魔法少女A 1
――じょろろろろろろろ……。
最後の最後に油断した……。
私はパンツに出来た大きな染みを見ながら頭を抱えた。
幸い、パジャマのズボンには貫通していないようだったが、びっくりした拍子にけっこうガッツリ出てしまった。
だが、まさかこんな事になるとは…………いや、おしっこをちびった事じゃなくて、いや、ちびった事も十分問題なのだが……。
「マジで……マジで何なんだよ……」
自分の放尿音しか聞こえない静かな空間に来て、一気に頭が冷えた。
「ここウチのトイレだよな? 一体どうなってるんだ?」
自分の部屋のドアを抜けると、そこはトイレだった。
もちろん、ウチの家がそんな作りをしているわけはなく、おそらくこれは魔法かなんかによるものだと思われる。
もしかしてやっぱり夢だったんじゃないか?
急に静かな場所に来たのと、我慢していた尿意解放の快感で、なんか今はフワフワした気分である。
「このドアを開けたらいつもの家の廊下で、全部無かった事にならないかなぁ……」
思わず独り言を言ってしまうが、たぶんそうはならないんだろう。
マジでリアルすぎる夢の可能性はないのか?
まあ実際これが夢だったら、今頃ベッドの上は大洪水になっているだろうけど……。
はぁ……でもその方がまだマシか?
……マジで夢であってほしいぃい!
「ダメだ……思考が堂々巡りをしてる……はぁ……」
私はメガネを外して、手のひらで顔を覆う。
現実逃避だよなぁ……。
じょろろろろろろろろ……。
…………めっちゃ出る。
私は顔を覆った体制のまま、しばらく放心していた。
「……はぁ……行くか」
私は顔を上げてメガネをかけ直すと、トイレットペーパーを贅沢に使った後、ゆっくりとレバーを捻って水を流す。
明らかに出し過ぎたトイレットペーパーと色の変わった水が、音を立てて下水管に飲み込まれる。
私はパンツを上げようとして、その染みの事を思い出す。
……でも、パンツを変えたいとは流石に言えない。
それに、これはあくまでちびっただけで漏らしたわけでは無い、このくらいなら大丈夫だ。
自分に言い聞かせながら、私は見なかったことにしてズボンとパンツを同時にずり上げた。
……冷たい。
多分洗面所までは行かせて貰えた無いため、私は仕方なくいつもは使わないタンクの上の蛇口で手を洗う。
そして、おそらく誰も使っていないのに律義に毎日取り換えているタオル掛けのタオルで手を拭いた。
「はぁ……」
これ以上、ここでくよくよしていても仕方が無いので、意を決して私はドアに手をかける。
ガチャリ。
「ああ、やっと出て来たにゃ」
……いる。
「夢じゃ無いのかぁ……」
「残念だったにゃねぇ」
私は重い足取りで自分の部屋へと戻る。
「あ、これ……渡し忘れてたにゃ」
私がベッドに腰掛けようとすると、謎の猫型生命体が手に持ったそれを手渡して来る。
「んあ? 何だこれ……」
ハンカチかと思って私はそれを受け取ると、畳んであるそれを広げてみる。
青と白の……縞々パンツ……。
「……お前さぁ」
「余計なお世話だったかにゃ? 元に戻しとくにゃ?」
「……いや、ありがとう」
コイツ、もしかして私の考えている事が読めたりするのか?
しかし、それにしては空気の読めない言動が目立つ気がする。
私はパンツをベッドの上において、自分のズボンに手をかける。
「……ちなみにお前、性別は?」
「そんなものは無いにゃ。心配しなくてもボクにはそもそも、そう言う感情は無いにゃ。ほら、一応後ろを向いておくからとっとと着替えるにゃ」
そう言って、気を使って背を向けた猫型生物の後ろ姿を見ながら、私は素早くパンツを履き替える。
「……いいぞ」
「今度は早かったにゃ。……ん」
ん、とか言って猫が手を差し出して来る。
私は今し方脱いだそれを見る。
「いや……流石にそれは……」
「じゃあそれ、ずっと持っとくにゃ?」
「…………」
私は観念して、嫌々それを相手に手渡す。
すると直ぐに、そのパンツはどこかへ消えてしまった。
……一体どこに飛ばした?
「さて、じゃあ時間が無いからちゃっちゃと進めるにゃよ? 一応確認するけど、一度契約したら途中解約は出来ないにゃ。クーリングオフも無いけど、大丈夫にゃ?」
「どうせここでやっぱ辞めたって言っても、さっきのあれがリバイバル上映されるだけなんだろ?」
「良く分かってるじゃないかにゃ。じゃあ準備が出来たら、今からボクの言う事を復唱するにゃ。まず真っ直ぐ上に右手を上げるにゃ」
私は言われた通り右手を上げるが、なんかコイツ……急に冷たくないか?
