追憶の海
いつかはなくなるものも、今そこにある瞬間は永遠のようにみえて、この先を疑うことなど忘れてしまいがちだ。
いずれ過ぎゆくときというのは、どんなものにも息をひそめていて、私たちに止める手段はない。
けれど、現実はまるで失せることなどないかのように、いつもと同じ景色を繰り広げる。私の日常もなんら変わりはない。
さっきまで昼寝をしていたが、けだるく瞼を開いた先には、一貫して続く景色がある。 四畳半の部屋の敷居に、黄ばんで濁った白い壁。電球がぽつんと組み込まれた天井は、今や僅かに埃をかぶっている。
机の上に積み立てられた本からは、少々煙った香りが立ち込め、風になびくカーテンは揺れる。
ここは空虚だ。寂しさが拭えない。寝起きのせいか、頭の中がぼんやりと霧を被ったまま晴れず、そのまま目前の壁を見つめる。
晴々としない体を切り替えるため、すっと息を吸う。深呼吸をすると、胸の裏がじんわりと空気を含むのがわかる。
ついでにスマホを覗くと、時はだいぶ進んでいた。煌々とした電子の文字がどこか脳にチクチクと刺さる。もう夕暮れどきか。
黯然としたなか足元が鉛のように、ずっしりと重たかった。鬱々さを感じ、いてもたってもいられない私は、散歩でもしようと思い直す。鈍く立ち上がり、いそいそと支度を始める。
今は、何の目的もなく、どこかへ行きたい。
どうせ、休日ならば、何をしても許される気がした。
それから家を出ると、一寸も歩みを止めず、普段は乗り慣れない沿線に足を踏み入れた。気づけば終点に近くなっている。
それまで、ずっと電車内にいたため、私は暇を感じつつある。 周りを見渡すと、隣の人が下に掲げているリュックの紐を私が踏んでいたに気づく。すぐに挟んでいた足を退けたが、気にしなくて済むだろう。
些細なことばかりに意識が向かい、気が散っている。駅名をアナウンスする低い声は、少し気分を落ち着かせた。
ふと、窓越しの景色に目をやると、斜光が縞模様となり連なっている。早々と過ぎていく赤い日差しは、ゆらゆらと電柱の輪郭を拾い戯れた。
この箱庭にいるような感覚に少し安堵し、ため息が弱々しく漏れる。 私たちの世界は時に、いや、日の切り替わる狭間にこそ、朝も夜もが溶け込む綺麗な姿を見せてくれる。
今は夏が人々を支配する月日の真只中だ。その柔らかい熱と温度は私の寂しさをどこか和らげるようだ。
けれど、やはり体の奥にじんじんと潜むような、どこか拭えない物憂げな気分は、私をまたゆっくりと陰に引き込む。なぜだろうか。近頃は疲れが拭 えないのか、すぐに気持ちも体も重く沈んでしまう。
そんな憂鬱さを忘れたくて、今日は寄り道しようと決めたのだ。ぼんやりと動きが静止するうち、家に帰ることも考えたくはない。
すると、数分後には次の駅に着く。そろそろ降りよう。遠慮気味に体をすぼめながら、電車の扉付近の人達を肩で押し出す。
車体が急停止する重力には逆らえず、前方によろけて体制が崩れたが、なんとか平気だ。 駅のホームは仕事やお出かけから帰るだろう人々で溢れかえっていた。
途中で誰かのカバンにぶつかったのか鈍い音がしたものの、平然と通り越していく。大きい歩幅のまま、たくさんの人を避け、やや前のめりに先を行くと改札を出た。
もう夜と隣り合わせの時間帯のためか、ネオンが反射し合う、雑踏の行き交う街の姿がある。都会の人波に誘われ、あるがままに身を委ねていたら、ここまで辿り着いた。
遥か遠い土地にまで至るが、ここがどこなのか、名前も肌身の感覚も全く知らない。 記憶を漁っても、やはり過去のどこにも懐かしさは見当たらなかった。
重い足取りのまま、ひとまず路地裏をさまよう。
細長い道のりのなか、沢山の店が肩を並べる歓楽街を抜け、様々な人とすれ違う。香水の甘さを漂わせた女性、スーツの皺一つないサラリーマン、犬を連れながら背筋をかがめたお爺さん、それぞれが自分達の生活を送っている。
夏の熱気は人々をやんわりと包みながら、まるで少しずつ息を締め上げるようだ。暑くて意識が遠のきそうになるが、夜風がその不快感を拭う。
のどにかすかな渇きを覚えながらも、どこを目指すでもなくうろつく。微かな汗の水滴が肌を伝った。
すぐそばを照らす街頭は遥か遠くまで透け、足先に影を落としている。建物の上に立つ暗い空を仰ぎ見ると、一番星が瞳に映る。
その瞬間だったーー
すれ違いざま、誰かが吸った煙草の重い匂いが鼻をつく。くさい。
でも、この野暮ったい感覚を私は知っていて、嫌うにはもったいない気がしてしまう。急に淡々とした切なさに襲われ、はっと息をのむように、その懐かしさは蘇る。
栓をなくした水のように、突如として記憶が溢れかえっ た。そうだ、昔付き合っていた人も、よく煙草を嗜んでいたのだ。
いつも隣で、私はその煙の行く先を見つめていた。漂う揺らめきを視線で追いながら、ただ当てもなく流れる姿は同じだと感じていた。匂いは嫌でも、あの空間に自分が混じることは嫌いではなかった。
その心地よい景色が浮かぶ。本来なら、もう過去に愛した人のことは忘れたいが、それは私の情が許してくれない。結果として別れに行き着き、今も こうして一人でいるのに。
ふとした瞬間、彼のことを思い出す。
それは、眠りに落ちるまえもそうだ。ベッドに横たわったまま、シーツのひんやりとした滑らかさを撫でる。ここに、あの人もいればと思う。
そう願いながら、自分の体の曲線をなぞり、触れられたあとが消えぬよう祈る。
煙草の残り香、眠る前の温もりの時、そうした孤独のなか僅かに残る肌の感触は浮かぶ。
けれど、それは波のように、寄せては引いて消えていく。一時の煌めいた過去に想いを募らせても、結局は遠ざかるのだ。
でも、忘れるまではまだここにいて。跡形もなく上書きされるまでは。
あと少しだけでいい、あなたにもう一度会いたい。