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【短編小説読み切り】共通世界〜僕と川内さん、そして彼女の話〜

作者: 38ねこ猫

恋愛と歪な形の生き方を不器用に紡ぐ人たちの話

夜も夜、深夜1時だ。


こんな時間にフラフラ歩いているから

「こんばんは、ちょっと良いですか?」

国家権力の塊みたいな制服と帽子の二人組に囲まれた。


「君は…高校生かな?」

おかしくて、ふっと笑ってしまう。


ワイドな黒いパンツにグレーのちょっと大きめのパーカー、黄色のネックウォーマーにマスク。ツーブロックの黒髪の僕は、背が低いためか幼く見えるらしい。


「お酒飲んでるのかな?」

何も言わないでいるとそんなことを言われる。

「何か、身分証持ってる?」

ポケットにあるお財布から、まねきねこの会員証を出した。

「いやいや、カラオケのカードは身分証じゃないんだよね。学生証とか保険証とかね?」

仕方がなく見せたのは、病院の診察券だ。それは心療内科の受付のカードリーダーに何度も通してすり減って文字が見えない。

「…いや、あのね。うーん。君、日本語わかるかな。」

とてつもなく馬鹿な質問だ。


日本人として義務教育の課程は終了しているし、からかって付き合ってやっているのに。

時間の無駄だから免許証を見せた。

「平成10年…。なんだよ、クソガキじゃん。」

僕から免許証を取りあげて懐中電灯で照らして免許を見ながら言った。


クソガキ。

おもしろい言葉だと思う。


確かにそうかもしれないなって妙に納得する。


ずっと子どもに見られながら、それが居心地いいからそのままにしてきた。


「仕事は?」

「道具屋です」

免許証を返すついでに言ってくるから、こっちもついでに冗談を言ってみた。

「ふーん。腐ったパンは食うなよ。」

レベルを999まであげたような顔で言われた。そのあと転職してレベル1からやり直しているんだろうか。

「じゃ、気をつけて。」


深夜1時、音も立てずにパトカーが走り出す。

そういえば、近所でストーカー被害を受けた人がいた。男性で、僕が見るに全くステキじゃないただのおじさんだ。ボサボサと髭を生やして猫背で脂の浮いた顔をしている。

人が人を好きになる真意なんて本当にわからない。



「越智くん、それね、職質って言うんだよ。」

川内さんの誕生日。

川内さんの部屋に呼ばれた僕はKALDIで買ったナッツの詰め合わせをあげた。

ピーナッツと、ピスタチオが好きな川内さんは、これにウイスキーがあれば朝までいけると言うが、僕は朝まで起きているのは嫌だ。

近所のおじさんと同じで髭がある。だけど、なんとなく汚らしくはなかった。僕も髭を生やすならこのようにしようと思うくらい。

「なぜ、僕は職質を受けたのでしょう。」

「…うーん。」

ピーナッツを口に入れながら僕の顔を見る。

「顔が幼いからじゃないかな。」

殻を剥いたピーナッツを僕の口に一粒。

あんまり好きじゃないけど受け入れた。

「おいしい?」

「どうでしょう。…ピーナッツ嫌いなんです。」

「ふふ。知ってる。越智くんはこっちかな。」

子ども騙しの様な個包装のチョコマシュマロを目の前にいつくか出されて手に取った。

「好きでしょう?」

「はい。」

にっこり笑って僕に手を伸ばして頭を撫でる。

頭を撫でられても、嫌な気分にはならない。


時々連絡をくれる川内さんは、気まぐれに僕と体を交わらせる。好意的なものなのか慈悲的なものなのかはわからないけど。

別れ際には多少のお金をくれて、またねって優しく言う。

お酒の味を教えてくれたのも川内さんで、口に含んだアルコールを僕に注いで、ごめんねって言うから僕はいいえ。って笑って、はい。って受け入れた。

性別や年齢で人を見たことがない。

ただ、嗅覚的なもので人を判断するようなそんな人間でもないからどうやって付き合う人を決めているのかなんて自分でもよくわからない。

ただ、そこに在ると言うことが大切。


「ビールを飲めるからって大人とは限らないからね」

「好きじゃありません。ビールは。」

「うーん。じゃあ、オレンジジュースでも飲む?」

「…そうですね。」

「あったかな。ちょっと待ってて。」

川内さんは40代で。たぶん、成功者の方。

駅から近いタワーマンションはそれなりに街並みを見渡せる。カリモクのソファは、若い時に買ったらしいが傷みがない。なんていうか、物持ちがいい。

あるいは、このソファが傷みにくいのか。

「これでいい?」

トロピカーナのオレンジジュースは僕のためのストックでちょうどいい飲みきりパック。

「ありがとうございます。」

「うん。」

頭をくしゃくしゃに撫でられて、それを渡される。

「性ってなんのために別れたんだろうね。」

「…知りません。」

「ふふ。君は知らないことは知らないね。」

蓋を開けてジュースを飲む。

「お酒は嫌い?」

「…わかりません。」

「俺は?」

「…嫌いじゃありません」

川内さんに、ふっと笑われて、少し悪いような気がしてくる。僕を家に招いて、楽しくお酒を飲み始めたばかりなのに。僕が不機嫌に見えたら申し訳ない。

「あまり遅くなると、また職質されちゃうかな。」

「なんか、ごめんなさい。」

「明日の朝、帰ればいい。」

