断捨離が得意な地味令嬢は無能な婚約者を捨てて幸せになります!〜私を大切にしてくれる騎士様に出逢って、ときめきを知りました〜
ローゼンベルグ伯爵家の大広間は、夜会を三日後に控えてすでに戦場だった。
「アストリッド様、招待状の返事が二通足りません!」
「東棟の倉庫に運んだはずの燭台が見つからなくて……!」
「料理長が、予算が合わないと言っています!」
「順番にお願い。返事は青い箱、燭台は第二倉庫の左奥、料理長は私が対応します」
アストリッド・エヴェルシェルは落ち着いた声でそう言って、帳簿を閉じた。
使用人たちがほっとした顔で散っていく。
その背中を見送った瞬間、軽い足音と香水の匂いが近づいてきた。
「まだ終わっていないのかい?」
婚約者、セドリック・ファン・ローゼンベルグだった。
金髪に宝石付きのタイピン、今日も無駄にきらきらしている。
「夜会の準備は詰めの段階です。追加された噴水演出と金糸の幕の分、予算がずれていますので――」
「はあ? そんな地味な話はどうでもいいよ。目立てるかどうかが大事だろう?」
セドリックはひらひらと手を振った。
「噴水は残す。幕もだ。あと楽師を二組増やしてくれ。王都中に僕の名を知らしめる夜会にしたいんだ」
「増員するなら、護衛と給仕も必要です。席次も組み直しになります」
「君、相変わらず夢がないね」
にっこり笑って、セドリックは言った。
「地味な君は、せめて僕の役に立てばいいんだよ」
その言葉に、アストリッドは一瞬だけまばたきをした。
驚きはない。何度も言われてきた。華がない、愛想がない、色気がない。
だが今日は、なぜだか胸の奥で何かがすとんと落ちた。
ああ、もういいのだと。
「……承知しました」
「物分かりがよくて助かるよ」
セドリックは満足げに去っていく。
アストリッドは静かに息を吐いた。そして次の帳簿を開く。
そのとき、執事が慌てて顔を出した。
「お嬢様、王都騎士団の方がお見えです。補給品の確認がしたいとか」
「今行きます」
応接室へ向かうと、そこにいたのは黒髪の騎士だった。
背が高く、肩幅が広い。切れ長の目つきは鋭く、普通なら一歩引いてしまいそうな強面だ。だが姿勢に嫌な威圧感はない。
「王都騎士団補給隊所属、ヴィクトル・ガルディアスです」
低い声が響く。
「ローゼンベルグ家経由で入った物資の記録に不自然な点がありまして。確認をお願いしたい」
セドリックは顔すら出さないので、応対するのは当然アストリッドだ。
「記録はこちらです。仕入れ日はこの三日、納品先は騎士団補給棟。ただし箱数と実数に差があります」
アストリッドが帳面を差し出すと、ヴィクトルの眉がわずかに上がった。
「……もう調べていたのか」
「いずれ揉めると思っていましたので」
「この印は?」
「私の選別魔法で確認したものです。中身が帳簿と一致しない箱に印をつけています」
ヴィクトルは帳面と彼女を見比べた。
「これを一人で?」
「はい」
「相当できるな」
あまりにも当然の顔で言われて、アストリッドは返事を忘れた。
褒められたことがないわけではない。だが大抵は「便利だ」「気が利く」で終わる。
こんなふうに、能力として認められたことはなかった。
ヴィクトルは真面目な顔のまま続ける。
「助かる。確認が早い。……失礼、無理をさせたか?」
「いえ。慣れていますから」
「慣れている、か」
低い声に何か引っかかったが、聞き返す前に彼は一礼した。
「また必要があれば、頼らせてほしい」
「私でよければ」
そのときだけ、ヴィクトルの目元がほんの少し和らいだ気がした。
◇
三日後。
夜会当日の朝、ローゼンベルグ家は完全に破綻していた。
「アストリッド様!席次表が三種類あります!」
「西棟の花が足りません!」
「料理長が、追加の香辛料代は誰が払うのかと!」
アストリッドは次々に指示を飛ばす。
「席次表は最新版以外すべて破棄。花は中央階段を減らして西棟へ。香辛料代は装飾予算から振り替えて――」
「勝手に変えるな!」
セドリックが怒鳴った。
「中央階段はこの夜会の目玉だぞ!」
「見栄えより動線が先です。階段に花を盛りすぎれば、給仕が通れません」
「君は本当に華がないな!」