「もっと指をピンと伸ばすにゃ!」
やっぱり、なんか言い方がムカつくなぁ……。
「はい、じゃあ行くにゃよ? ……宣誓!!」
「……宣誓」
「声が小さいにゃ!」
「……チッ…………宣誓!」
「わたくし、己斐アヤメは!!」
「わたくし、己斐アヤメは!」
「この世の秩序を守るため!!」
「この世の秩序を守るため!」
「人々の健全な生活を守るため!!」
「人々の健全な生活を守るため!」
「祈りと戒めで霊を清める!!」
「祈りと戒めで霊を清める!」
「プリティー・アドラブルな魔法少女として!!
「……プリティー・アドラブルな魔法少女として?」
何か……思ってたのと違う……。
「粉骨砕身!! 戦う事を誓います!!」
「ふ……粉骨砕身! 戦う事を誓います!」
「さあっ! 仕上げにゃ!!」
「さあっ! 仕上げにゃ!」
あ、ここは真似しなくても良かったか?
「ビューティー! プリティー! ソサエ――」
「お前、ふざけてるよな?」
私は猫型生物を睨みつけながら詰め寄る。
「……ちょっとしたエンターテイメントにゃ」
何で契約にエンタメ要素が居るんだよ……。
「急いでるんじゃないのか? やるならとっととやってくれないか?」
「ナウなヤングにバカウケなネタなのに、やっぱり君はちょっと冷めてるにゃ?」
もうどこをどう突っ込んでいいのか分からない。
「じゃあ、そのパネルに右手を乗せるにゃ。それで契約は完了にゃ」
急に投げやりな感じで猫型生物がそう言うと、私の目の前に先ほどと同じホログラムのモニターのような物が現れる。
そこに、”魔法少女雇用契約書”と書かれた文字が浮かび上がり、そのまま超高速で文字が下に流れ始めた。
「おい待て待て待て待て!」
「はぁ……今度は何にゃ?」
「これ絶対読まなきゃいけないやつだろ? 何勝手に飛ばそうとしてるんだよ?」
そんで、何でお前が呆れたような態度をしてるんだよ?
「えぇ……それ読むのにゃ……?」
「当たり前だ」
「……しょうがないにゃぁ……時間が押してるから急いでにゃ?」
一体誰のせいで時間が押してると思ってるんだ……。
とても面倒くさそうな様子ながらも、猫型人工生命体はそれを手動スクロールにしてくれたようで、スワイプで操作が出来るようになった。
この実物のような手触りといい、一体どういう仕組みで動いているのだろうか?
小難しい文章を、私は上から下まで全部確認して行く。
というかこれ、雇用契約書というよりは就業規則だな。
難し過ぎて、絶対普通の中学生は読めないだろ……。
「じれったい、じれったいにゃぁ……」
「あのさぁ……説明されてない事が結構書いてあるんだけど……」
「そりゃぁそこに書かれてる事を全部説明してたら、どれだけ時間があっても足りないにゃ」
命の危険性に対する免責事項はこの際いいとして、そこには気になる事が沢山書かれていた。
「この”支給された給与は原則、雇用者が独立するまで雇用主が預かる”っていうの何?」
「子どもがいきなり大金を得たらロクな事にはならないにゃ? まあアヤメの場合は問題なさそうだけど、どうしても必要な分はボクの判断で引き出せるから心配しなくていいにゃ」
めちゃくちゃ重要な事じゃ無いか!
「……あと、この契約延長に関する規定とか罰則規定とか。てか所々用語がファンタジー過ぎで理解できない部分が――」
「キミ人生二週目かなんかにゃ? 納得できない部分があってもどうせ受け入れなきゃいけないんだから、いいかげん観念するにゃ」
「あのさぁ? やっぱりお前ら、何も知らない中学生をたぶらかして無理やり働かせてる、悪の組織なんじゃないか?」
「もー……またそこに戻って来るにゃ? これからスマホやスキルの説明とかもしなきゃならないんだから、お願いだから聞き分けてくれにゃ……」
「言ってる事とやってる事が一致してないんだよ……」
しかしコイツら、なんでこんなに急いでるんだ?
契約ノルマでもあるんか?
