前編
『恋愛小説っぽいモノが書きたいな』と思い立って書き上げられたのが、この作品です。「っぽい」のくだりで分かるように、恋愛小説とは言えないものに仕上がってしまいました。
書き始めは本当に恋愛小説路線だったのですが、だんだんと物語がへんな方向に転がっていったんです。修正はしませんでしたが……。
『恋愛』の要素はほとんどないですね。どちらかといえば『友情』でしょうか。それもあまりありませんが。
一応ジャンルは『恋愛』で投稿していますが、この前書きをお読みの方で『恋愛小説』を読みたい方は、前の画面に戻ることを推奨します。
光の奔流の中に、ぼくはいた。目が痛い。
風の闘争の中に、ぼくはいた。体がちぎれそうだ。
音の濁流の中に、ぼくはいた。気が狂いそうだ。
彼女の腕の中に、ぼくはいた。押しつぶされそうだ。
彼女の愛の中に、ぼくはいた。 ××××しそうだ。
ぼくは溢れる狂気を抑えるのに必至で、彼女は認識の外だった。そのときは目も暮れていなかった。いたのは知っている。けれど、気楽に話ができるほど気持ちに余裕は無かった。思えば、それが間違いだった。彼女は強さゆえに弱く、しかし確実な強さを持っていた。きっとぼくが抱える狂気など、毛ほども問題にしなかったに違いない。
ぼくが彼女、霧埼時雨について語る場合、必ず過去形で語ることになる。
……そのとおり。彼女は既にこの世にはいない。
ぼくは霧埼時雨が好きだ。
霧埼時雨はぼくが好きだった。
あなたを殺したぼくを、どうか許してください。
……どうか。
時雨は快活に笑いながらぼくの頭をはたいた。
「おーっす!」
はたかれた衝撃でぼくの頭がパソコンと接触しそうになる。
「……いたんだ」
「気付かなかった?」
「……いや、知ってたけどね」
ぼくは二分ほどでしたためた駄文を消去し、時雨に向き直った。時雨は真っ白なパソコンの画面を指差した。
「その文章なに?」
「特に何も考えてないよ。なんとなく意味深にしてみたかった」
「ふうん? じゃあ出だしははどう気持ちを表現したの?」
「それこそ無意味だよ。意味なんてない」
時雨は呆れたように笑った。本当に呆れられたのかもしれない。それでもまあ、仕方の無いことだろうとは思うけれど。
「冬麻は一体何がしたいの?」
「何がしたいんだろうねえ。意味のない文字の羅列を作ることで何かを整理しているのかもしれないよ」
「なにかって?」
「さあ? 無意識でやってることだし」
ため息をついて、時雨はベッドに飛び込んだ。やめてほしい。
「男臭い」
鼻をスンスン鳴らしながら時雨が言う。
「そりゃあ、ぼくのベッドだし」
「あたしが知らない間に大人になっちゃって」
四方山話が好きなおばさんみたいな口調だ。というか意味が分からない。……ぼくらさっきから理解不能な会話ばかりしてるよな。大丈夫なんだろうか。主に頭。
「意味が分からないんだけど」
「うん。あたしもわからない」
馬鹿だ。
「失敬な! 冬麻だって似たようなものじゃん!」
確かにそうだった。失念していた。……うん? 馬鹿だということは否定しないのだろうか? やっほう。ぼくらは馬鹿です。……あれ? ぼくって今かなりイタイ奴だ。これは至急話題を変更する必要がある。
「さて、何の断りもなく人の部屋に入ってきた理由はなんだ?」
入って来ていたことは知っていたし、それ自体が悪いわけでもない。ただ用事があって来たのなら、このままでは絶対に本題に入ることはできない。なぜなら、ぼくたちは日常の会話においてはこの上なく馬鹿だからである。
時雨は少し頬を膨らませ、悪く言えば幼稚な表情を作った。
「あたしと冬麻の仲じゃない」
「悪いとは言ってないよ。何か用事があるのかなって思っただけ」
「ぜーんぜん。用事なんてありませんよー」
「ふうん?」
時雨はベッドの上で体をくねらせ始めた。あまりそういう姿を男には見せないほうがいいのではないだろうか。結構エロい。
「……何してるの?」
「男臭いベッドを女の子の匂いで一杯にしてあげようかと」
大きなお世話だった。
「それってさ、たぶん時雨に男臭いのが移るほうが早いと思わない?」
時雨の動きが止まる。何かを考えているらしい。大方、サザエさんが次に出してくる手を計算しているのだろう。
「……それはそれでありかもしれない」
「ありなんだ……」
今度は布団を被り、その中で体をくねらせ始めた。もぞもぞと動く布団の上から乗っかりたい衝動に駆られるが、ここは自重。その様子を見ることにする。が、ほどなくして布団が宙を舞った。
「息苦しい」
布団に潜り込んでいたのだから、それは当たり前のことだと思う。しかしそれを言うのは、何かが違うような気がする。
「女の子の匂いで一杯になった?」
「うーん、自分じゃわからないよ。……冬麻かもん」
時雨がやたら煽情的なポーズでぼくを誘う。こいつはぼくにどうしてほしいのだろう。まさかそういう要求をしているわけでもあるまい。
「ほらー、嗅いでみろー」
近づいたぼくの頭を掴み、ベッドに押し当てた。もしかしたらこいつは酔っ払いなのかもしれない。だとしたら、こいつは相当酒癖が悪い。なにせ遊び感覚で友人を窒息死させようとしているのだから。
布団にはなるほど、確かに時雨の匂いがついていた。ただまあ、すぐに消えてしまうのだろうけれど。
「はあはあはあ……時雨の匂いだあ」
「変態だったの?」
若干熱が引いた目でぼくを見る。自分から振っといてそれはないんじゃないだろうか。
「違うとも。変態という名の……」
以下略。
それからこんな感じでいちゃいちゃしていると、電話が呼ぶ声が聞えた。
「ちょっと待ってて」
部屋を出て、電話の子機を持ち上げた。
「もしもし、葵です」
「ああ、冬麻くん?」
電話の相手は時雨のお母さんだった。
「冬麻くんのところに時雨がお邪魔してると思うんだけど」
「ええ、来てますよ」
もうこの段階で、おばさんが何を言いたいのかがわかる。そして、なぜそれを言わなければならないのかも。
「やっぱり……悪いけど帰るように伝えてもらえる? あの子携帯に電話しても出ないから」
それはきっと、時雨が機械音痴の極みだからだろう。ぼくからすれば、彼女が携帯を所持していることがすでに奇跡だ。
「わかりました。伝えておきます」
「ありがとう。よろしくね」
通話を終えると同時にため息が出た。時雨の奴、また逃げ出してきたようだ。こういうところはいつまで経っても子どもだ。
部屋に戻り、寝転ぶ時雨にクッションを投げつける。
「くっ、曲者!」
バッと起き上がり、周囲を見回す。といっても、目に入る曲者らしき者はぼくだけだろうけれど。
「む? 冬麻か」
他に誰がいるというのだろう。そもそもここはぼくの部屋である。曲者という言葉が当てはまるのは、むしろ時雨だろう。
「それよりも時雨、また逃げてきたな?」
そう言った瞬間、時雨の表情がみるみる強張り始めた。ついでに顔から赤みが少しなくなる。
「……もしかしてさっきの電話ってお母さん?」
「そうだよ。帰って来いってさ」
伝言すると、時雨は露骨に嫌な顔になる。
「だってさあ、あれ面倒くさいんだもん。それにあたしたち高校生じゃん? いらないって」
面倒くさいのは同意するけど、高校生であることは全く関係が無いと思う。君だってそうだと思う。……あ、これは家庭教師の話だ。
時雨は成績が悪いわけじゃない。ただ、放っておくと全く勉強しない時雨を見、時雨の両親が中一のときに雇ったのだ。結果的には時雨の成績は上昇し、学年トップの成績を収めている。その代わりに勉強嫌いに拍車がかかってしまった。
「お金も払ってるんだからさ。ちゃんとしないともったいないよ?」
「でも面倒くさい。勉強きーらーいー! それにさ、始まる時間も問題だと思わない?」
「八時からだから良いんじゃない? いたって普通だと思うけど」
ちなみに今は七時四十五分。もちろん夜である。こいつは時間など関係なくやってくるから対応に追われることが……あまりない。慣れた。
「じゃあ冬麻も一緒にしよう」
「なぜそうなる!」
意味不明なうえに、それは明らかに家庭教師の先生に迷惑だ。
「えーじゃー帰らない」
「いやいやいや、帰ろうよ。そろそろ先生来ちゃうよ?」
時雨は枕に抱きついて丸くなった。そして懇願するような目でぼくを見つめる。目を潤ませるサービスつきだ。ときめかないけれど。
ぼくは時雨に歩み寄り、枕を抱く腕に触れた。
「ほら」
時雨は何を思ったのか、ぼくの手を取った。好機である。その手を握り返す。
「さあ時雨帰ろうか」
時雨を無理やり立たせ、半強制的に歩かせる。
「とーまの鬼畜ー!」
