Good bye every day
40間近の不倫女の危機感はヤバイ。
不倫生活を続けて十三年。気が付いてみれば私、藤本理香子は四十歳目前だった。
相手は会社の上司。部署異動したばかりで仕事に慣れていなかった私を彼が助けてくれたのが始まりだった。
彼は私より十歳年上のもちろん既婚者。子供も一人いる。細かいところに気の付く人で仕事もてきぱきとこなすので、部下からも上司からも信頼されていた。けれど、私と付き合い始めた当初は奥さんと上手くいっておらず、家庭では冷遇されていた。いつも会社では頼れる上司として社員をまとめている彼が、奥さんには冷たくされている。そのギャップに、私は「支えてあげたい」なんて思ってしまった。
不倫なんてそんなものだ。誰もがやろうと思ってやるんじゃない。自分の欲望や都合のいい勘違いに身を任せて流された結果なのだ。
私も欲望の川に流されてここまで来てしまった。いけないことだとは思いつつ、別れることもできずにずるずると引きずってきた。気づけば四十目前。結婚もせず、子供もできず。何をしているんだろう、私は。
彼に奥さんと別れる気がないのは分かっていた。付き合い始めた当初こそ奥さんと上手くいっていなかった彼だが、最近は奥さんとの仲が良好になり、一緒に外食したり海外旅行にいったりしているらしい。高校生の子供も大学受験に成功して家族円満だとか。家庭が円満なら別れるなりなんなりしてくれればいいのに、彼は相変わらず週末には飲み会と偽って私の家を訪れる。私は心にある種のみじめさを抱えたまま、それでも彼を受け入れるのだ。
彼といても私に明るい未来がやってこないことは明らかだ。それでも、みじめさを感じても彼と別れられないのは、まだ好きだからとかそんな純粋な気持ちが湧いてのことじゃない。彼と別れたところで、私の人生が明るい未来へ進んでいくとは思えないからだ。今更一人になって私を愛してくれる男に出会えるのだろうか。もうすぐ四十になる、仕事しかしてこなかった女を誰が相手にするだろう。彼と別れても私は何も変わらない。変われない。みじめなままだ。そんな考えばかりが頭の中を巡って、結局は「このままでいてもいなくても同じなら、彼が別れようと言うまではこのままでいいんじゃない」なんて自分に言い聞かせてしまう。それで別れられないでいるのだ。
毎日、彼と別れた方がいい、別れなくてもいいの繰り返しで、私は悩みの輪廻から抜けられないでいる。本当に、何をしているんだろう。私。
ある日の夜、私は会社からの帰路でまた悩みの輪廻にはまっていた。
コンビニで買ったビールとつまみの入った袋を右手に提げて一人夜道を歩く。こうしていると、婚期を逃した中年女という実感が沸きあがってくる。
酷な現実に足を引きずるようにして歩いていると、向かいの歩道の奥に公園があるのが目に入った。いつも通る道なのでその公園の前は毎日通っていた。普段は気にかけもせずに通り過ぎるのだけれど、この夜だけはなぜか妙に目についた。夜の公園には街灯がぽつんと一つだけあった。あとは闇に包まれていて、奥の方は完全に黒に溶け込んでいた。その黒々したものが、こっちへ来い、と言っている気がした。どうせこのまま帰ってもやることもないし、待っていてくれる人もいない。たまには夜空の下で飲むのもいいか。そう思った私は、その公園に寄って行くことにした。
公園の中に入ると、当たり前だけど暗くて静かだった。けれども、よく目を凝らしてみると、柔らかい月の光が公園を照らし出していた。耳を澄ますと、虫の声や車が走り去る音が聞こえる。秋の夜らしい涼しい風が吹いて心地がいい。
私はブランコの前にあるベンチに腰掛けた。空を見上げると、白い星がちらちらと光っていた。綺麗な夜空に一瞬心を奪われるが、すぐにまたあの輪廻に引き戻される。
