甘くてやるせない 4
湿った梅雨の間でも千香良の心は晴朗だった。
穏やかで麗らか。
私生活も仕事も充実していた。
それなのに急転直下。
仕事場が怖い。
建築業界、運搬業界は常時人手不足。
求人の間口も広くなる。
結果、他の業種よりも不安分子が入りやすい。
また同時に『長良グループ』の会長はこの界隈の顔役。
友人、知人から問題児の更生を頼まれる。
そこで仁義を欠くわけにはいかない。
「千香ちゃん『長良グループ』はあんな奴ばかりだと思わないでね。なんとか会長に連絡が着いたから……もう大丈夫」
亜紀は千香良の傍らで3件の電話を掛けた。
そして漸く会長を捕まえ、千香良に安心材料として報告。
けれども現場事務所のテーブルの下。
椅子に座る千香良は脚の震えが止まらない。
恐怖が急に甦ってきた。
亜紀は千香良の背中を摩る。
龍太が戻るまで千香良の側に居てくれるようだ。
男は無頼漢。
それに楯にも横にも大きかった。
原田のようなお坊ちゃんとは違う。
たとえ一瞬でも身の危険を強く感じた。
恐怖の度合いが比べものにならない。
「亜紀さん悪い。遅くなった……」
そして10分。
龍太が息を切らして現場事務所に入ってきた。
しかし千香良は意気消沈。
顔を上げられない。
「亜紀さん、今日はもう千香良は帰すわ……送ってやれるかな……」
こんな時に限って他の現場でもトラブルが発生。
水道の水が井戸水で材料を練ったら変色したそうだ。
龍太は材料を手配して現場に向かわなくてはならない。
「ごめん。まだ、仕事が残っている……」
亜紀は眉根を寄せて渋い顔を見せている。
「お疲れさま~龍太のKバスと長良グループのダンプが停まっていたから覗いたんだけど……龍太に頼みが……」
千香良は聞き覚えのある声に顔を上げた。
現れたのは高城。
いつものごとく飄々としている。
しかし、流石に場に雰囲気に言葉を控えた。
「どうした?」
龍太も亜紀も黙ったままだ。
この非常事態に思いがけない人物の登場。
気持ちが追いつかない。
すると千香良が立ち上がり高城に抱きついた。
声を殺してグズグズと泣いている。
「な~に……下手打って龍太の叱られたか……」
高城は千香良の頭を撫でながら言葉を掛ける。
声音も優しい。
「ちょっと嫌がらせされたみたいで……本人は仕事を続けるって言うんですけど、帰そうかと思っていて……」
龍太は千香良の行動に少し驚いているが表には出さない。
亜紀も同様。
高城を上目使いで見る程度で留めている。
「千香ちゃん、嫌がらせぐらいで泣いていちゃ駄目だよ」
高城が猫なで声で叱咤する。
どこまでも千香良に甘い。
千香良は高城から体を離すと頷いた。
「でも……俺、他の現場でトラブルがあって……今から現場を出るんです。千香良、1人では……」
龍太は首の後ろを摩る。
困って時の癖だ。
高城は腕組みをすると瞠目。
何か考えているようだ。
「俺の設計した現場なんだけど……左官屋と見積もりが合わなくてさ……」
高城はまだ千香良の身に起こった災難を知らない。
独り言の様に交換条件を呟いている。
「……話は後で聞きますから、千香良を送ってやって下さい」
龍太は千香良のことが心配だ。
けれども現場のトラブルも急いで処理しなければならない。
体が2つ欲しい思いだ。
「了解」
龍太は高城に頭を下げる。
そして亜紀と一緒に現場事務所を出て行った。
残された千香良は高城に手を握ると離さない。
やはり、一過性の子供帰りを起こしている。
「千香ちゃん、現場を片付けに行こうか」
千香良は黙って現場に向かって駆け出した。
高城は唯一無二。
千香良が無条件で甘えられる相手になっていた。




