表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

追憶の海

作者: かな

 いつかはなくなるものも、今そこにある瞬間は永遠のようにみえて、この先を疑うことなど忘れてしまいがちだ。

 いずれ過ぎゆくときというのは、どんなものにも息をひそめていて、私たちに止める手段はない。

 けれど、現実はまるで失せることなどないかのように、いつもと同じ景色を繰り広げる。私の日常もなんら変わりはない。

 さっきまで昼寝をしていたが、けだるく瞼を開いた先には、一貫して続く景色がある。 四畳半の部屋の敷居に、黄ばんで濁った白い壁。電球がぽつんと組み込まれた天井は、今や僅かに埃をかぶっている。

 机の上に積み立てられた本からは、少々煙った香りが立ち込め、風になびくカーテンは揺れる。

 ここは空虚だ。寂しさが拭えない。寝起きのせいか、頭の中がぼんやりと霧を被ったまま晴れず、そのまま目前の壁を見つめる。

  晴々としない体を切り替えるため、すっと息を吸う。深呼吸をすると、胸の裏がじんわりと空気を含むのがわかる。

 ついでにスマホを覗くと、時はだいぶ進んでいた。煌々とした電子の文字がどこか脳にチクチクと刺さる。もう夕暮れどきか。

 黯然としたなか足元が鉛のように、ずっしりと重たかった。鬱々さを感じ、いてもたってもいられない私は、散歩でもしようと思い直す。鈍く立ち上がり、いそいそと支度を始める。

 今は、何の目的もなく、どこかへ行きたい。

 どうせ、休日ならば、何をしても許される気がした。


 それから家を出ると、一寸も歩みを止めず、普段は乗り慣れない沿線に足を踏み入れた。気づけば終点に近くなっている。

 それまで、ずっと電車内にいたため、私は暇を感じつつある。 周りを見渡すと、隣の人が下に掲げているリュックの紐を私が踏んでいたに気づく。すぐに挟んでいた足を退けたが、気にしなくて済むだろう。

 些細なことばかりに意識が向かい、気が散っている。駅名をアナウンスする低い声は、少し気分を落ち着かせた。

  ふと、窓越しの景色に目をやると、斜光が縞模様となり連なっている。早々と過ぎていく赤い日差しは、ゆらゆらと電柱の輪郭を拾い戯れた。

 この箱庭にいるような感覚に少し安堵し、ため息が弱々しく漏れる。 私たちの世界は時に、いや、日の切り替わる狭間にこそ、朝も夜もが溶け込む綺麗な姿を見せてくれる。

 今は夏が人々を支配する月日の真只中だ。その柔らかい熱と温度は私の寂しさをどこか和らげるようだ。

 けれど、やはり体の奥にじんじんと潜むような、どこか拭えない物憂げな気分は、私をまたゆっくりと陰に引き込む。なぜだろうか。近頃は疲れが拭 えないのか、すぐに気持ちも体も重く沈んでしまう。


 そんな憂鬱さを忘れたくて、今日は寄り道しようと決めたのだ。ぼんやりと動きが静止するうち、家に帰ることも考えたくはない。

 すると、数分後には次の駅に着く。そろそろ降りよう。遠慮気味に体をすぼめながら、電車の扉付近の人達を肩で押し出す。

 車体が急停止する重力には逆らえず、前方によろけて体制が崩れたが、なんとか平気だ。 駅のホームは仕事やお出かけから帰るだろう人々で溢れかえっていた。

 途中で誰かのカバンにぶつかったのか鈍い音がしたものの、平然と通り越していく。大きい歩幅のまま、たくさんの人を避け、やや前のめりに先を行くと改札を出た。


 もう夜と隣り合わせの時間帯のためか、ネオンが反射し合う、雑踏の行き交う街の姿がある。都会の人波に誘われ、あるがままに身を委ねていたら、ここまで辿り着いた。

 遥か遠い土地にまで至るが、ここがどこなのか、名前も肌身の感覚も全く知らない。 記憶を漁っても、やはり過去のどこにも懐かしさは見当たらなかった。

 重い足取りのまま、ひとまず路地裏をさまよう。

 細長い道のりのなか、沢山の店が肩を並べる歓楽街を抜け、様々な人とすれ違う。香水の甘さを漂わせた女性、スーツの皺一つないサラリーマン、犬を連れながら背筋をかがめたお爺さん、それぞれが自分達の生活を送っている。

 夏の熱気は人々をやんわりと包みながら、まるで少しずつ息を締め上げるようだ。暑くて意識が遠のきそうになるが、夜風がその不快感を拭う。

 のどにかすかな渇きを覚えながらも、どこを目指すでもなくうろつく。微かな汗の水滴が肌を伝った。

 すぐそばを照らす街頭は遥か遠くまで透け、足先に影を落としている。建物の上に立つ暗い空を仰ぎ見ると、一番星が瞳に映る。


 その瞬間だったーー


 すれ違いざま、誰かが吸った煙草の重い匂いが鼻をつく。くさい。

 でも、この野暮ったい感覚を私は知っていて、嫌うにはもったいない気がしてしまう。急に淡々とした切なさに襲われ、はっと息をのむように、その懐かしさは蘇る。

 栓をなくした水のように、突如として記憶が溢れかえっ た。そうだ、昔付き合っていた人も、よく煙草を嗜んでいたのだ。

 いつも隣で、私はその煙の行く先を見つめていた。漂う揺らめきを視線で追いながら、ただ当てもなく流れる姿は同じだと感じていた。匂いは嫌でも、あの空間に自分が混じることは嫌いではなかった。

 その心地よい景色が浮かぶ。本来なら、もう過去に愛した人のことは忘れたいが、それは私の情が許してくれない。結果として別れに行き着き、今も こうして一人でいるのに。

 ふとした瞬間、彼のことを思い出す。

 それは、眠りに落ちるまえもそうだ。ベッドに横たわったまま、シーツのひんやりとした滑らかさを撫でる。ここに、あの人もいればと思う。

 そう願いながら、自分の体の曲線をなぞり、触れられたあとが消えぬよう祈る。

 煙草の残り香、眠る前の温もりの時、そうした孤独のなか僅かに残る肌の感触は浮かぶ。

 けれど、それは波のように、寄せては引いて消えていく。一時の煌めいた過去に想いを募らせても、結局は遠ざかるのだ。


 でも、忘れるまではまだここにいて。跡形もなく上書きされるまでは。

 あと少しだけでいい、あなたにもう一度会いたい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