プロローグ
エルサレム
その胸の深き染み渡る響きに
どれほど人が魅せられたことか
その誰をも懐古させる遠景に
どれほどの人が羨望させられたことか
されど そこへ通ずる道のりは果てしなく遠い
古来よりこの何人をも魅了するこの都をめぐっては、幾多の争いが繰り返され、幾度となく戦火にまみえてきた。その幾重にも重なる歴史という書物の頁ひとつひとつを紐解くことに意味はなさない。しかし、ただひとつ。あの日のことだけは話しておこう。すべての契機となったあの日 ― イスラム教徒がはじめて都の主となった時のことを。彼らはどのようにして入城したかを…。
638年2月 ― この日は、冬の一日でありながら、砂漠地帯特有の乾燥した大気が天を覆い、雲一つなく晴れわたった空からは、強い日差しが大地に降り注がれていた。
老いてはいるが、それを微塵にも感じさせずに他を威圧し、威厳をもって君臨している女王のように、歴史が始まって以来何ら変わらず、この城塞都市は小高い丘陵の上に座していた。
エルサレム ― その都市は美しい名で呼ばれていた。しかし、今やこの城塞都市の、陽に照らされて金色に輝く城壁に人影はなく、いつもは市が立ち、多くの商人でにぎわっている城内から何一つ物音はせず、門も堅く閉ざされたままで、張り詰めた緊迫感だけがそこを支配していた。
しかし緊迫感が支配していたのは、何も城塞の中だけではなかった。この堅固な砦を囲む丘という丘に、それも見渡すことのできるすべての大地に、無数のテントが張られ、さらにその合間を無数の駱駝とさらにそれを上回る数の兵士が、そこを埋め尽くしていたのである。それほど見通しのよくない高台に立ってみても、これらのものが地平線のかなたにまで続いていると錯覚しても、無理はないことだろう。そしてこれらは、一様にして、今まさに囲んでいるその城塞に、張り詰めた意識を向けていたのである。イスラム教徒によるエルサレム侵攻の最終章は、今まさにこうして始まろうとしていたのである。
アラビア半島 ― その東西の文明が交錯する地に、その後の世界の歴史を大きく変えてゆく出来事が起こったのは、わずか数十年前のことである。すなわち、後の世に、彼の信奉者たちによって予言者ムハンマド(マホメット)と呼ばれる男の出生であり、彼を神の使徒とするイスラム教の誕生である。
厳格性をもってよしとするこの教えは、砂漠の民に深く受け入れられ、瞬く間に深く広く浸透していった。それはムハンマドの死後二年にして、征服活動という形を取りながら支配地域を拡大していくことから始まった。当時、アラビアの西にはローマ、東にはペルシアという二つの大帝国が存在していた。これらは、いずれも興隆の時期を過ぎたとはいえ、依然巨大な軍事力と富によって東西に覇を唱えていた。イスラム軍勢は、この二つの勢力と衝突し、そして勝利の声をあげたのである。ローマ軍は636年にヨルダン河支流のヤムルークにおいて、ペルシア軍は637年夏に、ユーフラテス河の南のカーディシャーにおいてイスラム軍に敗れ去ったのだった。
もはやエルサレム攻略への道を阻むものは何もなく、イスラム軍は悠々とその前に姿を現したのだった。
この城塞を囲むイスラム軍が布陣する丘の中でも、まさに眼下に城壁を見下ろせる高台の一角で、武将の一人が先ほどから何度も同じ言葉を繰り返していた。彼は周囲に座している他の男達と同様に、銀と革の鎧を着込み、腰には大きな半月刀を下げている。少し丸みを帯びた鼻は、赤く焼けただれている。できものでもできているのだろうか、指先で時折せわしなくかきあげ、強くすする動作を繰り返している。
「こんな馬鹿なことがあるか。一体どうなっているのだ」
苦虫をかみつぶしたような表情から、何度も同じ言葉が吐き捨てられている。
「わからん。待つことにどんな意味があるというのだ」
その武将は、テントとテントの間をせわしなく歩きながら、その言葉と同じように、さきほどから頭を左右に振ったり、深くうつむいたり、同じ動作を繰り返していた。
「俺は預言者より、『アッラーの剣』と呼ばれた男。俺なくして、ダマスカス陥落もヤムルークにおけるローマに対する勝利もなかったはず…」。
武将は苛立ちを抑えきれずに言った。
「駄目だ。待てぬ」
突如武将は、それまで繰り返していた動作に終止符を打つがごとく、顔を上げると、無数に点在するテントの中でも、ひときわ目立つ純白の大きなテントに向かって、早足で歩き始めた。
純白の大きなテントの前に、その男は座していた。こめかみから顎にかけてたくわえられた髭は、うち続く戦いの日々とそれに続く長旅で、手入れがいき届いておらず荒れて伸びきっていたが、鼻筋から唇にかけて刻まれた皺と目元から額に伸びるすっきりとした眉は、疲労にも薄れることない気品を漂わせている。頭上に巻かれた純白のターバンはひときわ大きく、彼の地位を物語っている。
男は日が昇ってから、ずっと同じ姿勢で座したまま、眼下に見下ろせる城塞都市と向かいあったまま、深く目を深く閉じている。あたかも彼の周りでは、すべての時間が凍り、頭上でさえずる小鳥の声さえも、男には届いていないようである。
