後編
後半です。
当然ですが、これで終了です。
楽しんでいただけたら幸いです。
その日、前日の出来事を夢だったと言い聞かせながら、ぼくはカーテンを開けた。霧がまだ晴れてない。
ぞわり、とぼくの体を何かが這ったように感じた。もちろんそれは幻覚で、何も這ってはいない。ただ、この感覚は昨日の狂気に似たような感じがする。
この日も両親はいなかった。仕事に出ているのだ。もう慣れていた。ぼくはそのまま部屋で過ごしてしまおうと、ベッドに寝転ぼうとしてなぜか、机の上に積み上げられていた教科書の山を思いっきり崩していた。それを契機に、ぼくは部屋のありとあらゆるものを破壊しようと試みていた。
ぼくを止めたのは夏鈴だった。いや、夏鈴しか止められる人間はいなかった。
夏鈴はとても必死な顔で、けれど、泣き方を忘れてしまったような複雑な笑みをたたえていた。ぼくは夏鈴を殴ってしまい、 ぼく自身が落ち着いた後、何度も何度も謝ったことを覚えている。
某日、自宅。
このところ雨がぱらつくようになり、霧が出ないだろうかとハラハラしている今日この頃だ。ふつうなら霧が出ないところでも、この地域なら出る。
ベッドから起きるのが何となく億劫で、怠惰にベッドに寝そべっている。今時雨が来るのは何となく嫌だなあ、なんて思っていたらドアが開いて時雨が入ってきた。
「おっはよー冬麻」
「ぼくは睡眠中です」
「そっかー。じゃあ、あたしは静かに寝顔を見ていよう」
「ああ、そうしてくれ」
「って、返事してるじゃん!」
今更か……。
「冬麻―、起きろー」
力の限り体を揺さぶられ、起きたくなくても起きてしまう。……今日は本気でゆっくり過ごしたかったんだけどな。色々考えなくちゃいけないこともあるし。
霧の心配もあるし……。
「まあ、冬麻寝ててもあたしには関係ないけどね。勝手に色々いじって遊ぶだけだしー」
「やめてくれ!」
思わず起き上がる。やましいものは決してないけれど、それでもやはりいじくり回されるのは勘弁してほしい。
ぼくの反応がうれしかったのか、時雨は本当に楽しそうに笑っている。意地悪な笑みだった。
「おはよ」
「……ああ、おはよう」
「もう九時半だよ」
「あのなあ、いくらぼくでも寝坊くらいするときだってあるよ」
時雨はぼくの話を聞いているのかいないのか、ぼうっとぼくを見ている。
「どうしたの?」
「え? ああ、うん。あのね、あたしたち付き合い始めて結構長いけど、まだキスってしたことないよね?」
「…………」
絶句する。それは別に照れとか、そういう甘酸っぱい感情による絶句ではない。まずいことになった、という切羽詰った絶句だ。
「ねえ、付き合ってるなら、キスくらいしてもいいと思わない?」
「…………それは」
「? どうしてそんな深刻そうな顔してるの?」
心配そうにぼくの顔を覗きこむ時雨。
「時雨」
もう、これ以上は無理だ。
「うん?」
「大事な話があるんだけど」
「……うん」
笑顔を消し、怪訝そうな目でぼくを見る。別れ話とでも思ったのだろうか。あながち間違いじゃないな。
「ぼくたちは付き合ってなんかいないんだよ」
時雨から、表情が消えた。
◆◇◆
ぼくが部屋で暴れたことは、すぐに両親に知られることになった。ぼくは怒られると思い身をすくめていたが、両親はそうはせず、何かを悟ったような表情をした後、ただ優しく抱きしめてくれていた。今思えば、普段は家にいないが、この人たちは立派に両親やっているのだ。
夏鈴はぼくに殴られたことを両親には言わず、寝ぼけてベッドから落ちたのだと弁解した。両親がそれを信じたようには思えなかったが、何も追求はしてこなかった。
夏鈴はぼくに色々と質問を投げかけてきた。
何があったの?
どうして?
どこか具合の悪いところない?
結構痛かったんだけど、本気でわたし殴ったの?
などなど。
どの質問をぼくに投げかけるときも、夏鈴は笑顔で。
ぼくは、いや、ぼくたちは改めて自分自身とお互いの異質を感じあったのだった。
両親は何もぼくに聞かず、ただ学校に霧の日は学校を休むと連絡をしてくれていた。何も聞かないのが両親なりの優しさなのか、面倒なことからの逃避なのかはわからないけれど、ぼくにとってはそれは救いだった。
聞かれても答えられないからだ。
時雨の表情が消える。
「冗談止めてよ、冬麻」
「冗談じゃないよ。こんな相手を傷つけるだけの冗談なんて言わない」
真実も、時として相手を傷つけてしまうけど。
「だって、だってだってだって……」
「時雨、勘違いなんだよ。きみの思い込みなんだ」
時雨の異質。
「嘘っ! だってあたしがいきなり家に来ても、迷惑そうな顔しなかったよ」
「ぼくたちは幼稚園に入る前からの付き合いだよ。そんなこと気になんてしないよ。それに、付き合っていなくても、そういうことは有り得ると思うんだ」
「前にパソコンに書いてたあの文章は?」
『ぼくは霧埼時雨のことが好きだった』と、確かに書いた。けれど、そういう意味じゃない。
「確かに時雨の言いたいことは分かる。よくそんなことを覚えているね……」
今は突き放してしまわないといけない。中途半端に接してしまったら、元の鞘に収まってしまう。
「けど、あれは友達として、だよ。特別な意味なんてないよ。それに、あの時だって特に意味はないって言ったはずだよ」
時雨の顔が歪む。両の目に涙を溜めて、いやいやと首を振る。
「思い出してみてくれ時雨……! ぼくたちには付き合い始めるようなきっかけはなかったはずだ。ぼくはきみに好きだと口で直接言ったこともないし、きみはぼくと付き合っているんだと言い始めた三年前から一度もキスも、手をつなぐこともしていない。ぼくらが今やってることは、昔から何も変わってないんだよ……」
「嘘嘘、うそ、だよ……」
「時雨……」
とうとう涙がこぼれる。時雨が泣いているのを見るのは何年ぶりだろう。そんなどうでもいいことが頭をよぎる。
ぼくはどうすることもできず、時雨が泣いているのを見ているしかなかった。
泣きやんだ時雨は、はれぼったい顔をぼくに向け、けれど何も言わずに部屋を出て行った。
部屋に残され、今起こった出来事を思い起こす。
本当にこれでよかったのだろうか。
「お兄ちゃん、とうとう話したんだね」
いつの間にか部屋に入ってきていた夏鈴が言う。
「……ああ」
「浮かない顔だね」
「だろうな」
「どこまで話したの?」
「全部は話してないよ。まだ早い」
「ふぅん」
夏鈴は意地悪な笑みを浮かべた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに?」
「そろそろ素に戻っていい?」
「別に、こういう話しててもいつもどおりでいいよ」
変に真面目で冷静で、全てを知っているような夏鈴は、正直言うと不気味なのだ。自分の妹とは思えなくなる。とても異質なもののように感じてしまう。
「いやあ、それじゃ駄目でしょー。雰囲気って大事でしょ?」
いつもの夏鈴に戻る。ニヤニヤしながらぼくに近づいてきて、そのままぼくの隣に座る。
いつぞやのように飛び掛ってこないのは、ぼくの気分が沈んでいることを理解してくれているからなのか。
「やっぱりここは居心地いいねー」
笑顔でぼくの顔を見上げる。不覚にも夏鈴の笑顔で少し元気が出てきた。人の笑顔って偉大だよな……ほんと。
「……夏鈴」
「うん?」
「お前が妹でよかったよ」
「わたしはお兄ちゃんがお兄ちゃんなのはちょっと文句あるけどね」
ぼくのいい台詞が台無しじゃないか……。
あと、ちょっとショックです。
「恋人になれないでしょ?」
「ぼくのどこに好きになるところがあるのか疑問だけどね。それに家族って、同属嫌悪とか、そんなのあるもんだろ?」
即答できるようになってきたあたり、ぼくも成長してきたのだろうか。いらない成長ではあるけれど。
「駄目だなー、お兄ちゃんは。自信持ちなよー、自信。自分の魅力は自分で気づかないと」
気づけないから色々と疑問があるんだろうが。自分で自分の魅力に気づけたら苦労しないよ。
夏鈴が扇情的に体をくねらせ始める。とはいえ、ぼくは実の妹に発情するような変態さんではない。夏鈴の行動を少しばかり冷たい目で見るのがせいぜいだ。
「夏鈴さ、それは絶対に他人の前でするなよ」
「え? オレ以外の男に見せるなよ? きゃー、お兄ちゃん大胆」
