大団円ハッピーエンド企画 「チロ」
「きゅーん……」
力無く垂れた尻尾がこの子の気持ち……
チロ…… ごめんなさい……
◇ ◇
「どうしても無理なのかしらね?」
「無理に決まってるでしょう? お義母さんが入る介護老人ホームはペット不可。うちのマンションもペット禁止。お義母さんも知人を全部あたられたんでしょう?」
「ええ……」
「だったらもう……」
「ペット可の施設を探すのは……」
「そういう所に空きはなかったでしょ? それに入居日は明日ですよ? それとも今からキャンセルして、私達がおいそれと会いに行けない所まで候補に入れて探しますか?」
「……そうね、ごめんなさい…………」
この事はここに至るまで家族全員で一年近く話し合ってきた事……
チロ…… ごめんなさい、私が駄目なせいで……
二年前…… 私が高い場所の荷物をとろうと椅子に登った時に足を踏み外して落下……
その際に骨盤骨折してから回復後もまともに歩けなく……
それでも何とか誤魔化しながら愛犬の為にと一人暮らしを続けてきたけれど、その無理がたたり遂に車いす生活となったのです。
それからは、小学生の娘がいる上に共稼ぎで忙しい息子夫婦が、それでも都合を付けては私の介護に通ってくれていたけれど、夫婦に二人目の子供が出来た事がわかり、それも限界……
私の方から施設に入る事を希望した。
施設探しは近隣に一ヶ所だけ運良く空きがすぐに見つかったものの、問題が一点……
そこではペットが飼えないのでした。
それで範囲をギリギリまで広げてペット可の施設をあたりましたが、そういった所は何年も先まで予約待ちで一杯で。
それ以来、チロの引き取り手をずっと探し続けました。
けれど、ついに引き取り手は見つからずじまい……
もう七歳という年のミックス犬では、任せられるという相手を見つけるのは困難だったのです。
そして明日には私が施設に引越と同時にチロとのお別れ……
もう駄目…… チロ…… ごめんなさい。
最後の夜、チロが私から離れようとしません。
ずっと私の顔や手を舐めたり、私の側で丸くなって眠ったり……
私が少しでも動くとびくりと反応しては私の顔を見つめてくる。
この子もわかっているのね……
「ごめんね、チロ…… 私もあなたと離れたくないの…… 本当よ……」
「きゅーん」
私の言葉に垂れた尻尾を小さく振るチロ……
こぼれ落ちる涙を拭う事もせず、私はチロを抱きしめた……
◇ ◇
「おかーさん、チロ捨てちゃうの?」
「……仕方が無いのよ」
「やだー うちで飼おうよぉー」
「郁美、無理言わないで!」
「だって……だって…………ひぐっ……うぇ……うぐっ………… うわーーーーーん」
泣きたいのは私よ……
本当に捨てたいわけが無いじゃ無い……
ご近所の知り合いは勿論、それこそ、私と夫の勤め先…… 同僚の知人、会社の取引先に至るまで、なんとかならないかと貰い手を探し続けた……
それなのに……
もう、明日はお義母さんの老人ホーム入居日。
このマンションが持ち家で無ければすぐにでもペット可な所に引っ越したのに……
◇ ◇
「母さん、もう行くよ」
翌日の明朝……
お義母さんを施設に送っていく為に、お義母さんの家を車で訪れた。
そしてチロとのお別れの日でもある……
娘も一緒に最後のお別れをしに来た。
「もうちょっとだけ……」
「……きゅーん」
「仕方ないなぁ」
夫が車の中からお義母さんを呼ぶも、お義母さんもチロも離れようとしない。
勿論、夫だってチロが小さな頃から見ているのだ、無理を言える筈も無い……
当然私も……
けれど、いつまでもこうしている訳にもいかなかった。
「母さん、そろそろ時間が」
「ええ……」
お義母さんを施設に送り届けた後、私達はチロを保健所に連れて行かないといけない。
チロ、ごめんなさい……
ごめんなさい……
「あの、すみません」
チロ……
「えーと…… すみません、ちょっといいですか?」
チロ………… え?
「あ、はい。なんでしょうか?」
「すみません。お取り込み中でしたら後でもいいですよ」
「い、いえ、構いませんよ」
「どうも、すみません」
誰だろうこの人は。
見ない顔だけれど、若い男性…… 高校生? いや雰囲気的には大学生ってところかしら。
うちに何の用事だろう?
