第0話 魔王と勇者の始まり
ここは魔王城。大昔の伝承にある魔王が建てたと云われる古城。魔族の窮地を救った英雄の住まう城。
そしてここで魔族と人類の共存への一歩――停戦調停がこの魔王城で執り行われるのである。
――カツン、――カツン
人間達に与えられた客室区画からは離れた通路に、石床を蹴る靴音が反響する。
城の最奥。魔族の側近ですら立ち入ることを許されていない王の部屋へ繋がる回廊。
長命の魔族すらその全貌を知りえぬ、太古の魔王城。その奥にある魔王の座。
そこへ通じる一本道を進むのは、魔王に有らず、魔族に有らず、人である。
赤茶けた短髪を揺らし進んでいく。畏れも迷いも恐怖もない足取りで、静寂を踏み越えて前進する。
平凡な顔立ち。ただその茶の瞳に宿る意思だけが異質である。
男の前へ立ちふさがるのは扉。古く、重く、他者を拒絶する威圧感のある扉であった。
逡巡もなく男は押し開く。そして知る。
扉はただの扉であったと、遮っていただけだったのだと、孤高の王が放つ威圧感をただ押し留めいたにすぎないのだと、そう男は知った。
初めて男の足が止まった。恐怖か、畏怖か、途惑いか、男にも分からない。
『客人。我はここへの立ち入りを許可した覚えはないが?』
声がした。女の声だ。
頭を、いや魂を揺さぶるような威厳と力に満ちた声である。
男は見た。
暗く底冷えする部屋で、独り玉座に在る魔王の姿を見た。
男の想像を裏切り、うら若い少女の姿だった。
流れる金糸は薄明かりの中でも淡く光っているようであり、緋色の瞳はまるで血と炎を押し固めた宝石である。
あどけなさすら残る顔に宿るのは、王者の意志。
漆黒の王衣に身を包み、堂々たるは覇者の風格であった。
まさにその座を許されたのは、この者以外にいないと男は確信した。
「お目にかかれて光栄です。魔王陛下」
男は入口より数歩進みでて、跪き恭しく頭を垂れた。
『……ふむ。たしか特使の連れで、名を――』
「私の名などに意味はありません。もし呼ぶ必要があるのでしたら、勇者と――、そう、勇者とお呼びください」
魔王が嗤う。低く引き攣るような音が反響する。
『勇者! ハッ、面白い戯言を吐くものだな勇者』
「貴女が魔王を名乗るのなれば、それを討つ役目を仰せつかった私は、勇者を気取らねばならないのです。たとえその内実がどのようなものであろうとも」
『……我を討つ? 剣も持たずに? なるほど人並み外れた魔力だ。だが所詮は人の枠。我は魔族の長。魔の王ぞ』
「そうでしょう。こうして対面して身に染みていますとも。聞きしに勝るその力、貴女は強い。私などが及びもつかぬほどに」
『ならば――』
「故に――! ……私は貴女に問いにきたのです。貴女の抱く理想を――、貴女の築く国を――、貴女の成す世界を――、私にお教え下さいませんか魔王陛下」
男は今一度、頭を深く下げる。
身をすり潰すような圧力に屈したわけでなく、自らの揺るがぬ意志を持って勇者は魔王に請う。
『……我は人の王に非ず。我が平定するは魔の国、魔の世界。なれば勇者よ、――世界の半分をくれてやろう」
「侵略は望まないと? 不可侵のまま関わらず、交わらずに永遠が過ぎると言うのですか?」
『否! 人魔はいずれ交わるだろう。それは魔が人を飲むでなく、人に魔が飲まれるでなく、自然と互いの色を混ぜる日が来る。それが唯一無二の平和の術だ』
「魔王陛下は平和と仰る。では問いましょう平和とはなんなのですか? どうなれば平和と呼べるのですか。私はそんなものを一度たりとて見たことがないのです」
『満ちればいいのだ。食うに困らず、寝るに困れない。そして脅かされず、豊かである。人魔違いなく、それが平和であろう』
「そんなものは絵空事です。私は魔族を知りません。それでも人間のことならば知っています。人は止まらない。もはや世界の半分では人にとっては狭すぎるのです」