自分の都合のいいようにしか解釈しないのは夏鈴の特技だ。
「お前のこと心配して言ってるんだけどな……」
「へへー、わかってるよーそのくらい」
枕を抱いてぼくを上目遣いに見る。口元はどこまでも楽しそうに緩んでいる。それが異常から来る笑みであっても、笑顔はいいものだ。
さっきから笑顔はいいものだ、としか言っていないような気がする。気のせいだろう。
「お兄ちゃんは心配性だなー。わたしって実は家の外じゃ優等生で通ってるんだよ?」
「家でも優等生でいてくれていいんだよ?」
「わたしはお兄ちゃんにはありのままを見せるのー。飾った自分見せてメッキはがれたら駄目じゃん?」
「それは家の外でもだよ……」
ぼくの呟きが聞えたのか聞こえていないのか、相変わらず夏鈴はぼくを上目遣いで見つめている。
無意識のうちにぼくの手は夏鈴に伸び、頭を撫でていた。それも自分でも驚いてしまうほどに優しく。今まで夏鈴の頭を撫でたことなんて一度もない。
「お兄ちゃん?」
不思議そうな、けれど幸せそうな夏鈴の声。
ぼくは実の妹に発情するような変態さんではない。男女的な意味で好きにもならない。兄妹という関係からは一切逸脱しない。けれど、今この瞬間だけは少しだけ、逸脱していたのかもしれない。
妹を愛しむ心が芽生えた。
家族愛だと思いたい。
子どものころずっと疑問に思っていたことがある。これはあの日、つまりあの狂気に触れた日よりもあとのことだ。疑問とは少し違う、か。不思議に思っていた、と言ったほうが近いかもしれない。
どうしてみんな怖くないんだろう、そうずっと思っていた。
誰かがいきなり襲ってくるとは思わないのだろうか。
どうしてあんなに無防備に、無警戒に歩けるのだろう。
そう思っていた。
もう一つある。
どうしてぼくは霧を感じると自分を抑えられないのだろう、ということだ。
ぼくが破壊衝動を抑えられなくなる、破壊衝動を覚えるのは、決まって霧の日だった。
翌日から、時雨がぼくに話しかけてくることはなくなった。
登校の時間を変えたのか、通学路で会うこともなくなった。
学校で会っても、一言も交わさないようになった。
ぼくたちは今まで、あの日のあの時間までずっと一緒だった。こんな形で決別してしまうのはもったいないし、きっと時雨だって望んでいないだろう。
もう二週間になる。我慢して様子を見るのも飽きてきた。
「行くしかないだろ」
行くしかない。
時雨が必ずいて、そしてぼくを拒むことが不可能なあの場所へ。
放課後、ショートホームが終了すると同時に教室を出た。ありとあらゆる障害、先生が声をかけてくるとか、恭介がからんでくるとか、そういうことを避けるためだ。
早足で目的の教室を目指す。
家庭科室のドアに『全校親交部』と張り紙がしている。中から声が聞えてくるから、どうやら今日は活動をしているようだ。あとは時雨が部に出席しているかどうかだが、部長であり、全てを取り仕切っているあいつが休んでいるはずがない。迷わずにドアを開ける。
「おっ、今日は新入りかー?」
ぼくの入室に気づいた男子生徒が言った。
「友達からこの部の噂を聞いてね」
「へえ、噂って?」
「全校親交部っていうすっごい楽しい部活があるから、行ってみたら? 自由参加みたいだから、ってね」
「なるほど。まったくその通りだよ、ささ、こっちきて座って」
男子生徒はぼくを快く受け入れてくれた。
そこで初めてぼくは視線をめぐらせた。男子二人と女子一人だ。女子は時雨で、もっとも上座といえる場所に座っていた。特に意味はないのだろうけど。
時雨はぼくと目が合うと、全く熱を帯びていない目でぼくを見、つぅと目をそらした。そう簡単にはお話もできないらしい。
「で、名前なんて言うの? 何年?」
男子生徒の隣に座ると、その男子生徒がかなり馴れ馴れしく声を駆けてきた。いや、この集まりの目的を考えれば当たり前のことか。
「葵冬麻、ニ年だよ」
「オレは新崎敦、一年ね」
一年?
「ここじゃあ、敬語禁止だから。先生が来たってタメ口だぜ。それから、苗字で呼ぶのも禁止ね」
「なるほどね。完全に対等の立場で、ってことか。苗字で呼ぶのと名前で呼ぶのはあまり影響無さそうだけど」
「そゆこと。まあ、名前で呼んだほうが、なんとなくいいだろ?」
「オレは錦淳、一年。よろしく」
「霧埼時雨。二年、よろしくね」
明らかに営業用の笑顔をぼくに向ける。
「うん? 葵って苗字だっけ?」
「ああ、そうだよ」
「時雨が前に言ってた彼氏って冬麻?」
空気が凍てついたような気がした。時雨の奴、こんなところでも公言していたのか……。
「別れた」
「は?」
敦が素っ頓狂な声を上げる。淳は全ての動作を止め、硬直していた。
「別れた」
時雨はあくまで冷静に、そして冷たい声で言った。
「あ、ああ、そうなのか。……それにしても、冬麻よくもまあ、そんな状態になってからここに来れたよな」
少し引きながら、苦笑交じりに敦がぼくを小突いた。
「まあ、別れたからって全ての関係を途絶えさせなくちゃいけないってわけでもないだろ?」
ここは時雨のほうに話を合わせておく。そのほうが時雨の体裁を守るにもいいだろう。
「案外女々しいのな」
「そういうんじゃないよ」
「だろうな、そんなふうには見えない」
「敦、その話題はもういいだろう。あまり続けたい話題ではない。続けるなら別の場所で、だ」
固まっていた淳が口を開く。
「そうだよ。まあ、冬麻もあたしに気を使わないでいいからさ」
形だけの言葉か本音か、ぼくには判断ができなかった。けれど、そう言った時雨の笑顔は本物だったように思う。本物であって欲しい。
「よし、今日は冬麻の入会記念だ! ちょっとばかり派手に行くか!」
敦が声を上げる。うすうす感じていたことだが、こいつはどうも調子に乗りやすいタイプらしい。あまり不快ではないけど。
「却下だ」
「駄目だよー。予算ないし」
二人が同時にその案を退ける。敦はうろたえながら、
「お、おい、それってひどいんじゃないのか? 新入りだぜ?」
と、ぼくの背中をバンバン叩く。
「いや、一回に一人あたり二百円しか徴収しないなら、今のこれが精一杯だろ。敦、あまり無理言うなよ」
「うあ、なんか的確な批判受けたしっ!」
両手を広げて降参を示し、敦は机の上に並べられた皿からポテチをつまんで口に運んだ。
「あ、冬麻のジュースないね。淳お願い」
「了解」
淳は立ち上がって、家庭科室の備品のコップを一つ取り出す。それにオレンジジュースを注いでぼくの前に置いた。
「ほら」
「お、ありがとう」
受け取って一口だけ口に含む。
「それにしても、冬麻はアレだな。なんというか溶け込むのが早い」
淳が言う。
「そうかな?」
「ああ。初めてここに来た人は、大抵もうちょっと緊張している。時雨と知り合いだったから、というだけではないだろう?」
「いや、それだけだよ」
「ほう? それはすごいな」
「すごいかな?」
「すごいさ」
ひどく落ち着いた一年だな。声も無駄に良い声だし。
ぼくが落ち着いているのはきっと、思ったよりも時雨に拒絶されなかったからだろう。ぼくが最も恐れていたのはそれだった。一言も話すことができなかったらどうしようと、そればかりを考えていた。時雨が完全に許してくれたとは思わないけれど、緊張は少しほぐれた。
「いつもこれくらいの人数なのか?」
前に時雨から話を聞いたときには、もう少し人数がいるような印象を受けたのだけど。少なくとも五人くらいは常にいるように思っていた。
ぼくの質問に答えたのは、やはりというか、敦だった。
「あー、今日は少ない日だな。いつもなら、三年の凛と綾香がいる」
「ふうん、じゃあ今日は二人は来てないんだ?」
「ああ。まあ、自由参加だからいいんだけどな。休んだら次に来たときに会の規模が縮小してるだけだし」
費用が入ってこないからだろう。
「凛と綾香は今年受験生だ。来る機会も減るだろう」
「そだよね。楽しい人たちだったのに」
淳と時雨がうなずきあう。
「じゃあ、ぼくが今日来たのはある意味ではよかったのかもね」
「違いない」
はははは、と敦は笑う。
日が暮れて、辺りが暗くなるまで、全校親交部の活動は続いた。
同じ教室で同じ活動をし、同じ時間に終えたなら必然、ぼくと時雨は同時に学校を出ることになる。敦と淳に別れを告げ、ぼくたちは家路についた。
教室にいたときにとは違う気まずさ。
