、さっちゃんが遊びに来るんだけど良い?」
「桜ちゃん? 別に良いよ。今日親父達帰って来ないからご飯一緒に食べてってもらえば?」
「うん。じゃあ、さっちゃんに聞いてみるね。ふふ、きっとさっちゃん喜ぶよ」
「ああ、そうか。ていうか、桜ちゃんこの前もうちに来てたな。うちに何かあるの? 一緒にやってるゲームとか」
憲次の質問に、涼香は何故か困った様に、頬をぽりぽりとかく。
「いや~別に、何でも無いかなぁ~うちが気に入ってるんだよ……」
「はぁ……そんなに良い家ですかね? 確かに親父がローンを組んで建てた一軒家ですけど」
「ははは、まあ良いじゃない。案外お兄ちゃんに会いに来てるのかもよ?」
「はは、そりゃ無い。俺と全然目を合わしてくれないもんあの子」
「ははは、お兄ちゃん……鈍いね」
笑いながら小さな声で涼香が呟く。その笑みにはどこか呆れが混じっていた。
「ん? 何か言った?」
「何でもな~い。お兄ちゃん、美味しいねこのプリン」
「お? そうだろ? コンビニで見た時から涼香に食べさせようと思ってたんだよ」
「本当? お兄ちゃん。優しい~」
涼香が憲次の腕に抱きつく。兄弟というには気持ちが悪いくらい仲の良い二人だった――。
『ブゥウウウウウウウウ、ブゥウウウウウウウウウウウウ』
携帯のバイブ音を聞いて、涼香が携帯を手に取る。
「あ、さっちゃんうちの前まで来たって」
「ん? ならインターフォン鳴らせば良いじゃん」
憲次が不思議そうに言うと、涼香は憲次の頭をコツンと叩いた。
「こら、そんな事言わないの。さっちゃん恥ずかしがり屋なんだから、お兄ちゃんが玄関に出たら可哀想でしょ」
「そんな事言われて俺が可哀想だよ」
泣きそうな顔の憲次をあやしてトテトテと涼香は玄関に向かう。しばらくソファに憲次が座っていると、やがて廊下から声が聞こえて来た。
「さっちゃんこっちにお兄ちゃん居るよ」
「え、え、でも私……こ、心の準備が……」
「何で準備が必要なのよ。取り合えず会えば良いじゃん。好き――」
「きゃぁあああああああ! やめて涼ちゃん!」
何だか騒がしい。どうしたんだろう……一体。
「はぁ……はぁ……お待たせ。お兄ちゃん。ほら、さっちゃん。遊びに来たよ」
何故か荒い息をして涼香がリビングに入ってくる。その服装も若干の乱れがあった。その手に引かれるようにして、涼香よりも小柄な女の子が涼香の陰に隠れる様にして入って来る。
「あ、あの……こんにちは」
顔を俯けながら挨拶するのはさっちゃんと呼ばれた少女、御堂桜だ。
「おう、いらっしゃい。桜ちゃん」
そんな桜をあっけらかんと、憲次は迎え入れる。その声に釣られる様に桜の顔が上がった。
顔を上げた桜の肌はとても白い。涼香もまた綺麗な肌をしているが、桜は雪の様にと表現するのがぴったりなほど真っ白で、顔立ちも涼香がどこかしっかりしてるのに対し、儚く美しい。和風美人といった容姿だった。まだ未完成ながら、将来を期待させる幼さの残る顔立ち。だがそれを見たからといって憲次は特に何かを感じる事無く、普段通りの態度で接していた。
「ゆっくりしていってよ。今日は親居ないからさ。俺も居ないと思ってリラックスしてよ」
にへらと憲次はどこかだらしない笑みを浮かべる。
すると向き合った桜は耳まで真っ赤にして俯いた。
「は、はい。ふ、ふつつか者ですが宜しくお願いします」
テンパリ過ぎて訳の分からない挨拶をしてしまう桜。自分でも可笑しい事に気付いているのか、より一層その顔を赤くした。
「? はは、面白いな~桜ちゃんは」
しかし、細かい事は気にしない憲次だったので、冗談の一つだと受け取る。
「ささ、私の部屋に行こうさっちゃん。挨拶は済んだでしょ」
「う、うん。分かった」
入って来た時と同じ様に、涼香に手を引かれ桜はリビングから出て行った。憲次はそれを確認すると、再びソファに座り直す。
「ふぅ……折角だから今日は豪勢な食事にしよう」
テレビの料理番組を眺めながら、今晩の献立を考える憲次だった――。
「お待たせ」
そう言って、エプロンを付けた憲次は大皿をテーブルの上に置いた。
「お疲れ様お兄ちゃん。さ、早く食べよう。私お腹空いちゃった」
「ああ、そうだな。じゃあ、食べようか。桜ちゃん」
「あ……はい。頂きます」
「いただきま~す」「いただきます」
三人が手を合わせ、夕食が始まる。
