after 9
社交の場に頻繁に顔を出すようになって、リリーの日々は、大変忙しくなっていった。
朝は招待状への返事に追われ、昼からはお茶会へ行き、夕方以降に夜会への身支度を整えてから社交の集まりへと出かけて、夜遅くに帰ってくる。
何とも目まぐるしいスケジュールだった。
とはいえ、苦痛は感じていない。
ほとんどの場には、ダレンもいたからだ。
二人で相談して、なるべく同じ集まりに参加するようにしているのには理由があった。
いきなり結婚を発表するより、二人揃っている場面を断片的に披露していくことで、周囲に二人の関係を少しずつ気付かせていくのだ。
それで反発がなくなるとは思えないが、時間をかけて二人のことを受け入れやすい状況をつくっていく、それが目的の一つであった。
おそらく鼻が利く人ならすでに、リリーとダレンの関係に気付きつつあるかもしれない。
それが狙いとはいえ、下手に勘ぐるような周囲の視線には若干参ってしまう部分もあった。
とはいえ、そんなリリーも今日は誰の目も気にせずにいられる。
慈善活動の一環で、教会に来ているからだ。
孤児院の運営資金集めの為に開催したバザーが成功したので、リリーはその報告がてら、いつも活動を共にしている女性たちと、次の日曜学校の開催について話し合っていた。
「じゃあ、日程はこれでまとまったわね。後は、段取りについてだけれど、誰か立候補してくださる方はいらっしゃる?」
「では、私が」
リリーは真っ先に挙手した。
周囲の女性たちがどこか安堵しているのは、きっと細かな実務が苦手だからだろう。
彼女たちは皆、裕福な中流階級以上の出なので、そうなるのは仕方がない。
面倒な雑務を嫌がっている訳ではなく、純粋にやり方がわからないのだ。
彼女たちの立場では、今までそういった細々としたことに取り組む機会はなく、むしろ、はしたないこととして教えられていたのだから当然である。
では、なぜリリーだけが違うのか。
そう言うと語弊があるのだが、リリーとて最初は右も左もわからぬ状態だったし、周囲から奇異の目で見られることも多々あった。
それでもリリーは率先して事務作業に取り組んだ。
リリーには情熱があった。
慈善活動というと、困っている人に何かしてあげるという施しのイメージがついて回るが、リリーにとってはただ自分ができることをする、それだけのことであった。
その本質は、リリーの性格と妙に合った。
だからこそ、ここまで熱心に活動に取り組み、その為の実務も苦にせずこなしているのである。
「いつも大変な役回りを任せてしまって、ごめんなさいね。社交界シーズンで忙しいでしょうに」
「構いません。それに、慣れてしまえばそれほど大変という訳でもありませんから」
「本当に頼りになるわ。じゃあ、後のことはお願いね。皆も、何かあれば彼女に尋ねてちょうだい。さて、他に何かなければ、今日はこの辺でお開きにしましょう」
皆一様に頷き、リリーを除いて席を立った。
残されたリリーはといえば、このまま教会の一室を借りて、頼まれた作業に早速、取り掛かる。
時間に追われている訳ではないけれど、一人で片付けるには、やはり効率的に動かなければならなかった。
頭の中で、時間配分を考えていると、不意に、リリーの頭上に影ができた。
何だろうと顔をあげ、思わずリリーが微笑んだのは、最近、知り合った聖職者の娘であるグレースが立っていたからだ。
心根が優しく純朴な彼女のことを、リリーは大変好ましく思っていた。
「手を止めさせてしまってごめんなさい」
「気にしないでいいのよ。それより、私に何かご用かしら」
「お邪魔でなければ、お手伝いがしたいんです。私でもできることはありませんか?」
「まぁ、嬉しいわ。じゃあ、座ってちょうだい」
リリーが無碍にしないとわかるや、グレースはパッと微笑んで、リリーの真向かいの椅子に座った。
そんなグレースに、リリーは何枚かの書類と台帳を手渡した。
「あなたはとても字が綺麗だから、清書をお願いしても構わないかしら」
「任せてください」
リリーから台帳への清書を頼まれて、グレースは側から見てもわかるくらい、意気込んでみせた。
「よし」と気合いを入れて、早速、台帳に向かってペンを走らせている姿は何とも微笑ましい。