しかし周囲の空気は、彼と一体になることを拒むかのように張り詰めていた。男の左翼には、長テーブルが置かれ、十人ばかりの男たちが向かい合って座っている。みなが金色の軍服を着込み、腰には大きな半月刀を下げ、肩から体をすっぽり覆うほどの大きなマントをはおっている。その華やかしい服装から、それぞれが武人であることがわかる。この男を囲んで座しているところを見ると、それぞれはこの男の配下の武将達であろう。そして皆がみなエルサレムの町とその前に黙して座ったまま動かないこの男を交互に目を向けている。これから起こるべき事態を推し量ろうとしたいがためか、落ち着きを欠き、ある者は苛立った表情を見せ、またある者は座ったかと思うと急に立ち上がったり、少し歩いたかと思うと急に座り込んだりしている。
そこへ赤い鼻の武将が駆け寄って来た。静寂は一気に破られた。
武将はその男の方に歩み寄ると抑えきれない感情を無理に抑えこむかのように、荒れる息を殺して、言葉を発した。
「カリフ。そろそろ潮時かと…」
この言葉に他の武将たちも一斉に立ち上がり、二人の様子を注視した。誰もが待ち望んでいた問いだった。
しかし、カリフと呼ばれたその男は、依然黙ったまま、同じように目を瞑って動こうとはしない。あたかも武将の問いが聞こえていないかのようである。
赤い鼻の武将は、困った表情を見せ、また鼻をこすりあげると後ろに控えている武将たちの方に目を向けた。一斉に立ち上がった武人らも一様に困った表情を見せ、再び座り直した。
「カリフ…」
もう一度、武将は男に話しかけたが、やはり返答はなかった。
「えい、くそっ」
赤鼻の武将は自分の行き場がなくなり、苛立ちの表情を見せ、鼻をやみくもにかきあげるとその場に座り込んだ。
陽に当たって黄金色に輝いていた城壁も、日が傾き始めるとともに黒く長い影を地に下し、鳥の鳴き声ばかりが夕闇が迫った西の空に、にぎわいを残している。
どのくらい沈黙が続いただろうか。さらに陽が傾き、金色に輝いていた町が燃えるように赤く染まった空を背景にシルエットに黒く陰り始めた頃、男は静かに口を開いた。彼の発する声は低く、その言葉は、彼の風貌に比しても劣らぬほどに、威厳に満ちていた。
「ハーリドよ。何ゆえ、わしがこのようにくどく時間をかけて、この町を手中に収めようとするのか、おぬしにはわからぬであろう」
長き沈黙の後、問いかけとも、説明とも聞こえる言葉を耳にし、ハーリドと呼ばれた赤鼻の武将は、男の方を振り向き、困惑の表情を押し隠そうとしながら答えた。
「カリフ。おっしゃることは重々承知しておりますが、しかし」
そこで彼はひと呼吸を置いて、さらに続けた。
「戦というものには、時というものがございます。今こうしている間にも、城内では着々と防戦の準備をしていることでしょう。カリフがお待ちになられたいという御意志は重々承知つかまつっておりますが、遅くなればなるほど、戦は熾烈を極めていくものかと…」
しかしそれ以上、ハーリドは言葉を続けることはできなかった。
「わかっておらぬな」
自分がやっと口に出した言葉を一瞬にして、男に一蹴されてしまったからである。
「おぬしには、わかっておらぬようだな。エルサレムは我々がこれまで手中にしてきた町とは異なることを」
ハーリドはぐっと唾を飲み込んだ。
「おぬしは武将だから、どれくらいの兵力でこの町を攻めれば、どのくらいの時間で、どれくらいの損失をもって落とせるかを承知していることだろう。そしてこの町をそれほど時間をかけずに落とせることもわかっているのだろう。だから私がこうして何もせずに待っていることが、歯がゆくてならないのであろう」
ハーリドは男が自分に対し、いつにも増して熱を込めて語りかけてくることに、少し驚きを感じながら聞いていた。
「だが、しかしな。力で支配したところで、どれだけのものだろうか」
「…」
「言いたいことはがわかるか」
「いえ、正直申してわかりません」
ハーリドは素直に答えた。実際、彼にとって、男が何を言おうとしているのか見当もつかなかった。
「そうか。そうだろうな」
しかしそう言うと、男は再び黙ってしまった。
ハーリドは、問いに対する答えが返ってこず、宙ぶらりんの状態に置かれたような気になった。沈黙が支配する中で、ハーリドはどうしてよいか途方に暮れ、他の武人達の方に振り返った。武人達も事の成り行きを一途に見守っていたが、再び男が固まってしまったので、一同小さくため息をついた。
まさにその時である。丘の上からこの城塞都市を注視していた見張りが、叫びにも似た大きな声をあげた。
「開門したぞ、出てきたぞ!」
無数に散らばるテントから、いっせいに男達が外に出てきて、城塞都市に目を向けた。武人らも席を立って、陽が染め上げた真っ赤な空の手前を遮る巨大な城塞都市を凝視した。
そこかしこで、叫びが起こった。
男も席こそ立たないまでも、これまで深く閉じていた目を開き、黄昏が覆い包み、帳の降り始めたその町の一点を見つめた。