周囲の使用人がびくっと肩を震わせた。
セドリックは苛立った顔で近づいてくる。
「いいか、僕は完璧な夜会を望んでいる。余計な口出しはするな。黙って僕の指示どおり動け」
「……黙って、ですか」
「ああ。君のような地味な女は、せめて僕を支えていればいい」
その瞬間、アストリッドの中で最後の糸が切れた。
物でも、見栄でも、人間関係でも。
不要なものを抱え込めば、必要なものまで壊れていく。
そして今、アストリッドはようやく理解した。
いちばん捨てるべきものは、この婚約者だと。
彼女は抱えていた帳簿を閉じ、セドリックをまっすぐ見た。
「承知しました。では、私はもう支えません」
「……は?」
「婚約を解消いたします」
しん、と広間が静まり返る。
セドリックが目を丸くしたあと、すぐに鼻で笑った。
「何を言い出すかと思えば。冗談はやめてくれ。君が僕から離れられるわけないだろう?」
「離れられます」
「無理だね。君は家のために僕と結婚するしかない」
「いいえ」
アストリッドの声は静かだった。
「父にはすでに相談済みです。エヴェルシェル家から正式に解消を申し入れます」
「……何?」
「これは私個人の感情ではありません。エヴェルシェル家としても、これ以上の婚約継続は不要と判断しました」
セドリックの顔が強張る。
アストリッドは一冊の帳簿を机に置いた。
「こちらは夜会準備の一覧です。発注内容、変更箇所、未解決事項、赤字見込み、使用人配置、すべて記してあります」
「……」
「これまで私が整理していたぶんも含めて、あとはご自分でどうぞ」
セドリックの顔がひきつった。
「待て、アストリッド」
「お言葉どおり、私は黙って下がります」
アストリッドは丁寧に礼をして、その場を去った。
背後で「おい!」「戻れ!」と怒鳴り声が響いたが、もう振り返らない。
屋敷を出た瞬間、春の風が頬を撫でた。
重たかった胸が、少しだけ軽くなった気がした。
「アストリッド様!」
呼び止められて振り返ると、屋敷の執事が小走りで追ってきた。
「騎士様から、もしもの時にと預かっておりました」
差し出されたのは、簡素な封書だった。
開けば、短い文が一行だけ。
『行く場所がないなら、補給棟へ来い。仕事はある』
飾り気のない筆跡に、アストリッドは思わず目を瞬いた。
不器用で、ぶっきらぼう。
しかしそこには、確かな気遣いがあった。
少しだけ迷ってから、アストリッドは封書をそっとたたむ。
「……行ってみましょうか」
◇
その日の昼過ぎ。
王都騎士団の補給棟で、ヴィクトルはそう言った。
「本当に来たのか」
「……来ては、いけませんでしたか?」
「そういう意味じゃない」
無愛想な顔のまま、彼はごほんと咳払いした。
「来てくれて助かる。非常に」
ぶっきらぼうすぎて少し面白い。
アストリッドは小さく笑った。
「では、働きます」
騎士団の補給棟は、ローゼンベルグ家の倉庫に負けないほど散らかっていた。いや、むしろこちらのほうが重症かもしれない。
「ひどいですね」
「否定できん」
「誰が管理を?」
「全員で少しずつ、が積み重なった結果だ」
「最悪のやつですね」
「最悪のやつだ」
アストリッドは袖をまくった。
「では、断捨離します」
それからの彼女は見事だった。
「この箱は中身と記録が違います。横流しの可能性あり」
「こっちの剣油は劣化しています。廃棄」
「予備鎧が多すぎます。同型ごとに整理を」
「この帳簿、数字が一列ずれてます。書き直しを」
兵士たちが目を丸くする。
「すげえ……」
「一瞬で見抜いたぞ」
「しかも早い」
アストリッドは淡々と続けた。
「不要なものを置いたままにすると、必要なものまで埋もれます」
「耳が痛いな」とヴィクトルが言った。
「あなたはすぐ動きましたから、まだマシです」
「……慰められたのは初めてだ」
「慰めたつもりはありませんが」
そのやり取りを聞いて、周囲がくすっと笑う。
ローゼンベルグ家では向けられなかった、温かい空気だった。
昼過ぎ、アストリッドが重い箱を持ち上げようとしたとき、すっと横から大きな手が伸びた。
「これは俺がやる」
「持てます」
「知っている。だが持たせたくない」
