『キツネ神使は今日も現代でチートを振るう~神と科学が織りなす「神・日本」の日常~』
東京、いや、「神・日本」となったこの都市の朝は、いつだってカオスと活気に満ちている。
十年前のあの日、「大衝突」は起きた。空が裂け、雷鳴が轟き、信じられない光景が広がった。巨大な浮遊大陸が、現代日本の首都・東京と激突したのだ。それは、神々が住まう「神の国」だったという。混乱と破壊の末、二つの世界は混ざり合い、未曾有の「神・日本」が誕生した。
高層ビルの間を縫うように、朱色の荘厳な鳥居が、まるで新たな都市の血管のようにそびえ立つ。その上空を、最新鋭のドローンが情報収集のために飛び交い、その傍らでは、ふさふさとした尾を揺らす神使たちが、時には人助けに、時にはただ気まぐれに、空を舞っていた。アスファルトの道にはAI制御の自動運転バスが滑るように進み、その傍らでは、狐の耳を持つ少女が、スマホを片手に満員電車に揺られている。
そう、それが私、シャルテの日常だ。
金髪に、燃えるような赤い瞳。耳元でぴくりと動く狐の耳は、周囲の喧騒を拾いすぎないよう、とっさにヘッドホンで隠す。腰からは、揺れるたびに周囲の視線を集める、見事な九つの尾。私は「神の国」から来た神使、稲荷神の眷属だ。正確には、人間に近い存在だった私の両親が、衝突の際に神の気を受け、神使として覚醒した、言わば「二世神使」である。
神・日本に溶け込んで十年。私はもう、あの頃の戸惑うだけの少女ではない。
「うわ、今日のニュース、また『怨霊型アプリウイルス』だって!やばっ」
スマホの画面をのぞき込み、思わず声が出た。隣に立つ、疲れた顔のサラリーマンがギョッとして私を見る。視線に気づいて、私は愛想よく「すみません、つい」と謝罪した。
神・日本には、神の国由来の厄介事が山ほどある。神気による電子機器の誤作動、御霊の暴走、果ては神獣の街中出現。それらを解決するため、現代日本は「神・日本均衡推進委員会」なる組織を立ち上げた。しかし、彼らは神の力を「制御すべき脅威」としか見ていない節がある。
自室の小さなキッチンで、私はインスタントのコーンスープを準備していた。神の国では、新鮮な果物や、神気あふれる穀物を食していたのだけれど、こちらの「インスタント」という文化もなかなか面白い。ただし、たまに火加減を間違えて、狐火でケトルを溶かしてしまうのはご愛嬌。今日も危うく焦がしかけたケトルから、モクモクと湯気が上がっていた。
「はぁ、焦げ付かなくてよかった……」
胸を撫で下ろす。このマンションは、私が住むことになってから、なぜか周囲の電子機器が頻繁に誤作動を起こすようになり、大家さんが頭を抱えている。私に流れる神気が強すぎるせいだと分かっているけれど、どうにも制御が難しい。特に、現代の「科学」と「神の力」がぶつかり合うと、予期せぬ現象が起きるのだ。
着替えは、神の国の巫女服を現代風にアレンジしたもの。緋袴はそのままに、白衣の上にはカジュアルなパーカーを羽織り、足元は履きなれたスニーカーだ。今日は、月に一度の「霊気探査」の日。神・日本でも特に霊的スポットが多いとされる新宿御苑へ向かう予定だった。神の国では、こんなに広大な庭園に、人々がスマホ片手に集まっているなんて想像もできなかっただろう。
「シャルテ様、いらっしゃいますか?」
コンコン、と控えめなノックの音。ドアの向こうには、私が現代日本で世話になっている、公務員の青年、田中ユウキがいる。彼は私より二つ年上の二十歳で、この「神・日本」という特殊な状況下で、神と人との橋渡しをする「異文化交流特別課」に所属している。神の国の存在を信じない現代人もいる中で、彼はいつも私に敬意を払い、真摯に向き合ってくれる、数少ない理解者だ。
ドアを開けると、ユウキはいつものように少し疲れた顔で立っていた。彼の隈の濃い目元は、彼もまた、神・日本の混沌と日々向き合っている証拠だろう。
「おはようございます、シャルテ様。今朝も早いですね」
「ユウキ、おはよう! 今日の朝ごはんもインスタントスープだよ。食べる?」
「ああ、それは結構です……。あの、シャルテ様。実は、先ほど対策本部から緊急連絡が入りまして」
ユウキの表情は、いつも以上に真剣だった。何か、ただならぬ事が起こった予感がした。私の狐の耳が、ピクリと不穏な空気を察知する。耳は正直だ。