明日は土曜日。土曜の夜は、彼がうちにやってくる。昔はよく好きな映画の話や会社での愚痴を言い合った。けれど、今は彼の息子がああだ、奥さんがこうだという話ばかりだ。彼は長年付き合ってきたせいで、私が彼の家族の話を聞いてもなんとも思わないと思い込んでいる。そんなはずがない。不倫している分際でこんなことを感じるのは筋違いかもしれないけれど、それでもやっぱり嫌なものだ。特に今の私には。結婚していない事実、子供がいない事実を突きつけられる。苦しい。
それなのに毎週家に来ては愛らしきものを囁いていく彼から離れられない。
馬鹿だ、私は。
「もう。嫌になっちゃう」
暗い公園で一人そう呟いてビールを開けた。プシュッと炭酸が弾ける。現実から目をそむけるようにそれを煽った。アルコールで喉が熱くなって、少し落ち着く。
その時、
「お姉さんおひとりですか?」
と突然後ろから声がして、私はとても驚いた。あまりにも驚いて、ビールを少し吹いてしまった。慌てて口元を手で拭う。
こんな夜中に、こんな一人でビールを飲んでいるおばさんに、いったい誰が。そんなことを考えながら振り向くと、そこにはにっこり笑った青年が立っていた。大学生くらいだろうか。少し長めの黒髪で、優しげな大きな瞳をしていた。Tシャツに黒いカーディガンを着ていて、ごく当たり前のように笑顔でそこに立っていた。
その青年は笑顔のまま、もう一度言った。
「お姉さん、一人で飲んでるんですか?」
「あ……はい、おひとりです……」
私はぽかんとしたまま頷いた。すると青年は、やはり笑って右手に持っていたビニール袋を持ち上げた。その中には、ビールとチューハイ、そしておつまみらしきものが入っていた。
「良かったら、一緒に飲みません?」
私は一瞬迷った。だって、こんな若い男の子が公園で一人飲んでいるおばさんに急に声をかけるなんて絶対におかしい。私は今、実はとても危険な状況なんじゃないかしら。
けれど、青年の澄んだ瞳はとても悪さなんてしそうに見えなかった。そういう人ほど危ないって世間ではよく言うけれど、お酒片手に微笑む青年は、あまりにも人のよさそうな……というより、頭にお花が咲いていそうな雰囲気を漂わせていた。
私はベンチの真ん中におろしていた腰を右にずらした。
「おとなり、どうぞ」
私がそう促すと、青年は
「どうも」
と軽く頭を下げて私の隣にそっと座った。
私は何となく肩を縮ませて一口ビールを含む。夜の静けさが、耳の中で響く。
青年は座ったきり夜空を眺めていたが、暫くするとビールのフタを開け始めた。プシュッと炭酸が弾ける音が夜の公園に響く。青年はそれを意外と豪快に煽った。
「あ~っ。やっぱり夜空の下のビールは格別ですなあ」
きれいな顔に似合わないおじさんくさいことを言いながら、青年はけらりと笑った。
やっぱり、悪いことをする人には見えなかった。何だかおかしくなって、私も小さく笑った。
これが、私と篠崎くんの出会いだった。
あの日の夜、一緒にお酒を飲んで喋り倒したのをきっかけに、私と篠崎くんはすっかり意気投合した。
「お姉さんおもしろいですねぇ~。お名前なんて言うんですかあ~」
「なに~? ナンパぁ? 藤本理香子と申しまぁす。よろしゅうに~」
「よろしゅう、よろしゅうに~。僕は篠崎ですう。下の名前は……あれぇ、何だっけー?」
急に現れた青年・篠崎くんは大学生で、公園の近くのアパートに住んでいるらしかった。
お互いに軽く酔いが回っていた私たちは、他人には言えないようなことを喋りまくった。
会社のこと、大学のこと。友人のことから家族のことまで。話をしていくうちに、私と篠崎くんは趣味や好きなものが一致していて、なかなか気が合うことも分かった。気の合う仲間ができてすっかり機嫌がよくなった私は、酔っていたせいもあって一生誰にも言わないでおこうとしていたことまで話した。
「私、実はさあー……不倫してるのよね」