川内さんには少なからず僕が必要だった。僕にはなんとなくそれがわかっている。

「越智くん、それで良いかい?」

「…はい。」


川内さんと僕は少し変わった出会い方をした。


競馬場が近くにある病院。

心療内科の病棟は5階まであって、1階には鉄格子があり鍵がかけられている。階を上がるごとに症状が軽くなっていく。

僕は軽度の気分障害と診断され5階の隅っこの部屋に連れて来られた。

1日2回の飲み薬はパキシル。ソラナックスは3回。眠るためのレンドルミン。

これだけなら少ない方だと医師は言うから、僕は信じられないと思った。


入院は個室とはいかなくて4人部屋。

隣のベッドにいたのが、川内さんだ。


川内さんは決まって深夜にイヤホンでラジオを聞いていた。


強迫性障害だと言い、乾燥してあかぎれだらけの手を見せられた。


「いたそうですね。」

そう言うと、

「ハンドクリームもワセリンも、全部石鹸で流れてしまうからもう使うのをやめたんだ。」

と言うから

「それなら、きゅうりでも貼ったらどうですか。」

と返した。

「かぶれそうだね。」

って、楽しそうに笑うから

「あるいはレモンを」

と、さらに言うと

「からあげかよ」

って。

二人ともくだらないねって笑いながら、薬でだるい体をベッドに転がして天井を見て1日を過ごした。

「彼女はいるの?」川内さんは社交辞令の様に

「どう思います?」僕はやたら勿体ぶって

「いそう」簡単な嘘当てゲーム。

「そうならいいですが、振られました。お別れってやつです。人生初です。なんか嫌いになったって言われました。」

僕はいなくなった人を少し思い出して、その人は年上で、確かにステキな人だったと、川内さんに話をした。いなくなってから毎日眠れなくて、ご飯も食べたくないし、昨日まで手の中でなんでもできたことが手からするすると落ちていって見ている世界が歪み吐くほどに動けなくなった。

「君の入院はそれが理由?」

「…わかりません。」

「わからないよね、…そうだよな。」

川内さんが僕のベッドにチップスターをぽーいって投げてきて目の前に落ちた。

「それでも食べて元気を出しな」

って。それを見るとコンソメって。

「コンソメ味…嫌いなんです。」

「うっそ。全人類の共通食じゃないの?」

「違うと思います。」

「残念だな。」

「そうですね。」

笑いながら、今度はチョコマシュマロを2つ投げて僕の目の前に落ちる。個包装で小鳥の絵の青く透き通る。

「それはどうかな?」

袋を開けて手に取ると、柔らかくて涙があふれる。口に入れると久しぶりに体に取り入れたいと唾液が溢れる。

「美味しいです。…美味しいです。なんですか、これ。」

「マシュマロだよ。知らないの?」

「…知ってます。」

「ちょっとタバコ吸ってくるね。」

「はい。」


川内さんは僕に生きるように促してくれたのか。


もうひとつのマシュマロも口に入れると体に血が通っていることを思い出した。


僕は出会った頃の川内さんを思い出しながらオレンジジュースを飲む。

「川内さん…」

「ん?」

「生きていて良かったって思える日が、僕にも来るでしょうか。」

僕の頭をゆっくり撫でて川内さんがほほえむ。

「ご飯食べて美味しいって思えたら同時に生きてて良かったって思えるよ。」

「え。」

「意外と簡単。生きるなんて楽勝だよ。」

僕と同じに生きにくさを抱える川内さんの優しさだと思った。





白い月を見ながら歩く。夜8時ごろ。


アルバイト先の氷が必ずなくなる。無限に氷を製造できる冷凍庫でありながら食事のピークの時間を過ぎると氷が間に合わなくなるのだ。


「ありがとう越智くん。」

親方の奥さんは女将さんとは呼ばれていなくて、美恵子さんて呼ばれて、女将さんは別にいる。


僕は配膳係をしていて時々こうして買い出しにも行く。

「お小遣いね」

「ありがとうございます。」

美恵子さんは僕を気に入っていてそうやってバイト代とは別にお小遣いをくれる。


小さな料理屋に決まったルールはなかった。


月に2回ほど、心療内科へ通院している。

だから、休みが取りやすいアルバイトは僕にとってありがたい。


「アルバイトは慣れてきましたか?」

医師にそう聞かれ

「はい」

と返事をすると、僕の資料を見ながら僕とのやりとりを振り返る。

「眠れてますか?」

「はい」

「レンドルミン、やめてみようか。」

「…あの、それは。」


レンドルミンは睡眠導入剤。

大事なものを失って眠れなくなって、それから頭がふわふわしてきて、世界が歪み始めた。

「嫌です。怖いです。眠れなくなったら、先生、助けてくれますか?また、僕は、僕は、」

息ができなくなって手が震える。指が痺れて冷や汗が止まらない。

「越智くん。」

「嫌です、嫌です!先生、僕を助けてください!

眠れないなんて嫌なんです!怖い!怖いんです!」

「越智くん!!」

流れ落ちる涙がどうしようもないところに僕を引き摺り込むようで震えが止まらない呼吸の仕方がわからない。

「眠れてるんでしょう?」

「だけど、それは薬があるから…。」

もう2年、薬を飲み続けている。

「これからは薬を減らすための治療になっていくから。実際、先月からパキシルは半分に減って、お昼のソラナックスをやめているけど、変わりなく日常を送れているでしょう?深呼吸をしてみて。」

