ずぶ濡れの女
――ど……じ……で……
ぴたりと俺の後ろに寄り添うように。
ずぶ濡れの……それ以上に酷く水浸しの女がいる。
長い前髪で顔を隠し、真っ黒な長丈のワンピースで全身を覆い、俺の耳元でずっと同じ言葉を囁き続ける。
ソイツは俺にそれ以上のことは出来ない。
もう、それ以上には俺に手を出せない。
なあ、聞いてくれよ。
どうしてコイツがこうなったかを。
俺がコイツにどれだけ悩まされたかを。
本当に、死ぬような目に合わされたんだぜ。
俺がまだ若かった頃のことだ。
大学を卒業すると同時に会社を興し、それが軌道に乗った。
数年もすると俺は経営者であるが出資者に近い役割になっていた。
部下には俺以上に優秀な奴が何人もいて、俺はただ運が良かっただけの奴だと思い知らされた。
だけど俺は別に腐らなかった。
というか、開き直った。
働かなくていいならそれでいいと。
働きたくなったらコンビニでバイトでもすればいいやと。
社員にはちゃんと休みも給料もくれてやっていたし、俺は遊んでいても毎月それなりの金が振り込まれていた。
社員だって金だけもってる奴に口出しなんてされたくないだろうし、誰も不幸にならない、誰もが幸せになれる素敵な関係ってやつだ。
そんなわけで俺は毎日遊び惚けていた。
街を歩けば若い女をひっかけ、気が向けば湖にでも連れて行って、遊んだ。
パチンコも、競馬も、競艇も、麻雀もその時に覚えたっけな。
体力のあるがまま、金のあるがまま、ただ毎日を無意味に送っていた。
だが、幾ら日々に刺激を取り入れようとも、それもしばらくすれば薄れる。
捕まるかもしれない、と怯えたあの日も遠い過去だ。
慣れてしまえば、非日常は日常となり、日常だけでは足りなくなる。
時間と金を持て余した俺は、更なる刺激を追い求めた。
友人の一人に霊感がつよいと自称する奴がいた。
そいつはどこぞの洞窟だとか、事故現場とか、廃病院とか、そんな幽霊が出ると噂の場所を巡る変わり者だった。
女を湖で遊んだ帰りだったな。
少し服が濡れてしまったために着替えて帰るかとスポーツ店か何かに立ち寄った時だった。
偶然にもその自称霊能力者が働く店だったみたいで、俺は声を掛けたんだ。
「おお、お前が店員だったのか」
「……店長だよ」
それはすまないなと笑いながら、俺はてきとうにサイズの合いそうなシャツを何着か見繕う。
そのついでとばかりに、ソイツに尋ねた。
どこか楽しめそうな場所は無いか、と。
「……先日、トラックと乗用車が衝突したトンネル。分かる?」
「ああ。隣のK県〇〇市の脇にあるやつだろ」
「あそこは昔から事故が多発していてね。噂されているのさ……悪霊の仕業と」
友人はおどけるように自分の胸の前で手を垂れさせる。
なんだか安っぽい仕草で俺は冷めていた。
こうして尋ねておいてなんだが、俺はこの友人は自称止まりだと思っている。
ただ周囲の気を引きたいがために幽霊がみえるんだと公言する小学生の延長線上だと。
だから話半分だったし、刺激を求める肝試し感覚の俺にとってはその半分程度で十分だった。
「なら早速行ってみるわ」
時刻は暗くなり始めた18時頃。
ここからそのトンネルまでは高速を使っても3時間以上かかるだろう。
どうせ時間も金もある。
「ふ、ふ……健闘を祈ってるよ。これ、霊に会えるおまじない」
アニメか何かに出てきたようなジェスチャーでおまじないとやらをかけてくれた友人に礼を言いながら、俺はシャツの代金を支払い、店を後にした。
「って、車が無ぇんだったな」
車を濡らしたくないがために湖に置いてきてしまったことに気づいた俺は内心舌打ちしながらレンタカーショップに寄った。
普段は使わないからどんなところだと気構えたが、案外そんな大したことはなく、手続きはすぐに終わった。
気になるところといえば、店員がやけに暗い表情だったことだ。
ほとんど無言で、必要事項を指さし、俺に記入を促せた。
俺は多少苛つくくらいだったが、他の奴だったら怒鳴るんじゃないかと思う。
カタログよりは多少ボロイ車に乗ることになり、俺は少し陰鬱な気持ちで運転を開始した。
『も――目的地――を――ガ――ピ――入れ入れ入れ入れ――くださささ―――い――』
カーナビは付いていたが、なんだか壊れているのか最初から一か所だけを示していた。
みればトンネルのすぐ傍だったからそのまま俺はナビの示すとおりに車を走らせる。
やけに深い霧、人気のないサービスエリア、がたつく高速道路を抜けた先に、そのトンネルは見えた。
「えぇ、と……こんなかを歩けばいいのか」