これまで貝のごとく一寸の隙間もなくしっかりと閉じられていた門がかすかに動いている。逆光で霞がかかったようになっていたが、それが誰の目にもわかった。
無数の兵士が見守る中で、静かに門が左右に開かれ、やがて幾人かの人影が、今開かれたばかりの門の中から現れてきた。彼らはゆっくりと、しかししっかりとした足どりで、丘の方角に向かって歩いてくる。みなが不動の姿勢で一点を凝視する中、その人影だけが、やがてくっきりと正体を明しつつある。
「おお…」
さらに歓声が起こった。
丘に向かう数人の男たちのうち、先頭の男は白い装束を身にまとっている。驚くべきは、その意外な身なりであった。彼の首には太い荒縄が巻かれ、その縄はさらに男の両手を後ろで縛りあげていた。エルサレム総司教ソフロニオスである。彼の後ろに従う数人の男達。彼らはいずれも灰色の長衣を着て、一同頭を垂れている。総司教に従う修道士である。
この意味するところをすぐに理解した男は、細い目をさらに細め、そしてゆっくりと深くうなずいた。配下に控えていた武将は、いっせいにその男に対して跪いた。
男の脇に立っていたハーリドだけは、鼻の疼きさえも忘れて、すべて力を失ったように、呆然とした表情を見せながら立っていた。
一兵も失わず無血にてエルサレムを開城させた男。名は、オマル・イブン・カターブという。イスラム教の開祖ムハンマドから数えて三番目の指導者で、第二代目の正統カリフである。
オマルは、イスラム教勃興期における他のカリフと同様に、預言者ムハンマドの後継者として、イスラム教を広く布教させることにおいては、天性の如くその能力を発揮していた。
彼は兵を駆っては、アラビア半島からシリア・パレスチナの地に兵を進め、かの地を軍事的に支配下に置くと同時に、イスラム教を広めた。そしてここエルサレムにおいては、その制圧にあたって、何年も前からその準備を進めていた。すなわち、一気にエルサレムを落とすような攻撃は控え、周辺の都市を攻撃しては支配下に置き、年月をかけてエルサレムを包囲し、孤島のごとく孤立させていったのである。エルサレムの支配者にとって唯一可能であったことは、城壁を補修することくらいであった。
そして西暦638年が明けた時には、沿岸都市カエサレアを除いて、キリスト教徒の支配する土地はなくなっていた。さらにエルサレムを助けるべく配された軍隊も遠くエジプトにあり、とても駆けつけられる状態にはなかった。時を察したカリフ・オマルは、一気にエルサレムに軍勢を差し向けると、蟻の這い出る隙間もないほどに、びっしりと城塞の周囲に兵を配した。しかしオマルは、それ以上、一兵たりとも動かそうともしなかったのである。これは少なからず、多くの兵士を驚かせた。特に、配下の武将にとっては納得がいかぬものであった。兵糧も乏しく、加勢の兵が来る見込みのない城塞など、今彼が有している兵力でもってすれば、難なく陥落させることができることは誰の目にも明白だからである。
―改宗か死か。
これが、開祖ムハンマド以来、イスラムがその支配するにあたって、被支配者に対する不可避的に科してきた選択であった。オマルも、この興隆期の他のカリフにもれず、被支配者層に対して、同様の措置を取って、これまでその支配領域を広げてきた。しかし、ここエルサレムにおいては、異例の異例ともいうべき、かつてない条件を今まさに支配しようとしている人々に、与えたのである。要求は降伏である。しかしその降伏にあたっては、次のような温厚な条件を付加していた。すなわち誰しも家族を連れて、持てるだけの財産を持って、沿岸都市カエサレアに移動する権利を保障したのである。さらに、移動にあたっては、身の安全を保障し、道中責任をもってイスラム兵士が保護するというのである。
当然のことであるが、エルサレム開城に至るまでには、城内における苦悩と苦渋の選択があった。
本来、統治者として城を守るべきビザンツ帝国の軍は、すでに敗れ去っており、進退はエルサレム総主教ソフロニオスの小さな手の中にあった。この老いたキリスト教徒の代表者は、自分に科せられた課題の重さに迷い苦しんでいた。
― 降伏か決戦か。
もちろん、彼一人がこの問題について考えていたわけではない。むしろこの問いは城内の誰もの脳裏を占め、城内を騒然とさせているのだった。
その日、群集は広場に集まり、激論を交わしてはいたが、いっこうに結論に至る様子はなかった。ソフロニオスは、ひとり広場を離れると、聖墳墓教会へ続く坂道を登りはじめた。
陽はまだ天空高くにあり、強い日差しを有している。
― この陽が沈むまでに結論を出さなくてはいけない。
坂道を登るにつれ、聖墳墓の教会の鐘楼と丸天井が軒の間から目に入ってくる。
― 主はかつて、この道を十字架を背負われて歩かれた。私も今、同じように苦悩を背負ってこの道を歩いている。主よ教えてください。最良の道を…。
― 私には聖墳墓を守る義務がある。異教徒の手から守り、信徒たちの信仰の砦とするつとめがある。決して、異教徒の手に渡すわけにはいかないのだ。決戦だ!