ゆっくり息をする。

「自分の感情に流されないこと。ひとつ大きく息をすること。何度か越智くんに話したことよ。」

「…はい。」

僕にとって、レンドルミンは命綱。

「でも、先生、レンドルミンは無くさないで。」

「…もう少し今のままにしましょうか。」




診察室で取り乱した自分を振り返ると、情けなくなる。鎮静剤を打たれなかっただけ、まだマシなんだろうか。

会計が終わるまで総合受付にいる。

「越智くん。」

見上げると川内さんがいる。

涙が出そうで堪える。

「大丈夫だよ。君は。」

隣に川内さんが座った。

「川内さん、これからですか?」

「会計待ち。」

「同じですね。」

「今日はアルバイト?」

「今日は休みました。疲れてしまう気がしたので」

「うん。懸命だね。」

「川内さんは?」

「今日はお休みだよ。」

「そうなんですね。」

縋りたい気持ちを抑える。縋ろうなんて都合が良すぎる。僕が川内さんのお気に入りかどうか保証がない。

「これあげるよ。」

ジャケットのポケットからチョコマシュマロ。僕が好きなお菓子を知っている。

「ありがとうございます。」

「うん。」

個包装の袋を開けて口に入れる。

「美味しい?」

「はい。」

「うちでご飯食べようか。」

「え。」

「嫌?」

「……そんなことないです。食べたいです。ご飯。」

「まだかな、お会計。」

タバコを吸いたいのだろうな。時折、喫煙室を眺めている。喫煙室には他の人がたくさんいる。



川内さんの部屋にはいつも物がなかった。

必要最低限。その言葉がこの部屋に来るたびに思い浮かぶ。

手を洗ってうがいをして、おいでと言われるから川内さんのそばによると抱きしめられる。

「お腹、空いてる?」

「はい。」

「正直でかわいいね。俺も越智くんの様にありたいよ」

「…川内さんも正直だと思います。」

少し離れて頭を撫でられる。

「こうして、抵抗なく触れるのは、越智くんだけなんだ。疲れるよ。他の人には2メートルが限界だ。」

「…タバコ、吸っても良いですよ。」

病院の喫煙所には行きたくても行けないんだ。

「吸わないよ。やめてるんだ。越智くんにタバコの匂いついたら嫌だなって。」

「僕に?」

少し変な回答だと思う。自分の健康のためならよく理解できるけど。

「何が食べたい?」

「おかかのおにぎりです」

「いいよ。ソファに座っていて。」

なんとなく、納得ができない気持ちでいて、しかし、そこをこだわる自分は子どものようだと自分で自分が恥ずかしくなる。


近頃の川内さんは僕とセックスをしない。僕があまりその行為を好んでいないことがなんとなく伝わってしまったのだろう。


「越智くん、おいで」

呼ばれるままに、その声に惹き寄せられる。


「ごめん。おにぎり、苦手なんだ。作るの。」

そう言って笑って、食べようって僕を座らせた。

「あの」

「ん?」

「ありがとうございます。」

手を合わせて、いただきますを言っておにぎりを齧り塩気のある白米を口に入れる。初めてマシュマロをもらった時と同じ。唾液が出てきて体に入れるのを助ける。


生きている。と、確かに思える。

美味しいと。これが生きていて良かったということ…。頭の中でぼんやりと考える。

僕が齧った部分に鰹節が見えて、こうなる前は確かに生きていたんだろうとこのお魚の昔の姿を想像してみる。

「どうかした?」

川内さんが、じっとおにぎりを見る僕を不思議そうに見ているのがわかった。


久しぶりに人が作ったものを口にしたことを思い出す。他人のお母さんが握ったおにぎりが食べられないというのはよく聞く話。


「…これから先、僕は何を選んで何を捨てるんでしょうか。取捨選択という言葉があります。持ち物は必ず選ばないといけない。それは、物、人、仕事、未来、過去…全部なんだと思います。僕の人生はこれから先はおまけみたいなもので、失うのが当たり前のものを掴み、消えていくのを見送るようなそんな日々なんじゃないかなって思うんです。」

