after 5
風が悪戯して、髪の毛をもてあそぼうとするのを手で押さえながら、リリーはふと思った。
社交界シーズンの訪れを告げるのは、頬に感じるこの冷気を帯びた風だと。
ーーああ、社交界シーズンが始まるのね。
リリーがそう初めて思ったのは、社交界デビューした十七歳の時だった。
あれからもう十年以上は経つ。
初めての社交界では、緊張と不安でどうにかなってしまいそうだったリリーも、今はもう年若い少女ではなくなり、昔のように、ただ怯えている訳ではなかった。
ーーこの社交界シーズンで、わたしは多くの人達に認めて貰わなければならない。
誤解を解き、評判の回復に努めなければ、ダレンと結婚できないからだ。
そうでなくても、自身の悪い噂を放置するわけにはいかなかった。
それは、リリーを大切に思ってくれている人達まで傷つけてしまうことになる、そう気付いたのだ。
リリーは、もう一度、窓ガラスに映っている自分を横目でチェックした。
ーー大丈夫。皆のおかげで、多少は見られるようになった……はずだわ。
若干自信がないのは、性分だから仕方がない。
とはいえ、今日のリリーはなかなかに美しく着飾っていた。
大きく膨らんだ袖口と釣鐘型のスカートが印象的なロマンチックな紫紺のドレスは、シルビアがリリーの為に作ってくれたということもあり、細身のリリーにとても似合うデザインだった。
頸が綺麗に見えるように、高めの位置で複雑に編み込まれたまとめ髪と相まって、今日のリリーは大変目を引く出立ちとなっている。
もう一度、大丈夫だと自身に言い聞かせ、リリーは一際賑わいを見せる舞踏会場へと足を踏み入れたのだった。
リリーの周囲には沢山の女性達が集まっていた。
彼女達は、今まで見たことがないお洒落なデザインのドレスや髪型に目がない。
リリーは常に注目の的だった。
シルビア曰く、流行というものはこうして出来上がるとのことだったが、あまりファッションの知識に明るくないリリーにとっては、不思議な体験でもあった。
何より、今までのように悪目立ちしていないということが、リリーとしては有り難く、また少し恥ずかしくもあったのだが、沢山の人達と話す機会が増えたことは純粋に嬉しかった。
リリーという個人を知ってもらうきっかけになれば良いのだ。
昔のリリーであれば恐縮して、あまり話せなかったかもしれない。
ーーでも、不思議だわ。今はそこまで苦手意識を感じないなんて。
これもきっとリリーが成長したということなのだろう。
今まで色々なことがあって、変わろうと思えるようになった。
そして実際に変われたのだ。
そのきっかけをくれた人はもういないけれど、今のリリーを見れば、きっと喜んでくれるだろう。
それが誇らしくもあり、また少し寂しくもあった。
「本当に素敵な色合いのドレスねぇ。色白のあなたに良く似合っているわ」
「デザインだって素敵よ。あなたはコルセットが要らないくらい細いから、こういったデザインのドレスも難なく着こなすことが出来るんだわ」
「その編み込んである髪型も、今まで見たことがないわね。あなたのような綺麗な巻き髪じゃないと結えないのかしら。羨ましいわ」
リリーの周囲から、感嘆のため息が漏れた。
今まで自分がコンプレックスだと思っていた部分を次々と褒められ、リリーの頬は次第に赤くなっていった。
青白い肌、痩せ細った体型、癖のある髪の毛、それら全ては、年頃になってからのリリーにとって、悩みの種であった。
ある程度の年齢になると、もはや諦めの境地に至っていたのだが、ここに来て、ファッションの流行が、それら全てを肯定的に捉えさせてくれる。
こういう経験は、きっとリリーだけではないのだろう。
同じような悩みを持つ女性達は沢山いる。
彼女達にとっても、自分に自信を持つきっかけになるはずだ。
改めて、シルビアがやっていることの影響力を感じ、リリーはただただ感心してしまうのだった。
「あなたが会場に入ってきた時から気になっていたのだけれど、ドレスはやはりSのデザインなの?」
「はい、お任せでお願いしたら、こんなに素敵なドレスに仕上げてくれました」