「ねえ。お兄ちゃん、これカニクリームコロッケ?」
「ああ、お前好きだろ。作ったんだ」
「本当? お兄ちゃんの作るカニクリームコロッケ美味しいから大好きなの。ラッキー!」
涼香はそう言ってはむとカニクリームコロッケを頬張る。するとカニのジューシーさと、クリームのまろやかなコクが口一杯に広がった。
「美味しい! さすがお兄ちゃん!」
涼香が口元に衣をつけて、恍惚とした顔を見せる。
「まだまだ。一杯あるからゆっくり食べな……桜ちゃんは何か苦手な物はある? 苦手なら無理に食べなくても良いよ」
優しい笑みを携え、憲次が桜に問いかける。すると桜は食卓に呆然とした視線を向けていた。
「これ、全部お兄さんが作ったんですか?」
桜の視線の先には憲次が作った料理が並んでいた。まずはメインディッシュであるカニクリームコロッケ。その隣には前菜であるアスパラガス、トマト、モッツァレラチーズにバルサミコスをかけたサラダ。スープはコンソメスープ。お皿にはピラフが盛られていた。
「うん。そうだよ。あれ? もしかしてバルサミコスとか苦手? 普通のフレンチドレッシングとかにする?」
「あ、いえ……嫌いな物は無いです……」
「そうか、桜ちゃんは偉いね。涼香にも見習わせたいよ」
桜の言葉にほっとした様に憲次は微笑む。
「何よ~。私だってそんなに好き嫌いないし~」
隣ではそれを聞いた涼香が不貞腐れた様に憲次の手を抓った。
「おいおい、お前が普通のドレッシングが苦手って言うからわざわざバルサミコスを作ってるんだろうが」
「ふふ、お兄ちゃん結構研究してたもんね。このソース」
「まあな。蜂蜜の配合とかかなり苦労したよ」
兄妹の会話を聞いた桜の瞳が大きく開く。
「もしかしてこれ全部手作りですか?」
桜の質問に憲次は簡単に頷いた。
「ああ、そうだよ。カニクリームコロッケのクリーム部分も自分で作ってるし、ピラフは炊飯ジャーで作ったんだ。カニクリームコロッケは硬くなり過ぎない様にするのに、結構コツが居るね。ピラフの方はレシピがきちんとしてれば、かなり簡単に作れるよ。べとつかない様に水の配分が少し難しいけどね」
「す、凄いです……」
桜が驚愕した様な、心酔した様な視線を憲次に向ける。だが、憲次はそれが当たり前の事だと思っているので、その視線に込められた意図には気付かない。
「お兄ちゃん本当に凝り性だからね~。一度やり出すと止まらないんだよ」
涼香が呆れた様に溜息を吐いた。だがその間も食事の手は休めていない。
「まあ、確かに。料理をしてると落ち着くけど」
「ふふ、お兄ちゃん。主夫みたい。あ、そう言えば、桜ちゃんもお料理上手なんだよ」
涼香は唐突に桜に話を振った。まさかそんな話になるとは微塵も思っていなかった涼香は当然の様にあたふたと慌て出す。
「わ、私なんて、お兄さんに比べたら全然……」
確かに憲次のレベルは世間一般からは若干逸脱している。
「へ~そうなんだ~。じゃあ今度は桜ちゃんが作ったのを食べてみたいね」
だがそれを自覚しないのが憲次であった。憲次の無邪気な笑みに、桜は楽しい食事の席には相応しくないほど悲痛な表情を浮かべる。
「が、頑張ります……」
色々な感情が入り混じった言葉だった……。
そういった事がありながらも食事は続き、憲次が作った特製餡蜜が食卓に並んだ頃だった。
「そう言えば涼香。今度の休みから一週間。爺さんの実家に行くことになったから」
「え! 何それ! 聞いてないよ!」
涼香は甘い蜜のついたスプーンを舐めながら、びっくりした猫の様に目を見開いた。
「ああ、俺もさっき携帯に送られて来たから。まあ準備しておいて」
「う~ん。分かった。でも急だね。どうしたのかな?」
「さあ? 孫の顔でも見たくなったんじゃない?」
憲次があやふやに首を傾げる。
「まあ、私は可愛いからね!」
ムフーと鼻を膨らます涼香にクスクスと桜が笑う。
「それは思っても人前では言うなよ涼香……」
憲次は苦笑いを浮かべた――。
「桜ちゃん。今日は泊まって行く?」
時刻は九時。これから帰るのもなんだろうと思い。食事の時と同じテンションで尋ねる。
「あ、いえ……親にも帰るって言ってあるから……」
名残惜しそうな雰囲気を漂わせながら、桜は申し訳なさそうに憲次の申し出を断った。