「……仕方ない。譲歩してやるからこれだけは教えろ。仮に討伐ノルマが果たせなくても、それが原因で私がどうこうなるって事は無いんだよな?」
「それは心配ご無用にゃ。魔法少女の本分は健全な魔力のコントロールを身に着けて暴走の可能性を防ぐことにゃ。ボーナスが無くなったり期間がのびたりするだけで、それが原因で罰があったりって事は無いにゃ」
そうは言っても、やっぱり何かモヤっとするんだよなぁ……。
「……分かった。じゃあこれを承認して、手を置けばいいのか?」
「そうにゃ」
私は手形でもとる様に、目の前のパネルに右手を広げて乗せる。
すると直ぐに、承認完了という表示が出て、パネルは消えてしまった。
「これでいいのか?」
「そうにゃ」
じゃあ、あの謎の宣誓って本当にネタだったのかよ……。
ただ、これはこれで何の情緒も無くて、味気ない物にも感じてしまう。
「じゃあ、スマホの認証もするから、これを持つにゃ」
猫型生命体がそう言うと、今度は目の前に長方形の物体が現れる。
「……ガチでスマホじゃん」
それを手に取り、私は裏側を確認する。
……紫。
「スマホもポイントを使ってカスタムできるにゃ。ポイントの説明は後でするにゃ」
「これ、電源はどこにあるんだ?」
「電源と言う概念は無いから、とりあえず画面に触れて、心の中で画面が点くように願ってみてにゃ?」
言われた通りにしてみると、すぐに画面が明るく点灯する。
顔認証や指紋認証をする感覚と、ほとんど変わらない。
「これでもう認証は終わったにゃ。次は変身の音声キーワードを決めるから、なんかそれっぽい感じの言葉を決めるにゃ」
何か面倒な操作が必要なのかと思ったが、サクサクと話が進む。
「音声コード? もしかして、あのマハリクマハリタとかみたいなやつの事を言ってるのか?」
「キミやっぱりちょっとおかしいにゃ……年齢詐称してないかにゃ? まあでも、その認識で問題ないにゃ」
だって、中学生にもなってプ〇キュアとかの変身の呪文を言うのは恥ずかしいじゃないか。
てか、あれはそもそも魔法少女という分類なのだろうか?
「これって一言、変身! みたいなんじゃダメなのか?」
「日本語の場合は”十シラブル”以上って規定があるにゃ。ああ、シラブルって言うのはひらがな十文字って意味と大体同意にゃ」
ウェブサイトのパスワードかな?
「これって他の魔法少女はどういうのにしてるんだ?」
「意外とこれってのは無くて、みんな個性豊かなのを考えるにゃ。意味の無い言葉の羅列だったり、好きな言葉を入れて見たりにゃ。でも一言いわしてもらうと、照れてシンプル過ぎるのにすると逆に浮くことが多いにゃ」
「こういうの私、結構悩むタイプだからなぁ……」
「本当は時間をあげたいけど、キミがゴネまくったせいでそんな暇無いにゃ」
ぶん殴りてぇ……。
「お前、どうせ私のデータいっぱい持ってるんだろ? なんか私が考えそうなのとか分からないのか?」
「じゃあ”既に勝利はここに有り、全てを滅して今こそ我が力を示さん”とかどうにゃ?」
「……お前、なんで私がその言葉を好きなのを知ってるんだ?」
「キミのデータはある程度もらってるにゃ」
それ、私は誰にも言った記憶がないんだが……。
ちょっと小賢しいアレンジをしてあるが、なんかAIに文章を作ってもらった時の感覚に似てる。
「じゃあ、それで良ければスマホを掲げてそのキーワードを叫ぶにゃ。それで最初の変身がはじまるにゃ」
猫型生命体が急かすように催促してくる。
「まあ、他に案も無いしいいか……」
もはやそれを叫ぶことにそれほど抵抗は無いのだが、いざ変身するとなると少し緊張してしまう。
一体、どのような衣装が用意されているのだろうか……。
……いや、これは決して楽しみなわけでは無い。
「何ぼさっとしてるにゃ! 早くするにゃ!」
……イラァ………。
「……はぁ……分かったよ」
迷ってても始まらないし、こういう時は勢いが大事だ。
私は意を決して、スマホを部屋の天井に向けて掲げた!
「”既に勝利はここに有り、全てを滅して今こそ我が力を示さん”!!」
「すごい傲慢なセリフにゃぁ……」
まあ実際、何かのゲームの必殺技の呪文みたいだな……。
ピカーーーー!!
!?
それを叫ぶと同時に、スマホの画面が発光する。
そして、同じように私の体も発光を始める!
「お!? おおお……おお!?」
私は発光を始めた自分の体を見る。
「あまり激しく動くと同期ズレを起こすから大人しくしてるにゃ」
ピカーーーー!!
全身が光り、目の前が真っ白になる。
そして視界が明けた瞬間、目の前の猫型生命体が真っ直ぐ私を指して叫んだ。
「魔法少女! ”高速☆猫猫”の誕生にゃ!!」
…………ん?
今何て言った??