「おばさんに怒られるのは嫌だしね」
玄関までやってきて、ぼくはあることに気がついた。この女、家まで送らないと絶対に舞い戻ってくる。今の時間は七時五十分。八時まで十分しかない。迷う時間は無かった。
「ほら、行くよ」
「おっ、やっと一緒にやるきになった?」
「うん、ぜひ一緒にしたいね」
完全に嘘だが、こう言わないと家から出ることすらしないどころか、靴すら履かないだろう。
家を出て夜の道を歩く。昨日から今日の夕方まで雨が降っていたから、もしかしたら霧が出ているかもしれないと不安だったが、霧は出ていないようだ。もし出ていたらぼくは時雨を突き飛ばして、部屋のベッドでうずくまっていただろう。
それはさておき、霧埼家と葵家は近い。あまり雰囲気を味わっている時間はない。ないのだが、こういうのは案外楽しいものだ。それが何年も付き合ってきた幼なじみであっても。普段と違う状況は、不思議な魔力を持っている。と思う。
「実は家庭教師から逃げるために来たんだね?」
五分ほどの時間を潰すために聞いた。聞かなくてもわかる質問である。けれど、やっぱり会話はあったほうがいい。
「もっちろんさ」
「なぜそこで誇らしげなんだ!」
わけがわからない。さっきは似たようなものだと言っていたけれど、絶対に時雨を理解に苦しむ人のほうがぼくよりも多いに違いない。
「冬麻は塾とか行かないの?」
「行かないよ。行く必要もあまりないし」
クラスの連中の中には、塾に通う奴もいるらしいが。勉強なんて基本的に学校でする勉強で十分だ。家で少し復習すれば事足りる。少なくともぼくは。それに、時雨も。学年トップの成績である以上に、全国でも上の中に位置するくらいだし。
「嫌味に聞えるよ、それ」
「そうかな? 普通ってのは人それぞれの基準の上で成り立っているから嫌味にはならないと思うけど」
「それって暗に『君たちとは立ってるフィールドが違う』って言ってるようなもんじゃん?」
「あー……なるほど」
そういう考え方もあるわけか。危なかった。時雨から指摘されなければ、ぼくはクラスの嫌われ者になるところだった。危ない、危ない。
「でもまあ、必要性を感じないってのは同感かな。あたしは別にいい学校行っていい会社に就職したいわけじゃないんだもん」
「そうなんだ」
「うん。あたしさ……」
最後は呟くように言ったため、聞き取れなかった。何を言ったのか気になったけれど、聞かないことにした。きっとその方が良かったと思う。
霧埼家の家が見えてきた。家庭教師の先生はすでに到着しているらしく、霧埼家のではない車が止まっていた。
「うっげぇ……もう来てるよ」
舌を出して、うなだれてみせる。
「先生嫌いなの?」
「好きじゃないねぇ……いや、教え方はいいんだけど、なんかあたしとは合わないわ。何年経ってもそれは変わらないね」
家庭教師って信頼関係が重要なんじゃないだろうか、と思ったけれど、よく考えてみれば信頼感が零ならすでに契約が破棄されているだろう。今まで変わらずにいるということは、(逃げ出してはいるけれど)、時雨もある程度は信頼(信用?)しているようだ。こういうことが何度もあるから、ぼくも先生とは会ったことがある。温厚そうな男性だった。時雨はあの人のどういうところがあわないのだろう。聞かないけど。
霧埼家のインターフォンを鳴らす。すぐにおばさんが出てきた。
「あらあらあら、送ってくれたんだ。ありがとねえ」
「今日は冬麻も……」
「いえいえそれほどでも。それではお邪魔にならないうちにぼくは帰ります」
時雨が何か(おそらくぼくにとって不都合なことを)言いかけていたのを遮り、ぼくはおばさんに頭を下げた。
時雨は大いに驚いたらしく、立ち去ろうとするぼくの両肩をつかみ激しくゆすった。ああ……脳震とう起こしそう……。
「冬麻も一緒にするって言ったじゃん! ……――っ! まさか嘘?」
「信じるほうもどうかと思うよ」
まずは常識的に考えよう。それが幸せに生きるコツの一つ。
「うーわー! とーまに騙されたあ! 一緒にしよーよー!」
高校生でしょ? その駄々のこね方はどうかと思うよ。というか駄々をこねること自体何か間違っているような気がする。思うだけで言わないけれど。見てて面白いし。先生を待たせているおばさんですら、ぼくたちのやりとりを楽しんでいるくらいだ。案外先生も聞いているのかもしれない。
「いくら幼なじみでも限界はあるよ……」
「何言ってんのよー。一緒にお風呂入った仲じゃん?」
「何年前の話だよ」
しかもそれは、親が子ども(この場合は幼なじみの子どもたち、さらに詳しくするなら男女)をからかうときに使う常套句ではないか。しかもそれを女の子のほうから言ってくるあたりタチが悪い。きっとおばさんの教育の賜物だろう。思うことすら怖くて思えないけど。
時雨はぼくの反応など気にする様子も無く、腕を引っ張っている。それほど力は強くないとは言え、痛いものは痛い。
「はいはい(わがまま言わずに)、がんばろーねー」
「うん。(二人で)がんばろー」
前向きな言葉が聞けたと思った途端、腕を引く力が強くなった。時雨がどんなふうにぼくの言葉を変換したのかは知らないけど、どうやら二人で頑張る方向で一致したらしい。どんな思考回路をしているのだろう。親の顔が見てみたい。目の前にいるけど。
ぼくはこれが限界です。ほらおばさん、笑ってないで助けて。
「時雨」
ぼくの念が通じたのか、おばさんが助け舟を出してくれた。ありがたい限りだ。感謝感激雨あられ。
「佐々々木さんに悪いでしょ。冬麻くんだって困ってるし」
「お母さん「々」が多いよ」
何か変だと思っていたら、案の定間違っていたらしい。
「噛んだのよ」
人の名前を噛むのもどうかと思うのだが。
「それはさておき、もう八時だから行くよ」
がっしりとおばさんに腕をつかまれ、時雨はずるずると家の中に引きずり込まれた。
先生が家の中にいるからか、特に非難めいたことは言わなかったけれど目だけは同情を誘っていた。しなかったけどさ。
とりあえず家に帰ろう。
どうせ帰ったら妹の出番になるのだろう、とため息をつきながら。
葵家の両親はいわゆる仕事人間で、幼い頃に母がいてくれたことしか覚えていない。今は共働きでほとんど家にいない。妹は甘えた記憶すら曖昧だろう。全然覚えていないのかもしれない。今日は帰ってくるだろうか。少しばかりの期待と、別に帰ってこなくてもいいか、という投げやりな気分を胸に玄関のドアを開ける。
両親は今日も仕事からは帰ってこないようだ。ちょっと妹には悪いことをしたかな、と思いつつ階段を上がる。いや、あいつだってもう中学二年生だし、親離れしてもいい年頃だ。あと兄離れも。
「おっかっえっりー!」
我が妹、夏鈴がご近所の迷惑も考えず、大きな声を張り上げて、階段を上り終えたばかりのぼくに横から飛び掛った。少し後ろにも傾いた。非常にでんじゃらす。
「あっぶねーだろ! 階段付近で飛びつくな!」
脇腹に頬ずりをしている夏鈴を引き剥がし、自室に向かう。ベッドにダイブすると、まだ時雨の匂いが残っていた。甘い匂いだ。
「お兄ちゃんひどい!」
当然のように夏鈴もついてくる。
さっきにも述べたとおり、夏鈴の幼いころから両親は共働きで家に帰ってこないことは多かった。だからぼくは夏鈴の親代わりで、夏鈴はぼくに甘えていた。ぼくは小さい頃から母から家事を教わっていたし、一人でいることに慣れていたから平気だったけど。妹はぼくに甘えて過ごし、親の優しさもロクに知らないまま今に至る。しかし、そろそろ兄離れの頃合ではないだろうか。妹萌えのライトノベルでもあるまいし。慕ってくれるのは素直にうれしいが、慕う気持ちが恋慕の情に変わりそうで怖い。可能性は低いのだろうが、最近はそれが本気で気がかりだ。
「兄に頬ずりだしな……」
ポツリと、思っていたことが口に出てしまった。
「え? してほしいの? いーよー」
夏鈴がベッドにダイブしてくる。それをギリギリのところで交わし、横たわる夏鈴に布団を被せ拘束した。呼吸の為に顔だけを外に出してあげる。
「おー。お兄ちゃんの変態性癖発覚。妹拘束癖、みたいな?」
「馬鹿な。これは正当防衛だ」
どっちかというとお前のほうが変態チックだぞ? 妹よ。
「……あれー? 時雨ちゃんの匂いがするねー」
どうやら布団についた時雨の匂いに気がついたらしい。夏鈴は何を想像したのか、顔を赤らめた。
「ま、まさかお兄ちゃん……きゃーきゃーきゃー」
なぜ恥ずかしそうなんだ? しかも少し嬉しそうだし。その身もだえをすぐさま止めろ。馬鹿なのか? 馬鹿なのか? それとも馬鹿なのか?