本当に、ぽろっと口から飛び出た。言ってしまったことに後悔することもないほど。
すると篠崎くんは、私の顔をみてぽかーっと口を開けた。
「えーっ。マジですかあ。それって何か……オトナですねー」
そういって、彼はあはは、と笑った。酔っていたからかもしれないけれど、彼はまったく驚いた様子ではなかった。
「……馬鹿ねえ。本当の大人なら不倫なんてしないわよ」
私は少しだけ笑ってそう言った。
篠崎くんのお気楽そうな笑顔に、私は気持ちが少し楽になるのを感じた。この人は、私の悩みをきちんと聞いてくれると思った。酔っ払い相手に何を言っているんだ、と思われるかもしれないけれど。直感的にそう思ったのだ。
その日から、私は夜の公園でしばしば篠崎くんと会うようになった。
私が話すばかりでなく、篠崎くんのこともたくさん聞いた。一人暮らしで炊事が大変なことや、大学の教授が理不尽なこと。サークルの人間関係が複雑でやめようかと思っていることとか、いろいろ聞いた。
でも結局は、私の悩みを聞いてもらうことになる。
「本当はね、彼と別れようかなって何度も思ってるの。けれど、やっぱり踏ん切りがつかないのよね……」
「へえ? 何でですか?」
「何でって……よく考えてみてよ。私、もう四十よ? こんなおばさん、誰が相手にしてくれるのよ」
「まだ四十じゃないですか」
「もう結婚適齢期すぎてるのよ」
「最近はみんな結婚遅いじゃないですか。高齢者の婚活パーティーとかありますしね」
「篠崎くん、それあまりフォローになってないわ」
こんな感じで、普通なら言えないこともぺらぺら喋ってしまう。篠崎くんは私と歳が一回り以上も違って、しかも男なのにもかかわらず、とても話しやすい人だった。私のくだらない愚痴にもきちんと一言一言返してくれる。
最初は頭にお花が生えていそうなんて思っていたけれど、意外ときちんとものを考えている人だった。学生らしくなくて、何を考えているのかはよくわからないけれど、ゆったりしていて、一緒にいると楽だった。
私は、篠崎くんと会うのが楽しみになっていった。
ある金曜日のこと。
私は会社の休憩室で一人コーヒーを飲んでいた。
今夜も篠崎くんに会えるかしら、なんて考えていると、休憩室のドアがガチャリと開いた。振り向いてみると、彼が煙草を片手に立っていた。
「やあ、お疲れさま」
彼は笑って少し手を挙げた。
「お疲れ様です」
私も笑い返す。
彼は私の隣に来て、煙草に火をつけた。白い煙が薄くのぼっていく。
「最近なかなか会ってくれないね」
灰皿に灰を落として、彼は微笑んで言った。
篠崎くんと会うようになってから、逆に彼とは会社以外のところで会うことが少なくなっていた。
「さみしいなあ。なにかあったの?」
「いいえ。特に」
私はコーヒーを飲みほして、わざと淡泊に答えた。彼に篠崎くんの話をする気にはならなかった。
「そうかな。何だか最近楽しそうだけど」
「そうかしら?」
私はしらばっくれる。彼は煙を長く吐いた。
「もしかして他に好きな男でもできたのかい?」
彼のその言葉に私は一瞬固まった。指先だけがぴくりと震えた。
――そういうこと、平気で言っちゃうんだ。
カップを握る手に少し力が入る。
慎重になったりしないんだ? 「そうですよ」って言われた時のショックとか考えて、普通は慎重になるものじゃないの? そうならないってことは、そんなものなんだ?
不倫だから、遊びってことは大前提かもしれない。でも、独り身の私からしたらそれは違う。家庭があるっていうリスクがあっても付き合っているんだ。そうしてしまうほどには好きだった。
それなのに、彼はそれを分かっていないようだ。全くかみ合っていないじゃないか。私たちは。
色々なことを思って、返事をできないでいた。けれど、私はそのうち他の思いにとらわれた。
――私、篠崎くんのこと、好きなの?