ソフロニオスは、教会につながる広場までくると、金色に光る鐘楼を見上げた。
― よしんば、敗れるとしても…。
礼拝堂へ入る扉は半分開いていた。
表から薄暗がりの礼拝堂に入ったソフロニオスは、目が暗闇に慣れるにつれ、そこに、礼拝堂の床にびっしりと隙間がなくうずくまる人々と、彼らのひたすら祈り続ける姿を目にした。
ソフロニオスは一瞬驚き、そして彼らの姿をまじまじと見つめた。
老若男女を問わず、誰もが手を合わせて、祈りの言葉を口にしていた。
ソフロニオスは、この時まで脳裏を横切ることすらなかったあることに気がつき始めていた。
― 聖墳墓は守らなければいけない。しかし信徒たちは…。
彼はその祈り続ける人々の脇を抜けると至聖所に入り、掲げられたイコンに口づけをすると、石の床に跪いた。
― 聖墳墓は信仰の砦。しかし…。
彼は祈りながら、頭の中で霞がかかった一点を明らかにしようと、考えつづけた。
― 信徒なくして信仰はありうるのか。
彼にはこれからの起こりうる戦いで、どれだけの犠牲者が出るのか想像もできなかった。
― あるいは我々は全滅するかもしれない。
当然、想定できる事柄であった。
脳裏には、祈る人の誰もいない荒廃した聖墳墓教会の姿が浮かんだ。
― 例え、聖墳墓が失われようと、信徒がいれば信仰は続けられる。
彼は立ち上がると、礼拝堂へつながる扉の方へ目を向けた。この向こうには祈り続けている多くの人々がいる。
― 信徒こそ信仰の砦である。
ソフロニオスの頭には、夏の太陽の下で、冬の雪の中で、砂漠で、草原で、海原で、あらゆる場所で祈り続ける人の姿を見出すことができた。
この時、彼は無血開城することを決めたのである。
オマルの前へ進み出るソフロニオスの顔に迷いはなく、慈悲を求める哀れみすら感じられなかった。対するオマルも、表情に厳しさの微塵も見せず、慈愛に満ちた笑顔で、静かに言った。
「お身体を縛られている縄をほどかれよ」
そして、ソフロニオスを自分のテントに導き入れると、そこに座らせ、自らも腰をおろして飲み物を勧めた。
「よくぞ決心なされましたな」
「我が信徒を守るためです」
「ご安心なされ。約束は守る」
民の命が保証されるのをオマル自身の口から聞いて、ソフロニオスは安堵した。
オマルは水の入った杯をぐいっと空けると言った。
「さて、日が暮れる前に城内を案内してもらおうかの」
ソフロニオスを先頭にオマルは主だった部下の武将を従えると、城へと下る道を馬で進んだ。その武将の中には、あのハーリドの姿もあった。
大きな城門は開かれていた。一行は城内を貫く目抜き通りを進んだ。大路は新たなる支配者を迎えるために、きれいに掃き清められている。しかしいつもであれば活気にあふれている大路に人影はなく、静けさが漂っている。
「大将様。あなたが今進まれている道は、かつて主がローマの兵に引かれて、十字架を背負われて歩かれた道でございます」
歩きながらソフロニオスは、馬上のオマルに説明をした。
やがてオマルの目に、城内の中央の小高い丘にそびえる鐘楼が入ってきた。
「まずは祈りを捧げたいと思うのだが、ふさわしい場所はあるかの」
オマルは前を行くソフロニオスに声をかけた。
「承知しました」
ソフロニオスはうなずいてそのまま路を進んだ。路が広場に達すると、ソフロニオスは一行を止めた。見ると、先程から見えていた鐘楼が目の前にそびえている。鐘楼には大きな聖堂が連なり、それに付随した建物が周囲を囲んでいる。
「聖墳墓教会でございます」
ソフロニオスの説明に、オマルに従ってきた武将らは、「おおっ」と小さく声をあげた。
「主はここで十字架にかけられました。どうぞこれへ」
ソフロニオスはオマルを教会の内部に案内しようとした。
オマルは歴史の風雪に耐えてきたこの威厳ある建物にしばらく見入っていたが、目を細め、
「いや、やめよう」
と、一言だけ言葉にした。
そして馬から下りると、おもむろに教会の脇を抜け、路地に連なる小さな場所を見つけるとそこに跪いてメッカに向かってお祈りを始めた。
ソフロニオスは当然のこと、オマルに付き従って武将も一同あっけにとられて、呆然とした表情でオマルを見ていた。しかし、すぐにそのうちの一人がオマルに続いて、彼の背後に跪き祈り始めると、他の者たちも彼に続いて一緒に祈り始めた。ハーリドも仕方なく祈りの姿勢を取った。
半時ほど祈ると、オマルは立ち上がった。
この聖なる地を、一兵も失うことなく、一滴の血も流すことなく、その支配下に置くことができた彼の表情には、満足の感が見て取れた。
依然驚きの表情を隠せないソフロニオスは、オマルに尋ねた。
「何ゆえでございます?」
「何のことだ?」
「どうして教会内においてお祈りされなかったのですか?」
「…」
「教会がキリスト教徒にとっての祈りの場であったからですか?」
「…」
「しかしそれも昨日までのこと。もうすべてはあなた様の、掌の中のものでございますのに」
「いや…そうではない」
「そうではないとは…」
ソフロニオスの執拗な問いに、オマルはすこし閉口しながら答えた。
「そうではない」
そして少し間を置いてオマルは言った。
「もし余が、ここキリスト教徒にとっての至聖なる教会においてメッカに向かって祈りを捧げたならば、余に従う者達が、あるいは今すぐにでなくとも、この教会をモスクに変えてしまうであろう」