リリーは微笑んだ。
貴族社会、とりわけ女性達の中で、Sというデザイナーの名を知らない者は、もはや少なくなっている。
そして、そのデザイナーの正体が、友人のシルビアであるという事実が、リリーにとっては大変誇らしかった。
シルビアが手掛けるドレスの美しさを、皆が知り、賞賛してくれていることが、まるで自分のことのように嬉しい。
デザイナーになるというのは、シルビアの昔からの夢だったからだ。
ーーでも、その正体を隠さなければならないなんて、何だか悲しいわね。
貴族の、とりわけ結婚適齢期の女性が働くことは非常識で、大変はしたないことであった。
かつて、リリーも家庭教師として仕事に従事したことがあったが、リリーの置かれた複雑な状況下でさえ、褒められたことではなかったのだ。
まだ未婚で、若いシルビアなら尚のことだった。
だからこそ、誰がデザイナーなのか、周囲には秘密にしている。
シルビアは、パトロンになってくれた人にも、その正体は秘しているそうだ。
どれほど、彼女のやっていることが社会的に認められていないのか、それが如実にわかるというものだ。
女性は抑圧されている、そう説いてまわっている女性活動家達の言い分も頷けた。
「実は、わたしも先日、ようやくSのドレスを予約することができましたのよ」
「まあ、羨ましい!」
「でも、納品は半年以上、先ですって。残念だわ」
肩を落とす女性を見て、リリーは申し訳ない気持ちになった。
シルビアのドレスは人気になり過ぎて、生産が間に合わなくなっている。
シルビア自身が一つ一つデザインして、仕上げているからだ。
リリーの社交界での名誉を挽回する為に、今リリーが着ているドレスを、シルビアは頑張って作ってくれた。
その気持ちは大変嬉しかったのだが、そのせいで、なかなかドレスを入手できない人が出てしまっていることが心苦しい。
そして何より、シルビア自身の体調が心配だった。
優しく真面目な彼女はきっと、期日までにドレスを納めるべく、日々無理をしているだろうからだ。
ーーわたしも手伝った方がいいのかしら。
裁縫の技術には、そこそこ自信があるリリーである。
とはいえ、リリー一人の力では焼け石に水なのかもしれない。
ーーもっと生産ラインを増やして、安定させる為にはどうすれば良いのかしら。
これは、シルビア自身も悩んでいる点だった。
正体を大っぴらにできない以上、誰かに手伝ってもらうのは、そう簡単なことではない。
こういう時、リリーは決まって昔の夫のことを思い出す。
彼には、その手の才があった。
元々、シルビアのパトロンを紹介してくれたのも彼だったのだ。
相談すれば、間違いなく協力してくれたはずだ。
とはいえ、彼が亡くなった今はもう頼ることもできない。
そのことに、リリーは妙にしんみりしてしまった。
「何のお話かしら」
突然、高飛車なツンとした声音が、割って入ってくるようにリリーの背後から響いた。
振り返ると、大輪の花のような艶やかな女性が、腕を組んで突っ立っている。
「ノートン伯爵夫人……」
リリーを囲んでいた内の一人が、エイミーの正体に気付き、他の女性と目配せし合うのが、チラリと見えた。
と、同時に彼女達は何かしら理由を付けて、そそくさとその場を立ち去ってしまった。
あまりにあからさまな態度だったので、リリーは困惑したが、エイミーは特に気にした風もなく、ただ肩をすくめてみせた。
「いつものことだから構いません」
「でも……」
「元々は、以前わたしが彼女達のダンス相手を横取りしてしまったのが原因なんです。だから、彼女達がわたしを疎ましく思うのは当然で、避けられても仕方がないんです。あなたとは違うんです」
「わたし?」
「あなたも周囲から良く思われていなかったでしょう?でも、あなたは何も悪いことはしていなかった」
長年、リリーの評判は底辺を彷徨うレベルだった。
身持ちが悪く、残酷な女と、陰で囁かれていたのは、そう昔のことではない。
それは、最初の結婚で夫を亡くしたことから端を発するのだが、今となっては夫の死についてはきちんと原因が究明されている。