思ってもみなかった。そんなこと。篠崎くんは最近、夜の公園で出会ったばかりの学生で、かなり年下で……。
でも……そうかもしれない。彼と話していると楽しい。楽になる。歳の差なんて感じないほど。毎日のように会いに来る彼も、きっとそうなのだろう。
まだはっきりとした気持ちではないけれど、篠崎くんとは仲良くやっていける気がする。
不倫なんて不健全な関係じゃなく、世間から隠さなくていい関係を築けるんじゃないかしら。
「どうしたの? もしかして図星だった?」
彼が隣で笑ったまま尋ねてくる。
私は彼を見つめた。彼の笑い皺が、私は好きだった。
「……そうかもね」
そう言って笑い返すと、一瞬彼の顔から笑顔が消えた。本当に、さっと音がしそうなほどに。
しかしすぐにまた笑顔に戻った。
「またまた。で、今度はいつ会えるかな?」
「……今度?」
その態度を見たとき、私は、ああ、と心の中で呟いた。胸の奥で何かがすうっと引いていった。
ああ、何だ。この人、私がずっと自分を好きでいると思っているんだ。
その通りだ。私は確かに今でもこの人が好きだ。だいぶくたびれた感情だけれど、少しずつこの関係が嫌になってきているけど、まだ好きという気持ちは消えてはいない。
でも、もし篠崎くんが私を受け入れてくれるなら、私はこの人から離れていくだろう。
私はカップをごみ箱に捨てた、
「ごめんなさい。当分は会えないかも」
それだけ言って、私は彼を置いて休憩室を後にした。
「私ね、今の会社辞めて他のことをしたいなって思っているの」
夜、いつもの公園で私は篠崎くんとまた会っていた。
「えーっ。何したいんですか?」
篠崎くんは自動販売機で買ったジュースを飲みながら首を傾げた。
「私、昔から雑貨店開くのが夢だったの」
「雑貨店ですか!」
「うん。お金もある程度貯まったし、そろそろお店開けるかなって」
「いいですね。理香子さんなら、女の子ウケのいいお店開けそうですし」
篠崎くんは笑って言った。
本当は、会社を辞めようなんて本気じゃない。お店を開きたいのは事実だけど、不安でやっていける自信が無くて踏み出せずにいる。結局私は何に関しても臆病なのだ。
でも、篠崎くんと話していると、何でだろう。やれる気になる。
「ああ。でも、会社やめるなら彼と別れなきゃね……」
私はぼそりと独り言のように言った。何だかわざとらしい気がした。
篠崎くんは街灯の下のシーソーにまたがった。
「そうですよねえ。会社辞めたら、上司サンと会うことめっきりなくなっちゃいますもんね」
「そうなのよ。でも……やっぱり、彼のことまだ好きなのよね」
そう言うと、篠崎くんは腕を組んで、「う~ん」と唸った。
「でも、お互いの本当の幸せを願って別れるのも、ひとつの手じゃないですか」
お互いの本当の幸せ……。
少しだけ息が苦しくなった。
やっぱり彼は、私と別れた方が幸せなのだろうか。私も、彼から自立したほうが充実した日々を過ごせるのだろうか。
私はシーソーにまたがって夜空を見上げる篠崎くんを見た。真っ黒で真っ直ぐな髪が、街灯の光に照らされて、天使の輪っかができている。
この人と一緒なら、もし彼と別れたとしても、楽しく過ごせる気がする。お互いに心の探りあいをしたり、馬鹿みたいな喧嘩をしたりしなくて済む気がする。
「理香子さんが上司サンといて苦しいなら、別れてみるのもアリでしょう」
「……そうかもね。新しい一歩を踏み出すきっかけにね」
私は小さく頷く。新しい一歩。どこへ続く一歩なのだろう。
「そうですよ。それに、理香子さんみたいにバリバリ働く女性が好きな男って多いですよ」
「ないない。言い寄られたことないもの」
笑って私は首を横に振る。
「それは理香子さんにスキがないからじゃないですか~」
「え。私、スキのない女なの?」
「僕から見るとかなり」
「うっそ。初めて言われたわよ」
私と篠崎くんの笑い声が夜の公園に響く。
お皿のように丸い月がきれいに空に浮かんでいた。とてもきれいだ。今まで見た月のなかで、一番丸くて、強く輝いている気がする。
「私、篠崎くんと話しているととても楽しいわ」
月を見上げたまま、私は言った。
「何ですか、急に。僕も楽しいですけど」
あはは、と篠崎くんは優しい声で笑う。
「あなたって優しいのよ。こんなおばさんの話聞いてくれるんだから」
「もう。いちいち悲観しないでくださいよ。僕は好きでここにいるだけですから」
大きな目を細めて篠崎くんは微笑む。気づかいでできる笑顔ではなかった。
優しいのだけれど、優しさだけから出てきた言葉じゃない。