「馬鹿だろ」
本音が出ていた。
「たった一人の妹に対してそれはひーどーいー!」
「実はもう一人、桜花という妹がいるんだ」
「え? 嘘? 何歳?」
「十六歳」
「わ、わたしにお姉ちゃんが……」
信じるなよ。
「嘘だけどね」
「はぅ! お兄ちゃんに騙されましたー! 純情な乙女心を蹂躙されましたー!」
「そんな人に聞かれたら誤解を招く表現を……! つーかお前は純情な乙女だったのか?」
「そこを疑問視しないでよー」
みの虫状態の妹には、残念ながら純情な乙女的要素は皆無だった。合掌。とりあえず合掌。もう一度合掌。
「あ、そうだお兄ちゃん」
夏鈴はみの虫状態のまま言う。この状態を受け入れている時点で、お前は完全に純情じゃない。阿呆だ。
「お風呂空いてるよー」
いや、言われなくても知ってるし。家にいるのは二人だろ…………? 違うのか? そういえば見慣れない靴があったような。あれって夏鈴が新しく買ったわけじゃなかったのか?
「そりゃ、お前が入ったならあいてるだろうよ」
「うんにゃ、実はみーちゃんが泊まりに来てるのだー!」
にへっと、夏鈴は笑う。なんとなく、ぼくは部屋の入り口を見た。
そこには長髪が綺麗な夏鈴の友人、火神みいこが立っていた。
「お邪魔してます。……仲がよろしいんですね」
火神――あ、こう呼ばれるのは嫌いだったか――みいこちゃん(年下の女の子は絶対に「ちゃん」付けで呼ぶことにしている。ただし妹以外)は、曖昧な笑顔を浮かべた。絶対に誤解されている。見ず知らずの他人ならまだしも、妹の友人でありぼくとも何度も会話をしているうえ、なかなかの美人(重要)であるみいこちゃんに誤解されたままにしておくのはいけない。なぜなら、次に会うときから冷たい視線を向けられるからだ。そうでなくても、普段の視線でも凶器になりうるのだ。それだけは絶対に回避しなくてはならない。
「とりあえず落ち着いて話そうか」
「それは構いませんが……」
思ったよりも冷静なようだ。少なくとも会話をしてくれるくらいには。「不潔だ!」とか言って、そのまま絶交となったら本気で泣ける。
みいこちゃんはすっとぼくの横を指差した。
「まずは夏鈴さんを解放してはどうでしょう?」
確かにそうだ。というかお前も素直に捕まってるなよ。解放するタイミングを逃したじゃないか。と、責任を夏鈴に転嫁してみる。少し虚しかった。
夏鈴を解放し、場所を夏鈴の部屋に移した。そのほうがみいこちゃんも落ち着くだろうというぼくなりの配慮だ。久しぶりに夏鈴の部屋に入ったが、なんとも女の子な部屋だった。
「……で、みいこちゃんはどこから見てたの?」
聞くと、みいこちゃんは言いにくそうにうつむいた。ぼくらってそんなに言いにくいことをしてたっけ?
「……えっと、夏鈴さんの帰りが遅いので様子を見に行ったら『純情な乙女心を蹂躙されました』って叫ぶ声が聞えて、声がしたのが冬麻さんの部屋でしたから、失礼かと思いつつ覗いてみるとあの状態で……」
『あの状態』というは、夏鈴みの虫形態のことだろう。……最悪な場面だけを見ていたようだ。あの曖昧な笑顔もうなずける。というより、笑顔になれたことがすごい。普通ならドン引きして逃げ出すだろう。少なくとも時雨なら……いや、アイツの場合は参加してくるな。うん。あいつは参考にならない。
「それは基本的に夏鈴が悪かったりする。決してぼくの変態性癖の露見なんかじゃない」
「責任転嫁だー」
「違うわ!」
こいつは自分の兄を変態に仕立て上げるつもりなのか……。
恐ろしい妹だ。
「どっちなんですか?」
困り果てた表情で(普通ならぼくのほうを信じそうなものだが)首を傾げる。うん。かわいいぞみいこちゃん。
「ぼくが言ってることが真実だよ。全幅の信頼をおいてもらって構わない」
「言い切るお兄ちゃんかっけー。参りました。ははー」
兄にひれ伏す妹がいた。正直やめてほしい。
夏鈴が降参したことでみいこちゃんの誤解は解いたけど、よく考えれば夏鈴が変なことを言わなければこんなことにはならなかったはずだ。夏鈴め、自重しろ。ぼくがみいこちゃんに嫌われたら、それはお前のせいだからな。たとえ否定しても、絶対にぼくはお前のせいにしてやる。
大人気ない兄だ。
「それじゃあ、ぼくは風呂に」
ここは一度引いたほうがいいだろう。あまり強調しても嘘っぽい感じがする。
立ち上がり、夏鈴の部屋を出る。
「暇だったら来てねー」
戸を閉めた後、夏鈴がそんなことを言った。ぼくは返事をせずに風呂へ向かう。
今日は疲れた。時雨に遊ばれ、夏鈴に遊ばれ。みいこちゃんには誤解され。まるでアニメやライトノベルのような一日じゃないか。自分がアニメ、もしくは小説の登場人物だと言われても、今なら信じられる。こんな疲れる一日を送る奴なんて、普通に考えていないだろう。せめて夏鈴が普通の妹なら、こんなことを考えることもないだろうに。
湯船に浸かると、じんわりと疲れが染み出していくような気になってくる。たぶん、入る前よりも疲れていっているのだろうけど。適度に入るならそうじゃないのかな?
