浅くて拙い
いつもならキッチンから母の呼び声が聞こえる。
けれども、今朝はその声もなく、閑散とした家内には暮らしに匂いも漂っていない。
地元で洋食屋を営んでいる相葉家では、朝早くから仕込みに出掛ける父の姿が見えないのはいつものことだが、母も居ないとなるとAM10時を過ぎているだろう。
寝ぼけ眼の千香良は、その青年めいた痩身を緩々と動かして洗面所に辿り着くと、手に取った歯ブラシにラミネートのチューブを搾る。
洗面台の鏡に映る素顔は整いすぎて中性的で、マシュマロ、モフモフ素材のパジャマは、白地にパステルピンクがラブリーで、今時の乙女が挙って買い求める人気アイテムなのだが、170センチの千香良には裄と裾丈が足りていない。
千香良の朝寝坊の原因は、ベッドに入ってから始まった、元クラスメイト達とのグループラインの遣り取りが止めどなく、夜遅くまで起きていからだが……
そして、口腔に広がるメントールに頭が徐々に冴えてくると、暢気な現状を鑑みる。
1週間前まで千香良は私立女子大の附属高校に通うJKだった。
しかしながら、冬休みを間近に自主退学の勧告を受けてしまい、不就学の憂き目を継続中。
退学理由は暴力。
千香良としては不可抗力なのだが……
相手の下級生は左肩脱臼、全治3週間と重傷。
覚悟はしていたが、17歳にして人生の理不尽も知った。
『自転車置き場で挨拶をしたら邪魔だと突き倒されました』
相手の言い分は事実とは随分違う。
けれども、不都合なことに生活指導の体育教師毛森こと森先生は千香良を目の敵にしている。
千香良は、余計に傷つくような気がして、どうしても弁明する気にならなかった。
毛森はバスケ部の顧問なのだが、勧誘して入部させた千香良は、その恵まれた体格に反して運動神経皆無故、即様退部。
以来『見ていると苛々する』と言われてきたのだ。
どうせ信じてもらえないと思うのも当然。
そして、ただ口を噤む千香良に、同席した母は頑なな千香良の態度に庇いようもなく、往生するばかり。
17歳の頭は浅くて拙い。
千香良はただそれだけの理由で高校中退の道を選んだ。
残されたのは街中華『蘭々』のアルバイトだけ。
『蘭々』の店主には家族にも言えなかった事情を話した。
『キスをされそうになったから振り解いた、だけなんです……』
千香良は『蘭々』の女性客からも時々連絡先を手渡される。
ここでなら信じてもらえると思ったからだ。
店主は気の毒そうな面持ちで千香良の話を聞いてくれていたが時折、苦笑いも見せていた。
第三者の大人から見たら馬鹿げた出来事なのだろう。
それでも、千香良が希望するなら、夕方からのシフトに加えてランチタイムもアルバイトに来ないかと、誘ってくれた。
当然、千香良は今後の事を両親に相談している。
それに対して両親の助言は一言。
『ゆっくり考えなさい』
それだけだった。
娘を信じているのか諦めているのか、千香良には謎だ。
けれども元々が放任主義の家庭なので気にはしていない。
それでも、柔和な千香良が暴力を振るうなど、あり得ない事、とは思ってくれているようだ。
それよりも兄の慰めが逆効果で千香良は凹んだ。
『偏差値の低い学校なんか出ても出なくても大差ないから気にするな。寧ろ馬鹿の看板が下ろせて良かったんじゃないか。でも……漢字が書けない奴は店では使えないな。まあ、女だから……って言っちゃ駄目か』
6歳年上の兄は楽天的且つ毒舌家。
そして、千香良と違い優秀で、国立大を出ている。
けれども、今は家業を継ぐ為に現在は店で修業中の身だ。
千香良の両親が商う洋食屋の屋号は『赤煉瓦』
サラリーマンの客が大半で、領収書を書くことが多い。
要するに、兄が漢字に拘るのはその為なのだ。
やはり(株)と書けないようでは恥ずかしい。
千香良は反論出来なかった……
確かに兄の言う通り、千香良が通っていた附属高校は頭が悪いと評判で外聞も悪い。
それでもエスカレーター式に短大卒の学歴が手に入る。
将来の選択肢も多少は広がったであろう。
モヤモヤとやるせない。
千香良は吹っ切るように顔を洗う。
そして中途半端に短い髪を弄りだすと、頭の中で浮遊していた、あれこれも消えていく。
すると今度は空腹を覚える。
(早く行って賄いを食べるのだ……)
自宅最寄りバス停は歩いて10分。
15分間隔でバスがある。
千香良は部屋に戻り、慌ただしく身支度を整えるとバス停に急いだ。
そしてバスに乗って15分。
千香良は『蘭々』に着くなり賄いを平らげる。
今日の賄いは牛筋肉と大根のピリ辛煮込み丼とワカメスープ。
食欲は先ず先ず。
週に4日、3時間。
月、水は昼。
火、金、は夜。
高校生のアルバイトなら十分だったが、これからは違う。
もう少し働きたいが、アルバイトは他にもいるので思うようにはいかない。
「途中で、大検の通信教育の願書を送ったし……」
千香良は開店の暖簾を出しながら独り呟いてみる。
「無駄だよ」
背後からの言葉に千香良が首を捻ると、辛辣な言葉とは裏腹……背の高い男が笑顔を見せて暖簾をくぐった。