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after 6

リリーは半喪服に袖を通した。

ついこの間まで服喪期間だったリリーは、ずっと寡婦服を着て過ごしていたのだが、先日の夜会以降は服装を戻している。

とはいえ、華やかな装いは社交の場だけのことであり、今日のような何も予定がない日は、やはり半喪服を着続けているリリーであった。

生涯、喪服を貫き通す訳にはいかないけれど、前夫のサイラスに対する礼節を尽くしたかったのだ。

本音を言うと、先日の夜会で着飾ってしまった自分に若干の負い目はあったのだが、そんな些細なことでサイラスは怒らないだろうし、むしろ、次に進もうとしているリリーを応援してくれているはずだ。

とはいえ、心のどこかで周囲の反応について気になっていたことは事実だ。

喪に服していないと非難される覚悟も、当然していた。

が、周囲のあの反応を見るに、それが杞憂に終わったことを今更ながらに、リリーは悟った。

一応、黒っぽい紫紺色のドレスだったので許容されたのか、あるいは、リリーが考えるほど服喪期間のマナーに神経質ではなかったのか、その理由は定かではなかったけれど、あれこれ非難されなかったことに、リリーは心から安堵した。

しかも、今まであまり話したことがなかった人達とも交流ができたし、何より社交の場へ呼ばれる機会が増えた。

先日の夜会での振る舞いが成功した証だ。

まずまずの好スタートをきることができたことに安堵しつつ、リリーは今日も今日とて、朝から晩餐会やら舞踏会やらのお誘いの手紙に目を通していた。

参加する集まりを決めるにあたっては、細心の注意を払わなければならない。

出席しないにしても、その返事を出すのに、かなりの手間がかかってしまう。

この手の作業をあまり苦に思わないリリーでさえ、肩のこりを感じるくらいだ。

作業を終えるまでには相当の時間を要してしまった。

とはいえ、ほどなくして、リリーは握っていた羽ペンを置いた。

その頃には、お昼を大幅に過ぎていたけれど、やり遂げたという達成感が心地良い。

リリーはその余韻に任せ、大きく伸びをした。

タイミングよく、使用人が紅茶を用意してくれたので、ありがたく頂くことにする。


「お疲れのご様子ですね」


労わるような声音は、リリーの実家で長らく仕えてくれている侍女だった。

長年、リリーの母親を献身的に世話し、その母が亡くなってからは、リリーを陰ながら支えてくれた女性である。

外国生まれの彼女は、ファッションセンスがすこぶる良く、先日の夜会での成功に大きく貢献してくれた一人だった。

リリーはこの侍女が大変、好きだった。

陽光のような彼女の暖かな笑みに、リリーは何度も心を救われていたのだ。


「ソフィー、わたしなら平気よ。作業はもう終わったし、今日は特に用事がないから、ゆっくりするつもりなの。そうねぇ、この後は本でも読んで過ごそうかしら」


リリーが本棚を見つめると、ソフィーは心得たように頷いた。

昔から、読書家だったリリーのことを熟知している彼女は、リリーが好みそうな本を棚からいくつか取り出し、手渡してくれた。


「まあ、どれも懐かしいわね。この本なんか、わたしが十歳の時にお父様から頂いたものだわ」


背表紙を撫でるリリーの手は優しかった。

父親にねだって買ってもらった思い出が、鮮明に蘇ってくる。

よく考えれば、今この本棚にあるものは全て、リリーにとって思い出深い本ばかりだった。

最近は、あまり読書する機会がなくなってしまったので、なんだか妙に口惜しい。


ーーそういえば、この何年もの間、新しく本を購入することはなかったわね。


棚に並ぶ本のラインナップに、別段変化が見られないことに気付いたリリーは、思案気に指を頬に当てた。

社交界で求められる大切なマナーの一つに、話題性に富んだ会話というものがある。

若いご令嬢であればファッションの話、殿方であれば狩りやスポーツの話を振るといった風に、人や状況に合わせて会話を巧みにリードするのだ。

その為には、時節に詳しくなければならない。

社交界で人気を博する貴族のほとんどは、この手の情報収集を怠らないという。

今のリリーに必要なのは、そういった小さな努力の積み重ねだった。

今現在、リリーに話しかけてくるのは、リリーのドレスや髪型に興味がある女性たちが多いので、会話に困ったことはないが、社交の場は広く、また色々なタイプの人が存在する。