「それでは教会をモスクに変えないと…」
「まあ、聞け。仮に、この教会をモスクに今ここで変えてしまったら、余に従う者達がここエルサレムを支配している時は良い。しかし、またそなた達、キリスト教徒の支配に戻ったら、もちろん先のことは誰にも分からぬゆえ、いくらでも想像できるのだが、そうなったらまたモスクは教会に変わる。そうして町の支配者が変わるたびに、ここはモスクにも教会にも意向に沿って変えられることになる」
「…」
「しかし余はそれを望まぬ」
ソフロニオスは、オマルの言葉を黙って聞いていた。
「余は、イスラム教徒がいつの時代になろうとも、誰が支配者になろうとも、永遠に祈れる場所が欲しいのだ。だから、そなた達の祈りの場を奪わぬ。我々は我々で祈りの場を見出す。そしてそれらはお互いに立ち入ることなく共存できるようにしたいのだ」
ソフロニオスは、胸が熱く震える想いがした。
「おっしゃるとおりでございます」
深くうなずきながら答えた。
― 自分の選択肢は正しかった。聖墳墓教会は存続できる。
聖墳墓の守護職として自らの責務を全うできたという無上の喜びに浸り、今すぐにでも神に感謝の祈りを捧げたい心境になった。
肩からすっと力が抜けたような気がした。
信者を守るため。信仰を守るために、聖墳墓は犠牲にしなければいけないと考えていた。教会の最後は、自らの意思で、死に水を取らなければいけないと考えていたのだ。しかしその恐れがなくなったと知り、無上の安堵が今はあるのだった。
「町の住人をここに集めてもらいたい」
突然のオマルの命令に、ソフロニオスは現実に引き戻された。
「今すぐにですか」
「そうだ。全員を今すぐにだ」
「わかりました」
ソフロニオスは素直に従った。そして司祭らを集めるとすぐにオマルの指示を実行に移させた。すぐに司祭らは、それぞれの方角へ散ってゆき、ほどなくして、町の隅々から老若男女を問わず、住人らが広場に集まり始めた。
皆一様に怯えた表情を見せ、これから何が始まるのか不安そうに立っていた。子は母親に抱きつき、妻は夫の手を強く握っていた。新たな支配者の命令がいかなるものか誰もが恐れつつ知ろうとしていた。
オマルは頃合いを見図ると、一段高くなったテラスの上に立ち、一同を見渡して、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「皆よ、よく聞け。今これより、城は唯一絶対の神アッラーに忠実なる者の手に帰された」
怯えた無数の目を意識しながらオマルは、さらに落ち着いた調子で話続けた。
「しかし、何も恐れることはない。おまえ達は今までと同じように、平和に生活することができる。おまえ達は、おまえ達の信じるものを、これまでそうしてきたように、これからも信じつづけてもよい」
一同のあいだに安堵のため息が広がった。
「誰もここから去る必要はない。誰もむやみにその生命を奪われたりはしない。誰も強制労働を、理由を明らかにされずに科させることはない」
オマルの言葉を口にするごとに、人々は安心の度を深めていった。
その時、一人の小男が進み出て云った。
「あなた様はなんて慈悲深いお方なのでしょう。私達は感謝の気持ちで満ちております。ところで、あなた様の云う神を私も信じることはできるのでしょうか」
ソフロニオスは一瞬驚き、その男を見つめた。
オマルは男に笑みを投げながら、これまで以上に力を込めて云った。
「もちろん。それはアッラーの望むところである。アッラー以外に神はいない。何故にその信仰を妨げられようか。神の御意思によって、そなたは今まで以上に、その幸せを享受できるであろう」
オマルはテラスから降りると、その男のところへ行きその小男の手を強く握りしめた。そして、一同を見回すと厳しい表情を見せ云った。
「よいか。何者もこの者の信仰を妨げてはならぬ。いやこの者に限らぬ。誰も我々と志を同じくしようとする者の改心に立ち入ってはならぬ。もしそうしようとする者がいれば、余が許さぬ」
オマルは剣に手をかける仕草を見せ、そしてソフロニオスの方に顔を向けた。
目が合ったソフロニオスは、すぐに伏せた。皆の視線が自分に向けられているのを感じた。
いつのまにか陽は落ち、西の空がわずかにその余興を残している。天空には月とそれを取り巻く星たちが姿を現わし始めていた。広場に集まった住民もおのおの家に帰りはじめ、また広場には静寂が戻りつつあった。その時、オマルはソフロニオスに云った。
「今度は別の場所を案内してもらいたい。そう、我々の至高なる場所へ」
― 至高なる場所?
ソフロニオスは、オマルが何を云っているのかわからなかった。
「はっ…はい」
返事はしたもののソフロニオスには、この時、その至高なる場所がそもそも何なのか検討もつかなかった。オマルはじっとソフロニオスを見つめ、言葉を加えた。
「そなた達キリスト教徒にとってここが聖なる場所であるように、我々ムスリムにとっても同じものがある」
オマルにそう云われて、ソフロニオスは考え込んだ。
被支配者という自分の置かれている立場が急に実感として蘇ってきて、掌に汗がにじんできた。
カリフに付き従い、それまでの流れをずっと黙って見ていた武将ハーリドはこの時初めて口を開き、声を荒げて云った。
「預言者が昇天なされた場所だ!」
― ムハンマドが昇天した場所?