「そっか。じゃあ家まで送るよ。こんな時間まで引き止めて、何かあったら大変だからね」
「い、いえ……そんな。大丈夫です。一人で帰れます」
「駄目駄目。女の子がそんな無警戒じゃ。世の中には怖い人が一杯いるからね」
「そうそうお兄ちゃんみたいな」
「うるさい。涼香」
割り込んで悪ふざけをする涼香を軽く嗜め、その笑顔のまま憲次は桜を振り返る。
「じゃああと少ししたら行こうか? 涼香の部屋に忘れ物とかしてない?」
「はい。大丈夫です」
憲次に送って貰えると分かると、桜に笑顔が零れた――。
「涼香。外を出歩くんじゃないぞ。俺が帰ってくるまで、ちゃんと留守番してろ」
「はいはい。分かってるって。もう面倒くさいから外には出ないよ」
そんなやり取りをして、桜と憲次が家から出たのが十分前。
二人は桜の家への帰り道を談笑しながら歩いていた。
「いや~桜ちゃんは凄いね。この間の試験。学年トップでしょ? 涼香にも見習わせたいよ」
「いえ……そんな……私、なんて何も出来ませんから……運動も学校生活も……いっつも涼香ちゃんに守って貰ってばかり……です」
褒められ慣れていないのか困った笑みを桜は浮かべる。その顔はしかし幸せそうだった。
「お兄さんって……涼香ちゃんの事、大好きですよね」
そんな会話の中、珍しく桜の方から憲次に話しかける。
「うん。まあ、仲は良いと思うよ。主に涼香の我侭に俺が付き合ってる感じだけど」
「ふふ、優しいですね。お兄さんは……涼香ちゃんが羨ましいな……」
羨望だろうか? とにかく、眩しい物を見るように、桜の瞳が細まる。
「本当? 俺は桜ちゃんみたいな妹が欲しいよ。涼香と交換する?」
冗談半分で言った憲次の言葉、しかし、それに桜は耳まで真っ赤にして俯いた。
「あの……お兄さん」
「ん? どうしたの改まって?」
「お、お兄さんってその……付き合ってる人とか居るんですか?」
どこか切羽詰った様な口調で、途切れ途切れに桜がそう口にした。憲次は何とも言えない独特のプレッシャーに仰け反りながら、桜に答える。
「い、いや……いないですけど……ど、どうしたの?」
「ほ、本当ですか? そ、そうなんだ……そうですか……」
桜はそれに明らかに喜色の表情を浮かべた。
「な、何か嬉しそうだね……」
だが、その顔は憲次にとっては複雑な物だった。自分に恋人がいない事を喜ばれている……理由は分からないが、恋人がいないことは高校生のステイタス的には誇れることでは全くない。
「あ! ごめんなさい! ごめんなさい!」
憲次の微妙な表情を見て自分がどんな顔をしているのか自覚したのか、桜は顔を真っ赤にして謝った。もうそのまま茹で上がってしまうのではないかと憲次が心配してしまうほどだった。
「あ、良いよ別に気にしてないから……」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
申し訳なそうな桜を微笑ましく思いながら、憲次はニコッと笑った。
「ただいま~」
憲次が家に帰ると黄色いパジャマを着た涼香がテレビを見ながらポテトチップを食べていた。
「あ~お帰り~お兄ちゃん。ちゃんと送ってあげた?」
「ああ、家の前まで送ったよ」
ポテチを銜えたまま振り返る涼香の隣に憲次もドカッと座る。
「お疲れ様~。お兄ちゃんも食べる?」
ポテチの袋を無造作に涼香は差し出す。
「うん。食べる」
憲次は袋に手を伸ばすと遠慮なくぼりぼり食べ始めた。
しばらく兄妹は手元のお菓子を肴にテレビを見ていた。
「そう言えばちょっと変だったな、桜ちゃん」
「う~ん? 何かあったの?」
「いや、何か彼女いないのかとか聞かれた」
「ああ、何だそんな事か。別に変じゃなくない? 桜ちゃんお兄ちゃんの事好きだから」
「…………ん?」
涼香が世間話でもする様に言った言葉に憲次は固まった。
「あ、嘘ごめん。忘れて」
そんな空気を感じを取ったのか、油断しきっていた涼香の表情が一転して、慌てた物になる。口止めされていた事を漏らしてしまったかの様に、慌てて手を振って誤魔化そうとするが、一度口に出した声が戻ってくるはずも無く、気まずい空気が部屋に流れた。
「お前気を付けないと友達を失くすぞ」
憲次はテーブルになる麦茶に手を伸ばした。話はそれでお終いと言う様に。
「う、うん。気をつけるね」
涼香は肩を小さくして卑屈な笑みを浮かべた――