「新宿、大規模な通信障害と、原因不明の機器暴走が報告されています。どうやら、例の『怨霊型アプリウイルス』とは違う、もっと根源的な……神の気配が混じっていると」
「神の気配?」
私が眉をひそめると、ユウキは頷いた。
「ええ。専門家の分析では、神の国の『御霊』が、現代の電力網や通信網に直接干渉している可能性が高いとのことです。このままでは、新宿全体が機能停止に陥りかねません」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。御霊の暴走。それは、神の国と現代日本が衝突した際に、バラバラになって散らばった神々の魂の断片が、現代の技術と結びつき、制御不能な状態になることを意味する。それは、私のような神使の、最も重要な使命の一つだ。
「分かった。すぐに、私が向かう」
私の赤い瞳に、覚悟の光が宿る。現代日本と神の国、二つの世界の平和を守るため、私は今、立ち上がる。
新宿駅東口。普段なら人々の波が押し寄せるスクランブル交差点は、まるで時間の止まったかのような異様な光景と化していた。大型ビジョンの広告は意味不明なノイズを撒き散らし、けたたましい電子音が街全体を覆う。自動改札は誰もいないのに開閉を繰り返し、行き交う自動運転タクシーは、まるで迷子の子犬のように同じ場所をぐるぐると回っていた。道行く人々はスマホを握りしめ、繋がらない電波に苛立ちと不安を募らせていた。
「ひどい……」
シャルテは思わずつぶやいた。空気には、神の国の瘴気にも似た、不快な「揺らぎ」が満ちている。この感覚は嫌というほど知っている。これは間違いなく、暴走した御霊の仕業だ。しかも、以前遭遇した御霊よりも、桁違いに強い。
「シャルテ様、対策本部からの指示です! 新宿三丁目付近の地下街で、特に強力な御霊の反応をキャッチしたと! 電波が乱れて正確な位置は不明ですが、あの辺り一帯が電子の墓場になっています!」
ユウキがタブレットを操作しながら叫ぶ。彼の額には冷や汗が滲んでいた。
「地下街? なるほど、電力供給の中枢が密集しているから、御霊の干渉も強まるのね。一番危険な場所だわ」
シャルテは素早く状況を判断すると、人々の波をすり抜け、地下への階段を駆け下りた。スニーカーが、乾いた音を立てる。
地下街は、地上とは比べ物にならないほど混乱していた。照明は点滅を繰り返し、店舗のシャッターは勝手に開閉し、エスカレーターは逆走している。自販機からは意味不明なものが飛び出し、人々は悲鳴を上げ、出口を目指して殺到していた。まるで、都市全体が狂ってしまったかのようだ。
「おどろかないでください!」
シャルテは、恐怖に固まる人々の前に躍り出ると、手のひらをかざした。
「『鎮の火』!」
手のひらから、淡い青白い狐火がフワリと舞い上がった。それは、まるで空気中の不穏な揺らぎを吸い込むかのように、スーッと空間に広がり、乱れた電子の波を鎮めていく。照明の点滅が収まり、シャッターの開閉も止まる。人々は、呆然と、しかし安堵した表情でシャルテを見つめた。神々しい光景に、スマホで動画を撮ろうとする者まで現れる。
「すごい……神の力だ!」
誰かが呟く。シャルテは小さく微笑んだ。
「まだ完全には鎮まってないわ。もっと奥に、強い御霊の反応がある。このあたりは、ほんの末端の暴走よ」
ユウキが持っている電波測定器が、けたたましく警告音を鳴らす。その指し示す先は、地下街のさらに奥深く、普段は関係者以外立ち入り禁止となっている電力供給施設だった。その入り口からは、禍々しい紫色の電気が放電され、近づく者を拒んでいた。
「シャルテ様、ここは危険です! 高圧電流がむき出しで、警備ロボットが何体も暴走している可能性も……!」
「大丈夫。私は神使だから。あなたこそ、気を付けて。ここは私が切り開く」
シャルテは、ユウキの制止を振り切り、電力施設の頑丈なドアに手をかざした。「『結界・破』!」彼女が力を込めるると、神気がパチパチと音を立ててドア全体を覆い、軋むような音と共に、金属製のドアはギィ、と内側から開いた。まるで、彼女を招き入れるかのように。
