浅くて拙い 3
相葉邸のリビングは漆喰の塗り壁で空気が清い。
その他の部屋、廊下も壁は漆喰か珪藻土、床は無垢材と天然素材。
相葉家は裕福なのだ。
けれども、千香良の部屋だけは壁紙。
そのせいかリビングに比べて空気が重い。
建設時に千香良は5歳。
『スヌーピーの壁紙が良い』と駄々を捏ねたせいだ。
そして、今日はアルバイトが夕方から。
千香良はリビングのソファーに寝転がり、のんびりしている。
月曜日に高卒認定試験の為のオンライン授業の資料が届いた。
千香良はソファーに座り直し、もう一度、資料に目を通す。
私立の女子校に通う生徒が必ずしも裕福とは限らない。
公的支援や国の教育ローンに頼っている同級生がいることぐらい千香良も知っている。
学費は60万。
千香良は高額だと思う。
「無駄だぜ」
兄の声だ。
振り向くと思った通り。
ソファの後ろにコックコートの兄が立っていた。
千香良は煩わしさに大きく息をつく。
「お兄ちゃんは余計なことを言わない」
母が窘める。
どうやら一緒に戻ってきたようだ。
掛け時計に見ると、いつの間にか3時を過ぎていた。
千香良は兄を一瞥した後、支度に掛かるために立ち上がる。
「千香良も圭子ちゃん、みたいに手に職を付けることを考えろ……勉強、嫌いだろ。それに高卒認定は学歴にはならないから」
圭子ちゃんは千香良の一つ上の幼馴染みだ。
中学を卒業すると通信制理容学校を選び、家業の床屋を手伝っている。
資料の郵便物をポストから持ってきたのは兄だった。
千香良は、その時にも意見されて膨れた記憶がある。
高卒認定試験に受かったとしても千香良には、その後の青写真は無い。
兄はそれを指摘する。
予定通りに短大を出たところで、同じだ、とも言われた。
高学歴が優位なのは確かだ。
しかし、それだけで将来が約束されるわけでもない。
生きがいや楽しみ、目的、理想、価値観、人生と向き合う姿勢……
兄から見ると千香良には何もないように移るらしい。
「家事手伝いはニートだぞ」
そして又、苦言を呈される。
千香良は兄の言葉を無視してリビングを出でいった。
部屋に上がる階段はヒンヤリと空々しい。
(高城さんにも同じ事を言われた……)
部屋の戻り着替えをしながら思い出す。
千香良は靴下を履くためのベッドに腰掛けたが、そのまま……
何が無駄なのか分からない。
千香良は意見するなら自分にも理解出来るよう説明してほしいと思う。
しかし、その前にふて腐れるのも自分だ。
『蘭々』は今日も忙しいだろう。
多分、千香良は『蘭々』で働く3時間の間に、兄の苦言を忘れるだろう。
退学になってから繰り返される日常だ。
そして帰宅、入浴。
夕飯は賄いが出るので家では食べない。
母がリビングでテレビを見ている。
秋に行楽情報の特番のようだが千香良は興味が無い。
朝の早い父は風呂から上がれば寝室に入る。
兄の姿も見当たらない。
一人暮らしにマンションに帰ったようだ。
千香良はラッキーとばかりソファに寝転がりスマホを弄る。
ラインのチェックは必至だ。
それでも最近、話について行けないで淋しい。
「女の職人も格好いいわね」
テレビの画面には女性に左官職人が映っている。
「うん」
「千香良も左官屋さんになったら」
完璧なメイクに束ねた長い髪。
迷彩柄の作業着姿もスタイリッシュで格好いい。
「うん」
スマホを弄っていた千香良はテレビなど見ていなかったし、母の話も聞いていなかった。