ソフロニオスはそう説明されて、さらに考えた。
― そうだ。遠い昔に誰かから聞いたことがある。ムハンマドが夜の旅をしてきてそこに降り立ったという場所があるという話を…。
― あっ、あそこか。
ソフロニオスにはそこがどこかわかったような気がした。そして同時に冷や汗がどっと出てくるのを感じた。
― あそこか…。
周囲はすぐにソフロニオスが理解したことを感じ取った。
「わかったなら、早くカリフを案内なされよ!」
ハーリドは苛立たしげに云った。
ソフロニオスはおどおどしながらやっと言葉にした。
「今日はもう陽が暮れましたゆえ、明日ご案内申し上げるのではいかがでしょうか」
怒りを抑えられなくなったハーリドは叫んだ。
「貴様!」
半月刀に手をかけ、抜こうとするのをオマルは制した。
「いや、今日行ってみたいのじゃ。ひとつ案内してくださらんか」
落ち着いた口調で云った。
「承知仕りました」
ソフロニオスは深く頭を垂れて、歩き始めた。
彼の目指す場所は、聖墳墓教会から坂を降り、広場を抜け町の反対側の東の城壁近くにあった。ソフロニオスを先頭にオマル、そしてハーリドら武将が続いた。
陽はどっぷり暮れて、天空の星らは、今はくっきりと見ることができる。
広場を抜けると人家はぐっと少なくなり、暗闇を進むようであった。
「本当にこちらで良いだろうな」
「はい」
ハーリドの荒々しい声に、ソフロニオスは小声で応える。
「おぬし、謀をしているのだったらただでは済まぬぞ」
「・・・」
疑心暗鬼の目を背に感じながらも、ソフロニオスはなおも進んだ。
― むしろこのまま、辿り着かなければいい。
ソフロニオスは別の不安に駆られていた。
歩を重ねるうちに、気分も重くなる。
あたりに人の住む気配はまったくなくなり、暗黒が支配する闇の世界になっていた。
路も悪くなり、足元に注意しながらおそるおそる進んでいる。
「なんだこの臭いは」
付き従ってきた武将の一人が叫んだ。
あたりに異臭がたちこめている。
悪路に加えて異臭とくれば、不満も抑えきれなくなる。
しかしソフロニオスはなおも進んだ。そして坂を登りきり高台の上でやっと歩みを止めた。
「ここか」
「左様でございます」
問われてソフロニオスは素直に応えた。
悪臭が鼻を突き、よどんだ空気が支配している。
「松明を持てい!前をかざせ!」
配下の兵がオマルの前へ進み出ると、前方を照らした。
ガサガサガサガサガサガサ…
突然、静寂を突き破る音が響き渡り、誰もが耳を抑えた。
「何事だ!」
「襲撃か!?」
一瞬、兵士のあいだに動揺が広がった。驚きのあまり剣を抜いたり、逃げ出そうとする者もまでいた。
「烏でございます」
前方で松明を掲げている兵士の一人が叫んだ。
灯かりを突然かざされたことで、寝ていた烏が驚いていっせいに飛び立ったのである。闇の中での烏だけに、何も分からず混乱したのである。
たくさんの松明にかざされて、そこの様相が次第に明らかになってきた。
誰もが眉をひそめた。
そこは汚物の山だった。朽ちた廃材、腐った食材、死んだ家畜、糞尿それらもろもろの物がごっちゃに混ざって、あたり一面を覆っていた。悪臭は、これらの廃棄物が発していたのである。
「誠か…」
それまで沈黙を守っていたオマルは、耐え切れず言葉を発した。
周囲の姿が明るくなるにつれ、それは悲嘆と、そして怒りに変わっていった。
ハーリドはすかさず剣を抜くと、ソフロニオスに斬りかかろうとした。
「やめろ!」
剣を振り下ろさんとするまさに寸でのところで、オマルはハーリドの荒行を制した。
「斬ってどうする」
「しかしカリフ。こんなことが許されるのでしょうか。こ奴らの悪行、底知れませんぞ」
オマルの制止に、ハーリドはくやしさを滲ませながら言い放った。
ソフロニオスは、とうに覚悟はできていた。彼は神妙に頭を垂れたまま、身を正していた。
オマルはハーリドの苦言には何も応えず、落ち着いた静かな口調でソフロニオスに云った。
「預言者が昇天された場所には、大きな岩があると聞いている。そこに案内してもらえるかな」
ソフロニオスは黙って頷いた。そしてその汚物の中に足を踏み入れた。
もちろんソフロニオスは、岩のある場所など承知していなかった。むしろ彼はこの場所に、初めて足を踏み入れたのだった。それは総主教になってからは当然のこと、それ以前においても、この穢れた場所に立ち入ることは無かったし、あってはならなかったのである。この場所に立ち入ることを許されたのは、墓堀人か下層賎民に限られていたのである。不浄の地をキリスト教徒は忌み嫌い、近寄ることさえ恐れたのである。そんな中に、総主教であるソフロニオスは、分け入ったのである。
汚物や廃棄物ははじめ膝の高さまであったが、さらに進むにつれ腰までつかった。場所によっては我が身の丈を越えるところもあった。踏み入れて、地に爪先が着かぬのを知って、急ぎ脚を引くことも一度や二度ではなかった。そこは、汚物を満々と湛えた底なし沼のようであり、誤って足を踏み入れれば、そのまま飲み込まれて、二度と空を仰げなくなりそうであった。
周囲でオマルをはじめハーリドや配下の武将、兵士たちが見守る中、目指す岩を見つけ出そうと彼は、これらを掻き分け進んだ。月明かりを頼りに、歩んでは地に手をつき、地面の硬さを確認した。手や足には異臭を強く放つ物らがまとわりつき、少し低くなった場所ではそれらにどっぷりつかった。
実のところ、ソフロニオス自身、預言者が昇天したという岩の存在を信じているわけではなかった。仮に実際にその岩が存在していたとしても、はるか過去のこと。それ以降、何層にもわたって、廃棄物や汚物や積み重なっている。丘は広大であり、それを全体にわたって汚物が覆いかぶさっている。奇跡でも起きない限り、見出すことは不可能である。
― 我が命もあと少しで潰えるか。いつまでも岩を見つけることができなければ、生かしてはおかれまい。いや、それ以前に日が昇り、丘の全貌が明らかになれば、彼らの怒りはさらに増すであろう。そして、沸点に達したそれが、我が身を一刀のもと、斬り捨てるであろう。しかしそう、それもよい。
死を宣告された者として、ソフロニオスは汚物の丘をさまよった。生への固執はなく、諦めにも似たその静かな心の動きを、生を実感できる最後のものとして、味わいたかった。
いつしかソフロニオスは、自らの瞳が濡れているのに気がついた。
― 私は今、泣いているのか?