内部は薄暗く、金属とオゾン、そして微かに神の国の土の匂いが混じり合っていた。キーン、という高周波の音が耳を刺激する。足元には無数のケーブルが這い回り、巨大な変圧器が不規則な火花を散らしていた。そして、その中央には、目を見開いて暴走する警備ロボットが何体も、銃口をこちらに向けていた。彼らの機体はまるで呪われたかのように、不自然な黒いもやを立ち上らせ、眼を赤く光らせていた。
「侵入者、排除! 侵入者、排除!」
ロボットの無機質な声が響き渡る。その機体からは、本来搭載されていないはずの刃のようなものが腕から飛び出し、まるで生き物のように蠢いていた。
「まさか、機械に憑りつくなんて……神の国では考えられない現象ね!」
シャルテは舌を巻いた。神の御霊は、通常、自然物や生物、あるいは神具などに宿るものだ。無機質な機械にまで影響を及ぼすとは、まさに「神・日本」ならではの現象だろう。この奇妙な融合こそが、この世界の真髄であり、同時に最大の脅威だった。
ロボットの一体が、ガシャン! と音を立てて襲いかかってきた。その機体は、本来搭載されていないはずの刃のようなものが腕から飛び出し、高速でシャルテに迫る。
「危ない!」
ユウキが叫ぶ。シャルテは冷静だった。
「『風の結界』!」
彼女が手を振ると、目に見えない風の壁が瞬時に展開され、ロボットの攻撃を弾き返した。ロボットはバランスを崩し、無様に転倒する。しかし、すぐに別のロボットが、全身から火花を散らしながら突進してきた。その動きは、まるで悪霊に取り憑かれたかのように不規則で、予測不能だった。
「『縛の糸』!」
シャルテの指先から、光の糸が何本も放たれた。それはまるで生きているかのようにロボットに絡みつき、その動きを封じる。ロボットはガタガタと震えながらも抵抗を続けるが、やがて完全に動きを止めた。その機体から、黒いもやが魂のように立ち上り、消滅していく。
「すごい……シャルテ様は、こんな力まで……」
ユウキが息を呑む。
「これでも、ほんの一部よ。御霊は、この場所の電気エネルギーを吸収して、どんどん強くなっている。このままじゃ、新宿どころか東京全体に影響が広がるわ。この空間全体が、まるで巨大な御霊の巣窟と化しているもの」
シャルテは、施設の中央にある巨大なメインサーバーを見上げた。そこから、最も強い御霊の反応が出ている。サーバーは、まるで生き物のように不規則に脈動し、青白い光を放っていた。その光は、周囲の電力ゲージを吸い上げるように揺らめいている。
「ここが、御霊の核ね……」
彼女はゆっくりとサーバーに近づく。すると、突然、背後から冷たい声が響いた。まるで空間そのものが凍り付いたかのようだ。
「そこまでだ、神使の娘」
振り返ると、そこに立っていたのは、見慣れない男だった。黒いスーツに身を包み、鋭い目つき。そして何より、彼の右腕には、禍々しい金属製の装具が取り付けられていた。そこから、先ほどシャルテが感じた「揺らぎ」とは異なる、しかし確かに「神の気配」を帯びた、歪んだエネルギーが放たれている。その気配は、私に強い不快感を抱かせた。
「あなたは……何者?」
シャルテは警戒した。この男は、ただの人間ではない。その腕の装具から放たれる神気は、どこか人工的で、だが異常な力を秘めている。
「私は『神・日本均衡推進委員会』特別執行官、黒木だ」
男は、皮肉な笑みを浮かべた。その顔には、傲慢な優越感が滲み出ている。
「貴様のような旧時代の遺物が、この新しい世界の秩序を乱すのは許されない。この御霊は、我々が『神の国』の力を効率的に制御するための、重要な実験体だ」
「実験体……? この暴走を、あなたが仕組んだとでも言うの!?」
シャルテの赤い瞳に、怒りの炎が灯った。彼の言葉は、神の尊厳を冒涜するかのようだった。
「そうだ。神の力など、そのままでは危険すぎる。いや、未熟すぎるのだ。我々科学の力で、それを解析し、コントロール可能な『資源』へと変換する。この暴走は、そのためのデータ収集に過ぎん」
黒木は、腕の装具をシャルテに向けた。装具の先端が光を帯び、空間に歪みが走る。まるで、空気が吸い込まれるような感覚がシャルテを襲う。
「そして、邪魔をするものは排除する。貴様のような『野放しの神』は、我々にとって最も厄介な存在だ。貴様のような、力はあるが制御を欠く存在は、いずれこの新世界を破滅させる」