けれど、お互いに別れて帰ろうとはしなかった。ぼくは自転車を押しているし、時雨は徒歩通学だ。
「どうして来たの?」
校門を出てしばらく歩いた頃、唐突に時雨が口を開いた。
「最近時雨が話してくれないからね」
「そうなるようにしたのは冬麻じゃない」
お互いにお互いの顔を見ない。前を見たまま話を続ける。
「そうなるようにした覚えはないよ。あれだって、いつかは話さないといけないことだった」
「笑ってたんでしょ?」
「は?」
「こいつは自分と付き合ってると勘違いしてる馬鹿な奴だって。妄想してるんじゃない、って。……笑ってたんでしょ? ずっと」
自嘲気味に話す時雨の声は、怒っているというよりも寂しそうだった。
「笑ってないよ」
「…………冬麻に言われてさ、ずっと考えてたんだ」
「何を?」
「あたしはどうして冬麻と付き合ってるだなんて思ってたんだろう。なにがあたしをそういう妄想に取り付かせたんだろう。どうしてあたしはその妄想を本当のことだって、現実のことだって思ったんだろう。そんなことを考えてた」
そう話す時雨は、触ると消えてしまいそうだった。
「あたしのお兄ちゃんとお父さんが死んだときのこと、覚えてる?」
「……うん」
事故だったらしい。家族で出かけた日の帰り道、道路わきの自販機で飲み物を買うために、時雨とおばさんは車を降りた。時雨とおばさんの帰りを待つ、霧埼家の車に大型のトラックが追突。飲酒運転だった。そして、居眠り運転だった。ブレーキが踏まれたはずもない。霧埼家の車はそのまま飛ばされ、壁に衝突。トラックの運転手は衝撃で目が覚め、逃走。
これが中学一年の時。
トラックの運転手はほどなく逮捕された。
「事故の後、冬麻はあたしに優しかった。突き放すことも、優しすぎることもなかった。適度な距離。適度な優しさ。うれしかった」
「……」
「あたしの心には穴が開いてたからさ、冬麻で埋めようとしたのかもしれない。付き合ってるんだ。好きあってるんだって思い込んで」
時雨の異質。それはぼくに対する依存だった。最近は付き合っている、という形態をとることで少しだけマシになっていた。いや、周囲からは浮かないようになっていたのだが、それ以前はかなり酷かった。時雨の名誉のためにあまり細部は言わないけど。
時雨は立ち止まり、ぼくのほうに向き直る。
ぼくも歩くのをやめ、自転車があるから顔だけを時雨に向ける。
「ごめんね?」
「いいよ。ぼくときみが付き合っていなくたって、何かが変わることなんてないよ。今までどおりでいい。勝手にぼくの部屋に入ってきたって、来る途中に見かけたみいこちゃんを連れてきたって、勝手に冷蔵庫からジュースを取って飲んでも、宿題を写しにきたって構わない」
驚いたように目を見開いて、それから涙を溜める。
「あ……あたしって、そんなに図々しいかな?」
震える声で。
「うん。とっても図々しいよ」
◆◇◆
幸せって何?
そんなことを聞かれたことがある。中学一年の時だ。当然そんなこと、考えたこともなかった。
ふと辺りを見た時に、幸せだ、って思える瞬間じゃない?
そう答えた。
質問をした相手は、
なら自分は今、幸せじゃないね。
そう言って自嘲気味に笑い、ぼくをすっと見上げた。
不幸って何?
そんなことをぼくに聞いた。当然、そんなこと幸せについて考えるくらい、ぼくには縁のないことだった。
自分が不幸だ、って思ってしまった瞬間じゃないかな?
じゃあ、自分が不幸じゃないって思ったら、それはどんなことであれ不幸じゃないの?
きっとそうだよ。幸か不幸かなんて、主観でしかないんだから。
じゃあ、幸せとも思えず、不幸でもないって思っていたなら?
それは惰性で生きてるか、それか幸せなことを幸せだ、って思えていないか、どちらかだよ。
一日中、そんなことばかりを、中学一年生の男女は話していた。
ぼくの一日は、夏鈴と話すか時雨と話すか、その話す時間の割合で色が変わってくる。夏鈴と長く話したのなら、ぼくは家の外に対して関係を持とうとしなかった日。時雨と長く話したのなら、ぼくが外に対して関係を持とうとした日だ。一概にそうとは言えないけど、言えるわけもないけど、大体そういう感じだ。時雨と一緒にいたら、学校では時雨の友人と話すから。あと、恭介とも。
最近は全校親交部に出席する日が増えた。毎回二百円の出費があるのは、正直言って痛いのだが。それでも、霧のせいで部活動に参加したことのなかったぼくにって、全校親交部は新鮮だった。このところ天気がいいので、霧の心配をしなくてもいいのがうれしい。
「……でよ。どう思うよ、淳」
「お前が悪い」
「時雨はどう思う?」
「うーん、敦が悪いと思うよ」
「……なあ、冬麻はオレの味方だよな?」
「味方してやりたいのは山々だけど、さすがに無理だよ」
「新垣先生は……?」
「全体的に敦が悪いと思う」
「うわあああ! オレは陸の孤島にいるのかああ!」
何か間違っているような気がするが、訂正はしないでおこう。
今日は新垣先生が来ていた。昨日は教頭が来ていた。本当に先生も参加するらしい。さすが全校親交部。なにも親交を深めるのは生徒だけに留まらせる必要がない、ということか。一応先生なので、呼び方は『先生』だがしかし、敬語は使用しない。
「陸の孤島の意味を間違えてるぞ、敦。明日までに辞書で調べて提出しろ」
「嫌だ! どうしてこんなところで課題出されなきゃ駄目なんだよ!」
「おいおい、言葉遣いが……ここではそれがルールか……、まあいい。調べて覚えなおしておけよ」
「へいへい」
先生の参入は、決してこの部には悪影響にはならなかった。なぜなら、こんなところにやってくる先生なんて、物好き以外にいないからだ。この新垣先生も、その物好きの一人だった。聞くところによると、先生の中で一番よく来るのだそうだ。仕事の合間を見て、可能な限り参加しているらしい。この場に自然に溶け込んでいられるのもうなずける。
「あ、先生、そろそろ時間が」
時計を確認した時雨が言った。
「あ? 本当だな。ちっ、仕事なんて面倒くさいものがどうしてあるんだ……」
生徒の前では言ってはいけないようなことを呟きながら、新垣先生は立ち上がった。
「はい、会費」
「はい。確かに」
「邪魔したな」
「いつでもどうぞ」
定例のやり取りを終え、新垣先生は心底面倒くさそうに家庭科室を後にしたのだった。
先生には見えない先生を見送り、ぼくたちは顔を見合わせて笑った。
「あの性格どうにかしたらモテるだろうに。惜しいな」
ひとしきり笑った後、淳が同情するように言った。
「いや、あんな性格だからこそいいんじゃないか? 美人だし」
「人に厳しく、自分に甘く。……敦、どこに魅力を感じるんだ?」
「あの男性っぽい言葉遣いと、外見のギャップ。それから、あの性格そのもの」
「お前……そのうち失敗するぞ」
「そうかな? かっこよくない?」
クッキーをほおばりながら、時雨が話の輪に入る。
「かっこいい、ねえ……」
思わず呟く。時雨はああいう女性をかっこいいと思うわけか。
メモメモ(無意味)。
ぼくはジュースを飲みながら、三人がかっこいい女性について話すのを聞く。ぼくはいつも、基本的に会話には入らずに、みんなが話すのを聞いていた。
皿に盛られた、カントリーマミーを取って食べる。素朴な味わい。
「冬麻はどんな女の人がかっこいいと思う?」
「そうだな、新垣先生が自分にもう少し厳しかったらかっこいいかも」
「ほう」
「まあ、ぼくはかっこいい女性より、きれいで明るい人に惹かれるけどね」
その後も、本日の活動が終了するまで『かっこいい女性』についての議論は続いた。結論は出なかったけれど。
かっこよさ、なんて個人の主観によるものだから当たり前のことだけど。
「それじゃ、えっと四日後」
「えー、休みの日は家に来るなってこと?」
「あ、いや、いつでもどうぞ?」
「ふふ、お邪魔します」
意地悪な笑みを浮かべ、時雨は家に入った。
「さて、帰るか」
学校帰りに時雨を家まで送ることが、最近日課になってきた。なんか付き合ってるみたいだな、と思い、二ヶ月前の時雨を思い出して身震いする。不謹慎な考えだ。
時雨を家まで送り、自分の家まで帰るこの時間はあまり好きじゃない。騒いだ後の虚しさ、というのだろうか。たった五分や十分の時間で、ぼくは一気にブルーになれる。これが素だったっけ?
