22.予兆とカウントダウン
—―嬢ちゃんは、こいつのこと信じられるかい?—―
そう言って男は試すように夏奈を見上げた。きれいさっぱり忘れてこの場を立ち去れと、暗に言っている。
——信じるよ——
応える夏奈の声は、震えていた。けれど、ここで退くわけにはいかない。
——くくくっ、本当かい?声が震えているぜ——
からかうような男の声。見慣れたはずのその顔は、見たことも無いくらい意地悪に歪んでいた。
——大丈夫。どんな話でも聞くよ。だから、全部話して——
負けるものかと、夏奈は男を正面から見据えた。
正直、今目の前で何が起こっているのか、夏奈には分からない。でも、放っておいてはいけない。そんな気がしたのだ。
——いい度胸じゃねぇか。気に入った——
男は夏奈の答えに満足そうに口角をあげて語り始めた。
そもそも、おかしな話だった。
女子とはいえ、顔を知っている人は大抵名字くらいは知っている。それなのに、つながりのあった神谷さんの友人である(彼女)の名字すら知らなかった。知ろうとすら、しなかったのだ。無意識に、頭が拒否していたのかもしれない。
それに気づいたのは、(彼女)をなっちゃんと呼ぶことになって1か月程経った頃のこと。きっかけは、本当に些細なことで。
その日はいい天気で、教室には暖かい日差しが差し込んでいた。廊下側の席に図割っていた僕も、思わずうたた寝してしまうほどに平和で幸せな昼休み。
廊下から聞こえてきた足音は、僕にとってのカウントダウンだったのかもしれない。ボソボソとした話し声に聞き覚えがあるような気がして、僕は心地よいまどろみから片足を抜いて、重いまぶたを上げた。声が意識と共に少しずつハッキリとしてくる。僕は軽く頭を振って眠気を振り払い、廊下を覗いた。
「あっ、叶!丁度良かった」
はっきりとしたその声は、案の定僕を呼んだ。
「あぁ、やっぱり吹雪かぁ・・・」
欠伸をかみ殺しつつ、声の方向へと視線を修正する。吹雪の後ろから、、不機嫌そうな少年がこちらをうかがっていた。
「あれ、渡部君までどうしたの。僕に用?」
わざわざ後輩を連れて3年の教室まで来るなんて、何の用だろう。
「そうそう、叶、電子辞書持ってない?渡部君が授業でいるらしいんだけど、私も周りも授業がなくて持ってないのよ」
「あぁ、そういうこと。あるよ、待っててね」
僕が笑いかけると、渡部君は不本意そうに顔を背けた。よほど嫌われたらしい。理由は分かり切っているけれど、僕にはどうしようもない。僕は苦笑しつつ、ロッカーから電子辞書を取り出した。
「おっ、2人とも何してんの?若に用事?」
背後で弾けた元気な声に振り向くと、先生に呼び出されていたなっちゃんが戻ってきたところだった。
「はい。少し辞書を借りに。江藤先輩、渡部君とお知り合いだったんですか?」
「うん!この前話したんだよねー?」
「そ、っすね・・・」
にこやかに対応する吹雪と対照的に、渡部君はぎこちなく視線を泳がせた。先日の件がトラウマなのか、僕だけじゃなくなっちゃんも苦手なようだ。
「なっちゃんおかえり。何してたの?」
「ただいまー。きいてよ!大垣先生ったさぁー」
誰かに話したくてたまらない。そんな様子でなっちゃんは僕の机に腰かけた。
こうなると、なっちゃんのお喋りは止まらない。僕はそれをこの1か月で学んでいる。
「・・・なぁ、辞書は?」
タイミングを見計らって、しびれを切らしたように渡部君が口を挟んだ。
「あぁゴメン。はい、これ」
「ん・・・終わったらすぐ持ってくる」
「別に放課後でいいよ。今日英語ないし」
何気なく交わしたやり取りに異議を唱えたのは、さっきまでご機嫌で語っていたなっちゃんだった。
「わーたーべー君っ。人に、しかも先輩に物を借りるのにそれはないんじゃない?」
意外にも、というと失礼かもしれない。それでも、僕は庇われた嬉しさよりなっちゃんが礼節に口を挟んだことへの驚きの方が大きかった。
いつも明るくて穏やかなのに、そう言ったところはきちんとしているのだと。何故か、胸にヒヤリとした感覚が広がる。
「・・・ありがとう、ございます・・・」
「ふっ、どういたしまして」
不本意なのを隠しきれていないのが、何となく微笑ましい。小さな違和感は、いつの間にか溶けてなくなっていた。気づけなかったのか、心のどこかで受け入れていたのかは、今となっては分からない。けれど、もし気付けていたなら、僕は逃げていただろう。
「・・・あんたってさぁ」
「ん?僕?」
渡部君はまじまじと僕を見つめ、小生意気な笑みを見せた。
「(若)っていうより、(バカ)って感じのお人好しだな」
「!?なっ・・・」
少しは、感謝してくれるかと思ったのに。呆気にとられる僕を余所に、隣のなっちゃんは1人大笑いをしていた。いや、もう1人。窓で顔を隠している吹雪も、肩が震えている。
「2人とも、笑いすぎ・・・」
「アハハッ、ごめん!失礼すぎる、けどっ・・・ツボった・・・!」
「も、もー、渡部君、失礼よ」
「吹雪さん?笑いながら言っても説得力がないよ・・・」
どちらか片方くらい、かばってくれたっていいじゃないか。僕の漏らした抗議のため息は、届くことなくかき消された。大きな音を立てて、僕の机が前へと倒れこむ。前の席にすがりつくように、なっちゃんが沈んでいた。
「いったぁ・・・っ!笑いすぎてバランス崩しちゃった」
腰かけていた僕の椅子ごと、派手に倒れたというわけだ。
「なっちゃ・・・」
大丈夫?そう問う前に、体が動かなくなった。頭の中で、声が聞こえるような感覚。
——あの時、こうやって手を伸ばせていれば——
すぐそこにいるのに、手を貸して起こしてあげなきゃいけないのに。
気付いてしまったんだ。もう逃げられないところまで来ていることに。
その日は本当にいい天気だったから、教室全体が明るくて
なっちゃんの涙ぐんだ眼に反射した光まで、今でもこの眼に焼き付いている。
「あはは、恥ずかしいなぁ・・・って、若・・・?」
この年になると、刺激になるような新しい経験なんて滅多にない。
こんなにも強烈な記憶を(思い出す)のは、一体何年振りだろう。
「っ、あ、なっちゃん・・・!?」
頭の中が引っ掻き回されて、足早に映像が駆け巡ったその中に、
「!?ちょ、若!?」
遠のく意識の中で、なっちゃんが僕を呼ぶ声がかすかに響く。
ごめんね、さすがに耐えられなかったみたいだ。
君にそっくりな女の子が、目の前で殺される、なんて記憶には。
お読みいただきありがとうございます
この章から少し暴力や残酷な描写がでてくる予定ですので、注意書きをさせていただきますが苦手な方はお気を付けくださいませm(__)m