驚いた。理由がなかった。自身のことでありながら、涙する自分がわからなかった。
自らに問いけた。
― なぜ、泣かねばならぬのだ?
― 私は自らの責務を見事なまで果たしたではないか。聖墳墓教会を守り、信徒を守り、我が身さえもこうして永らえている。何の不足があろうか。主のもとへ行く覚悟はすでにできている。
ソフロニオスは、今の己が姿に屈辱的なものを微塵にも感じてはいなかった。むしろ、何人も成し得ないと思われた大業―聖墳墓の存続と信者の保護―を終えた喜びは大きかった。
― 何故?
意識していないどこかで、自分は何かを感じているのだ。だから身体は嘘をつかずに、こうして震えているのだ。
ソフロニオスは分からなかった。分からないのに、自分の身は泣いている。それは、自分が意識できないところで、自分は何か感じているということなのだ。
―何だ。それは何なのだ。
とめどもなく流れてくる涙に、ソフロニオスはむしろ滑稽に思えながら、その何かを、意識下まで持って来ようとした。
どれくらいの時を経ただろうか。いつのまにか、ソフロニオスは、汚物の山のそのさらに奥へと足を踏み入れていた。
もうそこが何なのか、どうなっているのかなど、気に留めなくなっていた。ただひたすら、涙しながら、意識ではつかめそうでいて、未だつかめていない何かをさがしていた。
ザグッ。
一瞬、つま先と膝に激痛が走った。硬く尖ったようなものに足をぶつけたのである。
「うっ…」
痛みを堪えて、腰を曲げ上体を前に向け手を伸ばし、打った物に触れた。冷たく硬い感触が返ってきた。
ソフロニオスは、目をかっと開くと、両手で汚物を掻き分けた。月明かりに照らされて、それはまさしく荒い表面をした岩であった。
「あぁぁぁっ…」
ソフロニオスはうずくまった。そして慟哭した。とめどもなく溢れ出る涙を拭いもせず、天に向かってありうる限りの声をあげて泣いた。老いた身を赤子のように震わせて、力いっぱい声をあげた。確かに岩はあったのだ、イスラム教徒が至聖なるものとして、崇め祈る岩が。
しかし今や老いたソフロニオスを泣かしているものは、理由のない無意識の堅物ではなかった。彼は、やっとわかったのだ、自らを泣く理由を。そしてそれは、自らがわからなかったのではなく、わかろうとしなかったということも。
認めたくないもの。どうしても受け入れらないもの。
それは敗北。そして屈辱。
ソフロニオスは膝をつき、拳を硬く握り締めた。熱い水滴がその上にぼたぼたと落ちた。
― 岩はあった。確かに聖なる場所であったのだ。
彼は気がついていたのだ、このイスラム教徒にとって聖なる場所が汚物の捨て場になっていることが偶然ではないことを。イスラム教徒にとって、預言者ムハンマドが為した行いそのひとつひとつが神聖なものである。経典には、ムハンマドがメッカから夜空を旅し、エルサレムのこの場所において昇天したと記されている。ここは、イスラム教徒にとって、かけがえのない聖地なのである。
ソフロニオスは、聖なる岩の場所へ案内を請われた時、この場所に足を踏み入れるのに躊躇した。それは穢れていると意識したからである。しかし、この穢れを作り出したのは誰か?己らキリスト教徒でなかったか?
イスラム教徒の聖地を汚すこと、それはすなわち彼らを完全に否定することであった。礼拝させない、祈る場所を遺さないという、強い拒否的な意思が、彼らにとって聖なる場所を荒れるままにしておくだけでは許さず、さらに汚し腐らしめたのである。
それだけではない。イスラム教が生まれる遙か昔、紀元前 九五六年にこの地を統治したイスラエルの王ソロモンは、この丘において神殿を建設したのであった。それを栄光の時代として、崇めるユダヤ教徒にとっても、ここは何にも換え(か)難い(がた)神聖な場所に他ならなかったのだ。そしてその歴史をも抹殺したのである。
― 業のなんと深いこと・・・。
自らの手で穢した場所を、また自らの手で聖なる地に戻している。
― 報いだ。これは報いなのだ。
己が蒔いた種を自ら刈り取っているのだ。しかしこの報いを受け償うことによって、私たちは信仰の砦を失うことはないのだ。愚かさと感謝の念が心の中で複雑に絡み合って、ソフロニオスは涙が溢れ出てくるのであった。
― しかし、何と滑稽なのだ。
自らは、己が信仰のみを尊しとし、他を邪教として排除した。しかし今逆の立場になった途端、縋りつき命乞いをし、その存続を願った。なんと自分勝手で情けないのだ。
― 敵は、オマルは、自分たちに対して寛容であるのみか、我々の存続いや繁栄の道さへも残してくれた。将来、我々が痛みをともなわないように、配慮してくれた。なのに、我々は、我々のしたことといえば…嗚呼!