「儚いね。」

「儚い…。もともとは無いも同然。というか。」

「…俺も?」


胸の奥が割れる。小さな波紋。

何も言葉が浮かばない。じっと、川内さんを見る。


「越智くんはね。簡単なことを難しく考えてる。」

「いえ、単純です。ある。か、ない。か。」

「おにぎりは?」

「あります。」

「おいしい?」

「はい。」

「おかずも食べて。ほうれん草。それに卵焼き」

「上手ですね。」

「それは、越智くんの未来につながる物だよ。」

「え。」

「胃袋に入って終わりじゃない。半年後、細胞レベルで君になる。…今の越智くんの何かと入れ替わってるんだ。それが俺の提供した物ってこと。ふふ。なんか怖いね。」

卵焼きをひとつ箸でつまむ。

「美味しくても、不味くても、君を作るものに変わりはないから選べるならそれはステキなことだろ?」

口に入れてみると、唾液と涙が溢れてくる。

「川内さん。」

「ん?」


川内さんを失い失くす物だと思いたくない。


「僕は川内さんの世界に生きてみたいです。」

「…ステキだね。」

お茶を飲みながら笑って答えるから、少し腹が立って

「本当です。」強めに言った。

「いいよ。越智くんの選択なら。好きにして。越智くんなら俺は歓迎する。」


人の心の動きの流れを受け止めすぎてしまうのが僕たちで、打ちのめされてもその回復は、自分自身に折り合いをつけることでしかできない。


一見、明るく紳士的な川内さんが、外から帰ってきて何かを削ぎ落とすように何度も手を洗い、外から家に入れるものを全て一度洗う行為も自分自身を守るための儀式。


僕は、それを見て見ぬふりをしながら、苦しさの受け皿になっている。


「越智くん、ごめんね。」

ウイスキーを含んだ口で、僕の口を塞ぎながら僕にアルコールを注ぐのは、僕に何かを忘れさせるため。

「いいえ。」

「許してね。」

「はい。」

ピーナッツを割って口に運ぶ。僕が買ってきたとっても安い輸入物のピーナッツ。


この世界の底の底。僕たちだけの小さな世界。







少しだけ暖かいなって思う。お昼前の11時。


日中の太陽は残酷だと思う。全てを明らかにして影に逃げ込もうとも追いかけられる。



僕は少しだけ嫌だなって思いながら、約束した場所まで自転車で向かう。


川内さんに悪いなって思いながらアルバイト先の親方さんの奥さんの美恵子さんと出かけるようになった。


本当に悪いなって思わなきゃいけない相手は親方さんかもしれないけれど。


ランチをやっていない料理屋は、午後2時ごろから仕込みが始まるようだった。僕のアルバイトは夕方5時から。だから、仕込みの風景は知らない。


日中、美恵子さんは、お家の用事を済ませたり、趣味の映画を見に行ったり。比較的自由にさせてもらっているとか。


「アニメ映画はね、おばさん一人で見に行くには少し恥ずかしくてね。子どもが見る物でしょ?越智くんがいて良かった。楽しかった。ありがとう。」

僕には甘くて美味しいケーキをご馳走してくれて、美恵子さんはコーヒーを。

僕にまで届いてくるのは、コーヒーの香りよりもドラッグストアで手に入る甘ったるい香水の匂い。

「ご馳走様です。映画代まで…」

「いいのよ。」

生クリームが牛乳の味がする。スポンジは少し弾力があって挟んであるフルーツは季節を問わなかった。

「ねえ、タピオカってもうないのかしらね。」

「…このお店にはないですが、他のお店では息を顰めながらも静かに出番を待っているかもしれません。」

「まるでブームを去ったお笑い芸人ね。」

「僕はファミリーマートのタピオカミルクティーが好きでした。」

「でした…よね。そうよ。」

「また、あれば…おそらく買うと思います。」

「昔の恋人との再会のようね。」

「どうでしょう、昔の恋人はそのまま思い出に。」

「越智くん。」

「はい。」

「簡単な話よ。」

「え?」

「再会は美しいの。」

「…え?」

「思うものなの」

誰にも聞こえないように僕の耳に近づいて、大人らしいことを話す。甘い香水はより強く感じてシナプスの組み替えは、直結型で実に単純で、大切だった人との行為を思い出す。その人のボディクリームの香りさえも。

「そういうものだから。」

「へえ。」

口角を上げて作り笑いを浮かべる。僕のその顔を見て優しい笑顔を見せてくれる。

「恋人になりましょうか。私たち。」



炊飯ジャーのスイッチを押して、電子音が流れることに慣れてきた。

今日はアルバイトが休みだから川内さんの家に来た。夜6時にはうちにいるって教えてくれたから、勝手に来て勝手にご飯を炊いてみた。無洗米で一合のパックだからお米に触らなくて良い。

「ご飯炊いたの、越智くん?」

川内さんと目を合わせてはいけないような気がする。

「シャワー貸してください。」

「誰かとどこか行ったの?今日。」

「映画を見て、ケーキを食べました。」

「楽しかった?」

「アニメ映画は疲れましたし、僕はケーキよりマシュマロが好きです。」

「俺に隠し事がしたいの?」

川内さんは僕を少しだけ揶揄うように僕が目を合わせないのをわかりながら、僕の顔を覗き込んでくる。眉間に皺を寄せて俯く僕ににっこり笑う。

「なんか、嫌なことあったの?」

縋らない。僕は決めている。

「ないです。」

「本当?」

「ないです。」

胸の奥をちくちくチクチク。声も言葉も匂いまで僕を揺るがす全てだ。

僕のネックウォーマーに川内さんが手をかける。静脈の近くを切って何針も縫ったその首を隠していることを知っている。

「強がらないで良いよ。どうしたの?」

涙が溢れて溜めきれなくて川内さんの手に落ちる。

川内さんに甘えてはいけないと、僕は依存してはいけないとわかっている。

「シャワー浴びてきます。」

「うん。」




川内さんの料理はとても簡単だけど、僕にはとても贅沢だと思った。

シャワーを浴びた後はどうにか傷跡をタオルで隠している。

実家にいると傷跡を目にするたび両親の表情が曇るから、季節を問わず首を隠していた。


「お風呂上がりは暑いでしょう。」

川内さんは僕の首のタオルを外せとばかりに言ってくる。

深く息を吐いて、傷跡を晒す。


首を刃物で切ったのは心療内科の病院を退院してからだった。

起き上がるたびに頭がくらくらしてこんななら、生きていなくていいやって。

僕は生まれてくる世界を間違えたって。

口にするものは全て砂みたいな味だったし、家を一歩出れば途端に息ができなくて動けなくなったりして。

外を歩く猫が庭を横切るたびに、僕は人間である自分が許せなかった。

台所で持った刃物が包丁だったか、キッチンバサミだったか覚えていない。

首に当てて生ぬるいものが体に落ちていくのを感じた。



「僕は…ばかです。」

「そうだね。」

川内さんが傷跡を優しく触る。

「でも、それは越智くんに限ったことじゃなくて。人間は、みんな馬鹿なんだよ。今日も生きてる。越智くんは、今日も頑張ったね。」

抱きしめられる。人の体温に匂いに。

僕は川内さんを抱きしめ返さない。頼り切ってしまいそうだから。

胸の奥が破れていく。音を立てて。


美恵子さんに言われたことが頭によぎる。

恋人などなれやしないのに、安い冗談を言う大人は嫌いだ。

とてもステキだと思った恋人は、僕の前からあっさりいなくなった。


「僕は、きっと被害者ではないし、悪い冗談なら受け流さなきゃいけないんです。なのに、怖いと思いました。人には気持ちがあるから、僕には怖いんです。嫌いです。嫌です。怖いです。」