「神の力を、そんな風に利用するなんて……許さない! 神の力は、道具じゃない!」
シャルテは、地面を蹴った。彼女の動きは、人の目には残像にしか見えないほど速い。
「『神速』!」
瞬時に黒木の背後に回り込み、彼を拘束しようとする。しかし、黒木はシャルテの動きを予測していたかのように、腕の装具を振り上げた。装具から放たれた衝撃波が、シャルテの身体を弾き飛ばす。それは、物理的な力というよりは、神気同士のぶつかり合いで生じた衝撃だった。
「ぐっ……!」
シャルテは壁に叩きつけられ、痛みに顔を歪めた。神の力を吸収する装具。彼の言葉は真実だった。
「所詮、力任せの神術では、科学の応用には敵うまい。私のこの腕は、神の力を一時的に『吸収』し、それを増幅して放出する。貴様の力など、いくらでも奪い取ってやれるぞ。それに、我々は貴様の弱点も解析済みだ」
黒木の言葉に、シャルテは戦慄した。彼女の神の力を吸収する? それは、神使にとって最も恐れるべきことだった。力が奪われれば、彼女はただの人間と同じになってしまう。しかも、弱点まで把握されているとは。
「ユウキ! 早く、あのサーバーの電源を! そこに繋がっている御霊の供給を止めれば、奴の力も弱まるはず!」
シャルテはユウキに叫んだ。彼女自身は、黒木の吸収能力によって、身動きが取れない状態に陥りつつあった。
ユウキは、シャルテの指示に迷うことなくメインサーバーへ向かった。しかし、黒木はそれを許さない。
「甘いな。あのサーバーを停止させようとすれば、高圧電流が流れる仕組みになっている。さらに、強固な電子ロックが施されている。凡人には触れることすら叶うまい」
その言葉通り、サーバーからはビリビリと高圧電流の音が響き、触れることすら躊躇われるほどの電磁波が放出されていた。サーバーの表面には、複雑なセキュリティコードの入力画面が点滅している。
「くそっ……!」
ユウキは悔しそうに歯噛みする。彼の科学的知識では、この状況を打破することは困難だった。シャルテは再び黒木に向き直った。彼女の身体から、赤く燃えるような神気が立ち上る。それは、残された最後の力を振り絞るかのように見えた。
「たとえ力を奪われようと、私の使命は変わらない! あなたのような者に、この神・日本の未来は任せられない! 神の力は、私のような神使が、人々を導き、護るためにある!」
「ほざくがいい! 『神力吸収・極』!」
黒木の腕の装具が、禍々しい光を放つ。シャルテの身体から、まるで魂が吸い出されるかのように、神気がごっそりと流れ出ていくのが分かった。力が、抜けていく……。視界が白んでいく。
その時、シャルテの脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。神の国が現代日本と衝突し、混沌が生まれたあの日。多くの神々や神使が力を失い、あるいは消滅していく中、まだ幼かった私が、両親と共に、荒れ狂う神気と現代の電子嵐の中で、ただただ怯えていた記憶だ。
『シャルテ。恐れることはない。神の力は、ただ破壊するだけのものではない。それは、流れであり、恵みであり、新しいものを生み出すためのものなのだ。』
父の言葉が響く。母が私にそっと手を重ねてくれた。
『この世界には、まだ私たちが知らない「流れ」がある。それを理解し、受け入れること。それが、シャルテ、お前がこの新しい世界で果たすべき使命なのだよ。』
そうだ。神の力は、単なるエネルギーじゃない。それは、『概念』そのもの。そして、私は『流れ』を司る稲荷の神使。電気の流れも、空気の流れも、人の心の流れも……。
シャルテの赤い瞳に、諦めではない、確かな閃きが宿った。
「ユウキ! 聞こえる!? サーバーに流れている高圧電流……それを、私の『神気』で、逆に『制御』できないかしら!? 電子ロックも、電力の『流れ』を操れば、解除できるはずよ!」
かすれた声で、シャルテは叫んだ。彼女の身体は、ほとんど神気を失い、震えている。ユウキはハッとした。彼は、シャルテの言葉を信じ、タブレットを操作し始める。
「シャルテ様の神気で……電気を制御!? そんなこと、可能なのか!? でも、それなら……!」
ユウキの顔に、希望の光が差した。科学者としての彼の知識が、シャルテの言葉と結びつき、新たな可能性を示唆していた。