風呂を出たらどうしようか。そのまま自室に戻って寝る。もしくは夏鈴の誘いに乗る。しかし、みいこちゃんはそれをどう思うだろうか。お互いに良く知った仲だから大丈夫かな? ……いや、そんな甘い考えが関係(この場合は友人関係)を壊してしまうのかも知れない。それ以前に、こんなことは考えるだけ無駄だろう。そのときの気分に任せよう。きっとそれが最善の選択だ。
幸い今日は霧が出ていない。
結果的に、ぼくは今夏鈴の部屋にいる。先に断っておくけど、ぼくから部屋に行ったわけではない。寝ようとしていたところを、夏鈴に無理やり起こされ、挙句部屋まで引っ張られたのだ。抵抗? そんなことをして夏鈴が怪我をしたらどうする。
ぼくが再び部屋に現われ、みいこちゃんは少し驚いていた。そうだろう。普通こないよな。
「冬麻さんは明日学校なのではないですか?」
みいこちゃんは時計を確認して、それからカレンダーを見た。
「だよ」
中学は明日休みらしい。臨時休校だそうだ。中学で臨時休校は珍しいな、とは思ったが、職員たちに何か用事があるのだろう。
「お休みになられなくて大丈夫でしょうか」
心配そうな表情でみいこちゃんは続けた。
「夏鈴さんに無理やり連れてこられたのならお休みになったほうが」
時刻はまだ九時半を少し過ぎたころ。寝ようとしたこと自体がおかしい時間帯だ。今時九時に就寝する高校生はいないだろう。いたとしてもごく稀だ。
「大丈夫だよ。いつもこの時間は起きてるから」
「そうですか」
「そーそー。どうせいつも十二時過ぎまで起きてるから安心していいよー」
それを知っているということは、こいつは最低でも、ぼくと同じ時間までは起きているということか。せめて十一時には寝ろよ、中学生。
「夏鈴さん、夜更かしは健康に悪いですよ?」
「えー、だって寝るのってもったいなくない?」
もったいないって……。
「どういうことでしょう」
夏鈴は得意げにうなずいてみせた。
「寝るとさー、寝ている間のことはわからないし、気づいたら次の日じゃん?」
「そうですね」
「するとさー、たとえば十二時から七時まで寝ていたとして、七時間は自分は寝てるわけじゃん?」
「そのとおりです」
「もったいなくない?」
「何がですか?」
「何がだよ!」
どういう理屈でもったいないとぬかしているのだ、この娘は。
みいこちゃんと声が重なる。夏鈴は一度息をついて、自信をみなぎらせた表情で指を立てた。
「寝てる時間がもったいないのだよー」
「わからないですね」
「……お前、実は馬鹿だろ」
寝ている時間はいわば充電の時間。貴重で重要な時間なのだ。それなのにそれをもったいないなんて言うなんて。
「わたしはねー、眠らなくてもいい体質になりたいのだよー」
満面の笑みで天井を指差す。ぼくの妹はこんなわけのわからない少女だったのか。素直に泣ける。
「わたしは眠れないと精神的に苦しいと思いますが」
「え? どゆこと?」
天井を貫くように掲げられた指を下ろし、夏鈴は疑問符を頭の上に掲げた。みいこちゃんの言うことが全く理解できない、そんな表情。
「苦しいことがあっても、眠れないからずっとそればかりを考えてしまう。みんなが眠っている時間に一人で過ごさなくちゃいけない。孤独ですよ?」
「そうだな。夏鈴知ってる? 真夜中に一人ってのは、結構辛いんだよ」
「んー。でもやっぱりもったいないなー」
何が『でも』なんだろう? こいつ全然わかってない。みいこちゃんは頭いいのに、どうして友達のこいつはこんなに馬鹿なんだ。関係ないか。
みいこちゃんは苦笑した。その表情はどこか楽しげだった。案外、こういう夏鈴の馬鹿っぽさをみいこちゃんは気に入ってくれているのかもしれない。そんな気がした。
「っと悪い」
ポケットに入れたままになっていた携帯のバイヴが鳴った。確認してみると、相手は時雨だった。『霧埼時雨』の名前がディスプレイに表示されている。
「電話ですか?」
「うん」
「こんな時間に……。どうぞ、夏鈴さんはわたしがお相手しておきます」
「頼むよ」
『こんな時間に……』という言葉から、みいこちゃんが礼儀に厳しいことがよくわかる。基本的に夜の九時以降に電話をすることは非礼に当たるのだ。
「もしもし?」
「やっほー冬麻。冬麻に裏切られたけど、あたしは戦い抜いたぜ?」
「そんなに嫌ならおばさんに言えばいいのに」
正直な気持ちを伝えると、時雨は盛大にため息をよこした。
「言って止めさせてくれると思う? あたしが家庭教師を始めるようになったきっかけから考えてありえないっしょ」
「ありえないね」
きっかけは時雨の不勉強、勉強嫌いだ。それなのに面倒だから嫌だ、という願いが聞き届けられるはずも無い。というか、どんなきっかけであれ『面倒だから』というのは理由にすらならないだろう。理由にはなっても、決め手にはなりえない。
「あたしの戦いはこれからなのさー。はあ」
ため息。
「頑張りなよ。ってこれほど無責任な言葉も無いね…………」
こういうときは、なんて言えばいいのだろう。自分の語彙の少なさが恨めしい。それほど深刻に考えなくちゃいけない話の内容でもないのだけど。
「いやいや、そんなに深刻にならないでよ。要するにあたし次第なんだから」
「そう言ってくれるとありがたいよ」
本当に。家庭教師をサボるって言い出さなくてよかった。
「さってー、今から行くよ?」
「は?」
「行くよ?」
「来るなっ」
ぼくの周りは馬鹿ばっかりなのか! どうしてこんな夜中に遊びに行こうという気になるのだろう。そしてどうしてそれをぼくが許可すると思っているのだろう。はなはだ疑問でならない。
「えー、いいじゃん。……夜のいと――」
通話を終える。ぼくは何も聞いていない。ぼくの家に時雨は来ない。時雨は勉強を終え、これから風呂に入って寝る。そうだ。そのとおり。そうに違いない。間違ってもうちにはこない。別に『夜の……』に動揺したわけじゃない。ただ、もし仮に本気でその気だとして(十中八九冗談だろうが)、この家には夏鈴とみいこちゃんがいるのだ。おいそれと呼べるわけがない。しかもみいこちゃんは礼儀だとか、世間的な常識に厳しかったりする(ぼくの偏見)。呼べない。
「おばさんが止めるだろうけどね」
結論を述べ、ぼくは夏鈴の部屋に戻った。
「戻ってくるということは、ここでの生活が楽しいというわけですな?」
「別にここで生活してるわけじゃないよ。それに誘ったのはお前だろ?」
「何か用事があるなら無理をなさらなくても……」
「いやいや、そういう意味で言ったわけじゃ」
こういう勘違いをするあたり、みいこちゃんも中々天然なのかもしれない。
「わたしとみーちゃんとで対応違わなくない?」
「妹とその友達とで対応が同じなら、それはそれで問題だと思うぞ? どっちに合わせるとしても」
「問題、なのでしょうか?」
改めて問われると、どうにも答えにくい。
「なんて言うか、普段ぼくが夏鈴と接しているようにみいこちゃんに接したり、みいこちゃんに接しているように夏鈴と接したりするなんて、ぼくにはできないよ」
前者は明らかにみいこちゃんに失礼な気がするし、後者はなんとなく気恥ずかしい。
「なるほど」
ゆっくりうなずいた。納得してくれたのだろうか。というより、理解してくれたのだろうか。
「そういえばさ――」
この話題を続けるのはそろそろ厳しくなってきたので、話題の転換を図ってみる。
「――どうして今日は泊まり?」
「勉強会という名目です」
「名目なのだー」
名目、と少し強調して言ったのは、最初から勉強などする気はないということか。
「一応勉強道具は持ってきているのですよ? 何も持ってきていなかったらすぐにわかりますから」
「手が込んでるね」
「当然の努力です」
努力をする場所が間違っている気がするのだが。まあ、十人十色ということで。
うん。ちょっと意地悪してみよう。
「よし、嘘はいけないから勉強しようか」