本当にそう思っているのだと分かって、私は顔が熱くなった。
それをごまかすように、私はもう一度、月を見上げた。月は周りに光の輪ができるくらい、明るく光っている。
何だかこの世界に私と篠崎くんだけが取り残されたような、メルヘンチックな感覚になりながら、私は呟いた。
「ねえ、篠崎くん」
「はい、何でしょう?」
篠崎くんがおどけた口調で返事をする。
私は月を見上げたまま、言った。
「私たち、付き合ってみようか」
一瞬、沈黙が流れた。急な沈黙に、耳が痛くなる。
「えー。マジですか」
すると、シーソーに乗ったままの篠崎くんが半分笑っているような声で呟いた。
私は月から視線を外して頷いた。
「マジよ。ほら、私たち気が合ってると思わない?」
「まー、お笑い芸人の趣味はあってますよねえ」
篠崎くんがシーソーから立ち上がる。こっちに来るでもなく、その場に立ち尽くす。
「他にも、食べ物の趣味も同じでしょ? パスタが大好きだし、お肉は中まで火が通っていないといや。それから音楽だってクラシックが好きでしょ。すっごくいいペアじゃない? 私たち」
きっといい恋人同士になれる。好きなものを共有して、楽しく時間を過ごせる。
だって、話していてこんなに楽しいんだもの。二人で映画を見たり、旅行に行ったりしたらとても楽しいに違いない。
もう、みじめになって悩むこともなくなるだろう。
「上司サンとは」
その時、篠崎くんが静かに口を開いた。見ると、私を真っ直ぐに見つめていた。
少しだけ微笑んだままで。
「上司サンとは、趣味があっていたんですか?」
私は黙って目を丸くした。この人はどうして今、彼の話をするのだろう。
秋の風が冷たく吹いた。
「いいえ。そんなに合ってなかったと思うわ」
少し呆然として、私は首を横に振った。
彼はお笑いを見なかった。パスタよりラーメンが好きだった。音楽はジャズをよく聴いた。
今思ってみれば、私と彼は違うところだらけだ。でも、私は彼が好きだ。好きだった。
「私と彼、趣味があったことなんてないかも」
私がそういうと、篠崎くんは笑った。にっこりと、笑った。
「じゃあ、趣味があって好きになって、付き合っているわけじゃないんですね」
篠崎くんの笑顔は、とてもきれいだった。
腕のいい画家が描いた絵みたいだった。
このとき、私はようやくわかった。
断られているんだって。
「あ………」
思わず声が漏れた。驚いたのと、情けないのとで。
顔が熱くなった。恥ずかしさで。
何をやっているんだろう、私は。
たまたま出会った一回り以上歳の違う子に、恋をした気になって、こんな公園で「付き合わない?」だなんて。
滑稽すぎる。
私は熱くなった顔を俯かせた。もう何も見たくなかった。聞きたくなかった。
「理香子さん」
篠崎くんの声がする。いつもどおりの、おっとりした声。
私は少しだけ顔を上げた。
「……ごめんね。おばさんにこんなこと言われて、困るわよね」
まさに蚊の鳴くような声で私は呟いた。子供のようだ。
俯く私の前に、篠崎くんの足音がゆっくり近寄ってきた。そうして、おっとりした声のまま、言った。
「理香子さん。今、僕にフラれて辛かったですか」
「え……?」
篠崎くんの言葉に、私は完全に顔を上げた。
月の光を背負った篠崎くんが、私の目の前に立っていた。
「僕にお付き合い断られて、泣きたくなりました?」
篠崎くんはもう一度言った。その顔は、もう笑顔ではなかった。
この子は何を言っているんだろう。
見たこともないくらい真顔の篠崎くんを見て、私は思った。
人の気持ちが分からない子じゃない。想いを受け入れられなかったら辛いに決まっている。フラれたら泣きたくなるに決まって……。
「……おかしいわね。辛くないわ……」
自分でもびっくりした。私は傷ついていなかった。
辛いとか、悲しいとかじゃなくて、ただ恥ずかしいとしか感じていなかった。
もしかしてフラれるとどこかで分かっていたのだろうか。心の中で、何かがスーッと冷めていった。
私がびっくりして固まっていると、篠崎くんが小さく声を立てて笑った。
「ね? 辛くないでしょう。つまり、そういうことですよ」
いつもの柔らかい笑顔を浮かべて篠崎くんは言った。
何が「そういうこと」なのだろうか。
後ろに手を組んで、篠崎くんは一歩一歩歩いていく。歩きながら、歌うように言った。
「理香子さん、寂しかっただけでしょう」
「寂しい……?」
私は、まるで知らない言葉のように復唱した。
「そうです。ひとりになりたくないんですよ、きっと。じゃなきゃ、こんな青二才どうにかなろうなんて考えないですよ」