「ただいま」
玄関には相変わらず夏鈴の靴しかない。両親は今日も仕事だ。両親は仕事場にすんでいるのか、家に住んでいるのか、どっちなんだろう。なんて、そんなことを言ったら両親は悲しむんだろうな。
「おかえりー!」
いつものように夏鈴がぼくに飛びつく。ぼくはそれをいつものように引き剥がす。
「最近帰り遅くてごめんな?」
「いいよー。料理の練習もできるし。部活、初めてでしょ?」
「ああ。ありがとう」
食卓には夏鈴が作った料理が並んでいる。焼き魚。酢の物。味噌汁。朝ごはんのようなメニューだけど、一切文句は言わない。今朝食べたようなメニューだけど、それでも文句は言わない。これは夏鈴の『練習』なのだから。
「食べようか」
「食べよー」
魚は少し焼きがあまかった。もう少し焼いてもいい。
味噌汁はおいしくできていた。
酢の物もおいしい。
夏鈴の料理の上達は目覚しいものがある。なんでもみいこちゃんや、みいこちゃんのお母さんから教わっているらしい。今度お礼を言っておかないと。
「おいしいよ」
「ほんと?」
「ああ」
はじかれたように笑い、上機嫌に箸をすすめる。
「なあ、夏鈴。今週の週末三連休だけど、どっか行きたいとこないか? あるなら連れてってあげるけど」
「あー、ごめん。今週は学校のボランティア活動に参加しなきゃいけないのだー」
「そうなの?」
「うん。土日は老人ホームで月曜には学校の掃除。学校の掃除は午前中。休日返せー」
「代休あるでしょ?」
「うん。三週間に分けて一日ずつ」
「逆に面倒だろうにね」
「だよねー」
まあ大人ってのは、得てしてそういう理解に苦しむようなことをしてしまうものだ。ぼくたち子どもはそれに翻弄されるのが精一杯。
「食器、ぼくが洗っとくよ」
「ありがとー」
出された二人分の食器と、調理に使われた鍋やらグリルやらを洗う。夏鈴は居間でテレビを見ている。ぼくも夏鈴が見ているテレビを見ながら食器を洗う。
全校親交部の騒がしさに慣れてしまったからか、こんな静かな時間が新鮮な感じがする。毎日繰り返してきているのに。
明日は金曜日。明後日から三連休だ。ゆっくり過ごそう。
「夏鈴、天気予報見た?」
「あ、見てないや。チャンネル回してみるねー」
リモコンを操作してチャネルを回す。丁度天気予報を伝えているチャンネルがあった。
「……です。今週の週末はお天気は崩れそうです。お出かけの際には傘を持っていたほうがいいでしょう」
「だってさ」
「ありがと」
週間天気予報では、土日が雨。月曜日は晴れになっていた。月曜日は霧に注意しなければいけない。
食器を拭いて食器棚にしまう。夏鈴が寝転んでいる横に座って、一緒にテレビを見た。
「久しぶりだねー、こうやって一緒に見るの」
「そうだっけ?」
「そうだよー」
テレビの中では、お笑い芸人がネタを披露して出演者たちを笑わせていた。
「うーん、イマイチだなー」
プチプチとチャンネルを回し、辿り着いたのは旅番組だった。
「おー、きれいだねー」
「どこの国かな?」
誰かは知らないけれど、俳優だろう人が汽車から外の景色を眺めていた。その窓からは海が見え、はるかとおくには水平線が見える。青く透き通った海は、何もかもを許容してしまいそうな強さを感じた。
「あんなところで泳いだら気持ちいいんだろうねー」
「残念だけど、アレは間違いなく海外だよ」
旅人がその海の美しさを表現していたけれど、その表現は陳腐で使い古されていて、やっぱりぼくが思ったようなことと同じようなことを語っていた。どうやらぼくの思考も平凡らしい。
三十分くらいその番組を見た。
「先に風呂行っていい?」
「いいよ。わたし宿題終わらせるから」
「それじゃ、お先に」
バスタオルと着替えを手に脱衣所に向かう。脱衣所に置かれた鏡には、前よりも少し丸くなったぼくが映っていた。
「最近食べて飲んでするわりに動いてないからなー」
少しは運動もしないといけないようだ。太るのは勘弁願いたい。
自分の体に少々ばかりのショックを受けながら体を洗い、湯船に浸かる。一日の疲れが流れ落ちていく。あまりに気持ちいいものだから、少し長く浸かりすぎてしまった。
「長かったねー」
風呂から上がると、すでに宿題を終えたらしい夏鈴が笑顔でぼくを迎えた。のぼせた頭を振り、
「風呂には魔物が住んでるらしいね」
そんな冗談を言ってみる。
「ははは、お兄ちゃんみたいなのを狙ってるんだねー」
夏鈴はぼくの横をすり抜けて風呂に行った。
「ぼくはおっさんにはまだ早いよ」
誰にも聞えない呟きを吐いて、ぼくは牛乳を飲むのだった。
正直、よろしくしたくない状況だったということは否定のしようがない。塞ぎこんだ人間が、幸せとか、不幸とか、そんなことを問いかけてくるのだ。それも、自分と同じ歳で幼なじみが、だ。本当は逃げ出したかったし、突き放してしまいたいと思っていた。それをしなかったのは、ぼくがその幼なじみが大切だったからだ。失いたくないと思ったからだ。
適度な距離を掴むのは簡単だった。相手の表情を観察することは慣れていた。ぼくの異質が他人にばれないように、ずっと他人の表情をうかがって生きていた。特に霧が晴れた次の日は。夏鈴の異質に気づいた人たちがいないかを確認するのも、ぼくの仕事だった。これは自主的にやっていたことだけど。
その幼なじみはほどなくして回復し、普通に普通の、中学生がするような会話をできるようになった。
回復は順調だった。
ただ一つ。
現実とは異なる、自分を擁護するための虚構を作り出した、という事実を除いては。
日曜日、雨が降っている。
金曜日に全校親交部で、日曜日に遊びに行こうという話になっていたのだが、昨日から続く雨のせいで計画そのものが流れてしまった。それ自体は、まあ残念なのだが、退屈というか暇なのはいつものことなので気にならない。
夏鈴は今頃老人たちと戯れているのだろう。掃除をしているのかもしれない。とにかく今日は夏鈴は家にはいない。久しぶりに一人の時間を過ごす。今までは暇だとは言いつつも夏鈴がいたし、唐突に時雨がやってくることも多かった。
「本当に一人の時間ってのも、いいのかもしれないな」
なんて、そんなことを思う。こういうときにアレがくるなら、誰も傷つけずに済むのだが。予報では明日から晴れるらしい。霧が出ないことを祈るばかりだ。
引っ越し、という選択肢が頭をよぎる。しかし、ぼくはそれをしたくないのだ。霧が出やすい地域とはいえ、ここでの生活は気に入っているし、まだ異質のことが解決したわけではない時雨を残していくわけにもいかない。現実を認めたように見えて、恐らくまだ時雨は虚構の中の情景を現実で見ている可能性がある。
時雨の異質のというのは、『葵冬麻と付き合っているという虚構を現実に見ている』ということではなく、『葵冬麻に対する異常な依存』というところにある。だから、ぼくに振られても(あくまで彼女の中では)、また別の方法でぼくと一緒にいようとする。近くにいたいと願う。これはぼくのうぬぼれなどではなく、正真正銘の事実だ。そんな時雨を残して、どうして引っ越しができようか。両親にも何度か勧められたが、ぼくはその全てを断った。