会話の引き出しは多いに越したことはないのだ。

リリーは本から視線をあげ、傍で微笑むソフィーを見やった。


「ねぇ、ソフィー。最近、巷でどんな本が流行っているのか知っている?」

「そうですねぇ」


ソフィーは少し考える素振りを見せた。

リリーが尋ねているのは、上流階級に人気の高級書籍から、庶民でも楽しめる大衆小説まで幅広い。

それでもソフィーが悩んだのは一瞬で、この有能な侍女はすぐに答えをくれた。


「"薄幸の未亡人"はいかがでしょうか」


若い女性の間で流行っているロマンス小説なのだと、ソフィーは説明してくれた。

元々、大衆紙に掲載されていた時に、中流層の間で話題となり、その後、分冊という形で書籍化され、上流階級の間でも人気になったのだという。


「そういえば、この間の晩餐会でも、そのお話しをされている方がいらっしゃったわ。でも、珍しいわね。最近ではロマンス小説の人気は下火になっていたように思うけれど」


近年の流通網の発展に伴い、出版業界が栄え始めて久しいが、本のジャンルにおける流行は大幅に変化しつつあった。

冒険譚や騎士道物語が人気だった時代から、今や、歴史小説、怪奇小説等の幅広いジャンルが登場し、売れ筋となっている。

その中でも、ロマンス小説はリリーの母親達の世代では人気を博していたようだが、現在その流行には明らかな翳りが見え始めていた。

それを覆すほどの何かが"薄幸の未亡人"にはあるということだろうか。


「とある貴族女性のお話しですが、低俗なものではありません。数々の困難を経て、幸せを掴み取るといった内容だそうで、主人公の未亡人が不幸に負けず前を向いて立ち向かっていく様が、きっと人気の理由ではないかと思います。貴族社会の日常生活が大変リアルに描かれているので、庶民の女性は憧れ、上流階級の女性は感情移入しやすいのかもしれませんね」


リリーは素直に頷いた。

きっと、この本の人気の理由はソフィーの言った通りだろうと思った。

この国、いや、世界の多くの地域では身分や性別による格差が存在する。

特に、女性にはしがらみの多い時代でもある。

その生きづらさの中で暮らす人々にとって、ひたむきに頑張る主人公の姿は、一種の希望として映ったことだろう。

人気の廃りがあるとはいえ、女性達の興味の対象となりえたのは当然の話かもしれなかった。


「何だか面白そうね。わたしも読んでみようかしら。著者はどなたなの?」

「ジョン・スミス氏です」

「それは……ペンネームなのかしら」


ジョンもスミスもありふれた名前であることから、偽名の代名詞と言われている。

それを名乗っているということに、何か意味はあるのだろうか。


「身分を隠した方が都合が良いのかもしれませんね。身分や性別で、作品に対する評価が変わってくることもありますから」


なんとも世知辛い世の中である。

とはいえ、良い作品が埋もれず、日の目を見る機会に恵まれるのであれば、それに越したことはない。

実際、今まで売れた書籍の中には、女性や中流層以下の出の作者もいたと聞く。

きっと、人の心を動かすのは、作者自身から溢れ出ることばの積み重ねであり、それに出自や性別は関係なく、国籍すら飛び越えて、直接読み手の心に語りかけるのだろう。

今もなお、本という媒体が普遍的に存在し、沢山のジャンルが派生している理由の一つだ。

そう考えると、リリーは俄然、興味を引かれた。

今、多くの女性の心を掴んでいるという本に。

普段、リリーが読んでいるジャンルではなかったけれど、リリーは早速、ソフィーに"薄幸の未亡人"の購入手配を頼んだ。

人気の作品なので品薄状態の可能性もあったが、この有能な侍女にかかれば、きっと入手することができるだろう。

今から読むのが楽しみで仕方がない。


ーー待っている間でさえ心が躍るなんて久しぶりだわ。これもまた、読書の醍醐味よね。


リリーは微笑を浮かべた。

ずっと変わり映えしなかったこの本棚に、新しい仲間が加わることになることを想像しながら。

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