篠崎くんは、何もかも分かっているような口調だった。優しい笑顔も、この世のすべてを悟っているような感じがした。
私は黙って聞いているしかなかった。
「誰か番がいないと不安なんでしょう。だから、話しやすい、一緒にいると楽な僕をその位置に据えてしまおうって考えちゃったんじゃないかな」
考えながら喋っているのか、篠崎くんは首を傾げながら言葉を紡ぐ。
「でも、辛いことがあっても、楽なことばかりじゃなくても一緒にいるのが本当の恋人じゃないんですかね。いろいろ面倒なことを一緒に乗り越えられるのが恋人でしょ? 僕たちにそれができると思いますか?」
「あ……」
篠崎くんの言葉を聞いたとき、私はまた驚いた。
本当だ。私は、篠崎くんといて「楽」だとばかり考えていた。一緒にいたらいずれ訪れる困難や苦しみをともに乗り越えてでも一緒にいたいか、だなんて全く考えていなかった。
私はただ、楽になりたかっただけなんだ。
いくらなんでも、盲目になりすぎていた。
「僕は、理香子さんとは、楽しくお喋りできる友人でいたいです」
篠崎くんが、ひらりと振り返る。
「恋人や配偶者がいないからって、本当にひとりなわけじゃなくないですか。僕という友達だけじゃ、頼りないかなあ」
そりゃあ、まだ学生ですけど、と篠崎くんは頭を掻く。
この人はよく人を見ているんだ。その人がわからない心の奥まで。
私が苦しくって目をそらしていたことを、真っ直ぐ見ていたんだ。きっとこの人は、そんな大げさなことではないと思っているだろうけど。
不倫なんて馬鹿なことをして、寂しさを埋めてくれない不倫相手に振り回されて、悩んで悩んで盲目になったおばさんの目を覚ますくらいのことはした。
「もっといろんな生き方ありますよ。きっと。自分の人生を大切に、お互い頑張って生きていきましょう!」
拳を高く突き上げて、篠崎くんは笑った。
その笑顔をみて、やっぱり私は、楽になった。
「……そうね。そうしましょう」
私はそう言って、笑って見せた。
夜空に浮かんだ月は、相変わらずきれいに輝いていた。
それから数日後。
私は、彼と別れた。会社も辞めた。
いろいろと面倒な手続きをしなくてはならなかったけれど、きちんと全てに決着をつけた。
彼はなかなか私の要求に頷いてくれなかった。けれど、これまでのことを全て話すと、「頑張って」と言って別れてくれた。会社を辞めるときは、私は結構バリバリ働いていたので辞めないでほしいと言われたが、押し切った。
篠崎くんにきれいにフラれて、私は男に振り回されるのが馬鹿馬鹿しくなった。私が勝手に振り回されていたのだけれど。巻き込んだ人にはごめんなさいと言いたいくらい。
私が彼と別れて分かったことがある。自分がいかに自己中心的だったかということだ。彼と別れたら私がこうなる、付き合っていたら私がああなる、ということばかり考えて、彼や彼の奥さん、子供のことを一切考えていなかった。痴情の果ての盲目って恐ろしい。
まあ、奥さんと子供のことを考える頭と心の余裕があったなら、そもそも不倫なんてしていないのだけれど。
ちなみに、篠崎くんとはもう会っていない。
私が血迷って告白まがいのことをした夜、篠崎くんが「もうここへは来ません」と言った。実は、篠崎くんには彼女がいたらしい。それで、血迷った結果とはいえ、告白してきた女性と会い続けるのは彼女に悪いからと、その日を最後に現れなくなった。
私がいちばん謝りたいのは篠崎くんかもしれない。あの公園、きっと気に入っていたんだろうに。
でも、私は篠崎くんに会えて本当に良かったと思う。あの人のおかげで、私は新しい一歩を踏み出せたのだから。
「もっといろんな生き方ありますよ。きっと」
篠崎くんの言葉に、私は従ってみようと思う。何にも振り回されず、やりたいことをやって、私は私らしく生きていこう。
心機一転、昔からの夢を叶えようと思う。私の雑貨店を開くのだ。女の子ウケのいい、おしゃれなお店を構えてやる。
さて、そうとなったら店舗探しだ。私はノートパソコンを開く。
いつかお店が繁盛したら、彼と篠崎くんを呼んでみよう。
彼はきっと驚くだろう。篠崎くんは「やっぱり、いいお店ができましたね」なんて言うかもしれない。
二人の顔を思い浮かべて、私は一人で笑い、マウスを手に取った。
不倫したことない大学生なので、真実に触れているのかどうかわかりません。
ただ、これを書いているとき苦しかったのは事実。(締め切りに追われていたため)
ご精読ありがとうございました。