懐中電灯を持ち、トンネルの中を照らす。
だが、すぐに灯りは消えた。
「……なんだよ、もう電池切れか?」
買ったばかりだったから信用していたが、使い古しのでも入れられていたのだろうか。
仕方なく、レンタカーに搭載されていた懐中電灯に持ち替え、トンネルの中を歩きだす。
事故が多発している、というのは本当のようでトンネルの内壁はあちこちが削れていた。
倒壊するような致命的な傷はないものの、血染みのようなものまである。
約1時間をかけてトンネルを1往復してきた俺の感想といえば――
「こんなものか」
終わってみれば、大したことは無かった、だ。
確かに、人が死んだ跡は幾つかみられた。
だが、幽霊の存在を認識させるようなものなど一つも無かったのだ。
血の手形や人のうめき声、あるいは幽霊そのものが出てくれば、暇潰しにはなっただろうが……いや、その時はまだ刺激があるなくらいで済むと思っていたからだろうな。
ともかく、暇潰し程度にはなったが、趣味とするにはあまりに退屈な事故現場巡りとなった。
多分だがもう二度としない、あの陰気な友人への連絡も控えることになるだろう……そう思っていた。
自宅に帰り、一晩が経過した。
この日は他に女を連れることも無かったため、起きたら隣に知らない女がいることなどない……と思っていたのだが、
「――いだっ」
全身の酷い痛みと共に、目を開けるとずぶ濡れの女がベッドの脇に立っていた。
今も土砂降りの雨に打たれているかのように、全身濡れている。
女の足元では値の張ったカーペットが無惨にも泥だらけになっていた。
「だ……れ……だ……」
喉も焼けたように痛く、枯れ、まともな声は出せない。
なんとか絞り出した声に、その女は反応することなく、
――ど……じ……で……
――ど……じ……で……
とだけ繰り返していた。
玄関のカギを閉め忘れ、泥棒に入られたのかと思ったが、それを心配する余裕もなく、女は俺へと右手を伸ばす。
ぶくぶくと水疱瘡のように膨れ上がった手に酷く嫌悪感を抱くも、傷みと眩暈と吐き気に襲われた俺は抵抗することも出来ず、女の伸ばした手は俺の腹部に当てられた。
瞬間、俺の腹は真っ赤に腫れあがり、女の手に似たような膿のような疱瘡のようなものが幾つも幾つも出来上がった。
女はその様子をみると長い前髪の奥底でニタリと笑い、また同じ言葉を繰り返し続けた。
まともな女ではない。
どこからそんな力が湧き出たのか分からないが、俺は全力で逃げ出すことを決意する。
幸いにも部屋の出入り口は女のいる場所とは反対側だ。
女は俺をみているがそれ以上何かをしてくる気配もない。
足を少しだけ動かし、力が入ることを確認すると、俺は一目散に駆け出し、靴も履かずに玄関を飛び出した。
空はどんよりと曇っていた。
カラスだけはやけに鳴いており、他の音はしない。
マンションには他の住人もいるはずなのに、今だけは無人のようであった。
階段を転がるように駆け下りると管理人室の窓をつよく叩く。
このマンションのセキュリティーはどうなってやがる、熱っぽい喉を酷使しながらそう怒鳴りつけた。
だが……管理人室からは誰も出てこなかった。
無人の部屋に幾ら呼び掛けても無駄だと悟ると、しかし部屋に戻るわけにもいかず、俺はマンションの外にでた。
そして、それを最後に意識を失っていた。
次に目が覚めると、そこは知った天井であった。
実家の、俺が昔使っていた部屋に俺は寝かされていた。
「こ、こは……?」
頭痛は和らぎ、声も幾分か出せるようになっていた。
「……! 良かった、目が覚めたんだね! ばあちゃん! 和くんの意識が戻ったよ!」
そこには目に涙を浮かべ安堵する母親がいた。
そして、ばあちゃんを呼んでいた。
「どうしてここに……」
「覚えてないの? 無理もないか……アンタ、倒れたんだよ。自分の家の前で」
それは覚えている。
それを伝えると母は少し声のトーンを落とした。
「……ばあちゃんがね、和くんに良くないことが起きるって。いいえ、起きてるって言いだしたの。ばあちゃんって昔から信心深いでしょう? だから、ね、一応アンタに連絡をと思ったんだけど出なくて……それでアンタの家に行ったらアンタが倒れてたもんだからさ」
「病院……じゃないのかよ」
「ばあちゃんが病院じゃダメだ、って。あんなところじゃアンタを治せないなんて言うもんだからさ」
なんだよそりゃ。
確かに、今は少し落ち着いている。
トンネルでなにか良くない細菌にでも感染しちまったのかもしれない。
……いや、違う。
