仇名の由来
本編イメージイラスト/ノーコピライトガール
高校時代の友人の婚約披露みたいです、と庵田めいくは言っていた。シフト表に散発的に並ぶ「葛飾」という自分の名前の表示を数えながら、俺の心は大波を立てていた。披露宴と言えば聞こえはは良いが、そんなもの、要は独り者の狩場みたいなものじゃないか。同窓などというあやふや極まりない細い繋がりをよすがに獲物を狙う狂犬どもが、防御鎧を家に置いてきた鹿や兎を狩りたてる図。
三年弱に及ぶ同僚アルバイターという立ち位置を経て、ようやく口頭での合意を得たのが半月前。とは言うものの未だ何の印や足跡も遺せていないめいくとの繋がりなど、百戦錬磨の狂犬からすればなんの抑止力にもならないだろう。
しかし。しかし、だ。俺は彼女の先輩なのだ。そもそもがそのスタンスによって認証され、実績を積み、信頼されたからこその現在の地位なのだ。だからこそ、だ。純真で素直な後輩であり口約束的彼女でもあるめいくが、なんの隠し立てもせずに「友人の婚約パーティー」と言うのならば、頼りになる先輩という属性の上に成り立った彼氏である俺は、和やかに笑って見送ってやらなければならない。飲みすぎないようにな、くらいが立場上打突可能な楔の限界なのだ。嗚呼、男、葛飾四郎、顔で笑って心で悶える。
そのようにして就業時間の丸々全てを悶々と過ごした葛飾四郎の捩じくれた鬱屈は、その夜届いた庵田めいくからのメールで完全に霧消した。
『彼氏を連れてきてもいいって返事が戻ってきたので、四郎先輩も一緒についてきてもらえますか?
めいく』
受信メールを一旦寝かす余裕の演出などすっかり忘れてただただ尻尾をぶんぶん振りながら、四郎は快諾の返信メールを秒の反応で返したのだった。
そして今、その二次会からの帰り道。
時刻は日付が変わる少し前。一人住まいのめいくの部屋まではあと十分ほどで、四郎にしてもそのあとすぐに戻れば終電にギリで間に合うという微妙な時間である。
先輩後輩が長かったせいでいまひとつぎこちないままのふたりは、少しお酒の入ったこんな静かな夜道でも自然に手を繋ぐことすらできていない。沈黙に耐え切れなくなった四郎は少しだけ気に掛かっていたことを思い出し、言葉にしてみる。
「ねえ。前から聞いてみたいって思ってたことがひとつあるんだけど」
「ん?」
「いや、そうたいしたことじゃないんだ。ちょっと気になっただけで、別に答えにくければスルーしてくれたって構わない」
思わず、なんですか、と敬語を使いそうになっためいくは、取り繕うように言い直す。
「なぁに? なんだって答えますよ」
軽く咳払いをしてから、四郎は口を開く。
「今日みたいにさ、たまに会わせてもらえるめいくの高校時代のお友だち……」
「しのぶとかエリカとか?」
そういえば以前にもシフトが被ってたときにふたりがやってきたことが何度かあったっけ。
めいくはそんなことを思い出す。バイト明けまで粘ってくれていたふたりから、そのあと散々追及されたのだ。
「そう。さっきもだけど、しのぶさんとかってさ、めいくのこと『トコ』って呼ぶじゃん。あれ、なんなのかな? めいくも全然普通に受け答えとかしてるし」
「……ああ、アレね」
四郎は続ける。
「めいく、名字も庵田だし、どこにも『トコ』なんて要素ないだろ。だからどんな由来があるのかなってさ。や、ただの興味本位だけだから、どうでもいいっちゃその通りなんだけど」
下を向いて黙りこくってしまっためいくの様子に、四郎は慌てて言葉を繋ぐ。
「ほら、俺、晴れてめいくの彼氏になれたワケだろ。今日もそう紹介してもらえたし。だからさ、なんていうかこう、もっともっと知りたいなって思うワケ。めいくのことをさ。知り合って三年近くだけど、まともに話しだしたのはここ一年くらいだし。それも基本店の中でのやりとりだけだったからさ、俺……」
めいくの反応の薄さに気圧され、話の後半はひとりごとのようになっていた四郎に助け舟のロープが投げられた。
「笑わない?」
「笑わない、笑わない! 生まれてこのかた笑ったことない」
「うそ」
「生まれてこのかたは嘘だけど、今からの話は笑わない」
「ぜったい?」
「誓う。さっき通り道に建ってた道祖神に。なんかビリケンさんみたいなの」
「なにそれ。知らないし」
「とにかく笑わないから」
「ホントに?」
「ホント」
「じゃあ、特別に教えたげる」
溜息をひとつついて、めいくは話をはじめる。
「この仇名が付いたのは高校一年生の四月のおわり。付けてくれたのは、さっきも名前が出てたしのぶとエリカのふたり」
星空を仰ぎながらめいくが語る昔話。
「連休前に宿題が出たの。班行動で調べ物をして休み明けに発表するっていうやつ。中学校とかでよくあったみたいなアレです。テーマは……なんだったっけ? たしか地域のダイバーシティ活動だったかな。とにかくそんな感じの」
