別れ宿
ある雪の夜、白く染め上げられた大地に一本の灰色の道路が線を引いていて、その上を一台の車が走っていた。周囲には民家もなく、窓の向こうには、ただ闇の中に佇む木々が雪を被り、無言で彼らを見送っている。その雪景色を助手席で眺める女のため息がガラスを僅かに曇らせた。
「……ねえ、なんでいつもの車じゃないの?」
「ああ、ちょっと修理に出していてさ。前にも言ったと思うけど」
「だから、こんな地味な車でなくてもいいじゃない」
「まあ、いいじゃないか。どうせ暗いしさ。ははははっ」
「またそうやって笑ってごまかして……。はぁ……ねえ、何か面白い話をしてよ」
「えー、そうだなぁ……あ、この前ドラマの撮影中にさぁ」
「あー、やっぱりいいわ。はぁ……」
「そう? ふふふっ」
先ほどから続く女の横柄な態度に、男は笑顔を崩すことはなかった。そしてその顔は目的の旅館にたどり着くと、一層輝きを増した。
「さあ、着いたよ! うー、寒い、寒い。早く中に入ろう」
「……あたしと一緒に来たかった場所ってここ?」
「そうそう、さあさあ」
「はぁ……まあ、いいけど」
旅館というよりは昔話に出てくるような雰囲気の宿屋であった。腰の曲がった女将に部屋に案内される間も、女はそのようなことをぼやき、貶した。それを聞きながら、彼は「間違いではない」と密かに笑っていた。
この宿屋にはある噂があったのだ。そしてそれが彼が女の態度の悪さを一切咎めることなく、ここに来た理由だった。
ここは縁切り宿なのだ。
彼はじきに結婚するつもりであった。しかし、その相手はこの女ではない。結婚予定の相手とは、かつてドラマで共演したことがある女優だ。容姿に性格、ろくに仕事がないタレントのこの女とは比ぶべくもない。
だが、問題はそこにあった。彼は。この女が別れ話にすんなり応じる性格ではないと睨んでいた。きっと、この女は実際にないことまで含めてベラベラと週刊誌に垂れ込むだろう。
手切れ金を渡すことも考えたが、金の切れ目が縁の切れ目という言葉がある。その金によって、ゆすり屋というあらたな縁で結ばれ、金が途切れれば、縁もまたそのように。それで週刊誌に売られ……といったように、どうしたものかと悩んでいるときに俳優仲間から妙な話を聞いた。
その男もなかなかの遊び人であり、女に困らない分、苦労も背負い込んでいた。だが、厄介な女といともたやすく縁を切る方法があるという。それが
――この宿というわけか。
彼は部屋に入ると室内を見渡した。そう広くはない和室だ。ガラス窓に障子。火事にならないよう扱いを注意してくれと女将が念を押していた灯油のストーブ。少し間を空けて並べられた布団。
「エアコンもない……。え、まさかトイレは廊下? 共有なの? ほんと最悪……」
女が彼を睨み、そう言った。彼は、「ははは、そうだね」と言って頭を掻き、困ったような顔を作った。だが、気持ちの昂ぶりが声に表れていた。そのことに自覚があった彼は、あまりはしゃいでいると怪しまれると思い、落ち着こうと息を吐いた。
だが、ふと彼は不安に思った。確かにこんな最悪な宿に泊まろうなんて提案する男は女にフラれるかもしれない。あくまで、普通ならばだが。そして、それが噂の真相だとすれば、ここまで来た甲斐がない。この女は普通じゃないのだ。そして仮に望み通り、この女と別れられたとしても、週刊誌に売り込まれたら意味がない。別れたその後にまったく関わることがないという話だから来たというのに。
女と彼は各々で風呂に入り、寝支度を済ませると、ほとんど会話のないまま布団に入った。電気を消すと外の雪はもう止み、空は晴れたのか、淡い月明りが障子をぼんやりと照らした。彼は顔を動かし、ストーブのオレンジ色の光を見つめ、次に女のほうを見る。真っ黒な後頭部が見えた。背中を向けているらしい。セックスの気配は一切なし。それが女の抗議行動のようだ。
彼はため息をつき、天井を見上げた。寒いが、我慢できないほどではない。意外といい布団を使っているのか、暖かい。どうにか眠れそうだ。あとはきちんと女と別れることができるかどうかだが……。
――うふふふ
彼はハッと目を見開いた。
今の声は……。少し体を起こし、辺りを見回すが影もない。子供、女の子の声のようだったが……。
――うふふふ
――あははは
気のせいだと思い、瞼を閉じたときにまた声が聞こえた。
彼は女の方に目を向けた。もしやと思ったが、声真似など器用なことができるタイプじゃない。それにそんなことをする意味もない。では今の声は何なのだろうか……。
……いや、決まっているじゃないか。
彼は安堵した。そうだ。きっとあれが縁を切ってくれる妖精や妖怪の類だ。そう考えた。
――別れちゃうね。
――ねー。
声は二つあった。双子なのかもしれない。可愛らしく癒されるような声だ。
尤も、彼がそう感じたのはこの厄介な女と縁を切ってくれる存在だと思っているからであろう。その声に意識を寄せると彼の瞼は次第に重くなっていった。
――かわいそうにねぇ。
――ねー。
「……ねぇ」
――もう、くっつかないんだよー。
――よー。
「私と……別れたいんでしょ?」
――いいのかなー。
――かなー。
「だからこんなボロ屋に……それに、なんとなくわかるのよ……」
――いいみたいだねー。
――ねー。
「私、本気であなたのことが好きだったの……人生で一番……でも、あなたがそうしたいなら、もういいわ……さよなら。車は乗っていくね……」
夢うつつ。声たちは彼の心にまでは届いていなかったが、暗示のように体に染み込み、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
布が擦れる音。女が布団から出て、それから部屋を出たこにとも気づかず、彼は眠りに落ちた。
――じゃあ、別れちゃうね。
――ねー。
時間が経ち、彼は目を覚ました。そして、横を向いて女の姿がないことを確認すると、長く息を吐いた。
これで一安心だ……。しかし、噂は本当だった。ああ、見事に別れさせてくれた。妖精に感謝だ。
誰か同じような悩みで困っている人がいたら勧めてもいいかもしれない。自分はもう利用することがないのは残念だ。もっと早く知っておけば派手に女遊びしても、いや、そうとも限らないか。愛人を作って、なんならこの宿で不倫すればそのまま一夜だけの関係として別れられるのではないか。これはすごい発見だ。あとは、そう、もしかしたら男にも適用されるのでは。借金を抱えてもこの宿に一緒に泊まれば、いやさすがに男二人で泊まるのは気味が悪いと警戒されるか。田舎だし、殺されるとか思ってここに来るまでの道中でひと悶着あるかもしれない。
殺される。それこそ、あの女の頭に浮かんだことであった。そして、それが理由で逃げ出すようにここを立ち去ったのだと彼は考えなかった。いや、考えられなかった。
今、彼の脳裏はふと目にした自分の足のことでいっぱいになっていた。
……布団の端から出ている。だが、なぜだ。おかしい。妙だ。自分の頭は枕についている。身長からして、あの位置に足が来ることはないのだ。なぜ、なぜ……。
彼は肘をつき、体を起こそうとした。掛け布団がずり落ち、胸より上が布団の外に出ても、足は微動だにしなかった。彼はさらにずりずりと体を動かす。次第にその目は見開かれ、呼吸は荒くなっていった。
――別れた。
雪のように白い布団がじんわりと、赤く染まっていく。