「大丈夫。大丈夫だよ。越智くん。」

背中をトン、トンと優しく叩いて摩ってくれる。僕はすっかり川内さんに甘えている。

「よしよし。」


炊飯ジャーのアラームが鳴って

「ご飯にしようね」

僕から体を離した川内さんがにっこり笑う。

「ご飯炊いてくれてありがとうね。」


さっきまですぐ目の前にあった体温が離れて寂しいと感じる僕は、川内さんに依存しているに違いない。

ここに来いと、食卓で手招きをする川内さんに安心してしまう僕がいる。


「今日の越智くんは、不安定だね。」

「ごめんなさい」

「謝ることじゃないよ。」

白米を口に運ぶ川内さんに僕は目を合わせないようにする。食卓には鮭。それにほうれん草。

「いえ、ごめんなさい。」

「水加減がちょうどいい。このぐらいのご飯の硬さ好きなんだ。」

「え。」

「他人が向ける自分への感情は、自分の受け取り方次第だと、俺は思うよ。」

「川内さんは僕をどう思いますか。」

「ふふ。難しい質問だね。うーん。」

鮭の切り身を上手に骨を取って一欠片、口に運び咀嚼する。僕も真似をして一口。口の中で塩味が広がる。鮭ってどのくらい生きてから切り身になるんだろう。

「おいしい?」

「はい。」

「良かった。大事だよ。美味しいって。」

「え。」

「せっかく、生まれて死んだのに、食べられて美味しくないって言われたらうかばれないよね。」

「なんですか、それ。」

「越智くんといるのは、俺にとってそういうこと。」


川内さんと再会したのは、薬局だった。

本来なら退院後は、患者同士の連絡の取り合いは許されない。とはいえ、それを制限できるなんて誰も思ってはいない。頑なに守ることのできる約束ではないのだ。


「安心していいよ。俺は君を簡単に手放さないから。いい?」

口の中にあるものを飲み込む。意識して少しずつ。

「簡単なことだよ。俺は君がいると楽しい。吐き出して。取り乱していいよ。君が壊れるより遥かに些細なことだ。」

今日1日の生ぬるい香水の匂いを思い出す。女の人の生々しい欲に引き摺り込まれそうになった僕は逃げ出した。恋などしたくない。はっきりとした拒絶がそこにあった。

「川内さんに内緒で美恵子さんと何度か出かけてました。」

「親方の奥さんでしょ。」

「いいのって。一人じゃ行けないからって。」

「付き合いたいの?」

「いいえ。好きじゃありません。でも、あの料理屋でアルバイトをする以上、断れないものかと。」

川内さんは、ご飯の最後の一口を口に入れて、お茶を啜った。

「大人はずるいな。」

吐き捨てた一言に乗せられた感情を掴む。怒りではなく哀れみのようだと感じる。

「誘いを断れないように君を何かで縛って、満足できなくなったから手に入れようとしている。君ならきっと誰にも真実を話さないし、何より小さくてかわいいから欲を満たす道具としてちょうどいいんだろうな。」

またひとつ、ため息。

マシュマロにご飯に…僕を生きさせるために提供してきた川内さんからすれば、僕が他の人のおもちゃになるようで面白くはない話。

「ごめんなさい。」

お小遣いをいただくことの意味が、お気に入りのおもちゃになることを表すなら今すぐにでも全て返すべきだと、もらった金額を計算してみる。


「越智くんは、俺の世界に生きてみたいって言っていたから、その選択肢がある以上、俺は君の味方であると自信を持ってほしい。」

言葉がストンと胃に落ちる。川内さんと目があった。そらしてはいけないような気がしてじっと見つめた。

「ごはん、ご馳走様。また、お願いね。」

スッキリと何もなくなった食器たち。僕の方は、まだ少しほうれん草が残っている。急いで追いつこうと残りを食べる。

「焦らなくていいのに。」


ふっと笑われて、僕は本当に子どもじみていると思う。空になった器を川内さんが覗き込む。

「よくできました」

ずっと、きちんと食べられなかった僕が、1人分を食べられるようになったのは川内さんのおかげ。

「ご馳走様です。」

「うん。」



間接照明のオレンジ色。歯を磨いて食品の味がしない口内。広い世界にはちっぽけな終わった恋の話。


川内さんに包まれて眠る夜。止まりそうな呼吸を助ける体温。


依存するには十分。


マシュマロをもらった時からきっとそれは始まっていた。





目が覚めてしまった午前2時。

自分の部屋を見渡すとオーディオの時計だけがはっきりと見える。


一度はっきり覚醒した意識にもう一度眠くなれと願うのは難しい。


朝の二度寝はできるのに、深夜目が覚めたらもう取り返しがつかない。


眠れない体をベッドの端っこに寄せる。

体はだんだん冷めていってさっきまで眠っていたことが嘘に思える。


アルバイト先で知らない女の人に手を握られた。

熱燗のとっくりを置いた瞬間、油断していた。

綺麗な手ねって、思わずしたことよって、細くて長い指がいいわねって。お酒を含んだ体からなるその手は温かく、生きている証だった。

その人が何歳であったか…きっと50代くらい。

美恵子さんとは仲良く喋っていた。常連でも無い、あまり来ない僕は初めて会った人。


美恵子さんは僕にお小遣いを渡さなくなったけど日中僕を呼び出して、教養が必要と映画や観劇に連れていく。美味しいケーキに苦いコーヒー。そんなお店をたくさん知るとお客さんとも話せるようになるって。それは口実にも思えるけれど、恋人にならないかという問いかけは、一切なくただ、僕を育てようという親切心でそうしてくれているようだった。

包丁が怖い僕は絶対に厨房に入れない。料理人からは役立たずのホールと呼ばれている。孤立しているとはわかっているし、きっと嫌われている。それでもわざわざ作る笑顔をなんとか崩さないようにしている。