「そうだ! 女が! 女が俺の部屋にいたんだよ!」
「……女?」
母親の顔が少し訝し気になる。
俺が連れ込んだ女とトラブルにでもなったと思ったのだろう。
「変な女なんだよ。朝起きたら隣に立ってて、それで、俺の腹に触ってきて……づっ!?」
シャツを捲り、腹を見ると、そこには濡れた包帯が巻かれていた。
「……見ちゃダメ」
母親は首を横に振る。
「ばあちゃんがそのままにしておけって」
「……なんだよ。どうなってんだよ、これ」
包帯の上からでも分かるほど、俺の腹は膨れ上がっていた。
まるで巨大なできものが……妊娠したかと錯覚する程に大きな何かがそこにあった。
「かず! 目ぇ覚めたか!」
と、ばあちゃんが俺の部屋へと入ってきた。
もう80を超えるのに相変わらず元気そうだ。
「……ばあちゃん、俺の身体……どうなっちまったんだ……?」
「わからねぇ……だけどもう安心だ。先生を呼んだかんな」
先生というのはばあちゃんの先生だ。
だが、学校の先生ではない。
ばあちゃんはその信心深さから、昔はとある神社だかお寺だかで修行をしたという。
先生というのはその時の師であり、年齢はばあちゃんとそう変わらないはずだ。
ばあちゃんはその先生を今でも慕っており、毎年年賀状を出し、何かことあるごとに相談をしているようだ。
俺の名前も、その先生に決めてもらったというから心の底から信頼しているのだろう。
俺は小さい頃に会っただけだからあまり先生のことを覚えていない。
ただ、優しい目をしていたなとだけ、印象に残っていた。
「そっか……先生が」
俺はばあちゃんに何があったかを話した。
ばあちゃんも神様とかは多少詳しいはずだ。
先生が何をしてくれるかは分からないけど、ばあちゃんが安心と言うのだ。
少し落ち着いて話すことができた。
友人のおまじないのこと、レンタカーのおまじないのこと、トンネルのこと。
そして、ずぶ濡れの女のことを。
「……そうか」
ばあちゃんは神妙な顔で頷く。
あの異常な女について何か知らないかと尋ねた。
「儂にはわからん……ただ、かずにはよくないものが憑いてる……今もな……」
ばあちゃんが俺の腹に巻いてくれた包帯。
これも気休め程度のものだという。
そして実家全体にも結界のようなものを貼ってくれたらしいが、その女がその気になればすり抜けてしまう、と。
つまりは何も状態は好転していなかった。
「先生が来てくれればどうにかなるんか?」
「多分……だけど先生はあと数日は来られねえ。なにぶん、先生も歳だ。すぐに動けるわけじゃねえからな」
家全体がガタガタと揺れた。
風が吹くような音はしなかった。
その場の全員が、無言になる。
「ただ静かに、ここで待ってろ」
そう呟いたばあちゃんの顔は冷や汗でびっしょりだった。
先生を待つ間は特にやることがなかった。
というか、徐々に体調は酷くなっていき、翌日には再度高熱が出ていた。
熱にうなされ、俺は現実と夢の区別がつかなくなっていた。
そんな中でも、ずぶ濡れの女は構うことなく、俺に同じ言葉を唱え続ける。
――ど……じ……で……
――ど……じ……で……
母親は倒れ、ばあちゃんは顔を真っ青にし何やら念仏を唱えている。
更に翌日、母親の顔には布が被されていた。
俺はというと、膨れた腹は落ち着きをみせていたが、熱は酷くなる一方で、母親の身に起こったことを嘆くことも出来ず、ばあちゃんの念仏と女の言葉が混ざったような音を聞かされていた。
「和くん! 和くん!」
そうして何日が経っただろう。
気絶するように眠っていたおかげか、少しだけ頭が軽くなっていた。
鈍い鈴のような声がし、俺は目が覚める。
そこには、記憶よりも皺が増えた先生の姿があった。
「先生……」
「ああ。私だよ。……大きくなったねぇ」
ばあちゃんと同じくらいしわくちゃの手で先生は俺の手を握る。
そこから少し熱が移ったように、俺の全身が暖かくなる。
嫌な熱さではなかった。
安心するような、逆に全身から嫌なものが引いていく感覚があった。
「先生……母ちゃんと……ばあちゃんは……?」
母親についてはもう遅いのだと分かりながら尋ねた。
同時に、少し前から聞こえなくなった念仏からばあちゃんについても察していた。
先生は静かに首を横に振る。
開き切った襖の向こうでは、横たわる身体とそこに被さる白い布が一つ増えていた。
「……そうか」
ふと、腹の違和感を覚えた。
というか、今まであった不快感が無くなっていた。
「応急処置だけどね、やっておいた。これでしばらくは大丈夫だろう」
