after 26
リリーはじっと座ったまま、身じろぎ一つせずにいた。
少し離れた所には、真剣な表情で筆を走らせているダレンの姿がある。
ダレンは今、リリーの自画像を描いているのだ。
なるべく描きやすいように、息さえ止めて、微動だにしない腹づもりだったリリーだが、ダレンとふと目が合った瞬間に彼から微笑まれて、思わず破顔してしまった。
「別に動いてもいいんだよ。疲れるだろう?」
「平気よ。少しでも、あなたに美人に描いてもらいたいんですもの」
「それなら心配要らない。君はいつだって綺麗だから」
さも当然といった風に、さらりと言われて、リリーは少し恥ずかしかったが、それ以上に嬉しさの方が優って、思わず微笑んだ。
「でも、少し休憩しよう。ほら、レイチェルがお茶を運んで来てくれたみたいだ」
言われ、振り返ると、微笑を浮かべているレイチェルと目が合った。
ダレンとの結婚後、レイチェルには再び、リリー付きの使用人になってもらった。
相変わらず、明るくて楽しい彼女だが、仕事ぶりはかなり専門性を極め、大変頼りになる存在となっていた。
幾分、落ち着いた雰囲気になったのも、その成長の現れだろう。
「旦那様、奥様、どうぞ」
順に茶器を渡され、その瞬間、紅茶の良い香りが鼻腔をくすぐる。
レイチェルの入れてくれた紅茶は本当に美味しかった。
きっとコツがあるのだろうが、それを実際に身につけるまで、彼女がどれほど努力をしたのかと思うと、自分のことのように誇らしい。
レイチェルはまさしく、公爵家に相応しい使用人へと変貌していた。
「今日もとても美味しいわ。どうもありがとう、レイチェル」
レイチェルが心底、嬉しそうに微笑んだので、リリーもつられて笑ってしまう。
こんなに穏やかな日常を送ることができていることに、幸福を感じずにはいられなかった。
ーーきっと、ハネムーンに行かずに、屋敷で過ごせているからだわ。
本来、結婚式後は式に参列できなかった遠方の親戚を訪ねる旅に出るのだが、リリー達の式には親族がほぼ顔を出してくれていたので、その必要がなかった。
挙式後、暫くはタウンハウスに宿泊している親族を招いて、催し物をする必要はあったが、使用人達が優秀なので、ほとんど接待の苦労はなかった。
しかも、カントリーハウス周辺の領民や代表者への挨拶も先に済ませていたので、今や気楽に結婚生活を享受することができているのだった。
「そういえば、最近いただいたハーブティーがあったわよね。レイチェル、あれは何だったかしら?」
「ペパーミントでございます」
「へぇ、それはまた珍しいね。誰から貰ったんだい?」
「ジャックよ」
最近、便秘気味で悩んでいたリリーが、医師であるジャックに相談したところ、勧められたのがペパーミントティーだった。
ジャック曰く、便秘を放置するのは身体にとって良くないとのことだった。
下手をすると、腸閉塞になり、最悪死ぬことだってあるのだという。
せっかくダレンと幸せな結婚生活を送ることができているのだから、なるべく長く健康な状態で彼の傍にいたい。
清涼感があって爽やかな香りが特徴的なペパーミントティーは、リリー好みの味であり、また便秘解消にも役立つとくれば、飲まないという選択肢はリリーにはなかった。
「身体にもいいし、味も気に入ったから、また飲みたいわ。レイチェル、二人分用意してくれる?」
当然、肯定の返事が返ってくると思いきや、レイチェルは少しだけ思案する素振りを見せた。
「確かに、ペパーミントは消化を助け、腸の働きを活発にしてくれます。風邪予防にもなりますし、リフレッシュ効果もありますが、過剰摂取はあまりおすすめしません。体質によっては合わない場合もありますし、それに……」
レイチェルはチラリとリリーの腹部を見やった。
意味ありげな仕草に、リリーが「どうかしたの?」と問うと、レイチェルは真面目な表情で「妊娠中は、身体に良くない場合もあるとジャック様がおっしゃっていましたので」と答えた。
ーーまだ結婚して間もないのに、レイチェルったら気が早いわね。
リリーは心の中で苦笑した。
実際のところ、体質的にも年齢的にも自分が身篭るのは難しいのではないかと考えていたのだ。
だが、ふと、リリーは表情を改めた。
リリーは過去に人の悪意のせいで流産した経験がある。
その原因となったのがハーブティーであった。
レイチェルはそのことを知っていて、リリーの身体のことを第一に考えてくれたのだと、彼女の真剣な表情から悟ったのだ。
「ありがとう、レイチェル」
「当然のことです」
サラリと言われ、さらにリリーの胸は熱くなった。
できた使用人に仕えてもらえて、これ以上、幸せはことはない。
もう一度、リリーがお礼を言うと、レイチェルは少しだけはにかんだ。
が、それも一瞬のことで、再び使用人然とした柔和な微笑みに戻った。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「まあ、もう行ってしまうの?」
レイチェルの退席を残念に思っていると、彼女は少しだけ口角を上げ「新婚のお二人のお邪魔をする訳にはまいりませんもの」と言った。
「私、馬に蹴られたくありませんわ」とちゃめっ気たっぷりに微笑む様は、以前のレイチェルを彷彿とさせ、リリーは嬉しいやら恥ずかしいやらで、表情を忙しく変えざるを得なかった。
「もう、レイチェルったら」
パタパタと赤らんだ頬を手で仰ぎながら、レイチェルが退席したのを見送ったリリーは、ダレンに向かって口を尖らせた。
ダレンは優しく笑い、席を立って、リリーの目の前に跪いた。
「私としては、ありがたい。君の恥ずかしがっている可愛い姿を見られたのだから」
そう言って、手の甲に口付けしてから、ダレンはリリーを抱き寄せた。
優しい抱擁だ。
リリーも大きなダレンの背に手を回し、ギュッと抱きしめ返すと、どちらからともなく、口付けを交わした。
ーーダレンの言う通りね。二人っきりにしてくれたこと、レイチェルに感謝しなくちゃ。
少しずつ、激しくなる口付けの中、リリーは心底そう思うのだった。