「あの、向こうに貼ってある張り紙を見たんですけど、犬…… 僕が引き取ってもいいですか?」
「……え? 犬? 引き取る?」
「あれ? 貰い手を探してるんじゃ無いんですか?」
「あっ。いえ、探してましたけど、張り紙?」
「はい、そこの」
そう言って、彼が通りに面した垣根の方を指さした。
言われてそこへ行くと、確かに張り紙が貼ってあった…… これは……
【いぬをもらってください】の大きな文字、それから下手くそな犬の絵……
そして……
【ちろをたすけてください】
これ……郁美だわ。
昨晩何かしてたのはこれだったのね……
「今日、ここを通りがかったらこれが貼ってあって…… 僕が住んでるアパート、古いけどお陰でペット可なんですよ。僕で良ければ引き取らせて下さい。ここから近いし、たまには会わせてあげる事も出来ると思います」
「……そんな、いいんですか?」
「僕、実家でも犬飼ってて、こっちに連れてきたかったんですけど、うちの親が離してくれなくて…… 寂しかったんで丁度良かったです」
「あの…… 義母にも聞いてみます」
「はい」
「お義母さん」
「なにかしら?」
「この人が、チロを引き取りたいって今来られて……」
「……え?」
そう彼をお義母さんに紹介すると、彼は会釈してお義母さんに話し始めた。
「初めまして。僕はこの向こうのスーパー裏手にある古いアパートに住んでいる重永と言います。○○大学にこの春から通ってます」
「本当に近くなのね」
「はい」
「それで、チロ…… ええと、この犬を引き取って下さるって話ですけど…… 本当にいいの?」
「はい。この子ですか、とっても可愛いですね。チロちゃん初めましてー」
そう言って彼はチロの前にしゃがんで目線を近くし、にっこりと笑いかけた。
そうしていながらあくまで自分から手は伸ばさない。
チロの方から近づいてくるのを待ち、すんすんと匂いをかぎ始め尻尾を振ったのを見て初めて、チロによく見えるようにゆっくりと手のひらを差し出したその姿に、初めて接する犬に対しての立ち回りに慣れている様子が窺えた。
それから、こちらから彼にチロの性格と飼い方を説明して……
実家でも彼が犬の世話を主にしていたらしく、飼い方にもとても詳しいのがよくわかる。
それに何よりも、チロを見る目がとても優しく、チロの方も彼にすぐに甘えて懐いたのが決め手となった。
この人なら信頼出来そうに思える。
ほっと一息ついて安心して話をしていると、こうなった事情にまで話が及んだ。
「そうですか、それは残念でしたね。でも、チロちゃんに会えなくて寂しくないですか? 良ければ僕がこの子を施設に連れて行きますけど…… 面談コーナーとか、そういう所で会えるんじゃないですか?」
「え? あ……ああ、そうね。施設の方に聞いてみるわ。可能なら本当にお願いしてもいいのかしら?」
「ええ、勿論です。チロちゃんも喜びますよ」
ああ、本当に良い人なんだわ、彼。
お義母さんもとても嬉しそう。
良い人に貰われたわね、チロ。
そんな良い雰囲気の中、娘が声を上げた。
「私はー? 私もチロとお散歩とかしたいっ!」
「え? えーと、それは…… 僕の家に来たい……って事?」
「うんっ!」
「…………」
娘の言葉に困った風に彼が私達の方を見た。
「えっと…… お父さんとお母さんがいいって言ったら……ね?」
「やった! ねっ、ねっ、おとーさんっ、おかーさんっ、いいでしょ?」
「なに? それは…… んー」
娘の満面の笑顔に夫も困り顔。
まあ、それはそうよね。
小学生の娘が一人暮らしの男性の家に行くとか、普通、許容出来るわけ無いし。
でも……
「それなら、あなたが一緒に連れてきてあげればいいじゃない」
「え? お前、それは……」
「おとーさんっ! おねがいっ」
「ここで駄目って言っても、この子、自分でこっそり行くようになるかもしれないわよ? それでもいいの?」
それくらいなら、むしろきちんと監視の目が付く条件で納得させる方がいい。
「……わかったよ。重永君、君もそれでいいかな?」
「ご家族がよろしいなら僕は。良かったね、君」
「私、いくみっ。きみじゃないっ」
「ああ、ごめん。良かったね、いくみちゃん」
「うんっ!」