時間にはまだ余裕がある。どうせ泊まりなのだから、少しくらい夜遅くなったところで問題はないだろう。朝食を作るのはぼくだし。ぼくが寝坊しなければそれでいい。
二人は思ったとおり、蝋人形になったかのように硬直してしまった。みいこちゃんのこういうリアクションは結構レアなのではないかと思う。心のダイアリーに写真と一緒に記しておこう。
「えとみーちゃん、あそこの喫茶店なんだけどねー」
「ええ、コーヒーがおいしいお店ですよね?」
「こらこら。勝手に話を変えるんじゃないよ」
現実逃避を始めた二人を現実に引き戻すと、まず夏鈴の不満がぼくに襲い掛かる。
「だってさー、おかしいじゃん? せっかく泊まりに来てるんだから遊ばなきゃ損だよー」
「同感ですね。そもそも、夏鈴さんはともかく、わたしは成績に不安はありませんよ」
「今平然とひどいこと言ったよね!」
「あら、すいません。口が勝手に」
「そっか。なら仕方ないね」
仕方なくないだろ! やはり夏鈴は馬鹿だ。まあ、前向きな考え方をすれば、追求するよりもそうしたほうが雰囲気的には良好であるから、あえてそう言ったとも考えられる。そこまで考えていないだろうけど。みいこちゃんのほうは完全に冗談だろう。
「そういえばみいこちゃんってどれくらいの成績なの?」
みいこちゃんは人差し指をあごの下に添え、んー、と唸った。
「今回のテストでは八百点満点中、七百五十二点でした」
「みーちゃんって平均点九十四点もあるんだー」
こいつ、平均点計算するの速いなっ! 無駄なところで賢しい妹だ。
「ちなみに夏鈴はどうだったんだ?」
夏鈴と比較しようとして、まだ聞いていなかったことを思い出した。いつも自分から言ってきていたことから推測するに、今回は若干悪かったと見える。
案の定、夏鈴は言いにくそうにぼくたちに目配りをしてから、おずおずと合計点だけを端的に述べた。
「六百六十七点」
まあ八十三点といったあたりか。そんなに言いにくくするような点数ではないと思うのだが。もしかしたら、少しずつ点数が下がってきているのを気にしているのかもしれない。
「まあ、中学校は小学校みたいにはいかないさ。百点を取れないことを嘆くよりも、平均点を下げないように頑張ることが、合計点が下がってきているときには重要だ」
それができたら苦労しないのだけど。
それができたら、中学校での成績格差は生まれないのだ。
高校も然り。
「それをできる人が成績のいい人、なんですね」
みいこちゃんがそれを言ってしまったら、夏鈴に対する嫌味に聞えてしまうのだが。夏鈴がそれを自覚していないので、まあよしとしよう。…………みいこちゃんってぼくと同じ匂いがするな。なんというか、自分が気づかないうちに嫌味っぽいことを言ってしまう辺り。そして、気づかないうちに友達が減っていくタイプ。
「というわけで、わたしは今日勉強する必要性はないと思います」
「そーそー」
「ほう? それは中学校から現在の高校二年に至るまで、平均点九十五点以下になったことがないぼくに言える言葉なのかな?」
ほら、今のも無意識で出た言葉。ああ、ぼくはきっと陰で嫌みったらしい、陰険野郎とか呼ばれているのだろう。そんな風景が心に浮かぶようだ。
「冬麻さんって、成績がよろしかったのですね」
意外そうな表情でみいこちゃんが言った。
「がり勉って呼ばれてたよ」
日常会話でそう呼ばれていた。今思えば、これって軽度のイジメじゃないだろうか。よくぼくは暴れなかったものだ。まあ、やばそうな時は学校休んでたから回避していたのだろうけど。
「では――簡単に勉強の仕方だけを教わりたいですね。今後、参考にさせてほしいです」
「おー、みーちゃん真面目―」
「こら夏鈴。真面目をチャカしちゃ駄目だろう」
軽く小突いて、みいこちゃんの言うとおり、ぼくは自分の勉強スタイルを二人に教えた。
夏鈴は全然駄目だった。
みいこちゃんは、思ったとおり最後までちゃんと聞いていた。
どこまでも対極な二人だ。
十時半に差し掛かったころ、ぼくは自室に引き上げることにした。
「もう寝るの?」
「いや、まだ寝ない。そろそろお友達二人の時間にしたほうがいいかと思って」
「それもそーだね。おやすみー」
こいつ……っ!
「おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
みいこちゃんいだけは『おやすみ』を返して、ぼくは自室に戻った。
今でも忘れない。
その日は霧の深い日で、ぼくがおかしくなる原因となっただろう日。少なくとも、ぼくはその日を境におかしくなった。
数日間降り続いた雨の影響で、濃い霧が立ち込めている。この地域は元々霧が発生しすい地域だから、それも仕方のないことだ。ぼくは、夏鈴と一緒に土手沿いを歩いていた。霧はぼくたちにとって、日常の一部でしかなかった。だから、危ないという認識も無かった。
幼いころだったから、ぼくたちは手をつないで歩いていた。ぼくが小学四年生。夏鈴が小学校に入ったか、入っていないか、という頃。
ぼくたちは襲われた。初めてこの身で感じた《悪意》と《狂気》だった。今思えば、ぼくの今の状況は、この二つの狂った感情にぼくが毒された結果なのかもしれない。
今見ているこの景色が夢であることはすぐに理解できた。何度も見た夢だ。
夏鈴は泣いていて、ぼくは泣くのを必至に堪えて、助けを求めていた。
大人の人が通りかかって、ぼくたちは保護された。
犯人は男で、動機はなく、通り魔だった。ちなみにほかの被害者はなく、危うく第一の被害者になるところだった。
夏鈴もこの日のことは覚えているらしい。
忘れたいよね、ホント。
三人前の朝食を作り、二人分をラップで包んで置いておく。
学校の準備を済ませて、登校を開始。自転車にまたがり、早朝の空気を全身に浴びながら、見慣れた風景を駆けていく。今日も霧はない。いい気分だ。
ぼくにとって非常に都合がいいことに、自分の成績相応の高校が自分の地元に存在していた。遠くまで通うのを億劫に感じていたぼくにしてみれば、これは非常にうれしい。しかし、ぼくが気に病む必要は一切ないのだが、成績がよろしくない連中は、遠くの学校に行かなければならず、苦労しているようだ。
「よーっす」
「うっす、恭介」
後ろから一台の自転車がぼくを追い抜いていった。同級生の経島恭介だ。恭介はぼくの数少ない友人の一人で、真剣に遊びを楽しむやつだ。
恭介またがる自転車は、すぐにぼくと距離を離し、角を折れてそれから見ることはなかった。
再び自転車を見たのは、学校の駐輪場だった。
靴を履き替えて教室へ向かう。
「まだまだ冬麻には負けんぜ?」
ぼくの背中をバンバンと叩きながら、恭介が笑う。
「恭介と競争していたつもりは一切ないけど」
「馬鹿め。冬麻、お前馬鹿め。あの状況で、なぜレース感覚になれない」
「どうしてあの状況からレースをしようと思いつくんだ」
それって小学生くらいの発想じゃないのだろうか。
「そういう固定観念が人の想像力を奪っていくのさ」
そう言われるとそういう風な気になるが、本当のところはそうなのだろうか。違うような気もするし、そのとおりのような気もする。
これはきっと、ぼくがうまく煙にまかれた、ということなのだろう。
「ま、とりあえず今日一日を生き残ろうぜ?」
たかが高校の授業で大げさな友人だった。
ぼくは帰宅部であり、放課後に学校に残り、何かをするなどということは一切しない。それがいいことなのかどうかはさておいて、ぼくは誰かと話すこともなく、一直線に我が家へと歩を進める。
帰り道、一人自転車をこいでいると、どうしても部活をしている連中が目に入ってくる。それを少しばかり羨ましがりながら、中学からの愛車をこぐ。
部活に入ったことはない。
入ったら絶対に迷惑がかかる。
思わずため息がこぼれる。
「霧がなけりゃ、ぼくだって部活やるのにな」