『それは我が許しはしない。そも和平は成るのだ。あとは我が魔族を引き上げ、人と対等に立てる知恵と規律を与えるのみだ』
自信。そうではない確信である。
少女の姿をした魔王は確固たる意志の元に断言してみせたのだ。
『……勇者よ問答は終わりか? 明日の式典が人の意であろう。それが恐れであれ、なんであれ……あぁそうか、だから貴様か勇者」
「人は群れますが、けして統率のとれた一個の生き物に成るわけではないのです。和平を望むものも、望まぬものもいるのが実情ですよ」
『我を殺しに来たのではなく、我に殺されに来たのか勇者よ』
魔王の声色が低くなった。先までの声には、僅かなりとも敬意が混じっていた。人の身で対等に立とうとする意思を魔王は感じていたのだ。
しかしそれがただの捨て鉢となれば、一転もはや侮蔑に変わる。
勇者の名は魔王を討つ称号に収まらない。人の希望、勝利の象徴。
もし停戦協定の場にてその勇者が謀殺されたとなれば、和平は容易く露と消えるだろう。
この場で捕えたところで同じこと、何かしらの手は打ってあるのだろう。
戦争を続けたい鷹派はどちらにもいるのである。
「……そんなことはありませんよ。初めに申したはずです。私は問いに来たのだと」
しかし勇者は否と言う。嘘をついてる風ではない。先ほどと変わらぬ強い眼で魔王を見返す。
背筋を伸ばし立ち上がる。魔王が指一つ振るえば飛ぶ命にも拘らず、恐怖をおくびにも出さずに、一歩ずつ魔王のもとへと進む。
権謀術数など感じさせない気迫があった。策謀家を気取る者の繰り糸など、引き千切るに余りある|我≪が≫が、その歩みには込められていた。
「……絵空事の話をしましょうか。もし、人の世も、魔の世も共に満たされたのなら、我々は手を取り合って生きていけるのですか?」
『そうだ。だが時が要るだろう。剣の如く鋭く凝固した血を、流し落とすだけの平和な時が必要になる』
「ならば、過去のわだかまりを水に流し、種族の偏見を取り除いたのならば、平和は成りますか?」
『長い時の果てにある話だ。過去の清算にすら血が流れるかも知れぬ。しかし成る。否! 我が成す! ……どの道、手を取り合う以外に道はないのだ。侵略し強引に併合したところで、勝者の与える安寧を、敗者はいつまでも享受してはいられぬ』
「魔王様はお優しいのですね。それだけの、たったそれだけのことで、平和が降りてくると信じておられる。ならば私に見せてください。人間も、魔族も、愚かではないと、証明してください。私に見届けさせて下さい」
魔王の目前に立った勇者は、再び膝をついた。
叙任を受ける騎士の様に、裁きを待つ罪人の様に、魔王の答えを待った。
『……良いだろう。剛毅な人間――勇者よ。勇ましき者よ。貴様に敬意を表し、我は人魔共存の世を成すと約束しよう。だが見届けることは叶わん。我が命を持って足りるか否かだ、人のそれでは到底無理だ」
揺るがぬ自信のまま魔王は言い放ち、勇者の方に手を置く。
世界の命運を分ける決断。勇者の言葉は魔王に届き、世界は人魔共存へと細く険しいながらも進み始めた。
少なくとも魔王はそう思っていた。
だから魔王は自身の思い違いに気付かない。
男の目に宿る光の正体を見抜けない。
その曇りなき緋色の瞳が、遠く未来の平和を捉えるが故に――。
「いえ、見せて頂きますよ。これは賭けです。世界の全部を張った、私と貴女の賭けなのです。筋違いではありますが、貴女に幸運がありますよう祈っています」
勇者は肩に置かれた手を取り、そっと口付ける。
暗転。収縮。構成。
世界は変わる。
魔王と勇者を連れて、二人だけの世界に――。
飢えず、苦しまず、死なず、過去すらも置き去りにした幸福な世界。
そこにはありとあらゆる娯楽がある。