after 8
モリーは後悔してしまった。
用事があって出かけようとした際、両親の話し声が聞こえてきたものだから、ふと立ち止まってしまったのだ。
これではまるで盗み聞きしているようで、ばつが悪い。
しかも、内容が内容だった。
両親はモリーの結婚について話し合っていたのだ。
「婚期を逃していたモリーにも、ようやく運が回ってきたようだな」
「ええ、本当に嫁ぎ先が見つかって良かった。あんなことがあって、もう結婚はできないかと思っていたけれど、これで一つ、肩の荷がおりたわ」
「大きな荷だったがな。まあ、モリーさえ片付けば、後は何の心配もないだろう」
笑い合う両親の声音は本当に嬉しそうで、対して、モリーの気持ちは暗く沈んでいった。
両親が自分のことをどう思っているか、モリーは子どもの頃から知っていた。
面と向かって、引っ込み思案で器量も悪い、本好きの小賢しい娘だと言われたことはないけれど、言動の端々にそれらの感情は見てとれた。
モリーには歳の離れた妹達がいるのだが、これがまた従順で、両親のお気に入りなのだ。
可愛らしい妹達と比べられることには慣れている。
とはいえ、傷付かない訳ではない。
モリーの心はずっと抉られ続けていた。
ーーでも、もうそれも終わるんだわ。わたしは、この家を出る。そして、ピーターと一緒になるのよ。
ライリー子爵の一件以来、ずっと支えてくれたのはピーターだった。
ずっと弟のように思っていたピーターから、気持ちを伝えられた時は正直、戸惑ったけれど、決して嫌ではなかった。
ピーターはいつだって優しかった。
リリー同様、モリーの気持ちに寄り添ってくれる人だ。
心身共に傷が癒えたのは、間違いなくピーターが傍に居てくれたおかげだった。
ピーターのような素敵な人がモリーを選んでくれた、それだけでも僥倖なのに、父親がピーターとの結婚を許可してくれたのは、まさに奇跡としか言いようがない。
「それに、唯一の心配事だった持参金も、どうにか上手く工面できそうだ。いやぁ、戦争さまさまだな。小麦が高値で売れる」
随分な物言いに、モリーはげんなりした。
他国では、戦争の影響もあり、穀物の価格が高騰している。
父はそれを利用して、小麦を売り付けて儲けているのだ。
その利益をモリーの持参金として充てる、父が言っているのはそういうことだ。
下世話な話であるし、戦争による他国の被害を思うと、気分が悪くなるばかりだったが、そのおかげでモリーの結婚が実現したことも事実である。
モリーは筆舌に尽くし難い面持ちで、その場を離れた。
これ以上、両親の話を聞いていたくなかった。
一刻も早くこの家から出たかった。
足早に馬車に乗り込んでから、目的地に到着するまで、どれほどの時間が経ったのか。
空を見上げる限り、まだ陽は明るい。
そう時間の経過は感じられなかったけれど、モリーは急いで目的地の建物へと入った。
受付を済ませ、接客用の一室に案内される間、モリーは周囲から隠れるようにして、顔を下に向けていた。
周囲は、そんなモリーのことには無関心なのか、誰もこちらを見ようとしない。
いや、きっと忙しくて、気付いていないだけなのだろう。
それが、モリーにとっては大変ありがたかった。
暫く待って、とある人物が室内に入ってきた時、ようやくモリーは顔を上げた。
「フレデリック、ご機嫌よう」
モリーが敬称を省いても、フレデリックは嫌な顔をしなかった。
肩苦しいことを嫌ったという訳ではなく、これは二人が友人同士だからだ。
もちろん、周囲に誰かいれば別だが、今は二人っきりなので、お互いに気を遣う必要がなかった。
だから、フレデリックも「いらっしゃい、モリー」と砕けた様子で、モリーの向かいに腰を下ろした。
「相変わらず、ここは賑やかな場所ね」
「出版社だからね、仕方がないよ」
フレデリックは笑いながら肩をすくめた。
ここは、フレデリックの家が投資している出版社だった。
華美ではない実用性優位の調度品が並ぶ中、従業員達はモリーはおろか、フレデリックにさえ頓着せずにせっせと働いている。
やたら忙しそうなのは、締切が近いせいかもしれない。
あまり長居しない方が良いだろうと判断したモリーは、さっそく本題へと入った。
「原稿を持ってきたわ。指摘された誤字脱字の部分はきちんと訂正してあるから」
「わかった、ご苦労様。最終確認を済ませたら、さっそく刷らせるよ。でも、何だか寂しいね。これで完結なんて」
モリーは「物語なんてそんなものよ」と言いながら、テーブルに原稿の束を置いた。
原稿の一枚目には"薄幸の未亡人"と題打ってある。
それを一瞥したフレデリックは、妙に感慨深い面持ちで言った。
「君が初めて、この原稿を僕のところに持ち込んだ日のことを思い出すよ。あの時はびっくりしたなぁ。君が読書好きなのは知っていたけれど、まさか自分で執筆もできるなんて思わなかった」
「わかってる、迷惑だったわよね」
「まさか。読んですぐに面白いと思ったよ。ぜひ、うちで掲載したいって」
フレデリックは笑ってみせた。
売れると思ったから、掲載に踏み切ったのだと言って。
結局、モリーの作品はヒットした訳だが、それは結果論に過ぎず、持ち込んだ段階ではどう転ぶかわからなかったはずだ。
きっと社員の中には、掲載を反対した人だっていただろう。