◇ ◇
「わんっ!」
「あははっ、チロくすぐったいよ」
チロが私の顔をペロペロと舐めまくる。
あれから十年余り…… 私も既に大学生。
チロも年をとりました。
でも、まだまだ元気です。
「郁美ー、チロのご飯出来たぞー」
「はーい」
「これ持っていってあげて」
「はいっ」
私を呼ぶ彼は重永陽志さん。
勿論、チロを助けてくれたあの人です。
卒業後も隣の市にある会社に就職を決めて、この町に残ってくれました。
そして今は私の…… えへへ。
「はい、チロのご飯だよー」
じゃっじゃーん、陽志さん特製チロの長生きご飯~
私達を巡り合わせてくれた仲人として、チロには長生きして貰わないとねー
尻尾をパタパタと振りながら一心不乱にご飯を食べるチロ。
これだけ食欲があればまだまだ大丈夫よね。
「陽志さん、チロ、今日も美味しそうに食べてるね」
「毎日、味と栄養のバランスには苦心してるしな」
そう言って陽志さんは苦労の欠片も感じさせない笑顔を浮かべる。
陽志さんはあれからずっとチロを大事にしてくれた。
あの時、絶望の私の目に映ったチロを救ってくれた彼の姿はヒーローそのもので……
その優しい瞳に、柔らかな人柄に私が彼を大好きになったのは、もう仕方の無い事だよね。
◇ ◇
「大学合格おめでとう、郁美ちゃん」
「ありがとうございます。これも陽志さんが家庭教師をしてくれたお陰です」
私は進学先として陽志さんが卒業した大学を選びました。
それは大学OBに家庭教師をして貰えば対策バッチリという口実で、この人にもっと近づきたいから……
両親は男性の家庭教師は……と、最初余り良い顔はしてくれませんでしたが、彼があれからずっとお婆ちゃんの為に施設にチロを連れて来続けていてくれた結果、お婆ちゃんは完全に陽志さん贔屓。
お陰で私の気持ちを汲んでくれて全面的に私の味方として両親を説得してくれました。
「そんな。僕が教える事なんて何も無かったじゃないか」
「……ううん、そんな事無いです。陽志さんが側に居てくれるだけで私、頑張れたから……」
「郁美ちゃん?」
「……私、ずっと陽志さんの事が――」
「ちょっ、ちょっと待って、郁美ちゃん」
陽志さんが慌てて私の肩を掴んで告白を中断させた。
「なんですか?」
「僕はそんなつもりでチロを引き取った訳じゃないし、郁美ちゃんの家庭教師を引き受けたつもりも無いよ?」
「わかってます。そんな陽志さんだからこそ私は陽志さんを好きになったんです」
「でも、僕は……」
「私、子供ですか? 陽志さんには釣り合いませんか?」
「いや、そんな…… むしろ僕の方こそ随分年上だし、郁美ちゃんには釣り合わない……」
「そんな事無いですっ!」
「……っ」
「私は陽志さんがいいんです。陽志さんじゃなきゃ駄目なんです…… 私じゃ……駄目ですか?」
「……駄目……じゃない。郁美ちゃんは優しいし、可愛いし…… むしろ、僕の方からお願いしたいくらいで」
「それじゃ?」
「うん。ふつつか者だけど、よろしくね、郁美ちゃん」
「こちらこそっ!」
◇ ◇
「チロ、もうお腹いっぱい?」
食べて満足したのか、寝床の毛布をカシカシと掻いては気に入った形を作ろうとしている……
ちっとも変わってないけど……
「チロー、全然変わってないよー」
そう声をかけるも、チロはひたすらに毛布を掻き続ける。
それでも散々ひっかいて本犬的に満足したようで、ぽすっと毛布の上に座るとその膨らみに顎を乗せて目を閉じた。
「寝ちゃった」
「だね」
そう言いながら、陽志さんは眠るチロの身体にそっとタオルケットを掛けた。
「……ありがとね」
「なんだい? 突然」
「なんだか、昔の事を思い出して…… あの時、陽志さんが来てくれなかったら今、この時間は無かったんだなって」
「ん……あの時、郁美が一生懸命だったから僕に伝わったんだよ、きっと」
「……ありがと」
「それに……」
「……それに?」
「こんな可愛い彼女も連れてきてくれた。チロには感謝だよ」
「……っあ?」
なっ、なによー、不意打ちずるいっ!
「だから、チロには長生きして僕達の結婚式で仲人役をして貰わないとね」
「……んっ、うんっ!」
「チロ、長生き「しろよ」「してね」」