そんなグレースの為に、リリーは紅茶を入れてあげようと席を立った。
暫くして、リリーが茶器一式を持って戻って来た時、部屋の前で、首から足元まできっちりとローブに身を包んだ年配の女性と遭遇した。
その上品な佇まいから、一目で上流階級の女性だとわかったが、あいにくリリーとは面識がなく、その正体まではわからなかった。
「あの、何かご用でしょうか?」
声をかけると、女性は聡い瞳を細め、リリーを見つめた。
明らかに、リリーに興味がある、そんな表情だった。
リリーは名乗った方がいいかもしれないと、口を開きかけたが、それを女性が手で制した。
「こうして直に会うのは初めてだけれど、あなたのことは知っていますよ、レディー・リリー。私、あなたに興味があるの。正確には、あなたの活動にね。暫く見ていましたが、あなたは随分と慈善活動に熱心なのね」
「見ていたって、先ほどの話し合いの場にいらっしゃったのですか?」
「参加していたという意味なら違うわね。たまたま通りかかって、話し合いの様子を眺めていただけだから。ごめんなさいね、勝手に覗いてしまって。でも、あなた達の活動に興味があったから、つい。ああ、そんな顔をしないで。別にあなた達の活動を非難している訳ではないの。むしろ、その逆。若いのに、随分としっかりした女性達だと感心していたんですよ。最近では、興味本位で活動に参加する若い女性も多いですからね。でも、そういう子達は決まってすぐに飽きてしまう。社会の為に働いているという考えに酔っているだけで、それ以上の信念がない。あなたもそう思うでしょう?」
「私は……たとえ興味本位でも構わないと思います。大切なのは、何かしたいと思う心、そして何かしようと動くことですから」
「あら、意外ね。私はてっきり、あなた達は崇高な理念を求めているのかと思っていたわ。女性は家庭に籠もるだけの存在ではなく、もっと外に出て、社会に貢献できることを証明したいのかと」
「他の方はわかりませんが、私は別に何か意義あることをしようと思って、活動に参加している訳ではないんです。ただ今の自分にできることを、精一杯やっているだけで」
「……そう」
女性は否定も肯定もしなかった。
ただじっとリリーを見つめたかと思うと、急に何か満足したように笑った。
「あなたには一本筋が通ったものを感じるわ。良いことですよ、誇りなさい」
「あ、ありがとうございます」
「私はもう歳ですからね、あなたのようにはいかないけれど、あなたにはそのまま自分の心に従って、活動を続けて欲しいわ。陰ながら応援していますよ」
そう言って、リリーの腕に手を置いた女性は、リリーが何か言う前に、そういえば用事があったのだと言って、パッと手を離し、足早に立ち去っていった。
あまりに、あっという間の出来事で、リリーは狐につままれたような面持ちで、女性が立ち去った方向を見つめ続けた。
だから、急に部屋の扉が開いた時、リリーは思わず声を上げて驚いてしまった。
「ど、どうかなさったんですか?」
リリーの驚き様に、グレースもつられて驚いたのだろう。
ドアから身を出し、キョロキョロと周囲を伺っている。
グレースなら、あの女性の正体を知っているだろうか。
そう思って、グレースに尋ねてみると、彼女は「うーん」と考え込むようにして、腕を組んだ。
「もしかすると、クランドン伯爵夫人かもしれません。年に何度か、寄付の件で教会にいらっしゃることがあるので」
「そう」
恥ずかしいことに、名を聞いても、リリーには誰なのかわからなかった。
相手はリリーの名前を知っていたのだから、今までしっかりと人付き合いしていれば、少なくともリリーの方も、彼女の名前だけは耳にしたことがあったのかもしれない。
こういう時、リリーは決まって後悔するのだった。
今まで社交の場を避けてきたツケが回ってきたのだと、改めて気付かされる。
「伯爵がずっとご病気で、伏せっているそうなので、夫人はあまり領地から離れないのだと思います」
社交の場に顔を出す機会がほとんどないのだから、知らなくても仕方がないのだと、グレースは暗にリリーを慰めてくれた。
本当に優しい子だなと思う。
リリーは思わずといった風に微笑んだ。