「試すしかない! 私は、稲荷の神使! 五穀豊穣、商売繁盛、そして『豊かさ』を司る! その力は、単なる生命力だけじゃない! 『流れ』そのものを操れるはず! 電気の流れも、きっと……!」
シャルテは、最後の力を振り絞り、地面に手をついた。わずかに残った神気を、彼女は足元に這う無数のケーブルに流し込む。ビリビリ、と微かな電流がシャルテの指先から伝わった。それは、失われた神気とは異なる、別の感覚だった。
「馬鹿な! 貴様の神気など、すでに私の装具で大半を吸収したはず! もう何も残っていないはずだ!」
黒木は焦りの色を見せた。彼の顔には、予期せぬ事態への苛立ちが浮かんでいる。
「確かに、私の『力』は奪われた。でもね、黒木! 神の力は、ただの『エネルギー』じゃない! それは、『概念』そのもの! そして、私は『流れ』を司る神使! 今、この新宿の電気が、私の『流れ』に変わる!」
シャルテの身体から、奪われたはずの神気とは異なる、しかし確かに神聖な輝きが放たれた。それは、メインサーバーから放出されていた高圧電流と共鳴し、施設全体を包み込む。ユウキのタブレットの数値が、驚異的な勢いで上昇した。それは、暴走ではなく、制御された、莫大なエネルギーの数値だった。
「馬鹿な……電力が、暴走ではなく、増幅されている……!? しかも、完全にコントロールされているだと!?」
黒木は信じられないといった顔で叫んだ。彼の腕の装具が、微かに警告音を発している。
シャルテの神気は、新宿の電力網と一体化したのだ。彼女は、まるで巨大な神経回路網を操るかのように、すべての電流の『流れ』を掌握した。高圧電流は、彼女の意志に従い、サーバーの電子ロックを解除していく。セキュリティシステムが次々と突破され、メインサーバーのコアが露出した。
「これが……科学と神の融合! 神・日本の力よ!」
シャルテの赤い瞳が、メインサーバーのコアを貫く。そして、彼女は、サーバーに宿る暴走した御霊に、語りかけるように、神の国の古き言葉を唱えた。
「『鎮まりたまえ、御霊。汝は、本来、豊かさをもたらす流れ。今、故郷へ還る道を示そう』」
シャルテの言葉と、彼女が掌握した膨大な電力が、御霊の核に流れ込む。それは、御霊を滅ぼすのではなく、その暴走を鎮め、本来あるべき「流れ」へと導く力だった。メインサーバーから放たれる青白い光は、次第に温かい黄金色へと変化していき、不快な電磁波は消え失せた。
「ええい、無駄な抵抗を!」
黒木は、シャルテに向かって全力の「神力吸収」を放った。しかし、その力は、シャルテの身体に触れる寸前で、まるで電力網の「ブレーカー」が落ちたかのように、パチリ、と音を立てて消滅した。彼の腕の装具が、煙を上げてショートしている。
「な……何だと!?」
黒木は愕然とした。彼の顔は、恐怖と絶望に歪んでいる。
「残念だったわね、黒木。私の力は、もう『あなた』が吸い取った部分だけじゃない。この新宿の街全体と繋がったの。あなたの吸収能力なんて、この膨大な『流れ』の前には、ちっぽけなものでしかないわ!」
シャルテは、地面に手をつけたまま、顔を上げた。彼女の表情は、どこか悪戯っぽく、しかし神々しい。
「そして、『ざまぁ』よ、黒木」
シャルテが、右手を軽く持ち上げた。すると、新宿地下街のあらゆる場所で、照明が、シャッターが、エスカレーターが、そして、暴走していたすべての警備ロボットが、一斉に正常な機能を取り戻した。そして、そのすべての電力が、黒木の腕の装具に、逆流していった。吸収したはずの神気が、何倍もの科学的なエネルギーとして、彼に跳ね返ったのだ。
「ぐああああああっ!」
黒木の装具は、光を放ち、やがて轟音と共に爆ぜた。彼を支えていた電子的な力が失われ、その場に崩れ落ちた。神の力を悪用しようとした科学は、神の力の『流れ』によって、自らを破壊したのだ。彼の顔は煤で汚れ、呆然とシャルテを見上げていた。完全に、敗北を悟った顔だった。
「これで、お前は終わりだ」
シャルテは、崩れ落ちた黒木を見下ろした。彼女の瞳は、もう怒りではなく、静かな慈悲の色を帯びていた。神の国の存在は、滅ぼすことよりも、調和を重んじる。それが、彼女の信じる道だった。