先生は黒い革の鞄から幾つかの御札と、何かが刻まれた木の板を取り出す。
「そのまま眠っておれ。私がいいと言うまで……目を開けるんじゃないよ」
再び布団に寝かされると、先生に言われるがまま、俺はまた目を閉じた。
「――ひとまずはこれでいいだろ」
数時間、あるいは半日くらい経過したかもしれない。
先生が俺の顔に手を触れ、目を開けていいと教えてくれる。
そっと目を開けると、俺の顔を覗き込む先生がいた。
「体調はどうなった?」
「……軽くなった、よ。うん、まだ全快とはいかないけど」
「そうか……それは良かった。私は少し疲れたからね。休ませてもらうよ」
もう主のいない部屋に先生を案内すると、先生はすぐに寝息を立てて眠ってしまった。
俺は一人、台所でありあわせの飯を食べる。
母親か、ばあちゃんか、作り置いてくれたのだろう。
懐かしい味に、俺はようやく現実が襲ってきた感覚に陥った。
このご飯も、もう二度と味わえないのだという喪失感に、俺は涙が止まらなかった。
なんで、なんでこんな目に……。
そう、思わずにいられなかった。
翌日、先生が目を覚ました。
先生と二人、手を合わせて最後の作り置きに手を付ける。
そして食べ終わった時、居間で俺は先生に正座をさせられていた。
「私が出来たのは時間稼ぎくらいだ。後は和くん、お前がやるんだよ」
「俺が……?」
俺には超能力も霊能力もない。
今まで神様も仏様も、たまにしか祈ったことがない、そんな俺に何が出来るというのか。
「心の中でひたすらに手を合わせるんだ。そして、ごめんなさいと、そうお願いするんだよ」
「ごめんなさいって、ハハ、いなくなってくださいって祈るんじゃないのかよ。おまじないも、車も、トンネルも、俺は何も悪いことはしていないんだぜ? むしろ悪いことをしてるのはそのずぶ濡れの女のほうで――」
冗談交じりに笑う俺の顔を先生は真顔で見つめていた。
なんの表情も浮かべず、まるで道端の小石を見るかのように。
初めてみた先生のそんな顔は、俺を俺として見ていないかのようであった。
「先生――」
「そうだね。お前の母も祖母も天に召された。それは、それだけはその霊の仕業だ」
先生は俺にお願いの仕方を教えてくれた。
ひたすらにそう心の中でお願いしていればいいらしい。
先生の貸してくれる道具が後押しし、それで状況は解決するのだと言う。
「お前が言うおまじないも車もトンネルも……何の因果も無いんだよ」
「はぁ?」
「分かっているだろう……。私が出来ることはもう無いよ。力を抑えて、話し合いの場をつくることだけ。最後はお前がやるんだ」
全て知っているんだぞとばかりに、じっと俺の顔を先生は見る。
ここまで助けてくれたのに、最後は俺に丸投げかよ。
そう、言い出す雰囲気ではなかった。
今回起きた事件をそのまま警察に言っても信用はされない。
母親とばあちゃんのことは先生の方からうまく伝えてくれるらしい。
その伝手はあるから任せておけとのことだ。
先生が死体となって見つかったのはその三日後のことであった。
首の骨が折れた状態で、湖の底から浮き上がってきたらしい。
――ど……う……し……で……
――ど……う……し……で……
俺はひたすらに祈り続けた。
いなくなってくれ、どこかに消えてくれ、と。
だけどずぶ濡れの女はまだここにいる。
それどころか、増えている。
――な……ん……で……
――な……ん……で……
ずぶ濡れの女と並ぶように立つ、首の曲がった女が俺に言葉を投げてくる。
首の曲がった老女は、先生が残してくれた御札やら何やらを適当に貼り付けたら大人しくなった。
「チッ……死んでもうるせえのかよ」
ずぶ濡れの女の力は先生が削いでくれたというのに。
まだ、俺に迷惑をかけ続けてくる。
金があると遊びたくなる。
時間があると刺激が欲しくなる。
俺はいつしか、馬鹿な女を湖に連れ出し、女で遊ぶようになった。
水に顔を付けさせたまま抑えつけたり、ボートに括りつけたり。
そうやって、何人も何人も、遊んだ。
遊んで、湖の底に捨ててきた。
今まで発見はされなかった。
だから先生を沈めても大丈夫だと思ったんだが……何の執念だか、浮かんできやがった。
長い前髪でずぶ濡れの女。
その前髪の向こう側は一体どんな顔をしているのだろう。
俺には分からない。
数が多すぎて覚えていない。
……先生の死体が浮きあがったことで他のも発見されているだろう。
証拠は何一つ残っていないはずだ。
だから残ったのはこのずぶ濡れの女だけ。
でもコイツはこれ以上俺に手を出すことは出来ない。