そうでなくとも、霧がそれほど発生しない地域、気候なら大丈夫なんだけど。残念ながら、ここはなぜか霧が発生しやすいようだ。ぼくは自然界から嫌がらせを受けています。
それについての相談窓口は設けられていないのが残念だ。
自転車をこいでいると、道の先に見知った姿を発見した。
「時雨ー」
「おー、冬麻。今日も早いね」
時雨の隣に並び、自転車を降りる。
彼女は徒歩通学なのだ。
「まあ、帰宅部だし。でも、時雨って部活入ってたんじゃ?」
「今日はお休み。元々練習はあってないようなものだしね」
「練習って何してるの?」
「んー、雑談しながらお茶飲んで……」
『あってないようなもの』というレベルの話じゃない気がする。
「あたしの部活忘れた? 全校親交部だよ? 我ながらよくもまあ、こんな案が通ったなと思うよ」
「……そうだね」
全校親交部。
その名の通り、『学年の壁を越えた交流をしよう』ということをコンセプトとした部活、というよりも同好会のようなものだ。同好会としても存在意義があるのか疑問だけど。練習とはつまり、別学年との交流(談笑)であり、一般的な部活動とは一線を画している。ぼくが校長なら、絶対に存在を認めない部活動であるのだが、どういうわけかここの校長はそれを認めている。いわく、『それは素晴らしい案だねえ。いいじゃないか。一般的な部活から離れ、そういう斬新な部活動……かどうかは怪しいけれど、それを企画するなんて。問題行動に注意してくれるなら、この案に反対するつもりはないよ』だそうだ。寛容すぎやしないだろうか。
「冬麻も暇なときに顔出してみなよ。入部届けもその他必要書類は全くないよ」
「無いんだ」
「うん。だって面倒でしょ?」
時雨はニッと笑う。
「部員がいないのに部費は出てるの?」
「いんや? 全然出てないよ。でも練習の終わりに二百円徴収してるから大丈夫」
「それ……いいの?」
普通に駄目なんじゃないだろうか。
「校長も許可してくれたよ?」
「…………」
「というか、前に校長も来たし」
「――――ッ!」
さすがに絶句するぼく。
「なんか五百円も払ってくれたし」
ああもう。『普通』なんて、そんなものは存在しない。
「まあ、気が向いたら顔出すよ」
「うん」
うれしそうに、使い古された表現だけど、花咲くように時雨は笑った。
「ただいまー」
玄関には夏鈴の靴しかなかった。どうやらみいこちゃんはもう帰宅したらしい。
二階に上がる前に、リビングに入る。なにやら食欲を誘う香りが漂っている。母さんはまだ帰っていないようだし、夏鈴が何かを作っているのだろうか。
「おかえりー。へっへー、お兄ちゃん、わたしのおいしいおいしい手料理が食べられるのだよー?」
今日は珍しく夏鈴が夕食を作ってくれているらしい。普段は帰宅部で帰りが早いぼくが作っていたのだが(夏鈴が先に帰っていても)、どうやら夏鈴の気が向いたらしい。このまま料理に目覚めてくれないだろうか? せめてぼくの帰りが遅いときくらいは作ってくれれば助かるのに。それにしても、作り出すのが早いな……。
「慣れないことしてるしさー。失敗してもやり直しがきくようにと思って」
「なるほど。じゃあ、ぼくはとりあえず着替えてくるから。手伝うことあったら言って」
「あいあいさー」
元気な声が台所から聞えた。
自室に入り、荷物を置いて着替える。夕食の準備を始めようと部屋を出たところで、夏鈴が作ってくれていることを思い出した。
「こういうのも、なんかいいな」
妹の料理、か。どんな味なんだろう。
空いた時間に今日の授業の復習をしようとした矢先、夏鈴の呼ぶ声が聞えた。
「どうした?」
「いやー、失敗しなかったからさ、出来上がりが早くなっちゃって」
「……いくらなんでも早すぎるって」
まだ五時過ぎだ。いつもの食事の時間は七時。
「でもまあ、冷めちゃうのももったいないし、せっかく作ってくれたんだから食べようか」
「うんっ!」
夏鈴が笑うのを見て、食べることにしたのが間違いじゃないことを知る。配膳を済ませ、二人向き合う形で食卓を囲む(二人じゃ囲めないけど)。
「おいしいでしょー?」
自信満々でナイ胸を張っている夏鈴に促され、一口食べてみる。
「……む? ちょっと味が薄いけど、おいしいよ」
夏鈴が作ったのは野菜炒めだった。分量がわからなかったのだろう、二人前というには若干少ない料理が出来上がっている。まあ、食べる時間がいつもよりもかなり早いから、この分量でも十分事足りるだろう。そういう意味では、夏鈴の計算は完璧だったといえる。
結果論だけど。
「薄かった? たくさん入れたつもりだったのに」
「入れすぎのような気になるよな。ぼくも最初はそうだった」
作るのが二人前だから、最初のうちは入れすぎくらいが丁度いい。自分が入れている量は、味付けにしては少ないことが多いから。あまり入れるのを遠慮していると、あまりに薄い味になってしまうこともままあることだ。とはいえ、あまりに入れすぎると取り返しが付かないのだけど。
「わたしも食べよー」
大皿というには少し小さい皿に盛られた野菜炒めに箸をのばす。自分の箸に挟まれた野菜を少し眺め、夏鈴はそれを咀嚼した。
「うん、薄いね」
「味見してなかったのか?」
「うんっ」
なぜ誇らしげなんだ!
味見してないけど食べられる味でしょー、とでも言いたげな顔だけど、ぼくはそれを自慢できるようなことだとは思わない。が、夏鈴にとっては自慢できることらしい。本当にぼくの妹だろうか。ことごとくぼくと似ていない気がする。
「それにしても、夏鈴が作ってくれるなんて珍しいな」
余計なことを言ってしまった。もしかしたら夏鈴がすねてしまうかと思ったが、どうやらそんな心配は必要なかったようだ。
箸を野菜炒めにのばしながら夏鈴は、へへへ、と笑う。
「わたしも女の子だからねー」
「女の子だからって料理が作れないと駄目っていう道理もないけどな」
料理上手であることが大きなステータスであることは言うまでもないけど。それでも絶対必要不可欠、というほどでもないだろう。妻が料理が下手なら夫や子どもが作ればいいし、独身なら我慢したらいい。
「でもさー、できないとカッコわるいよー?」
「世間の目を超越してこそ、真の人間になれる」
「意味わかんないけどかっけー。お兄ちゃんらぶー」
「らぶー」ってお前。ぼくの心配はますます大きくなる一方らしい。こいつにも早く好きな人ができないものだろうか。もしくはこいつを好きになってくれる人はいないだろうか。そしたらこのブラコンもどうにかなるだろう…………と思う。まあ、それよりもまず、時折見せる夏鈴の異質を認めてもらわなくちゃいけないんだけど。
「らぶーって返してよー」
頬を膨らませて夏鈴はそう言う。
「……なんでだよ」
「あいさつだと思ってさー」
「らぶー」
はにかむように夏鈴は笑った。何か危ない気配を感じた。
「そうだ、夏鈴」
「うなー?」
「天気予報は今日見た?」
「んとねー、曇りの日があったり雨の日があったり。一応、霧に注意だよー」
さすが我が妹。ぼくが聞きたいことを一瞬で理解してくれる。
「なるほど」
「お兄ちゃんは繊細だからねー」
「アレを繊細で済ませる気か?」
「そうじゃないと救いがないじゃん?」
「…………」
「ふつうならここから引っ越すのが楽なんだろうけどねー」
「引っ越すのは嫌だよ。時雨をおいていけない」
「わかってるってー」
いつもと変わらない笑顔。
本当、ぼくとこいつは真逆だ。
「時雨ちゃんも色々繊細だからねー」
「……そうだな」
ぼくたちを取り巻く問題について話しているのに、どうしてこいつはこんなに笑顔なのだろう。ぼくがそれを聞くのは酷か。
「なるほど? 繊細という言葉を使えば、なんとなく柔らかい印象になる」
「おー、お兄ちゃんわかってくれるかねー。……でもさーお兄ちゃん」
ふざけた口調から、またいつもの口調に戻る。
「時雨ちゃんに隠したままでいいのー?」
「…………」