そして、気を取り直すように、持っていた茶器をグレースに掲げて見せた。
「少し休憩をしましょう。紅茶を入れるわ」
「はい、お手伝いします」
一緒にお茶の準備をしながら、リリーが台帳を確認すると、清書は半分ほど終わっているようだった。
グレースはなかなかに仕事が早い。
そのことを褒めると、グレースは照れたように「大したことありません」と微笑んだ。
「私よりも、レディー・リリーの方がずっと凄いです。難しい事務処理だっていつも完璧で、私も見習いたいです。動物の保護活動だって熱心ですし……そういえば、今日は可愛らしいお供はいないんですね」
グレースが言っているのは、前回リリーが連れていた保護犬のことだろう。
彼女はリリーと同じく動物が好きだったので「今日は少し体調が悪そうだったから、お留守番してもらっているのよ」と伝えると、目に見えて肩を落とした。
「そうだったんですね……。その、大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫よ。本当に念の為に休んでもらっているだけだから。元気になったら、また連れてくるわね。その時は頭を撫でてあげてちょうだい」
「はい」と元気の良い返事をするグレースにカップを手渡したリリーは、自分の分の紅茶も入れて、口に運んだ。
少し冷めてしまっているが、これはこれで飲みやすくて美味しい。
「私、レディー・リリーの動物愛護活動については、本当に意義のあることだと思うんです。人だけでなく動物に対しても慈悲の心は必要ですもの」
彼女はこう言ってくれたが、実のところ、リリーが行っている活動は、労働者階級の人々には、それほど受け入れられてはいなかった。
本当の意味で貧困に喘いだことのないリリーにとっては、動物よりも先に人間に手を差し伸べるべきだという彼らの意見を否定することは、到底できなかった。
もちろん、リリーとて、動物を優先させるつもりはなかったけれど、そう見られてしまうのは仕方がないことでもあった。
とはいえ、その辺りの事情を、この純朴な女性は知るまい。
だから、リリーはただ「そんな風に言ってくれてありがとう」とだけ応えて、微笑んだ。
「そういえば以前、レディー・リリーが活動の一環で訪れた救貧施設を覚えていらっしゃいますか?修道院跡地にある教会の」
リリーは大きく頷いた。
保護犬を連れて、教会で子どもたちと一緒に過ごした出来事は、今も鮮明に覚えている。
子どもたちの笑い声が響くのは、何ものにも変え難い幸せな思い出の一つであった。
「では、ご存知ですか?そこの教会が、修道院を復活させようとしているそうですよ」
「まぁ、そうなの?」
何百年も前に、宗教改革の一環で修道院の解散がなされてから今日日、リリーたちの国では現存する修道院はほとんど残っていなかった。
今や、修道院があった土地は、国や貴族の手に渡り、公の施設やカントリーハウスとして管理されているのだ。
「個人的には賛成だけれど、これまでの歴史を考えると、この国で修道院の復興は難しいかもしれないわね」
「ええ、だから、少し趣を変えて、外国の修道院寄宿学校のようなものにするらしいんです」
「つまり、男子修道院や女子修道院ということ?でも、それだと今ある救貧施設はどうなるのかしら」
「それはそのまま維持し、近くに修道院を作って、連携させるそうです」
「子どもたちの教育の場にしたいのね」
「はい。とりわけ、女子修道院の建設にご熱心だと伺いました。今の女王様も、即位前には外国の立派な修道院寄宿学校におられたそうですし、ご理解いただけるかもしれないと」
しかし、それは議会が承認しなければ難しいだろうとリリーは思った。
国の統治者とはいえ、王は常に国政には中立の立場を取らなければならず、極力政治への介入はしないのが常だった。
そもそも、いくら女王が後押ししたところで、財源や根拠法を盾に、議員のほとんどは難色を示すだろう。
やはり、この手の問題は一朝一夕にはいかないのである。
とはいえ、女性の社会進出に意欲的なグレースの前で、出鼻を挫くようなことを言うべきではないと思った。
リリーとて教育改革には賛成なのだ。
だから、リリーは「実現するといいわね」と頷くに止めたのだった。