雨足は弱まる気配を見せない。それほど強い雨でもないから、やっぱり予報どおり明日には止むのだろうけど。ぼくは霧は嫌い――というより忌避の対象――だけど、雨は実はそれほど嫌いではなかった。なぜなのかはよくわからないけれど、子どものころから雨のことが嫌いだと感じたことはなかった。晴れた日とあまり好感度は変わらない。
「災厄の前触れだってのにね」
呟きがもれる。一人になるとどうしても独り言が出てしまう。
「なにしようか」
どうせ一人なら、一人のときでしかやりにくいことをしよう。
五分に及ぶ思案の結果、勉強をすることにした。普段の休日は夏鈴やら時雨やらの影響で、昼間には全く勉強ができないのだ。たまには昼間に勉強するのも悪くない。
英語のワークを解きにかかる。いわゆる予習というやつだ。説明文を読めば、ある程度理解できた。解ける問題を全て解く。わからない問題は今度の授業で解けるようになるだろう。
数学のワークを開始する。予習しておくべき箇所は、すでに昨日の段階で終えていた。
古文のワークを開始する。そもそもワークが存在しない。
物理のワークを開始する。少し公式を忘れていたので苦労したが、それでもすぐに十ページくらいは解いてしまえる。
あれもこれも、とワークを解いているうちに、とうとう夏鈴が帰ってきた。
「おっ兄ちゃーん!」
バタバタと階段を上がってきているうちに時間を確認する。よし、まだ夕食の準備はしなくて大丈夫そうだ。
盛大な音を立てて部屋のドアが開く。
老人ホームでのボランティア帰りだというのにもかかわらず、夏鈴に疲労の色はうかがえない。むしろ元気そうに見えた。
「おかえり。お疲れさん」
飛び掛ってきた夏鈴の頭を撫でながら――最近撫でることが多くなったように思う――ぼくは言った。
幸せそうに目を細める夏鈴は猫のようで、それが面白くて、なんとなく頬をつつく。意味は特にないけれど、無性にやりたくなったのだ。
「ただいまー。疲れたよー」
元気そうだけど、疲れてはいるんだな。当たり前だけど。
「どうだった?」
「疲れただけだよ。お年寄りって苦手なんだ」
「苦手なのか? なんか意外だな」
「妙に親しげに話しかけてくるでしょー? ああいうのって、なんだか嫌なんだよね。対応に困っちゃう」
「適当に返事してるだけでもいいと思うぞ? まあ、苦手っていうのは分かるかな。ぼくもそうだ」
「お兄ちゃんは同年代以外の人は苦手でしょ?」
「失礼だな。ぼくが駄目なのは、小学生低学年以下とご老人たちだ」
「へー」
どうでもよさそうにうなずく夏鈴。正直どうでもいいのだろう。
夏鈴はぼくの体から離れ、ベッドに移動した。ベッドに腰掛けるのかと思ったら、そのまま横になった。
「ちーかーれーたー」
大の字になって間延びした声を上げる。いつまでも子どもっぽいやつだ。
「頼むからそのまま寝ないでくれよ?」
「わたしが寝たら、お兄ちゃんはわたしの部屋で寝るといいよ」
「嫌だよ。ふつうに夏鈴を部屋まで運んでいくからな」
「あ、一緒に寝るっていう選択肢もあるよ」
「ねえよ」
あるわけがないだろ。中学生と高校生だぞ? それをやったら、多分、ぼくは社会的に死ねる。まず間違いなく『あいつら』はぼくを抹消しようとするだろう。それだけは勘弁願いたい。
「照れちゃってもー」
「照れてない。それに、まだ晩飯もまだだろ?」
「あ、そういえば」
「そういえばって、まだ夕方だぞ?」
「あれー。そだっけ」
「お前、よっぽど疲れてんだな。いいよ、もう。そのまま寝てろ。できたら起こしに来るから」
「ありがとー」
今まで我慢していたのか、夏鈴は返事をするとすぐにまぶたを下ろし、まどろみに落ちていった。
「ったく」
とりあえず夕食を作ってしまわなければならない。早めに食べて、早めに寝かせてしまおう。そうすれば明日にはまた、元気に活動できるだろう。
「どうしてぼくが夏鈴の健康状態まで気にかけなくちゃいけないんだ」
もう自分でどうにかする年齢だろうに。たぶんあの子どもっぽさが、ぼくを過保護にしているのだろう。本当に過保護なのかは疑問だけど、自分はそうだと思っている。
今日は全く何を作るかを考えていない。買い物にも行っていないし、冷蔵庫に何が眠っているのかもあまり覚えていない。あまりよろしくない状況だ。冷蔵庫を確認してみると、中には料理に使えそうなものはほとんど入っていなかった。野菜も同じ。そろそろ買い足しをしておかなければならない。夏鈴に頼んでおこう。さて、冷蔵庫に何もないなら、別の方法を模索しなければならない。どうしようか。
少し考えて、ぼくは人が考え出した便利アイテムを思い出した。カップラーメン、カップうどん、カップそば、カップ焼きそば、日本にはそんな便利な食べ物がある。幸い、葵家にも在庫はいくらか存在していた。たまには手を抜いてしまってもいいだろう。誰も文句は言わないはずだ。いや、言わないでくれ。
とわいえ、メニューがカップ麺となると、通常の料理に比べ準備にかかる時間は皆無に等しい。これでは夏鈴の仮眠の時間は十分ではないだろう。それに、ぼくの胃袋も食べ物を欲してはいない。とりあえず本でも読んで時間を潰すことにしよう。
計画性のない兄でごめんなさい。
起きてきた夏鈴は、食卓に並べられたカップ麺に一瞬動きを止めながらも、「お兄ちゃんも大変だよねー」と、嫌な顔ひとつしなかった。できた妹で助かる。
「それにしてもカップラーメンって久しぶりだねー」
「そうだな。実は材料が色々足りなくてね」
「お兄ちゃんにしては珍しい失敗だねー」
「ああ」
ぼくも人の子、ということだ。まあ、そんなことを言うほど飛びぬけた存在じゃないけどね。飛びぬけた存在、といえば夏鈴のほうだろう。それもあまりいい方向じゃないけど。『恐怖』とか『危機感』の欠如、というのはあまりに飛びぬけてしまっているように思う。ぼくだけだろうか。違うと思う。いや、実際に見てみないとわからないか。
雨は少しだけ小降りになっていて、明日には晴れそうだ。ただ、そうなると霧が発生しそうで憂鬱になる。晴れれば時雨がやってくるだろう。どうやって追い返したものか。自然かつ迅速に。考えてもすぐには出てこなかった。
今回はぼくが食器を片付けることになった。自然かつ迅速な時雨の追い返し方は全く思い浮かばない。以前、「これから出かけるから」と断ったことがあったが(実際出かける予定だった)、時雨はそれについてきたのだ。だから外出系の断り方はNG。実際に出かけるわけじゃないから(出かけたらより危険だから)、それは失敗したときのリスクが大きい。病院に行く、というのは明らかに嘘だとばれるだろう。家でゆっくりしたい、なんてのはもってのほか。隙がない。
「外に出られないから、な」