四郎は邪魔しないよう、合槌も打たずに黙って聞いている。道のりは約半分。最後まで聞きたくて、少し歩幅を狭めて歩く。
「クラスメイトだったふたりとは、それまでほとんど話したことが無かったの。私は本ばかり読んでる陰キャだったし、しのぶは普通じゃないくらい勉強ができて弁も立つクラス委員。一方のエリカはめちゃめちゃ陽キャでスクールカーストの最上位。もうぜんぜんクラスターが違ってたから。でも先生が作ったあみだのシャッフルで同じ班になっちゃって。授業の間ふたりに挟まれた私は、本当にひとっことも喋らなかった。下手なこと言ったら周りから何言われるかわからないしね。そしたらしのぶの提案で、放課後にミーティングすることになったのよ。場所はエリカ御用達のカラオケボックス。クーポンあるからマックより安いっていう理由で。ミーティングっていうよりは親睦会よね。さすがに断れなくて」
懐かしそうに話すめいくの物語を聴きながら、四郎の動悸が高まっていた。
この特別な時間が長く続けばいいのに。
「エリカは見てた通りだったけど、お堅いと思い込んでたしのぶも真面目な顔しながらすんごい熱唱とかするの。釣られた私も、思わず何曲か歌っちゃった。高校入ってはじめてだったかな、あんなにはしゃいだのは。ひとしきり歌った後で、自己紹介をし合ったのよ。普通の私だったら堅くなっちゃう場面なんだけど、そのときはもうお互いの歌声を散々聴き合ったあとだったからぜんぜん緊張したりしなかった。ふたりの自己紹介を聞いたあと、最後に私。もう知ってるのはわかってたけど、名前をフルネームで伝えるところから。そう、こんな風にね」
めいくは軽く咳払いすると、少し若い声で再現をはじめる。
「はじめまして。庵田めいくです。北山中学から来ました。両親と兄の四人暮らしで、兄は今年大学生になりました。物語を読んで空想するのが好きです。一番好きな本は『ゲド戦記』。最近はライトノベルとかも読んだりしてるけど、昭和の純文学なんかもけっこう好き。彼氏は……いません。いたこともない。そういうのはまだ想像の世界だけでおなかいっぱい。友だちも……あんまりいません。みんなでわいわいするのも得意じゃない。……って思ってたけど、こういう会だったら平気かも。だって、いますっごく楽しいし。こんな気持ち、今日初めて知りました。もしも、もしもふたりがよかったら、私を友だちに加えてもらえると嬉しい」
四郎の目には制服姿のめいくが見えた、気がした。
「エリカは拍手しながら何度も頷いてくれてた。でも……」
「でも?」
「そう。でも腕組みをしたしのぶは、拍手してるエリカの横でずっと思案顔をしていたの」
そのときのままの不安顔をしためいくの横顔から四郎は目が離せない。
「しのぶはなにかぼそぼそ言ってるの。よくよく聞いてみると、私の名前を繰り返してた。庵田めいく、庵田めいく、って。それから急に顔をあげて私にこう言ったのよ。めいくってさ、もしかして、生まれながらの床上手?」
いきなりの単語にあっけにとられ、思考停止する四郎。そのときのカラオケボックスと同じ長さの沈黙を経て、めいくが彼我の時間を繋ぐ。
「同じように名前を反芻していたエリカがいきなり大笑いしてから楽しそうに叫ぶの。うけるーって。庵田めいくで床上手、マジうける。サイコーって。もうね、私はなにがなんだかわからなかったのよ」
俺だってわからないよ、そう言いながら、口の中でめいくのフルネームを唱える四郎。何度目かの繰り返しで、勘の鈍い四郎もようやく理解する。
「庵田めいく。あん、だめ、いく! ヤヴァイ! これはたしかにうける!!」
うずくまり腹を抱えて笑いが止まらなくなっている四郎を、憮然とした表情で見下ろすめいく。
嘘つき。笑わないって約束したのに。
そう呟きながらも、めいくの頬は自然とほころんできている。
「『トコ』はね、そうやって名付けられた仇名なの。あの日以降、ふたりからは『トコ』以外で呼ばれたことないわ。三人でいるときだけじゃなくて、教室でも親や先生の前でも。由来はずうっと秘密にしてはくれてたけどね。だもんだから私もそれが自然になっちゃって、高校時代はけっこう多くの人が『トコ』って呼んでたよ、私のこと」
さすがに上京してからは使ってなかったけど、と言ってめいくは話を終えた。気が付くとめいくのアパートは目の前だった。
ドアの前でくるりと身体を返して向き直っためいくは、普段とは違う意味深な表情を浮かべながら四郎に告げた。
「四郎先輩、ここまで送ってくれてありがとうございます。で、どうします? 私はまだ試したことないからわからないけど……」
先輩たる沽券を一世一代の決意でもって発揮させた四郎は、めいくにみなまで語らせることなく言葉を被せた。
「上手がどうかをふたりで確かめてみよう。トコ。今夜、この場所、きみの部屋で」
めいくが差し込む鍵を引き継いだ四郎の右手が、ノブを捻った。
(了)