「わたしや時雨ちゃんのはさあ言ってしまえば、言ってしまいたくないけど、自分自身の問題じゃん? 時雨ちゃんは言うまでもなくわかるだろうし、わたしのは日常生活に問題ないし。でも――お兄ちゃんのは違うじゃん。それに別の意味では、時雨ちゃん自身も」
「それは……」
「隠したままにしておくのもいいけどさー隠さず言っておく選択肢もあるよ。わたしはねー言っておかないと、いつか二人に大きな傷を残すと思うんだ」
大きな傷を残す、か。
全く、そのとおりだろうよ。
「……わかってるよ」
「わかってるんならいいよ。ごめんね、こんなこと言って」
ぺこりと頭を下げ、夏鈴は笑った。
「いいよ。本当なら、ぼくが考えないといけないことなんだ」
「はは、お兄ちゃん素直でかっけー。らぶー」
「……らぶー」
食欲は、完全に失せていた。
「じゃー今日はわたしが食器洗っておくよー」
「お願いするよ」
重たい足取りで部屋に戻る。
そのままベッドに倒れこんだ。まだかすかに時雨の匂いが残っていた。
「時雨に話す、か」
幼なじみで、やはり問題を抱えた彼女を思い浮かべる。
「無理だな」
言えるわけがない。
こんな、下手をすれば社会不適合、人間失格のごとき性質など彼女に言えるはずがない。
あんな、今までのお前は間違いだ、と宣告されるに等しいことを、彼女に言えるはずがない。
『いつか二人に大きな傷を残すと思うんだ』
夏鈴の言葉が頭をよぎる。それでも、ぼくは話せない。
これはぼくの弱さだろうか……。
誰か、違うって言ってくれないかな……。
言ってくれないんだろうな。
◆◇◆
夏鈴は幼い頃あまり笑わない娘で、怖がりでいつもオドオドしていたように思う。今はその真逆で、よく笑い、怖いもの無しで快活な娘。
妹の変化は一瞬だった。気がつけばそういう風になっていた。
二つの狂った感情に犯された夏鈴とぼく。泣きじゃくっていたはずの夏鈴は、いつのまにか泣き止み、あろうことか笑みを浮かべていた。ぼくはこのとき、正直言うと夏鈴におびえていた。それは周りの大人たちも同様で、母だけはそんな夏鈴を抱き寄せて優しく撫でていた。父は出張で海外にいた。母の目は優しい目で、全てを許容する寛大な意志と、何かを決意したような強さを感じた。
夏鈴は家に帰りつくと、普段からは考えられないほどの元気さでぼくにまとわりついてきた。母はまだ家にいたそうにしていたけれど、上司がそれを許さなかったらしく、もの凄く心配そうにぼくたちを抱いた後、家を出た。今思えば、その上司は人として駄目なんじゃないだろうか。
あんな狂気に晒された後なのに、夏鈴は笑顔だった。今まででは考えられないほどに舌の回りがよくて、話していて楽しかった。気がつけば夏鈴に対する恐怖心は消えていた。
結局、その日のうちに母は帰ってくることはなく、ぼくたちは二人で一緒に寝ることにした。夏鈴は平気そうだったけど、ぼくはまだあの男の存在を恐れていたから。
翌朝も霧は晴れていなかった。
ぼくの異常性が発覚したのはこの日だった。
今日は土曜日で学校は休みだ。ぼくには休みの日まで遊ぶ友人はいない。とはいえ、高確率で時雨が飛び込んでくるのだけど。
「おっじゃまー」
「おじゃまします」
あれ? 二人?
疑問に思いながら階段を下りる。一人の声は確実に時雨で、もう一人は聞き覚えのある声だったけど、誰かはわからない。
階段を下りると、気づかなかったぼくを殴ってやりたい気分になった。
「丁度そこであったから連れてきてみた」
「お、お邪魔します」
戸惑い気味にあいさつをしたのはみいこちゃんだった。
「夏鈴と約束あったわけじゃないんだ?」
「え、ええ。角のスーバーの前を歩いていたらこの人に連れてこられて」
「ははは。見たことある顔だったから連れてきてみた」
見たことある顔って……。
「まさか、直接は面識ないの?」
「ないよ」
「ありません」
うわあ……、よくもまあそれで誘う気になるよ。そしてよくもまあついていったものだ。みいこちゃん、自分で気づかないうちに厄介なことに巻き込まれていそうだ。
「ちょっと夏鈴今寝てるだろうから起こそうか?」
ちなみにぼくもさっき起きたばかり。
みいこちゃんはぶんぶん顔を振って、ぼくを制した。
「わたしはこの人に連れてこられただけですから」
「あっ、それあたしが悪者みたいじゃん」
「違うのかよ」
「違う……とも言い切れないかも」
ははー、と乾いた笑いを漏らす時雨を軽く小突き、とりあえず二人を家に上げた。玄関で立ち話もアレだろう。別にみいこちゃんを上げる必要もなかったのだろうが、まあ、今日ここに来たのも何かの縁だろう。
「へえ、火神みいこちゃんかあ」
当然のように名前も知らなかったらしい。どうやって声をかけたのだろう。
「霧埼さん」
「時雨でもいいよー」
「時雨さんはどうしてわたしに声を……?」
言い直して問いかける。
時雨はわざとらしく笑う。
「ははー、細かいこと気にしないの。ねえ、冬麻」
「なんでそこでぼくに振るんだ? まあ、どうせぼくは常に暇人だからいつ誰が来ても大抵対応できるから問題ないけどね」
例えば今日みたいに突然二人がやってきても。外出も滅多にしないし。
「そういえば、みいこちゃんって何か用事があったんじゃないの? 外歩いてたなら」
聞くと、みいこちゃんはふるふると首を振った。
「散歩してただけです。休みの日はいつも」
恥ずかしそうに笑う。
「ふうん」
「冬麻は休みの日っていったら惰眠貪ってるだけだから、少し見習ったら?」
「時雨だって似たようなもんだろ?」
今日こそ夏鈴より早く起きているが(ぼくはいつも大体八時には起きているから、惰眠貪ってると言われるほどでもない。夏鈴はいつも十時前後)、時雨は普段は昼ごろに起きる。ぼくにとやかく言える立場ではないのだ。
「あたしは八時に起きてるもんねー」
「それはぼくだよ。時雨はいつも昼ごろだろ」
言い合っていると、みいこちゃんがとても不思議そうな顔でぼくたちを見ていた。
「どうしたの?」
はじかれたようにみいこちゃんの体がはねた。
「えっ、あ、いや、ええとお二人ともよく知ってるなあ、と」
まあ、確かに普通なら他人の起床時間なんて知らないよな。
「まあね、こいつとの付き合いも長いし」
じたばたする時雨を押さえつけながら、苦笑交じりに。
「はあ……」
得心しかねるように曖昧にうなずいた。それから少し悩むような表情になる。
「お二人はもしかし――「おっじゃまーっすー!」
みいこちゃんの言葉に重なるようにドアが乱暴に開けられる音がして、乱暴に階段を駆け上がってくる音が聞えてくる。バタバタ、ドダドダ、効果音はどうでもよくて、問題なのはぼくは誰も呼んでないことで、アポ無しでぼくの家に来るのは時雨くらいのものだ。
「誰だ?」
部屋のドアを開けようとした時、思いっきりドアが引かれた。ノブを掴もうとした手は空を切った。
「おっす冬麻」
ドアを開けたのは級友、経島恭介だった。
「何でお前がここにいるんだ?」
勝手に上がりこんできた友人に対して出た最初の言葉がこれだった。
「馬鹿め。冬麻お前、馬鹿め」
「馬鹿はお前だ」
「まあまあ、とりあえずお茶どうぞー」
恭介が起こした騒音で目覚めた夏鈴がお茶を出す。丸いテーブルを、ぼく、かりん、時雨、みいこちゃん、恭介の五人が囲んでいる。普通ならいないはずの人間が一名。
「どうも、お気遣いなく」
さやわかなスマイルを振りまき、恭介はお茶をすする。ほう、と息をついて床に倒れこんだ。
「おちつくわー」
「頼むから落ち着かずにどうして来たのかを言ってくれ」
「おーそうだった」
体を起こして、もう一口お茶をすする。周りの連中全員が注目しているというのに、こいつのこの余裕は何なんだ。本物の馬鹿か、それとも本当に余裕なのか。
「理由は二つ。きっかけは一つだ」
「きっかけから聞こうか」
「散歩していた。これが全ての始まり」
「だろうな。で? 散歩からどうなった?」