時雨が家に来る前に家から出てしまう、という選択肢も選べない。居留守、というのは何度かやって(女の子と遊ぶのに少しばかりの抵抗を感じる年頃のとき)、全て看破され、二階の窓から部屋に入ってきたくらいだ。もはや逃げる手段より、別の方法を考えたほうが早いように思う。しかしそれができるなら、ぼくはすでにそれを実行し、今こうして悩むことをしていないはずだ。八方塞がりとはまさにこういうことを言う。
「なあ夏鈴」
「いや、わたしに聞いても答えは出ないよ。さすがにわたしにはどうすることもできないって」
「……だよな」
全てを見透かしたようなことを言っているが、多分見透かしているのだろう。夏鈴という妹はそういう娘だ。
ぼくはぼくだけで、ぼくの力でどうにかしなければいけない。
とりあえず、寝よう。
◆◇◆
どれだけ異質だ、と言ったところで、しかしぼくたちにとってそれは当たり前のことだ。一生付き合っていかなければならない、もう一つの『自分』のようなものだ。だからそれを否定されてしまうのは、自分自身を否定されているのに近いものがある。だからといって、ぼくたちがソレを肯定しているのかといえば、それは限りなくノーに近いだろう。誰だってコンプレックスというものは持っていて、それを肯定し魅力だ、と言える人はいない、もしくは限りなく少ないはずだ。ぼくたちの異質はつまり、そういう部類だということを明言しておきたい。
ぼくは破壊衝動。
夏鈴は感情の一部欠如。ブラコン(これは性格だと思いたい、いや、それも困るが)。
時雨は虚構の創造。
一番実害があるのがぼく。
一番厄介なのが時雨。
夏鈴はそれほど害もなければ、厄介でもない。自身が気をつければ済む話だ。
ぼくは素直に言って後悔している。今まで綺麗事ばかりを並べてきたが、それは保身のために過ぎない。そうしないと、自分の心が壊れそうだからに過ぎない。
詭弁だ。
これはぼくの回想。普通に生活していた頃の、昨日までの回想。
感謝の気持ちをぼくに関わった人全てに示そう。
謝罪の心をぼくに関わった人全てに示す。
一緒に歩いた『彼女』の冥福を祈る。
今日でぼくたちは終わった。
さようなら、とは言わない。
目が覚めて、まずしたのが天気の確認だった。カーテンを開けると、濃い霧が立ち込めていて、体の奥が疼くのを感じる。時計を見ると八時を過ぎていた。夏鈴はもう学校に行っている時間だろう。ということは、もしぼくがあの『発作』を起こしたとしても、止めてくれる人はいないということになる。全力で抑えなければならない。
「時雨が来なかったらいいんだけど……」
願ってみても、彼女が来ないわけがない。雨が降っていようが、風が強かろうが、日差しが強くても、寒くても、暑くても、彼女はやってくる。濃い霧が出ていることくらいで来ないがわけがない。どうにか対策を講じなくてはならない。
ぼくと時雨のために。
とりあえず朝食を食べようと部屋を出たとき、玄関が開く音がした。
「おっじゃまー」
聞き違えるはずがない。時雨だ。どたどたと階段を駆け上がってくる。これでは対策も何もあったものではない。昨夜にちゃんと考えてから寝なかった自分を殴ってやりたい。むしろ、こうなることを予測できていたにもかかわらず、眠りにつけた自分に感服する。
「どうしたの? 顔色悪いね。ははっー、さては部屋の中にはアダルトゥーな本が散乱してて、あたしに部屋に入られるとまずいとか」
そんなわけがない。あるわけがない。そういうお気楽な妄想をしてくれるのは、切羽詰っているぼくにしてみればありがたい話なのだけど、今にもその気楽な笑顔を殴ってしまいそうになる。今すぐに逃げ出したい状況だ。
混乱のあまりどういう風に対応したらいいのか分からない。
あまりにも急すぎる。心の準備が(する時間はあったけど)全くできていない。神さまなんてものが本当にいるなら、そいつはきっと相当性格が悪いに違いない。どうしてこんな状況を創りだすというのだ。迷惑を考えてくれ。いや、むしろこれを迷惑だとは思っていないのだろう。迷惑という概念すらないに違いない。それ以前に、全ての人間のことなんて気にもかけていないだろう。
「むー、本当に様子がおかしいね。朝ごはん食べた?」
「これから食べるところ」
なんとかそれだけを返す。気を抜いたらすぐにアレがくる。
「そっか、じゃあ冬麻は部屋に戻ってて。あたしが準備して持ってくるから」
それは困る。それをするということは、運んできた後も部屋にいて、食べ終わった食器をも片付けていくということだろう。看病する気満々ではないか。そうなると、ぼくと時雨が一緒にいる時間が増える。増えるということは、アレに遭遇する確率も高くなる。
「大丈夫だよ。食べて寝たらよくなるから」
「むー、そっか。じゃあ、今回のところは退散しようかな」
「うん。またね」
「であであー」
騒がしく登場し、騒がしく去っていった。
「ふう」
とりあえず時雨が家から出て行ったことに嘆息する。それと同時に、自分のこの体質に嫌気がさしてくる。こんな迷惑極まりない性質など、今すぐに破棄したい。
食卓には空の椀が二つ置かれていた。それにご飯と味噌汁をつぐ。意図して普段と同じように、同じような速度で食べた。けれど、気が気ではない。この霧がいつ晴れるのか、一日中我慢し通せるのか、そんなことばかりが頭を巡る。
こういう事態は初めてではないけれど、その度にいつもこんなことになっている気がする。学習能力がないのか、ぼくは。少しは学習しろよ。勉強ばっかりできたって駄目なんだ。
とりあえずどうしようか。この状況では出歩くことは正しく自殺――もしくは他殺――行為だし、前のように勉強をしようとしたところで、集中ができるはずがない。『霧が出ている』という事実を認識してしまっている以上、この体の疼きが収まることはないのだ。この霧が晴れたのを確認するまでは。
と、ここまで考えて、では朝に天気の確認さえしなければこんなことにはならないのではないのか、というところに行き着く。しかし、それをしてしまうと、霧が出ていることを知らないままに外に出てしまう。外に出れば霧を認識する。つまり、確認しようがしまいが、それは同じことなのだ。結局は疼きが現われる。『発作』の兆候が現われる。
「……寝よう」
寝てしまえば、自分の意志なんて関係ない。寝てしまえば、例えば鼻づまりによる息苦しさを意識しなくなるのと同じように、あの疼きを意識しなくて済むだろう。寝てしまおう。寝てしまえば楽になる。
食器を簡単に洗い、部屋に向かう。足取りは重かった。
最悪の気分だ。
何かの気配を感じて目が覚めた。『何か』のほうへ目を向ける。
「……夏鈴。帰ってたのか」
ぼくを見下ろすように、夏鈴が立っていた。
「たっだいまー。お兄ちゃんすごいねー。わたしが帰ってきた途端に起きたよ」
本当にそうなのだろうか。ぼくにはもっと以前から立っていたように感じるのだが。何か不気味な感覚がある。しかし、今の夏鈴にはそんなものは皆無だった。
「お兄ちゃん、もう一時だよ? いくらなんでも寝すぎじゃない?」