誤解が誤解を生む形で広がってしまった悪い噂が少し下火になったのは、間違いなくそこに理由があった。
「あなたはずっと誤解されていた。そのせいで傷付けられたことも多かったはずです。でも、決してやり返すことはしなかった。相手を傷付けることも、誰かを貶めることもできたはずなのに、あなたはそうしなかった。わたしはあなたに助けられた時、ようやくそのことに気付けたんです。だから、わたしもあなたのような人間になりたい。人として誇れる自分でありたいんです」
真っ直ぐに見つめられて、リリーは視線を反らせなくなった。
最初に出会った頃のエイミーを知っているだけに、彼女の変化を肌で感じ取ってしまったのだ。
それは嬉しい驚きであった。
交わることのない点と点がようやく繋がった、そんな感慨深ささえ感じてしまう程に。
「いやぁ、変われば変わるものだろう?個人的にはあのじゃじゃ馬だった頃のエイミーも好きなんだがなぁ」
エイミーと同様、割って入るようにして声をかけてきた人物がいた。
それが誰なのか、リリーにはもちろんわかっていた。
エイミーの夫であるハロルドだ。
彼はあの人好きする笑みと共に、リリーに優雅な会釈をしたので、リリーもそれに倣った。
「ちょっと、ハロルド!わたしは今、大切なお話を……」
「はいはい。わかってるって。邪魔して悪かったって。君は本当に一途というか、猪突猛進というか。いやね、実は我が奥様は、あれ以来、君のことを崇拝しているんだよ」
「ハロルド!」
エイミーは躍起になって、ハロルドの口を塞ごうとした。
が、当然、身長差があるので、ただ腕をブンブン振り回しているだけになってしまっている。
そうしていると、以前のエイミーの快活さが見て取れて、リリーは思わず微笑んだ。
「エイミーはね、君のような素晴らしい淑女になるべく、今まで全く興味がなかった教養やマナーを学んだり、女主人として朝早くから屋敷を管理したりしているんだよ。まぁ、ほとんどが空回りして上手くいっていないんだがね。ああ、そうだ。いつぞやは、君のファッションを真似ようとしたこともあったなぁ。でも、体型が全然違うから、同じようなタイプのドレスが着れなくてね。痩せようと躍起になったが、結局、痩せるどころか逆に太って落ち込んだことも……」
「よ、余計なことを言わないで!」
エイミーは真っ赤になって、ハロルドの胸板を拳で叩いた。
口を塞ぐことができないので、今度は実力行使にうって出たのだろう。
とはいえ、ハロルドはカラカラと笑っているだけで、全く効いていない様子だった。
「仲良しなんですね」
リリーがしみじみ言うと、エイミーは手を止めて、黙り込んだ。
恥ずかしいのか、さらに頬は紅潮している。
対して、それを見たハロルドは、もっと声を高くして笑った。
何だかんだで、この二人は上手くいっているのだろう。
それがわかって、リリーはとても嬉しかった。
「そういえば、もう言ったかな?今宵のあなたがいかに光り輝いているか。本当に、遠目でも目を引くほどの美しさだよ。あなたと踊れる子爵が羨ましい」
ニヤリと笑うハロルドに、リリーは少しだけまごついた。
なぜ、ハロルドがダレンのことを口に出したのか、何となく理解はしていた。
そもそも、ダレンがリリーにプロポーズをするきっかけをくれたのが、ハロルドだったからだ。
つまり、以前からハロルドはリリーとダレンの微妙な関係を知っていたということになる。
きっと婚約していることもわかっているのだ。
それを利用せず、周囲に秘密にしてくれていることを考えると、ハロルドには頭が下がる思いだった。
「ちょっと、ハロルド!もっと、ちゃんと褒めなさいよ!こんなに素敵なところが沢山あるのに、あなたの目は節穴なの?!」
「いやいや、それを妻の君が言っても、おかしなことに……って、痛い、痛い!悪かったって」
エイミーにつねられた上、恨めしげに見つめらたハロルドは困ったように顎をさすったが、その実、彼は今の状況を楽しんでいるように、リリーの目には映った。
いい加減な人のように見えて、エイミーのことを誰よりも愛している、そのことが切実に伝わってきて、リリーは自然と笑みが溢れた。