ヴィクトルはそれだけ言って箱を軽々と運んでいく。
アストリッドはその背中を見て、なぜか胸が騒いだ。
役に立つからではない。
大事に扱われているようで、少しだけくすぐったい。
◇
だが平穏は長く続かなかった。
その日の夕方、補給棟にセドリックが怒鳴り込んできたのである。
「アストリッド!」
きらびやかな衣装のまま、顔だけが青ざめていた。
「今すぐ戻れ! 夜会が滅茶苦茶なんだ!」
兵士たちがぎょっとする。
アストリッドは手を止めた。
「お断りします」
「君のせいで招待客の席が足りない! 料理の順番もおかしい! 商人まで勝手なことを言い出して……!」
「私は一覧にまとめてお渡ししました」
「僕にできるわけないだろう!」
その一言で、補給棟がしんと静まった。
セドリック本人だけが気づいていない。
「……つまり、私がいなければ何もできなかったのですね」
「そ、それは」
「なら最初から、そうおっしゃればよかったでしょう」
セドリックが顔を赤くした。
「婚約者なんだから支えるのが当然だ!」
「当然ではありません」
「アストリッド!」
一歩踏み出そうとしたセドリックの前に、ヴィクトルが立ちはだかった。
「それ以上近づくな」
低い声だった。怒鳴っていないのに、空気が震える。
セドリックがびくりと止まる。
「彼女は嫌だと言ったはずだ」
「き、騎士風情が口を挟むな!」
「今の俺は騎士として口を挟む。ローゼンベルグ家経由の物資不正についても調べている最中だ」
「な……っ」
アストリッドは、はっとした。
「まさか、夜会商人ですか?」
ヴィクトルが頷く。
「追加で出入りしている商人の名簿を見た。補給品の横流しに関わった商会が混じっている」
アストリッドの頭の中で、ばらばらの記録が一気につながった。
「……だから急に高額な装飾品を大量に入れたのですね。帳簿をぼかすために」
「分かるか?」
「ええ。今なら証拠も押さえられます。夜会会場に残っているはずです」
ヴィクトルは一瞬だけ考え、すぐに言った。
「行くぞ」
セドリックが叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待て! 勝手に――」
「あなたも来てください、セドリック様」
アストリッドは静かに言った。
「ご自分の夜会が、何で崩れたのか。きちんと見たほうがいいです」
◇
夜会会場は混乱の極みにあった。
「席が違う!」
「贈答品が足りないぞ!」
「料理がまだ来ない!」
貴族たちの不満が渦巻く中、アストリッドは迷いなく歩く。
「第二控室を空けてください。余剰の椅子を西廊下から運んで」
「温かい料理は主卓から先。冷菜を先に回して時間を稼ぎましょう」
「装花は半分で十分です。視界を塞いでいます」
使用人たちは一瞬ぽかんとしたあと、次々に動き出した。
「アストリッド様が戻ってきたぞ!」
「助かった……!」
だが彼女は首を振る。
「私は助けに来たのではありません。被害を広げないために動いているだけです」
その言葉に、近くで聞いていた貴婦人たちが息をのむ。
アストリッドはそのまま贈答品の並ぶ卓へ向かい、手をかざした。
淡い灰青色の光が走る。
選別魔法だ。
「……やはり」
「何が分かった?」
ヴィクトルが問う。
「この木箱です。表向きは装飾品の納品箱ですが、中身の魔力反応が違う」
兵士が箱を開ける。中から出てきたのは宝飾品ではなく、騎士団の刻印が入った未使用の短剣だった。
「証拠押収!」
ヴィクトルの声が響き、兵士たちが一斉に動く。
会場がどよめいた。
「ろ、ローゼンベルグ家が騎士団の物資を?」
「まさか」
「どういうことだ」
セドリックは真っ青だ。
「し、知らない! 僕は何も――」
「知らないで済む話ではありません」
アストリッドは彼を見た。
「必要なことを理解せず、不要なものばかり増やした結果です。見栄のために人を使い、確認もせず、責任も持たなかった」
「アストリッド、僕は……!」
「私はずっと後始末をしてきました」
会場中が静まり返る。
「帳簿のずれも、贈答の不足も、使用人の再配置も、あなたが気づかなかったことを私が埋めてきたのです。それをあなたは当然と思い、地味だと笑った」
