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幸福と嘘

作者: 無川 凡二

 それは、あまりにも長い夢だった様な気がする。

 目を覚ましたばかりの僕は、不自由さに支えられて体を起こした。鈍い呼吸と霧を払うため、無造作に体を動かして部屋を出た。悪い予感がすぐに現実にならないところが、この世界の良いところだ。僕は食パンをレンジに投げると、覚めきれない頭で夢と現に心を馳せた。

 口に含んだそれは無味のままに喉を通り過ぎる。生きるための最低限とは、人が人であるための最低限とは違うところにあるらしい。そんなことを考えながら、残りを口の中に詰め込み、僕は玄関の扉を開けた。

 鍵を閉める時はいつも、何か形のないものを閉じ込めている感覚がある。見えない仕掛けが噛み合う手応えの中に噛み合わない違和感が伝わり、それを機に自我というものを意識するのだ。毎日の始まりが、ここに錆び付いて残っている。この家には自分以外の住人はいない。檻の中身から逃げる様に、僕は家を後にする。

 その日の空は曇っていた。遠く澄み渡る青空は、涙の海の様に綺麗で好きだった。自分でもその意味をよくわからないまま目を奪われ、角膜に青が伸ばされて頭の中に広がってゆく。それが僕がイメージする空だった。雲に覆われ、僕らを閉じ込める空には、何も思うことはない。行き場をなくした視線は機械的に信号を見て、その刺激を足へと変換する。人が歩くことに意思はいらない。だが、厭世的な思考も既に足取りを止めることはなく、僕の中で何かを暗示するように渦を巻いて消えゆくだけだった。

 人は生まれたとき、皆が神だった。誰もが無の中に意味を生み出し、自分の世界を持っていた。いつからだろうか、そのカンバスに大きさを作ってしまったのは。その一つは確か、人が死ぬということを知ったときだった。今では視界の遠く見えない場所に、絶望的な壁が待っているのが見える。その光景が、志など無意味だと囁いている。最近の僕らは偏見や傾向を投げ合って、自分たちを縛りつけるので忙しい。いちいち自分の影を踏むことに神経を使っていてはどこにも辿り着けないだろうに、いつの間にか、体の方が影になってしまったのだ。アキレスは亀に追いつけないと、無意識に歩みを止めているのだ。

 誰もが特別だった世界は混ざり合い、平均があるという錯覚を生み出した。偏りの中でしか孤者になれないというのなら、『僕』は既に不要な産物だった。

 通学路には人の群れが広がり、一つの流れを描いている。僕はささやかな抵抗で間を縫っていたが、次第に憎しみにも似た密度に潰されて、歩みは均一化された。ふと流れの中に穴が見えた。ぽっかりと空いた隙間は、まるで生き物の様にだんだんと近づいてきて、とうとう僕の前を大きく開いた。それは吐瀉物だった。反射的に顔を顰めている自分に気付き、笑う。平和なのだと、気付かされてしまった。僕は踏まない様にそれを避けることで、かの穴の動きの一欠片に溶けこんだ。

 そのときだった。右の手の甲に鈍い痛みを感じたのは。

 腕を見るとそこには血が滴り、指先まで流れる赤い川を作っていた。既にそれは干上がっており、数分前にできた傷なのだろうと想像できた。気付かなかった。人混みに揉まれた時についたのだろう。だが、自分の怪我に気付けないということは、他者を傷付けても気付かないということかもしれなかった。気付いた時から、傷口はじゅくじゅくと痛みを訴え始め、僕は見つけた自分自身へ軽蔑を抱いた。誰の作為もなく自然に生まれたその傷に、僕は戒めを込めて『アレポ』と名前を付けた。血は、もう既に固まっている。指先から剥がしてゆけば、誰にも気付かれないだろう。加害者も被害者も、誰も。そう、最初からいなかったのだ。

 学校ではいつものクラスメートがいつもの様に話している。最初は挨拶から、そして世間話へと移行し、それぞれの住む世界を確認しあっていた。僕は、なぜか後ろめたい気持ちを盾に、腕を背に庇う。

「どうした。元気がなさそうじゃないか」前の席から僕に向けられた声が届いた。

 僕は否定とも肯定とも取れないジェスチャーでそれに応える。つまりはぐらかした。僕は彼のことを覚えていない。彼もきっと、僕のことを覚えていないだろう。僕と彼は偶然同じクラスになって席が隣接しただけの関係で、その必然の上にあぐらをかいて、言葉を交わすフリをし続けているのだ。

 表層的には、このクラスの他の生徒と変わりはない。或いは、同じかもしれなかった。僕と彼は共通する意思を持たず、共有する自己を持たずに、この言葉たちの庭に立っている。

「いつも通りさ」何も変わらず、変われない。傷口を隠す様に、言葉を重ねていた。

「そう。お互い大変だね」彼はそれでも喉から意味がある様に思える音を鳴らし続ける。

 僕は否定することを否定した仕草で、音の信号を変換し声に返した。未熟な人工知能同士が会話する様な、何も生まれない単射の応酬が繰り返される。この儀式の延長に社会ができたから、僕らの今が存在するのだ。

 僕の意識は唯一の異物である傷に向いていた。意識しないことを意識上で再現することは自己言及のパラドクスの様に機能し、まるで蜘蛛の糸の様に暴れた分だけ囚われることになる。会話未満の言葉の淵に足りない刺激を求めた脳は、覆い隠した手の裏で、その傷口を掻き毟る。痛みが自分を責めている様だった。

