第10話 魔王と勇者の帰還
とうに終わった世界の中で、魔王と勇者は孤立する。
青い空に浮かぶ雲はのどかで、風は暖かく心地良い。
喧騒とは程遠く、自然が満ちている。あの平和な楽園と何が違うというのだろうか。
静かで、穏やかで、――2人以外は誰もいない。
故に魔王は慟哭はどこまでも響き渡る。
「……なんだ、なんだんだこれは。応えよ勇者。ここはどこだ。これもお前の魔術なのだろう?」
あの静謐とした玉座の間にはあの威厳は残ってはいない。壁も天井もとうに崩れ、吹きさらしの石の玉座が所在なげにぽつりとあるだけ。
「いいえここは確かに私たちの世界ですよ。分かるのでしょう? 帰還と同時に理解なされたのでしょう? この世界に満ちる魔力が貴女に教えたはずだ。世界の終わりを」
魔王には分かった。分かってしまった。魔力が魔王へ教える。誰もいないのだと。今だかつてなかったことだ。周囲に誰もいない。人も、魔族も、残っていない。そう魔王には分かってしまったのである。
「……ッ。何をした。お前は一体何をしたんだ。我があの世界にいたのは精々ふた月だろう。それではこうはならん」
「ご明察。楽園とこちらの世界では時間の流れが違うのです」
「ッ!? 駄目だ。これでは駄目なのだ。我は、我らはあの日、あの夜に戻らねばならぬのだ!」
「無理ですね。すでに私たちは帰ってきたのです。すべては遅い。何もかもなくなって、賭けはめでたく私の勝ちですよ」
勇者は笑う。ニヤニヤ、ヘラヘラ、気の抜けた笑顔を浮かべている。
「やめろッ!!」
怒号一つ。それだけで勇者は地に張り付けられる。指一つ動かせぬ重圧の中で、口からは軽言が漏れ続ける。
「ふっ、ふははははは。言ったじゃないですか。これは賭けだと! 私は勝って望みを果たし、貴方は負けて失った! それだけですよ」
「やめろ……やめろやめろやめろッ!! これ以上我を苛立たせるな……潰さぬように加減するのも酷い苦労なのだ」
「潰せば良い! 私にはもはや何もない。全部終えたのですよ魔王陛下」
哀れなほどの自暴自棄。構うだけ無駄だと魔王は割り切り、勇者のそばを離れ玉座へ向かう。風化した魔王の座に。
圧を離れてなお、勇者は伏して起きず。魔王はただ黙して座る。滅びた世界に静寂はあまりに残酷で、零れるように時間ばかりが過ぎてゆく。
「……何年だ」
先に口を開いたのは魔王だった。
「……あの夜から、ですか? でしたら、ふくく、ふはははははっ」
「何がッ!! 何がおかしいと!」
「あぁ、いやすみません。だって笑えるじゃないですか。100年、たった100年で殺し尽したんですよ? 人も! 魔族も! ははははは」
「なっ……100年!? 馬鹿な、そんなはずが」
「馬鹿……えぇ、ほんと馬鹿ですよね。こんなにも愚かしいのに、平和、平和と言うんですから……。賭けにもならなかった」
「さっきから賭け、賭けと――」
「ん? 分かるでしょう? 単純なことですよ。世界は100年も持たなかった、貴女なしでは! それだけのことですよ。こうも依存している。貴女なしでは滅ぼしあってしまうほどに……」
「詭弁だろう! 我らが消えた故に戦争が起きたのだ。我がいたのならばこんなことにはさせなかった!!」
「それですよ……貴女がいなければ駄目なようでは話にならない。100年は持ったかもしれない。いや、その間に貴女が築く世界は500年の平和を約束したかもしれない……」
「それの何がいけない! 誰かがやらねばならぬのだ。それを我がやるはずだった!」
「気に食わない。それだけですよ。たった100年、500年の為に私は我慢する気などなかった。いっそ滅ぶというなら、私の手で滅ぼしたかった」
「そんな子供染みたエゴでお前はッ――」
「その通りですよ。子供のエゴだ。子供の復讐なんですよこれは。……以前話しましたよね。湖で魚を釣りながら、故郷の、妹の話を」
「ッ……そうか、そういうことか。お前は魔族に妹を。その復讐がこれか」
「いえ、違います。確かにきっかけは魔族でしたが、その魔族は弱い、子供の魔族だったんですよ」
「ならば何故……」
「私の故郷は平和に滅ぼされたんですよ。弱り切った子供の魔族を殺す為に、村は燃えました。家も、親も、妹も、皆燃えたんですよ。そうして偶然森へ出ていた私だけが助かった」
「お前の分かった。だが、それならば恨むのは人間だろう。なぜこんな、こんな真似をッ……」
「話には続きがあるんです。私を助けた騎士の一人が、悲痛気な顔で言ったんですよ。これも平和のためだ、ってね。私たちの平和を焼いた人間が、平和を騙る。滑稽でしたよ」
勇者は語る。堰を切った川の如く、その言葉を止める術を持たず、嘲笑とも懺悔とも取れる言葉を吐き出し続ける。
「それからも酷かった。気が狂うような、いや実際に狂ってるんですかね私は。まぁともかく、施設には平和を口にする人間は居たんですよ。マリエルって魔術師だったんですが、魔族を滅ぼせば平和になるっていうんです。いやぁ、あれは滑稽だった。人間は魔族って敵がいるから辛うじて纏まってるに過ぎないなんて、田舎のガキですら知っているのに本気でそんな戯言を信じてたんですよ」
「……もう良い。もうお前は黙れ」
「そんな時! そんな時ですよ、私が貴女を知ったのは。実験の過程か、勇者としての教育か。遠く離れた戦況は逐一耳に入ったんです。貴女は魔族を纏め、秩序を築いた。確信しましたよ。魔王は世界を纏める気だってね。それも酷く効率的に。人間が口にする夢物語じゃなく、本当にやる馬鹿だって」
「もう良いと言っているッ!!」
「俺は! 俺は嫌だったんだ!! 冗談じゃなかった! くだらない場繋ぎの為なんかに自分の感情を殺すのは! 家族を殺した平和なんぞの為に!!」
勇者は――、アダムは捨てていく。自身を覆っていた勇者の鎧を、マントを、兜を。そうして戻っていく、家も家族も失った哀れな孤児に。
「偽物なんか嫌だった。でもあんたなら、魔王。あんたならって、俺は、俺は……魔王の成すと言った本当の平和のためなら我慢できた。そのためなら俺一人の復讐なんて忘れて一人で死んだ」
「っ……謝りなどしない。憐みなどしない。慰めなどしない。お前は勝手に我に夢を見て、勝手に失望し、その挙句に世界を殺したのだ。それ以上でも以下でもない」
「……そんなことは、分かっています。私は、私は望みを果たした。望みどおり復讐を遂げただけです。私には不服も不満もない」
「我には裁くことも、責めることも、赦すことも出来ぬ。もはや我は王でない。しかし、諦めぬ。滅びなどと、終わらせはしない」
「……何を?」
「そら勇者。見つけたぞ。まだ賭けは終わってなどいない」
魔王は立つ。地に倒れる勇者を置いて、確かに先を見て歩き出す。
笑いはしない。しかし泣きもしない。国も民も失って、それでもイヴは前へと歩き出す。