それでも、フレデリックはモリーの原稿をきちんと読んだ上で、雑誌への掲載を決めた。
友人だからではなく、実力で評価してくれたのだ。
しかも、素性を伏せたいというモリーの意思も尊重してくれた。
フレデリックには本当に感謝している。
ーーでも、正直、リリーへの仕打ちを考えると、今でも許せない部分はあるのよね。
モリーは複雑な感情のまま、フレデリックの端正な顔を見つめた。
サイラスが行方不明となり、死亡判定がなされた後、暫くして、フレデリックから事件の発端となった出来事を聞かされた。
正確には、フレデリックとジェイソンとの関係を、だ。
当然、腹が立ったし、フレデリックを嫌悪した。
フレデリックが同性と関係を持ったからではない。
リリーを裏切って傷つけた上に、その後も友人面で彼女と接していたからだ。
でも、フレデリックの告白を聞いて、何となく腑に落ちた部分もあった。
ジェイソン亡き後、フレデリックが五年間もリリーを縛り続けていた理由。
多分、フレデリック自身でさえ気付いていないその理由に、モリーは思い当たってしまった。
ーーきっと、フレデリックはリリーのことが好きなんだわ。
友人としてではなく、一人の女性として。
フレデリックの態度を見れば、彼もまたモリーと同じく、虐げられたことのある人間だとわかる。
トラウマを植え付けられたのが女性だったから、苦手意識はあるものの、フレデリックは別に男性しか好きになれない訳ではないと思うのだ。
もちろん、ジェイソンを愛していたのは本当だろう。
でも、リリーのことも愛していた。
でなければ、妊娠の件を聞いて、ジェイソンに自ら別れを切り出すはずがない。
ーーその時は、女性としては愛していなかったのかもしれない。でも……。
少しずつ、本当に少しずつ、リリーの優しさに触れていく中で、友愛が別の形で成長していった可能性はあった。
きっと、フレデリックは無意識の内に、リリーのことを求めていたのだろう。
愛人関係の噂が流れているにも関わらず、それを積極的に否定しなかったり、余計に誤解されるとわかっていて、ジェイソンの命日に二人で会ったりと、フレデリックの行動はずっと身勝手で礼儀を失していた。
リリーを利用して貶めるつもりかもしれないと考えたこともあったけれど、何ということはない。
ただ単に、フレデリックはリリーに会いたかったのだ。
そのせいで、リリーの評判を傷付けてしまうということに考えが及ばなかったのは、愚かとしか言いようがなかったけれど、どんな形であれ、リリーを繋ぎ止めておきたかったのかもしれない。
それもこれも全て、リリーを愛していたからだとすれば、長年、友人関係にあったモリーとしては、妙に納得できる結論だった。
ーーでも、教えない。フレデリックには、絶対に言ってあげないわ。
自分は何て嫌な女なんだと、モリーは思った。
きっと、この想いに気付くことができれば、フレデリックは次に進めるかもしれない。
幸せになれるかもしれない。
そうわかっていて、モリーは黙っていることを選んだ。
その何と薄情なことか。
ーーごめんなさい、フレデリック。でも、私にとっては、あなたよりもリリーの方が大切なの。
もし万が一、フレデリックがリリーへの想いに気付いてしまったら、彼はそれを隠しておけないかもしれない。
それは周囲を不幸にするだろう。
特に、優しいリリーは、きっと思い悩んでしまう。
せっかく幸せを掴もうとしているのだ。
彼女には誰よりも笑っていて欲しい。
人間の感情はよくわからない。
本人でさえコントロールすることは叶わないのだ。
モリーは知っていた。
ライリーがリリーに関心があるのではないかと疑って、リリーがいなくなればいいのにと思ってしまった自分を。
あんなに大好きだったリリーを憎んでしまった愚かさを。
ライリーに恋をしていた時、幸福であればある程、その本性は荒々しく、どす暗くなっていった。
それを止める術を、当時のモリーは持っていなかった。
ーーだからこそ、フレデリックも知らず知らずのうちに、自分の気持ちに蓋をしているのかもしれないわ。
まだジェイソンのことを愛している、あるいは自分は男性しか愛せないのだと、そう思い込んでいる節がフレデリックにはあった。
リリーへの気持ちに気付かないよう、本能的に心が働いているのかもしれない。
モリーは自身よりも遥かに綺麗なフレデリックの顔を見つめた。
実際のところ、フレデリックが何を思い、何を考えているのか、モリーにはわからない。
ただ、やり方は違えど、リリーを傷付けたくないという気持ちは、モリーもフレデリックも同じなのだろうということはわかる。
でなければ、彼はモリーの本を出版などしなかっただろう。
フレデリックは気付いていた。
モリーがこの物語を執筆した本当の理由を。
もちろん、上手くいくかどうかはわからない。
モリーがリリーにしてあげられることが、これしかなかったのだから仕方がないとも言える。
それでも、やってみる価値はあった。
「じゃあ、早速、原稿を見せてもらうよ」
そう言って、机上の原稿の束を持ち上げるフレデリックに、モリーはただ頷いた。
邪魔しないように、静かに座って待つ。
それが、今この友人にしてあげられるモリーの精一杯のことだった。