巧みで愚か 2
暫く前までは紫だった紫陽花が今は赤い。
千香良はここ最近、出掛けに感じる違和感の正体をやっと見つけた。
朝、気になって『プラスター工房村岡』に付く頃には忘れる。
その繰り返しで今日まで。
千香良は新たな引っかかりを感じた。
けれどもソファに腰を落とすとドッと疲れが襲ってきてどうでもよくなる。
『長良グループ』の男は回顧らしい。
『遅かれ早かれ多方面の現場から出入り禁止の通達が出されると、踏んだんだろうだろう』
戻ってきた龍太が話をしてくれた。
本人はふざけただけだと言い張ったが、亜紀を敵に回しては『長良グループ』には居られないらしい。
なんたってマドンナなのだ。
それよりも千香良は平然としている自分が恐ろしい。
龍太の心配そうな顔に心が痛む。
性的被害に限らず、誰しも不運なアクシデントに遭遇する可能性がある。
そして、その痛みは人それぞれ。
立ち直れずに一生を送る人もいるだろう。
しかし千香良は引き摺らない。
未遂で終わったから平気だ。
本当にふざけただけだと思えばそれまでだ。
千香良の思考は性善説で成り立っている。
「お帰り」
そして、ぼんやりとしているとキッチンから母の声が聞こえた。
千香良の帰りにやっと気が付いたようだ。
夕食に支度に夢中だったのだろう。
千香良と自分の分だけなのに手を抜かない。
「うん、ただいま」
千香良は何事もなかったかのように大きな声で返事を返す。
そして立ち上がるとキッチンに向かう。
横になると睡魔に襲われて寝てしまいそうだ。
母は海老の殻を剝いている。
タマネギを炒める甘い香りもしていたが?
「海老のカレーよ」
「ヤッター」
相葉家のカレーはスパイスからのお手製だ。
ショウガとニンニクを加えてタマネギを飴色になるまで炒ためる。
そこに湯剥きしてみじん切りにしたフレッシュトマト投入、更に加熱。
スパイスはターメリック、クミン、コリアンダーにシナモン……
楽しみで仕方がない。
千香良は風呂に湯を張リに行く。
廊下にも海老の殻を焼く香ばしい香りが漂ってきていた。
そして1週間後には梅雨明け宣言。
快晴が続くと事件の曇も晴れていくもの。
特に今日は真夏日。
こんな日に限って外仕事。
汗が噴き出る。
千香良は高城に頼まれた現場に来ている。
相方は鷹見。
龍太は葬儀場の現場で監督と打ち合わせだ。
セレモニーホールは特種な材料で刷毛引き仕上げをするらしい。
土曜日には三上と映画を見に行った。
千香良が公開前から楽しみにしていたアニメーションだ。
やっと、見に行けた。
キャラメル味のポップコーンとコーラ。
鑑賞中はずっと手を繋いでいた。
衣装も黒のミニシャツワンピースを新調。
フェミニンなフリルで千香良にしては大胆な選択だ。
足元もシアーソックスとサンダルでお洒落度アップ。
よく似合う、と三上が横を向いて言った。
千香良は凄く嬉しい。
照れ臭さいのに褒めてくれたのだ。
三上とは楽しい時間だけ共有したい。
不快な気持ちにさせる事件は耳に入れなかった。
そして帰りの車の中。
千香良は初めて三上と大人キス。
三上は未熟で舌の動きが心許ない。
それでも千香良は幸せを感じた。
高城のエロティックなキスよりも千香良には調度いい。
ただ、最中に経験済みがバレないかと気が気でなかった。
裏切った罪悪感は一生、消えないだろう。
夏休みに入った三上は今頃、友人達とキャンプ場に到着している。
避暑地まで出掛けて行った。
医大には他県出身者も多い。
その中の1人の実家が貸別荘を持っていると聞いた。
千香良は額のタオルを巻き直す。
そして一口、水分補給。
日焼け止めは役に立っているだろうか……
陽射しが強すぎる。
鷹見も水分補給に手を止めた。
すると榊らしき人影がこちらに向かって歩いてきた。
「榊さんもここの現場か?」
やっぱり、榊だ。
「はい……先輩に丸投げされまして……」
「先輩って若か?」
「はい……」
「で、若はどうした?」
「アメリカのオレゴンへ行っています……すいません……はい榊工務店です」
榊はスマホのコールを確認すると、そのまま優先させた。
どうやら得意先らしい。
ぺこ、ぺこ、と頭を下げては話をしている。
そうするうちに鷹見も手を動かし始めた。
千香良も同じく作業に戻る。
そして鷹見と榊の会話は途切れた。
断片的に聞こえた会話など千香良は気にも留めなかった。