ひどく疲れた時こそ眠りが浅い。翌日も辛いのに眠れないことを受け入れなければならないし、それでパニックになってはいけないこともわかっている。


眠れない時間は、どうでもいいことばかりに囚われていく。


冷めたはずの体がまた、温かくなっていく。羽毛布団に僕の体温が伝わっていく。


本当に僕は生きているんだ。


首につけた切り傷を縫い合わせた糸の跡。触ってみると表皮が膨らんでいる。

あの時死ななくて良かった。と、本当に実感することはない。


生きるために必要なこと。

社会に溶け込みひっそりと息をすること。人の心の波を受け取らないこと。混乱することに巻き込まれないこと。揺らがないこと。心を落ち着かせるために必要なことを実践すること。


呼吸の仕方から覚え直した。


握られた手をもう片方の手で握る。

「……あの人、気持ち悪かったな。」

そう口から出てしまう僕に僕自身が笑ってしまう。触り方も力の入れ方も生々しくて油分の少ないカサカサした手のひら。

黒く長い髪は白髪まじりで、僕に向ける視線は女そのものだった。

「気持ち悪い…。本当に。」

美恵子さんの友だちだとすれば、僕には黙ってやり過ごすより他ないのではないかと思った。


小学生の頃、ヴァイオリンを習っていた。その先生によく似ている。


姿勢が大事だと、肩や胸、腰に脚に触られて、実際ヴァイオリンを弾くよりも姿勢を直されていた時間の方が長く感じた。

発表会の日、僕は決まって熱を出したから、人前で演奏することもなく教室に足も向かなくなり、両親には月謝代を無駄にした分、ヴァイオリンの金額の分だけ叱責された。

カイザーのヴァイオリン練習曲4番が得意だったから、教室を辞めた後もしばらくは、隠れてヴァイオリンを弾いていたが、それは行き場のない音となり、孤独の証明となった。楽譜を読み、別の曲を弾いてみてもお手本の取り出し方がわからないからそのメロディーが世の中の常識と合致しているか確認のしようがなかった。

弓が弦を滑り抑えた指に振動がなり、顎から骨を伝う音が鼓膜を揺らす。その痺れるほどの感覚をただ、楽しみたかっただけなんだ。

僕の胸を腰を肩を触る指先が、僕と同じように弦を滑らせている間、うっとりするような音を生み出すのだから、ずるいとさえ思ったのだった。


握られた手の感覚から、ヴァイオリンの音を思い出すなんて。

もし、同じ人であったなら、僕は黙ってやり過ごせる自信がない。


時間通りに目覚ましのアラームが鳴る。眠れたようだった。


朝起きたら陽の光を浴びましょう。副交感神経と交感神経が役割を交代してくれます。


病院の先生が最初にくれた鬱との付き合い方のガイドブックにそうするのが当たり前のように書いてあった。入院中まじめに読み込んでいた。

だけど、実践することはなく、ベッドから抜け出てもしばらく床に座ってじっとしている。


夢の中で、弾けるように音がなった。僕が僕のために弾いたヴァイオリンの音。


スマホが震えるから手に取った。

”越智くん、起きてるかい?”

川内さんのLINEだ。

朝が苦手な僕を心配してくれているのか。ただの趣味なのか。見当はつかないけれど。時々、目を覚さなければならない時間にLINEをくれる。

”カーテンを開けて太陽の光を浴びましょう”

教科書と同じことをわざわざLINEで教えてくれる。眠い目を擦りながら”嫌です”と送信する。

”顔を洗いなさい”

まるで母親のようだと思う。あくびをしながら指を動かす。”はい”と送信する。

”歯を磨いてください”

ちょっと笑っちゃう。”はい”と送信した。

”ご飯食べにうちにおいで。今日は休みだから何時でもいいよ。”

ご飯…。僕は川内さんのペットみたいだなって思う。こんな風に僕を可愛がる真意はなんなんだろう。愛や恋のそれを感じることはない。お互いが居心地の良さを選んだ先の結果だった。

”僕アルバイト辞めたいです。”そう一度書いて消す。会った時に言おうと思う。”はい”って送信した。



「ねえ、贅沢だと思わない?」

川内さんと会う前に美恵子さんに呼び出された。

「あなたが決めていいのよ。」

メニュー表を指差して好きなものを食べろと促される。

「それなら、ミルクレープを。」

「それが人生最後の食べ物でも?」

「僕はクレープのぺたぺたした食感が好きですし、間に挟まれた生クリームの舌触りも好きなので。」

「味は?」

「美味しいものであることを期待しています。」

ふふっと笑って、店員さんを呼ぶ。

「コーヒーで良いわね?」

「はい。」

相変わらず、甘い香りの香水をつけている。料理屋で働く人が香水をつける感覚が僕にはわからない。

「昨日のお客さんね…。木村さんていうのよ。」

コーヒーを待つ間、水を飲みながら美恵子さんが話し始める。

「びっくりしたでしょう?手を握られて。」

「え」

「目が丸くなってたもの。」

ふふふっと笑いながら、僕を見つめる。

「ヴァイオリンの先生なのよ。」

「え」

「越智くんに似ている男の子を教えたことがあるって。カイザーの…なんとかって曲が得意だった子って。」

「へえ。」

よく似ていると思った僕の記憶に間違いがなかった。小学生の頃の僕と今の僕が結びつくなんて僕があまりにも変わらないということだろうか。

「とっても才能があったみたい。」

店員さんが運んできてくれたコーヒーにケーキ。

美恵子さんは砂糖もミルクも使わずコーヒーを飲み始める。

「音楽に才能を見出せる人は幸せでしょうね。」

「越智くんも音楽の習い事をしたことがあるの?」

「ヴァイオリンです。偶然にも。」

「ふふふ。本当に越智くんが木村さんの生徒だったのかもね。」

「…どうでしょう。」

「食べて」

「いただきます。」

ミルクレープを一口。口に運ぶ姿をじっと見られる。

「あなたは、まじめすぎるのよ。」

「え」

「…川内さんが言っていたの。心が疲れている子って。あなたのこと。でも、それって誰でもあることよ。人の真意なんてわかるわけないじゃない。」

「一体、どこまで話されたんです?」


鬱は心の病気ではなく、交感神経と副交感神経の病気であると病院で先生が教えてくれた。何がいけないかといえば、寝不足であったり、栄養の偏りであったり。僕は、ふわふわする頭でそれを黙って聞いていた。