ソフロニオスは、己を恥じた。キリスト教徒を恥じた。キリスト教徒の歴史を恥じた。
― 報いだ。これは自らが成した愚行の、まさに償いなのだ。
老いた司教は、岩を抱きかかえるようにして泣いた。
オマルはとっくにソフロニオスを許していた。しかしそれを拒み続けていたのは、ソフロニオス自身での方であった。深い慈悲に包まれて、ソフロニオスは赤子のように泣いた。すべてを知って激しく慟哭したのだった。
震える肩にそっと手がのせられた。振り返るとそこにオマルが立っていた。少し微笑んだ彼の表情に、征服者としての威圧は微塵にも感じられなかった。
気がつけば、東の空にうっすらと茜が差し始めている。永遠に続くと思われた夜も終焉となり、新しい主を迎えての始めての朝が、この古い城塞都市に新しい陽を当てている。深い静寂と漆喰のような闇から解放された都市に、礼拝の時を告げる声が、都市の隅々まで響き渡る。そして、生の喜びに満ち溢れた鳥のさえずりに、人々はいつつもと変わらぬ生業に勤しむべき時を知るのであった。
エルサレムは、イスラム教徒が支配する国の一部となった。主は変わったが、町の人々の生活には、それほど大きな変化はもたらされなかった。キリスト教徒は抑圧する側から、抑圧される側になるはずであった。しかし、統治者という立場は失ったものの、オマルの英知によって、その信仰を抹殺されることも、また聖なる場所が汚物にまみれることもなく、これまでどおり信仰し存続することを認められたのである。
オマルは、ソフロニオスが交わした約束を守った。己らが受けた屈辱を、同じような形で返すようなことはしなかった。キリスト教徒にとっての聖地を汚し、その存在を消すことができたにもかかわらず、オマルはそれを求めず、それどころか、啓典の民の聖地として、これを認め、将来に対しても存続できるように計らったのだ。それだけではなかった。町はキリスト教徒のみならずユダヤ教徒にも開放され、3つの宗教が共存する町になった。
かつて汚物で覆われていた神殿の丘は、きれいに掃き清められ、その場所には、預言者の昇天を記念したドームが建立された。オマルがあの日祈った場所にも、モスクが建てられた。しかしオマルが後世の支配者が摂取するのを心配し、立ち入りを拒否した聖墳墓教会は、イスラム教徒にとって記念的な意味を持たなかったため、オマルの望みどおりキリスト教徒の手で維持されたまま、キリスト教徒に祈りの場を提供し続けることができた。
ソフロニオスが亡くなったのは、エルサレム開城の数週間後のことであった。自分に課せられた大きな難題に臨み、信徒の命と聖墳墓教会を守るために下した決断によって、彼は多くの信者に囲まれて、愛する聖墳墓教会で息をひきとった。責務を果たした後の安らかな死であったという。彼は最後までエルサレム総主教であった。
オマルは、644年11月、イスラム教の聖地のひとつメディナにおいて、モスクにて礼拝中、狂信的なペルシア人奴隷によって胸を刺され、縁者の手厚い看護のかいもなく、三日後息を引き取った。そして同地にある預言者のモスクに葬られた。しかし彼は、死に瀕し、後継となるカリフを選べるようしっかりと手を打ったため、イスラム教国は混乱することなく次世代へと移行することができた。誰もが認める偉大な指導者であった。その後もさらに拡大を続けていくイスラム国家が、その基礎の部分において安定を保つことができたのは、生前に為した彼の偉業抜きには語れない。後年、彼はイスラム教徒から「ファールーク」(真偽を分かつ者)と呼ばれるようになる。
ハーリドは、あの日を境に軍役から退いた。多くの部下が留まることを求めたが、彼は頑として首を縦に振らなかった。そしてただひと言だけ言葉にした。
「もう奪う時代は終わったのだ。これからは、治める力こそ必要としているのだ」と。
その時の彼の脳裏には、あの夜のことが思い出されていた。
エルサレムがイスラムの手に落ちた日。ソフロニオスによって聖なる岩が確認された後、本陣であるテントに戻る途中、馬上で二人は並んで進んでいた。ずっと黙していたオマルは、城の門を抜けて、坂道に差しかかると、静かに口を開いた。
「余のやり方は手温いかな…」
ハーリドは何も言わず正面を向いたまま駒を進めた。
「ハーリドよ。おぬしはなぜこのエルサレムを力でもって攻めないのか問うていたな」
「…」
「余は戦について、経験上おぬしにあれこれ言える立場にはない。しかしどうだろう、町を攻略するにあたって、その町の抱えてきた歴史、地理的位置付け、民の性格などを考慮して事にあたっても良いのではないだろうか」
「…」
「そうして見るとこのエルサレムという町は、これまで我らが戦にて支配してきた町とはまったく異なると思うのだが…。おぬしも知っておろう、この町は我らの啓典の民と呼ぶユダヤ教徒やキリスト教徒にとって聖なる地であるということを。もちろん我々にしても然りだ。予言者はこの地にて昇天なされたのだからな」
道すがら、起き出してきた兵士らが、二人の姿を見て、歓喜の表情を見せる。しかし、そんな光景も、二人の中には入って来ない。
オマルは続ける。
「この我々にとって非常に大切な地は、余が教えの届く地の要のひとつとなろう。そのためには何としても維持し、かつ繁栄を享受していかねばならぬ。そうあるためには力でもってあたってはならぬと思うのだ。力で奪えば、やがて力で奪い返されるであろう。そして永遠にこの地をめぐって剣が交わされ血が流されるだろう。どうあっても繰り返してはならぬのだ」
結局、ハーリドは最後まで黙ったまま、カリフと駒を進め、己が天幕が見え来ると、小さく会釈をし、その方角に向かって別れた。そして後日、自ら退役を申し出たのである。
ハーリドは軍を退いた後、故郷の近いシリア地方のオロンテス川沿いの町ホムスを終の棲家に定め、そこで余生を送った。没年は、642年。死後、彼の功績を称えられて、彼の名を冠したモスク内に立派な墓所が建てられた。
ハーリド・イブヌル・ワリードモスクは、シリア共和国の地方都市ホムスに、現在もなお健在であり、訪ねる参拝者は後を絶たない。