 その日も、変わらずに日が落ちた。爪の間に赤く染みた痕が、僕が今日を生きていた証だった。


<>


 夢と現実の違いは、予感の的中率にある。僕は見覚えと鮮明さで組み上げられた道を歩きながら思い出した。

 厳密には、それは夢の世界はそのものが予感と同じもので作られているという事だった。無意識に思った出来事が現実よりも円滑に反映されて、予感が成就する。だからこそ、夢の中は生きるより苦しい出来事で溢れかえっている。

 遠くの人混みに先回りした不快感を抱いて、僕の予感は世界を編み上げる。

「長期的に見れば人間の死亡率は百パーセントになるのであります! みなさん。私はね、それを変えてゆきたい。私が当選した暁には、死亡率は九十九パーセントに変わります! 変わるのであります! あの壁をね、壊すのです。特別になれます。不死身になるのです! 死んだ神を復活させましょう! 誰もが太陽に見守られた世界を取り戻すのです!」

 胡散臭い理想を掲げる選挙車に白い目を向けて、僕はその道を横切った。何よりも許せないのは、それを真面目に聞き入っている人々がいることだった。人が邪魔だった。横切る為にも、生きる為にも。僕はかき分ける様にその歓喜の渦を遠ざけて進んだ。自らの神を殺した人々は、空っぽの魂を悪魔に売ることもいとわない。正しくない喜びと決めつけて嫌悪する自分の神は、果たしてまだ生きているのだろうか。

 通学路も終わりに近づいている。もうすぐ学校に着く。それなのに、胸騒ぎは治らない。順調に物事が進んでいるとはつまり、欠陥を見落としているということなのだ。そして、この世界でそれは紛れもない真理なのだ。この神の死骸の中では。

 僕はそれをわかっていながら。空を、見てしまった。

 ビルの屋上で太陽を背に並んでいる集団が目に入った。電柱に止まる烏の群れとは勝手が違う。僕はすぐに飛び降り自殺だと理解し、あたりは瞬く間にヤジで満たされていった。人の死に集まるなどとんでもない奴らだ。だが、彼らは死神にも満たない。ただ、鈍化した幸福な世界に刺激を求めているだけなのだ。

「だめだ! それを見てはいけない!」いつのまにか僕は叫んでいた。その先を見たら傷ついてしまう。腐ってしまう。それは人が目にしていいものではない。

 僕の声は同情に見せかけた歓声の中に消え、誰にも届くことはない。彼らは光景に既に魅入られ、耳を貸すことはない。僕は、まだここにたどり着いていないものであれば聞き入れてくれるだろうと踏んで、そのビルに背を向けた。本当は僕自身がそれを直視したくなかっただけだろうに。そう思うと、背後で叫喚の質が変わり、重く湿った音が聞こえた。音は雄弁に脳裏に肉の花を咲かせていた。

 これ以上誰にもあの光景を見せてはいけないと、人の流れを止めようとする。が、努力も虚しく彼らはすり抜けていった。当然だ。僕はずっと、人と会話をしてこなかったから。形を整えただけの伽藍堂に、人は意味を見出すことはない。狼少年の様な気持ちで、僕は絞る様に叫び続けた。

 突然、背後の音が止んだ。嫌な予感がして、僕はつい振り向いてしまった。自殺者たちを吐き出したビルの上には、次の自殺者たちが並び直していたのだ。集団自殺だった。まるで装填され続ける様に、次々と人々が屋上に並ぶのだ。それに合わせて、あたりの歓声も大きくなる。処刑が見世物であった理由を、僕は理解した。耳をふさぎたかった。僕はひどく一色に塗り潰された思想を感じ、怯える様に逃げだした。途中で何人かの手を無理やり引いて、ビルの見えない道へと迂回させた。別の道から学校へ行けばいいと思った。あれは僕の手に負えるものではなかったのだ。

 しかし、学校のすぐ前まで着いたとき僕は間違いに気付くのだ。そのビルは学校の隣にあった。そしてその屋上からまさに一人の人間が落ちてくる瞬間と、僕らは鉢合わせたのだった。消防団が置いたであろうカラーコーンを超えて丁度目の前に、名も知らぬ一つの未来が叩きつけられる。地面にぶつかったそれは赤黒い塊になり、僕は自分が問題を先延ばしにしていただけだったことを理解する影で、思っていたよりも血が跳ねなかったことや、不自然なほどに人型を失っていたことに無感動な驚きを抱いていた。

 気付けば引っ張ってきたはずの数人も消え失せて、頭上には次の人影が並んでいる。僕はもうこれが夢だと気付いており、気付いたうえで嫌な気分になりながら学校へと入っていった。

 どうしてここまでこの世界が汚染されてしまったのか、あの、瘡蓋の様な赤黒い塊が目に焼きついた僕は、無念のうちに暗い廊下に吸い込まれていった。


<>


 目を覚ましたその後も、あの光景は脳裏に染み付いていた。振り返るとあの赤黒い塊がある様な気がして、ぎこちなくあたりを見回していたと思う。そして、それとよく似た瘡蓋を右手に見つけ、僕は暗示の意味を理解した。啓示とは、檻に似ている。予言は自己成就機能を備えているのだ。

 あのビルは現実には存在しない。だからこそ、あの光景も実現することはないだろう。

 それなのに、何故だろうか。今日は陽が射して雲ひとつない筈なのに、空を見ることができない。

2021年 10月21日

夢日記

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