「美恵子さんはいつもコーヒーだけですね。」

「私、人が作ったものってなるべく食べたくないの。飲み物くらいなら体内に入れても良いけれど、…無理よ。」

「そうなんですか。」

「親方が作る料理も食べたことがないのよ。あ、あったかな。おにぎり。吐いちゃって。やっぱりダメだった。口に入れるものに私以外の誰の手も触れてほしくないの。」

それは僕よりも深い拒絶だと思った。

「小学生の頃、母親がね、知らない男の人とセックスをしていたのを見たの。私、とてもタイミングが悪く家に帰ったのよ。」

コーヒーカップの自分が口をつけた場所を指で拭う。

「そろばんの教室が、その日は休みで、学校帰りに行くはずだったのに、家に帰るしかなくて。帰り道にある駄菓子屋さんでキャベツ太郎とひき飴を買って、いちご味の飴を口に入れたまま帰ったのよ。玄関から家に入ると、知らない靴があった。寝室から母のうめくような、縋るような、そんな声と、大人の男の人の息を吐く音が聞こえた。」


小学生だった美恵子さんは、母親が誰かにいじめられていると思い、寝室に行ったそう。


「裸の女が裸の男に激しく体を押し付けられていて。私は何が起こっているのかわからなかった。」


美恵子さんの母親は、美恵子さんと目が合うとにっこり笑ったそうで知らない男の人は、美恵子さんを見て、そこで見ていろと。美恵子さんは果てていく母親をただ眺めていた。身体中を撫で回す男の手にビクビクと魚のように跳ねるその母親の姿を。


「それから母は、私におにぎりを握ったの。さっきまで男と交わっていた母は手も洗わずに、白米を握って私に差し出したの。泣きながら食べたわ。母が作ってくれたから。」

聞いているだけの僕をまっすぐ見つめてくる。

「それから、人間は汚いって思い続けているの。……病気かしらね。」

僕は頷くことも、微笑むこともできないでいる。

「私もあなたも、母も、…川内さんだって…狂ってるわよね。」

「たぶん、狂ってるのは世の中全てです。」

「そうかもね。食べて。」

悲しいとも可哀相とも思ってはいけない気がした。

フォークを上から下に刺す。ズブズブと入っていく。段積みになっているクレープを重なったまま口に入れる。口の中でバラバラになっていく食べ物。

「どんな味なの?」

「…卵に小麦粉に…牛乳と油と砂糖です。」

「何よ、それ。材料は聞いてないけど。」

美恵子さんは親方さんに僕を呼び出していることを知られてはいないのだろうか。

「越智くん」

「はい」

「木村さんに今度ご挨拶なさいね。」

「え」

「あなた、習ってたんでしょ。ヴァイオリン。」

全てお見通しのように僕を見つめる。

「木村さんがその人であったかは覚えていません。」

「…そう。」



酒屋さんに寄ってミックスナッツを買う。

川内さんのナッツを補充するのが僕の役目になってきている。ピーナッツとピスタチオは、余分に買っても邪魔にならない。ピーナッツは殻がついてないものは好みじゃないらしい。ピーナッツが好きじゃない僕にはどうでもいいこだわりだなと思う。



「越智くん、こんなに買ってきたの?」

僕が持っていったミックスナッツを見て川内さんが楽しそうに笑う。

「すぐなくなるので」

「ありがとうね。」

僕が手を洗っている間に、川内さんはアルコールのウエットティッシュでパッケージを拭いている。

僕が見ても何も思わないし何も言わないことを知っているけど、その儀式にも似た行為は誰にも見られたくないものであるようだった。


水の流れる音に思い出したヴァイオリンの音色が重なるようで静かにその音を聞いていた。





雨上がりの夕方5時。

アルバイトに来てすぐに親方さんに腹部を殴られた。どうやら、美恵子さんとのお出かけが露呈してしまったらしい。


おはようございますを言いながら裏口の扉を開けた瞬間、無言の親方さんが、僕の胸ぐらを掴んで外に追いやって、今に至っている。


参ったな…って思った矢先、ドスンとお腹に衝撃を受けた。


「すみません」

「殺したって文句言えないよな。」

「はい。」

「どういうつもりだよ」

「呼び出されたので」

「美恵子のせいにするな」

足を蹴られる。

痛いけど、きっと僕が悪い。美恵子さんに呼ばれて親方さんからすれば不倫まがいのことをしたのだ。

「歩けなくしてやってもいいよな」

「それは、親方さんが罪に問われるかと。」

「うるせえ!」

また腹部を殴られる。

「川内さんが連れてきたから、バイトさせてやってんだ。お前、川内さんの顔にも泥塗ってんだぞ。わかってんのか?」

「…はい。」

親方さんと川内さんの関係は僕は知らない。

「1人でケツ拭くこともできねえくせに人のもんに手え出してんじゃねえ!!」

「すみません」

「ふざけんなよ!」

美恵子さんは、親方さんの後妻で、女将さんと呼ばれる人は最初に結婚していた人だ。つまり、美恵子さんは愛人から昇格して妻になったということ。前妻は店だけは辞めないと女将の立場を維持しているとても複雑な環境であることは、川内さんから聞いている。