「ちゃんと朝ごはんは食べてるよ。寝てたのはアレから逃げるため」
「あー、そっか。気づかなくてごめんね」
「いいよ。それより夏鈴、ここにいるのは危ないと思うよ?」
「えー、妹が兄の部屋にいるのが危ないの?」
「そういうことじゃなくて」
わかっているはずなのに。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんが前みたいに暴れても、わたしが止める。わたしが止めてあげる」
「でも……」
「いいのー。あ、でもわたしにも仕事はあるからねー」
夏鈴はそう言い残して部屋から出て行った。恐らく昼ごはんを食べるのだろう。今帰ってきたばかり、という夏鈴の弁が正しいのならだが。そこを疑ってしまっては、兄としての立場がない。
目覚めてしまえば、またあの疼きを体感する。意識していないだけで収まるわけではない、ということを痛感する。
「いやっふー!」
突然ドアが開き、時雨が飛び込んできた。
「元気になったー?」
「時雨、どうして」
「えー、だって朝来たとき元気なかったしさ。心配するじゃない?」
心配してくれるのは素直にうれしいが、できれば今日は来てほしくなかった。
「それにさ、『今回のところは』ってちゃんと伏線張ってたよ?」
やっぱりあれはそういう意味だったのか。気づいたものの、いやそれは考えすぎだと打ち消していたのに。そうだ。この娘がその手の伏線じみた言葉を冗談で使うわけがないのだ。やはり、昨日今日のぼくは油断が過ぎる。
「うん。でもまあ、顔色が良くなって良かったよ。朝は真っ青だったけど、今は少し赤みがかってるし」
それはぼくが望んでいない興奮がわいてきているからだ。破壊衝動が奮い立っているからだ。一刻も早く時雨をこの部屋から、いや、この家から出さなくてはいけない。
「時雨――」
悪いけど、帰ってくれ。そう言おうとして、けれど言えなかった。そのとき、時雨が取った行動が、最悪のものだったからだ。
「む? かなり空気がこもってるねー。これじゃあ、健康でも病気になるって冬麻」
そう言って、彼女はカーテンを開けて窓を全開にしたのだった。
嫌でも、
霧が――
視界に入る。
「時雨っ!」
「え?」
窓に手を掛けたままの時雨は、突然のぼくの怒声に目を見開き、ぼくのほうを見た。開け放たれた窓からは、霧の町が見える。
瞬間。
ぼくの体を、あの日の狂気が支配する。
あの男から乗り移ってきたかのような、凶暴な殺意が、ぼくの中から溢れ出す。
ぼくは時雨を殺したくはない。絶対にだ。
けれど、それ以上に時雨を、いや、この視界に映るすべてを破壊したい。
意識が反転する。
気がつけば、時雨の頭を殴っていた。
気がつけば、ハサミを持っていた。
気がつけば、それを時雨のお腹に刺していた。
気がつけば、もう一度ハサミを刺していた。
気がつけば、時雨の苦痛を訴える悲鳴が部屋を包んでいて、誰かが駆け上がって来る音が聞えた。
そこで――夏鈴の登場でぼくは我に返る。一度傷つけてしまった夏鈴を、いや、何度も傷つけてきた夏鈴を、ぼくは、この凶暴なぼくは忌避しているらしい。見境のない狂気かと思えば、そうではないようで。人の心とはまったくもって理解に苦しむ。
とにかく、ぼくはやっとの思いで、体と意志の自由を取り戻した。
ぼくによりかかるように倒れてきた時雨の体を支えて、ベッドに倒す。まだ息はあるし、意識もある。驚愕に染まった顔でぼくを見つめる。
「……と、う」
「救急車を呼ぶなら、ここに携帯がある。意識があるうちにかけるといい」
時雨の手に携帯を握らせる。そこへ、夏鈴が部屋に入ってきた。
「お兄、ちゃん……?」
「ああ、夏鈴。行こうか」
「行こうかって……時雨ちゃん血まみれだよ?」
怯えたような目でぼくを見る夏鈴がかわいそうになる。それと同時に、夏鈴にもこんな表情が残っていたのだと安心する。こればっかりは、あの達観したように、全てを知っているかのような夏鈴でも想像できなかったのだろう。
それはそうだ。夏鈴だって人間なのだから。
「夏鈴、時間が無いんだ。これから苦労かけるかもしれないけど、行こう」
「なに言ってるの……? わからないよ」
ぼくが一歩近づくと、夏鈴は一歩下がる。それを繰り返していくと、とうとう夏鈴は壁に後退を妨げられた。いやいやと首を振り、涙を流す夏鈴を見ると心が痛んだ。
「どこか、ここじゃないところ。大丈夫だよ、夏鈴」
「何が大丈夫なの? ねえ! 早く救急車呼ぼうよ!」
叫ぶ。けれど、ぼくはそれに耳を貸さない。貸してはいけない。
それになにより、ぼくは警察に捕まりたくなんてない。
「心配しないで」
滅茶苦茶に振り回される夏鈴の腕を掴み、優しく、できるだけ優しく夏鈴の頭を撫でた。振り回されていた手が止まる。ぼくは一歩、歩いた。夏鈴もそれについてくる。
時雨に小さく手を振って部屋を出る。
「ねえ、時雨ちゃんは? 救急車呼ばないと死んじゃうよ? お兄ちゃんが刺したんでしょ?」
ぼくの異常性を知っている夏鈴にとって、それは考えるよりも明らかなことだ。だから、ぼくは素直にうなずいた。隠す必要なんて何一つとしてないのだから。
ぼくの手を握る夏鈴の手は大きく震えている。ぼくはそれに気付かないフリをしながら歩いた。この妹は、あの不思議な側面を持ちながらも、まだ中学生だ。いくらぼくがあのような狂気を潜ませていることを知っていたところで、実際に人を殺して――まだ死んではいないから……違うか。そう、傷つけてしまったとなれば怖くもなるだろう。そうでなければ、ぼくは本気で夏鈴の心を疑う。
外に出ると、濃い霧が世界を覆っていて視界が悪かった。よくもまあ、こんな状況で学校の清掃活動は行われ、時雨はぼくの家に来たものだ。交通安全について、もっとよく考えたほうがいいのではないだろうか。特に中学校。
「兄ちゃん……こんな日に出歩いて大丈夫?」
それはぼくの破壊衝動のことを言っているのだろう。けれどぼくはそれを無視して歩く。どうせ既に時雨を傷つけてしまったのだ。しかも、その後のケアも、責任も何一つ果たさずにこうして逃げている。今更そんな心配などする必要はない。それに、なぜか裏側のぼくは夏鈴を傷つけないようになっているようだし。
冷たい風。温かいけれど、恐怖で冷たくなっている夏鈴の手。それらの調和が心地いい。
「時雨……ごめん」
逃げてしまって。
「時雨――――ありがとう」
何がありがとうなのか、ぼくにはわからないけれど。
◆◇◆
気がつくと、なぜかハサミがあたしの体に刺さっていた。
「ひぎぃいいいいぃぃ!」
こんな悲鳴なんて初めて聞いた。
痛い痛い痛い!
どうしてなんであたしが冬麻に刺されなくちゃいけないの? ねえ、どうして、よ。
「……と、う」
声が出ない。痛みで気が遠くなりそうだ。早く救急車呼んでよ……。
「救急車を呼ぶなら、ここに携帯がある。意識があるうちにかけるといい」
そう言って、冬麻はあたしに携帯を握らせる。
え?
