彩り
「実和、大丈夫?」
佳菜の声に応えようとして顔を上げる。そして、私は意識を失っていたのだと気がついた。眠気を感じる間もなく、気づけば時間が経っていたのだ。
「よかったらノート見せよっか?」
佳菜が仕方ないな、というような表情で講義のノートを見せてくれる。
「ごめん、ありがとう…」
「最近眠そうじゃん。ちゃんと睡眠取れてる?」
佳菜が机に両手と顎を乗せるようにしゃがみながら言う。心配と呆れと慈愛を7:2:1で内包したような表情だ。
「推しのインスタライブを見てたら、寝れなくって…」
「そっか〜、すっかり沼にハマっちゃってんじゃん。私がいくら布教しても靡かなかった実和が、オタクになるなんて想像つかなかったな。まあ、私は互いに推し語りできる仲間が増えて嬉しいんだけど!」
そう、私はほんの2週間前にとあるアイドルに沼ってしまったのだ。あれは、本当に些細な出来事であった。日常の一コマであった。
大学が終わり、夕食を済ませた私はいつものように惰性でインスタのリールを眺めていた。現実から逃げるように、ただ親指を動かし続けていた。
その時、ある一つの動画が目に止まった。何かの授賞式だろうか。上質なスーツを見事に着こなした男性がトロフィーを受け取っていた。端正な顔立ちの彼の目元に、照明を受けて一瞬輝いたものがあった。
その時の全身を巡るような衝撃。気づけば私も涙を浮かべていた。
それからというもの、私は風呂に入ることも忘れてあらゆるSNSを駆使して彼について調べ始めた。彼について知るほどに益々彼の魅力に引き込まれた。
気づいた頃には彼を推すための専用のアカウントまで作り、彼のオタクたちのコミュニティに入り浸っていたのだ。
それから二週間後。私は毎日、彼からの供給を享受していた。
私は、理解しているはずだった。好きなものができるというのがどういうことか。長年オタクをしている佳菜を隣で見てきたのだから。わかっていたはずなのに沼ってしまった。これは不可抗力だったのかもしれない。
残りの講義も睡魔と格闘しながらなんとか乗り切った私は、帰宅後、倒れるように布団に寝転がってインスタを開いた。
そこにはとてもビジュの良い推しの姿が、そこには不安になるほど燃えそうな推しの投稿が、推しへの愛を伝えるオタクのコメントが、推しの印象を悪くするような言葉が、あった。
感情がジェットコースターのように変化する。自分の軸が、推しという他人に握られていることの危うさ。自分の生活が変わってしまうほどの影響力。
推しを褒めるようなコメントを見かけると、自分のことのように嬉しくなる。勝手に、そうやろ!わかるわ〜、と全力で共感する。
しかし、万人に好まれるものは存在しないわけで、推しの印象を悪くするような言葉を目にすることもある。その時には自分のことではないのに、なぜが鼓動が早くなり、体が強張って不安が頭を駆け巡る。
他人を変えようとする言葉もある。
推しのコミュニティの中にも周りの人を悪くいって推しを肯定する人もいる。
自分の感情が七変化する初めての感覚に私は戸惑った。この感情への対処方法を私は知らなかった。それは私の現実の生活に多大な影響を及ぼした。
私は初めてインターネットに存在する無限の愛、そしてあまりに生々しく残虐な悪意に触れた。
それから数週間後。相変わらず私は推し活を続けている。変わったことといえばある程度感情の整理ができるようになったことだろうか。
推し活の先輩である佳菜の言葉は私に沢山の気づきをもたらした。私はこの1ヶ月で、この世には他の人を傷つけてはいけないという基本的な道徳が存在していない世界があることを知った。そしてこの1ヶ月で世界はこれほどまでに鮮やかに輝くのだということを体感した。私は、少しだけ大人になれた気がした。
私の家で佳菜と2人で勉強しているとスマホの通知が鳴る。ロック画面を確認すると、推しの投稿の通知だった。喜びと期待を胸に私はスマホの通知をタップする。それは新曲公開のお知らせだった。
「良すぎる!!!!!こんなのいいんですか?????」
私は天井を突き抜ける口角を必死に抑える。そんな私を見て佳菜は、楽しそうで何より、と笑った。
推し、私の生活に彩りをありがとう。世界、推しに出会わせてくれてありがとう。私は今日も幸せです。
読んでくださってありがとうございました