新宿の街は、奇跡的な回復を見せた。暴走していた通信網は完全に復旧し、人々は再びスマホを片手に日常を取り戻していく。地下街の店舗は営業を再開し、エスカレーターは正しい方向に動き始めた。誰もが、何が起こったのか正確には理解できていなかったが、漠然とした安堵と、不可思議な高揚感に包まれていた。SNSでは「新宿の狐耳の神様が奇跡を起こした」と、匿名の動画が瞬く間に拡散されていく。
「シャルテ様、本当に、本当にありがとうございました! まさか、神の力と電力網を接続して、御霊の暴走を鎮めるとは……私の知る限り、前例のない偉業です! このデータがあれば、今後の神・日本対策に大きく貢献できます!」
ユウキは興奮した面持ちでシャルテに語りかけた。彼のタブレットには、安定した神気と電力のグラフが表示されていた。グラフは、これまで誰も見たことのない、完璧な調和を示している。
「これも、ユウキがいたからよ。私だけじゃ、あのサーバーの仕組みも、高圧電流のことも分からなかったもの。科学は、神の力にとって未知の領域だった。でも、今回、こうして一つになれたわね」
シャルテは笑顔で答えた。彼女の狐の耳は、今はもう穏やかに揺れている。神気は完全に回復し、むしろ以前よりも強まっているように感じられた。それは、科学の『流れ』を理解し、取り込んだことで、新たな神力を開花させた証だった。
あの後、黒木は「神・日本均衡推進委員会」の特別監察官によって拘束された。彼の研究は危険視され、厳重な管理下に置かれることになったという。彼は神の力を科学で制御しようとしたが、結局は神の『概念』の深遠さを理解していなかったのだ。彼の企みは失敗に終わった。だが、その残したデータは、今後、神・日本の未来に大きな影響を与えるだろう。
「シャルテ様のおかげで、新宿は救われました。これを機に、『神の力』と『科学』の、より良い共存の道が見えてくるかもしれません。もしかしたら、僕たちが本当に目指すべき道は、神の力を一方的に排除するのではなく、互いに理解し、手を取り合うことなのかもしれません」
ユウキは、希望に満ちた目で言った。彼の言葉は、この神・日本の未来を象徴しているかのようだった。
「そうね。神の国と現代日本が衝突した意味は、きっとそこにあるんだわ。混沌の中から、新しい秩序を生み出す。それが、私たちが果たすべき使命なのかもしれない」
シャルテは、空を見上げた。そこには、白い雲と、青い空が広がり、遠くにはスカイツリーがそびえている。そして、その足元には、昔ながらの神社建築が、現代のビル群に寄り添うように立っていた。神と科学、古と新が、確かに共存している証だ。
今回の事件は、神・日本に大きな波紋を広げた。シャルテの活躍は、一部では「現代の神の顕現」と称賛され、一部では「制御不能な異物」として警戒された。しかし、確実に、彼女の存在は「神の力は科学と共存しうる」という新たな可能性を人々に示したのだ。
シャルテの元には、様々な依頼が舞い込むようになった。電子機器の神気干渉問題、神獣の保護、神の国由来の植物の管理……。時には、神の国の失われた文化を現代に伝える「神使YouTuber」としての依頼まで。彼女の日常は、ますます賑やかで予測不能になっていく。
「ねぇ、ユウキ。お腹空かない? この近くに、美味しいラーメン屋さんがあるって、この前ネットで見たの! あの豚骨ってやつ!」
シャルテは、いつもの明るい表情に戻り、スマホを差し出した。画面には、湯気を立てるラーメンの写真が映っている。彼女の尾が、嬉しそうにフワフワと揺れる。
「え、ラーメンですか? 任務終わりなのに、元気ですねシャルテ様は……。でも、そうですね、僕も少しお腹が空きました」
ユウキは苦笑いしながらも、その顔には安堵と、未来への期待の表情が浮かんでいた。シャルテの無邪気さが、彼を癒し、奮い立たせる。
「だって、お腹が空いたら力が出ないもの! 美味しいものを食べて、また明日も、この神・日本を守らなきゃ!」
シャルテの瞳は、再び輝きを放っていた。神の力と現代科学が織りなす、この混沌とした世界で、キツネ神使シャルテの日常は、これからも続いていく。きっと、美味しいラーメンを食べながら、また新たな事件の予兆を察知し、チート能力を振るうことになるだろう。
これは、神と人が手を取り合い、新しい未来を築く、壮大な物語の、ほんの始まりに過ぎない。