セドリックの唇が震える。
「そ、それは違う。君が勝手に……」
「勝手に支えていたのではありません。支えさせられていたのです」
アストリッドは一歩、彼から距離を取った。
「私はもう、あなたの失敗を隠すための婚約者ではありません」
その言葉は、よく通った。
セドリックが何か言おうとしたその瞬間、ヴィクトルが彼女の隣に立つ。
「彼女への侮辱も強要も、これ以上は許さない」
強面騎士に真っ向から睨まれ、セドリックは完全に黙り込んだ。
兵士たちが不正商人を拘束していく。
ざわめきの中、ある老伯爵がぽつりと言った。
「……今までこの夜会を回していたのは、あの令嬢だったのか」
その声が、波紋のように広がる。
「まあ、あの子が」
「ではセドリック様の手腕では……」
「むしろ、彼女がいなくなったから崩れたのでは?」
セドリックの顔色が土気色になった。
けれどアストリッドはもう見ていなかった。
必要のないものは、もう手放したのだ。
◇
数日後。
ローゼンベルグ家の夜会失敗と不正商人の件は王都中に広まった。セドリックの評価は地に落ち、婚約解消にも誰も異を唱えなかった。
一方で、アストリッドには騎士団から正式に協力依頼が来た。
補給と保管、記録整理の助言役。
地味だと笑われた力が、ここでははっきり必要とされていた。
「こちら、仮の執務机です」
補給棟の一角を示しながら、ヴィクトルが言う。
「狭いですが」
「十分です。……むしろ広すぎるくらい」
「足りないものがあれば言ってくれ」
「今のところはありません」
「そうか」
そこで会話が途切れる。
沈黙が落ちるが、不思議と気まずくない。
アストリッドが書類を整えていると、ヴィクトルがなかなか動かないことに気づいた。
「どうかしましたか?」
「……ひとつ、言いたいことがある」
「はい」
彼は強面のまま、妙に真剣な顔をした。
「あなたが必要だ」
アストリッドは目を瞬いた。
「仕事として、ですか?」
「それもある」
ヴィクトルはごく短く息を吸う。
「だが、それだけじゃない」
「……」
「あなた自身を、俺は大切にしたい」
あまりにも真っ直ぐで、アストリッドは言葉を失った。
こんなふうに言われたことはない。
役に立つから。都合がいいから。婚約者だから。
そういう理由ではなく、ただ自分自身を大切にしたいと。
「すぐに答えなくていい」
ヴィクトルは少し視線をそらした。
「ただ、知っていてほしい」
不器用で、けれど誠実な言葉だった。
アストリッドは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
「……では、ひとつお願いがあります」
「何だ」
「無理をしそうになったら、止めてください」
「任せろ」
「あと」
「あと?」
「たまには、もう少し優しい言い方をしてくださると……うれしいです」
ヴィクトルは固まった。
それから、珍しく困ったような顔をした。
「努力する」
その返事がおかしくて、アストリッドはくすっと笑った。
するとヴィクトルが、少しだけ目を細める。
「……その顔のほうがいい」
「え?」
「笑っているほうが、似合う」
顔が熱くなる。
「い、いきなりそういうことを言うのは、優しい言い方とは別問題です」
「すまん」
「本当に思ってますか?」
「思っている」
真顔で言われてしまい、アストリッドは降参するしかなかった。
不要なものを捨てたあとに残ったのは、がらんとした寂しさではなく、温かな居場所だった。
物を減らすと、暮らしや心が整う。
無駄はなくしたほうが回る。
そして、不要な縁を手放したからこそ、本当に必要なものが見える。
書類を抱え直したアストリッドの隣で、ヴィクトルが自然にその半分を持ってくれる。
「それ、重いだろう」
「少しだけ」
「なら半分持つ」
「……ありがとうございます」
強面騎士は相変わらずぶっきらぼうだった。
でもその不器用な優しさが、今はとても心地いい。
かつて「地味でつまらない」と切り捨てられた令嬢は、不要なものを捨てたことで、ようやく知ったのだ。
大切にされる幸せと。
胸がそっと高鳴る、ときめきを。