「一つ目の理由だ。実は散歩じゃなくてサイクリングと呼ぶべき行為だったわけだが、気づいたら冬麻の家の近くに来てたから――」
「待て、ぼくの家の近くに来ていること自体おかしくないか?」
「そうか? 小学校から同じ学校通ってるんだぜ? 家もそれなりに近いし。おかしくはないと思うけど」
あ、そういえばそうだった。
「悪い、続けて」
女性陣はじっとぼくらのやりとりを聞いている。それがどういう意志によるものなのかはわからないけれど。
「近くに来てて、『冬麻は起きてるかなー』と思い、外から見るだけ見てみようと思ったわけだ」
「ほう? それをする必要性がわからんがな」
「まあね。そこらへんがオレのオレたる所以だぜ。で、オレは見てしまったんだ」
「何を……?」
ぼくの家にはそんな深刻になるようなものはないし、今朝はそんな深刻になるようなことはしていない。これといった秘密もない。あるとしたら……しかし、それは絶対に有り得ない。
「見ちまったんだよ……女の子が二人、二人も冬麻の家に入っていくのが! 一人は霧埼だってわかったんだが、もう一人が全然わからなくて、しかもかわいいじゃないか」
「それが一つ目の理由か?」
「おう」
さっと時雨とみいこちゃんのほうを見てみると、時雨はいつもと変わらない表情。みいこちゃんは赤くなっていた。ぼく個人の意見を言えば、みいこちゃんは『かわいい』というよりも『きれい』とか『美人』に属すると思う。
「まあ、ツッコミどころもあるがひとまずおいといて、二つ目の理由は?」
「ああ、これは至極単純なんだ」
「というと?」
「ああ、オレはとてつもなく暇だった」
自慢げに胸を張る恭介が、殴ってやりたいほどに腹立たしい姿だったということは言うまでもない。
「つまりあれか? 暇だからチャリで走ってたらぼくの家の近くまで来てて、何となくさらに近づいてみたらこの二人がこの家に入っていくのを見つけ、元々暇だったお前はこれ面白そうと思って入ってきたと」
「おう」
「それにしては時間が離れてますね。わたしたちがここに来た時間から」
黙って聞いていたはずのみいこちゃんからの鋭い指摘に、恭介は面食らったようだが、すぐにいつものヘラッ、とした表情に戻った。
「それはね、とりあえず汗を落ち着かせたかったのと、喉が渇いていたからさ」
「お前は汗をかいて、喉が渇くほど必死にチャリをこいでたのか……」
「それもあるし、冬麻の家に二人も女の子が入るのを見たらそうなる」
どういう体の構造をしているのだろうか、こいつは。
「それはさておき、きみ、名前は?」
ずっと聞きたかったのだろう、恭介の目は玩具を前にした子どものように輝いていた。……四歳年下でも気にしないんだな、こいつ。素晴らしい精神だよ。みいこちゃんがどう思うかは謎だけど。
「火神みいこ、です」
警戒心をたっぷり言葉にしみこませていた。しかし、恭介は意に介した様子もなくさわやかな笑顔を振りまいていた。こいつ、ウッゼェ。
「みいこちゃんか。よろしく」
「よろしく」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「………………、おい」
「なんだ? 相棒」
「ぼくはお前の相棒じゃないよ。もう恭介の目的は達されたはずだけど、帰らない?」
恭介は大いに動揺し、ずざざざー、と音が出そうな勢いで後ずさる。
「お、おま、お前って奴ァー! 馬鹿め。冬麻お前、馬鹿め」
「あの、言いにくいのですが、あなたのほうが馬鹿っぽいです」
「おー、言うねえみーちゃん」
「みいこちゃんは正直なんだね。あたしとは大違いだ」
女性人の明るい雰囲気の中に混じりこんでいる辛辣な言葉に、さすがの恭介もダメージ
を受けたようだが、そこは恭介、すぐに立て直した。
「お前にこんなハーレムな状況を楽しませるか。せめてオレにも体験させてくれ。ていうか、お前霧埼と付き合ってるんだから他の女の子とよろしくやってんなよー」
へ?
「なんだ? 間抜けた面してよ……。ばれてないと思ってたのか? すでに霧埼から聞いてるぜ?」
無意識のうちに夏鈴に視線を向ける。夏鈴は苦笑いしていた。
「だってさー、冬麻ってシャイだからあたしにも心開いてくれないもん」
「開いてくれないもん、て」
「な、正直に言っちゃえよ。楽になるぜ?」
「あ、あのっ」
突然みいこちゃんが声を上げる。一同の視線がみいこちゃんに集まる。
「わ、わたしもうそろそろ帰らないといけませんので」
「あ、もうこんな時間か」
時計を確認すると、もう十二時が近づいていた。昼食の時間なのだろう。
「し、失礼します」
「ばいばーい」
暢気な恭介の言葉を背に、みいこちゃんはぼくの部屋を出、その後を夏鈴が見送った。
時雨と恭介は何を話していたのか忘れたのか、それ以上追求してくることは無く、ほどなくして恭介も帰っていった。
時雨も帰り、いつもの兄妹二人の時間になる。
「危なかったね、お兄ちゃん」
「…………」
「あんな唐突に選択を迫られるなんて、思ってもなかったんじゃない?」
笑顔。しかし、言葉だけは真剣。
恐怖も、
悲しみも、
怒りも、
ほとんど欠如してしまっているから。
あるのは、楽しさ。
感情がないわけじゃなく、そういう感覚はあるけど表現ができない、らしい。
「……そうだな」
こういう時の夏鈴は、全てを知っているように話す。知っていなくても、わかってしまうのかもしれない。
「いつでも答えられるように、違うね、いつ聞かれても戸惑わないように、早く選んだほうがいいよ」
「そうだな」
「あははー、お兄ちゃんって問題が山積みだね」
笑い事じゃないのだけど。
「そういえばさ、お前、いつも『お兄ちゃん、お兄ちゃん』言ってるのに、さっき平気そうだったな」
「えー? だって、アレが紛い物だってことくらいわかるし。それに」
「それに?」
「お兄ちゃんは、わたしのものだよ?」
今までここまでハッキリ言われたことがなかった。
いつもと変わらない夏鈴の笑顔に、しかし、ぼくはさっきの発言を後悔した。
全ては霧が悪い。
全ての発端は、霧の日のあの事件。
ぼくは霧埼時雨が、どうしてあんな状態になってしまったのかは知らないけれど、何かしらの原因があるのだと思う。霧埼時雨に聞けば早いだろうけど、彼女自身、覚えてはいないだろう。すくなくとも、間違いを自覚するまでは思い至らないに違いない。
ぼくは霧を嫌悪する。
夏鈴は霧に無関心だ。
もし、ぼくの願いが叶うなら、あの日に戻してください。
ぼくは家で夏鈴と遊びます。
◆◇◆
「ただいまー」
「おかえりー。また冬麻くんの家行ってたの?」
「うん」
「……そう。じゃあ、ご飯できたら呼ぶからね」
「はーい」
幸い今日は家庭教師がない日。
昼からはどうしよう。また冬麻の家に行こうかな? それとも買い物に行こうかな?
それにしても、夏鈴ちゃん邪魔だなー。あのブラコンどうにかしないと、冬麻が本当にあたしだけのものにならないじゃん。あ、でも、殺したりしちゃ駄目だよ、あたし。殺すのは犯罪だし、殺しちゃったら冬麻悲しむもん。それに、あたしは冬麻の彼女。あんなブラコンよりもアドバンテージあるから安心。安心なのかな? だって、一日中一緒にいるんでしょ? 大丈夫かな。大丈夫かな。大丈夫かな、大丈夫かな、大丈夫かな大丈夫かなだいじょうぶかなだいじょうぶかなだいじょうぶかなダイジョウブカナダイジョウブだよ!
「あー、まあ、今日は佐々木が来ないからいいか。あたしには彼氏がいるっつーの」
顔を思い出すだけでも嫌になってくる。冬麻の写真見よー。そしたらしあわせだー。
アルバムを開いて目的の写真を探す。去年に撮影した写真で、あたしが冬麻の肩に抱きかかっている写真だ。照れたような、困ったような冬麻の顔が愛おしい。
よし決めた、昼ごはん食べたら冬麻の家に行こう。あたしはあたしらしく、恋っぽいこと、純愛みたいなことをやってしまうんだ。暴力反対。
さあ、家を出よう。
あのブラコンがいないことを祈りながら。