冬麻は、部屋に駆け込んできたブラコン妹と何かを話していて……。まさか、あのブラコン妹……いや、違う。あいつは怯えたような顔で何かを叫んでいた。
何を言っているのかはわからない。遠ざかる意識を無理やりコッチに引き留め、携帯をプッシュするのに必死だ。あたしはまだ死にたくない。
冬麻に理由を聞きたい。
全校親交部のみんなと別れるのもいやだ。
あたしにはまだまだやり残したことがある。
冬麻と一緒にいたい。今度は自分の妄想じゃなくて、現実として。彼に刺されてこうなっているというのに、その気持ちに変化はない。それほどまでに、あたしは彼のことが好きだ。
そうだ。きっとこれは何かの間違いだ。今日の冬麻は体調が悪かった。だから、虚ろな思考の中で、何か良くないものが見えたに違いない。そうでなければ冬麻があたしを刺すはずがない。きっとそうだ。
冬麻が部屋から出て行く。階段をゆっくり下りていく音が聞える。
やっとの思いで通報する。
「もしもし」
しかし、プッシュするのが精一杯。脂汗だらだらである。
「もしもし」
力が入らない。
電話の向こうの様子が少し変わる。
「大丈夫ですかっ! もしもし!」
「たす……けて」
声が出た。けれど、自分のものとは思えないほどに掠れていた。
視界がかすむ。血が足りていないのだ。力も入らなくなってきた。
「――――」
携帯の向こうから何か声が聞えるが、あたしにはもう届かない。
かすんでいく意識の中で、あたしは冬麻の姿だけを考えていた。
気がつけば、真っ白な箱の中にいた。そこが病院の病室だと気づくには数瞬を要した。どうやらあたしは助かったらしい。
「あっ、意識が戻ったんですね」
看護師さんがうれしそうに目を細めた。
「先生を呼んできますから、横になっていてください」
体力が著しく低下していて、あたしは返事をすることもうなずくこともできなかった。する気力さえ生まれなかった。ただ、生きていた。助かったのだ、という感動だけをかみ締めた。
当然のように警察がやってきた。
「あくまで事件性はないと?」
刑事さんの表情には、明らかな不審が浮かんでいた。そして困惑もうかがえる。
「はい。あたしは確かに彼に刺されました。けれどあたしはこれを事件として扱って欲しくないのです」
「しかし、これはれっきとした殺人未遂、もしくは傷害事件です」
「いいえ。今回のこの件は和解しました。法的措置は一切合財必要ありません」
「和解、と言っても、犯人は、葵冬麻は現場から即座に逃走したのでは?」
「そのとおりです。しかし、被害者の立場であるあたしは、被害を被ったとは考えていません」
「言い方が単刀直入で申し訳ないが、霧埼さん。あなた、死にかけているのですよ? 発見がもう少し遅れていたら死んでいた」
「ええ。先生から聞きました。しかし、あたしは死んでいません。死んでいない以上、あたしにはこれは事件ではないと主張する義務があるのです」
刑事さんは憤りと困惑を交えた表情で、あたしを見つめていた。
退院してすぐ、あたしは旅の支度を始めた。高校なんて続けていられない。
「時雨行っちゃ駄目よ」
「…………」
黙っていてほしい。
「じゃあ」
資金もある。足りなくなってきたら短期でバイトをすればいい。そんなに甘くはないのだろうが、あたしには関係がない。
「人に頼るだけっていうのは、あたし嫌いなの」
警察だって捜しているのだろうけれど。
「みいこちゃんだって、そうでしょ?」
「そうですね。夏鈴さんを許せるかどうかはわかりませんけど」
「ゆっくり考えなよ」
「そうすることにします。……そうですね、時雨さんほど寛容にはなれませんから、ニ、三回殴って許してあげましょう」
みいこちゃんはそう言ってうなづいた。
「みいこちゃんも、かなり変だよね」
「『彼ら』は結局、自分たちがすることに怖気づいて何もしませんでしたからね。むしろ、哀れみでなのか、丁寧な介抱をしてくれましたから。それくらいで許してあげなくもないですよ」
「そっか。何箇所か心辺りがあるから、まずはそこへ行くよ。どこもこの町からは離れてるけどさ」
「絶対、連れ帰ってくださいね」
たとえ辿り着けなくても。
「もちろん。みいこちゃん、待っててね」
これがあたしの出した答えだ。
◆◇◆
完璧な作戦だ。時雨ちゃんがこの時間にやってくるということは知っていた。家から帰ってくる途中で、たまたま見かけたのだ。だから、決定的な時間にわたしがお兄ちゃんの部屋にいなければ問題ない。そうすればお兄ちゃんのアレが始まる。
時雨ちゃんはほぼ時間通りにやってきた。わたしは来たことに気づかなかったふりをして、学校行事のせいで食べ遅れた昼食を食べている。上で話し声が聞える。お兄ちゃんの緊張した声。でも時雨ちゃんはそれに気づけないだろう。お兄ちゃんはアレで演技上手だ。ずっと自分とわたしの異常を隠し続けてこれたのは、ひとえにお兄ちゃんの力だ。
「時雨っ!」
来たっ!
本能的にわかる。あの声はお兄ちゃんが本当に余裕のないときに出す声だ。ということは、アレが始まる。あたしはまだ行く必要はない。行ってはいけない。まだ早い。
「ひぎぃいいいいぃぃ!」
時雨ちゃんの醜い悲鳴が響いた。これだっ。わたしが待っていたのはこの声だ。何も知らないふりをするために、今のこの興奮した気持ちを隠さなければならない。深呼吸して気持ちを落ち着かせ、階段を駆け上がる。これで上気した頬も誤魔化せるだろう。
「お兄、ちゃん……?」
予想通りの景色が、お兄ちゃんの部屋に広がっていた。ただ、一つ問題なのは時雨ちゃんの息がまだあって、意識が思ったよりもハッキリしていることだ。これではせっかく机の上にハサミを置いていた甲斐がないではないか。
「ああ、夏鈴。行こうか」
お兄ちゃんの優しい声。
この声、久しぶりに聞く。いつ聞いてもいい声だ。
「行こうかって……時雨ちゃん血まみれだよ?」
一応普通の反応を示しておかなくてはいけない。
「夏鈴、時間が無いんだ。これから苦労かけるかもしれないけど、行こう」
「なに言ってるの……? わからないよ」
わからないわけがない。これはわたしが全て仕込んだことなのだから。かなり長いスパンの計画だったが、今のところは滞りない。
お兄ちゃんが哀れむような顔でわたしを見下ろしている。ああ、あたしは悲しみの感情が欠落している、という設定だったか。だから怯えるわたしを心配してくれているのだ。これはいい。そんなまさか、本当に悲しみの感情が欠落していると信じてくれていたなんて。お兄ちゃんは、あたしの異常の認識を根本的に間違っている。
「どこか、ここじゃないところ。大丈夫だよ、夏鈴」
「何が大丈夫なの? ねえ! 早く救急車呼ぼうよ!」
呼ばれてたまるものか。そんなことをしたら時雨ちゃんが生き残ってしまう。この女には死んでもらわないと。
お兄ちゃんの手が、時雨ちゃんの血で濡れた手があたしの頭の上に置かれる。
「心配しないで」
「ねえ、時雨ちゃんは? 救急車呼ばないと死んじゃうよ? お兄ちゃんが刺したんでしょ?」
絶対に呼ぶな。呼ばないで。呼ばないでください。
お兄ちゃんは結局、救急車を呼ぶことをしなかった。
勝った。
これで確実に霧埼時雨は命を失う。そうすれば、お兄ちゃんはわたし一人だけのもの。お父さんもお母さんも、誰のものでもない。わたしだけのもの。もちろん、みーちゃん。彼女にも渡さない。まあ、みーちゃんも今頃は橋の下で冷たくなってるんだろうけど。みーちゃんかわいいからね。そこらへんの男をそそのかしちゃえば簡単に終わる。でも、みーちゃんにも手をかけなくてはいけなかったのは、正直残念で仕方ない。みーちゃんがあんなことさえしなければ、わたしの予想は確信に変わることはなかったというのに。つくづく残念で仕方ない。
わたしはすでに銀行から預金を全て下ろしている。お金にはしばらく苦労しないだろう。お金がなくなったら、どこかから盗めばいい。今までも、何度かそれで小遣いを得ていた。
笑いたくて仕方ない。狂おしいほどに笑いたい、
わたしは勝負に勝った。
お兄ちゃんはわたしの――――わたしだけもの。
これからは霧の日だろうがなんだろうが、ずっと一緒だ。お兄ちゃんの狂気なんて、全く問題じゃない。あの程度の狂気なんて、わたしの悪意に比べればなんでもない。
比べるまでもない。
あの日。わたしとお兄ちゃんが、あの忌々しい男に襲われたその日から、わたしの計画は始まっていた。
それも今日で終わり。
そして新しい始まり。
「お兄ちゃんは、わたしのものだよ?」
誰にともなく、わたしは呟いた。
笑いたい。