「急に辞めさせると、川内さんに言い訳できねーし、お前が辞める言い訳考えろよ。わかったな。」

実質、クビということだろう。今すぐにでも逃げ出したい。

「さっさと、仕事しろよ!」

「…はい。」


とんだ目にあった。


その言葉を頭の中に並べて誰かに話せば、僕はただ、呼び出されたからそれに付き合っただけという自己肯定ができるのだろうか。


更衣室にいつものように入り、いつものように制服に着替える。

「おはよう。」

アイコスを咥えた料理人に声をかけられた。

「おはようございます」

ニタニタとしたその顔は、僕と親方さんとのやりとりの一部始終を見ていたと言わんばかりだった。

「意外性あるね、君。」

「そうでしょうか。」

無視もできないから相槌のように応えた。

「おばさん相手に勃つの?」

暇つぶしの質問に答えを探す。

「メンヘラがいきんなよ。だせえ。」

僕にとってだいじなことは、社会に溶け込むために、静かに息をして、誰かの感情に影響を受けすぎない。この人はただ、何かを言いたいだけ。直接的な言葉を投げて遊んでいるだけ。そう思えば雑音は僕には聞こえない。

「今日もよろしくお願いします。」

頭を下げて、その場を離れようとする。

「君、いる意味ないかんね。」

くくっと笑いながら捨て台詞を吐いていた。



料理屋が忙しくなるのは午後7時ごろ。

宴会予約のお客さんを個室に案内してドリンクを運ぶ。宴会メニューは決まっているから前菜から順番に出していく。その間にも新規で入ってくるお客さんを席に案内してオーダーを受けて厨房に流す。


僕がアルバイトを始めた頃、川内さんは様子を見に会社の人を連れてきたりしていた。慣れてきた頃には、来なくなったから僕はもう、川内さんはここには来ないだろうと油断していた。

「越智くん、お疲れ様」

「…いらっしゃいませ…。」

川内さんの横には、見覚えのある女性がいる。

「席、空いてる?」

「カウンターなら空いてます。」

「カウンターか…。」

「良いわよ、カウンターで。」

白髪混じりのロングヘア。

「じゃ、カウンターにしましょうか。」

僕はまた息の仕方がわからなくなりそうで

「カウンター2名様ご案内です!!」

「元気だね、越智くん。」

背中に冷や汗が流れ出す。川内さんが女性を連れてきたことはなんら問題はない。そこは問題じゃない。

「お席どうぞ。おしぼりも。」

「どうしたの?落ち着いてよ。」

川内さんが、僕の様子がおかしいと気がついた。

「あなた、越智くんていうの?」

「え」

酸素はもういらない。もういらないのに、どんどん吸い込んでしまう。指が痺れる。

「あら、木村さん、いらっしゃい。川内さんも。」

「美恵子さん、こんばんは。」

この映像の中に僕も異質なものにならないように笑顔を作って溶け込まないと。川内さんと木村さんがなぜ一緒に…仕事のことだろうか。

「飲み物どうします?あ、木村さん、奥の松のいいのが入ったの。」

「美恵子さんが薦めるならそれにするわ。」

「川内さんは?」

「うーん…南部美人かな。」

「はーい。ちょっと待っててね。」

さりげなくこの場を離れよう。

「つきだし、出して。」

親方さんに睨まれる。冷蔵庫から、綺麗に盛り付けられたお通しを2つ。飲み物と一緒のタイミングになるようにカウンターに運ぶ。

「はい、木村さん。奥の松ね。川内さんは南部美人。」

美恵子さんがお酒を出したから、僕は二人の前にお通しを置く。他のお客さんならこれでなんの問題もない。

「越智くん、今日のおすすめ教えてあげてね。」

川内さんの時は美恵子さんは僕がきちんと働いていることをわかってもらうために課題を残していく。

「今日のおすすめは、金目の煮付け…蛤の酒蒸し…です。天ぷらは山菜が美味しく…そちらのお酒に合うかと。」

「越智くんはお酒飲むの?」

木村さんが僕を舐めるように見る。額に脂汗が滲む。笑顔でいるには限界だ。

「ありがとう。蛤の酒蒸しを二つお願いね。」

「はい。」

川内さんが僕の様子に心配そうな目を向ける。メモを書いて

「他にもご注文ありますか?」

「大丈夫だよ。またお願いするね。」

「はい。」

僕は川内さんだけを見ていた。

木村さんが何の気なしに僕の手を握り

「この綺麗な指覚えているわ。コンクールに出ていれば…あなた、ここにいなかったかもね。」

「え」

「なぜ、辞めてしまったの?突然。」

「いや、あの」

僕は手を解くことができない。

「へえ、越智くん木村さんの生徒さんだったんだ。」

「…人違いだと思います。」

目が泳ぎ始める。この場を離れないと。

「失礼します。」


厨房にオーダーを投げて、外の空気を吸いに出る。世界は広いはずなのにどうして僕は小さな世界に生きているんだろう。


握られた手が震える。


小学生の頃、レッスン中に体を触られた。

嫌だと言えず、僕は早く終われと思いながらじっと耐えていた。肩に胸に背中に腰にお尻に脚に。姿勢を正すためと幾度となく触られた。

他の子のレッスンの見学をしていた時はこんなことはされていなくて、みんな一心不乱にヴァイオリンを弾いているだけだった。


きっと、僕だけがこんなことをされている。


両親にはどう話していいか分からなくて黙っていた。木村先生は芸大を出た素晴らしいヴァイオリニストだから。そんな理由で習いたい人はたくさんいたのだ。

確かに、ヴァイオリンは素晴らしかった。


コンクール前日。

木村先生に呼び出され、チャルダッシュの追い込みをかけた。レッスン後にはよくできたとキスをされ、服を脱がされた。


「才能があっても体が弱いのね」

コンクールの朝、熱のふらつきに耐えながら公会堂にたどり着いた僕に木村先生が吐き捨てた。

「ステージにこの状態で上がらせたら私が鬼みたいじゃない。帰りなさい。」

言われるままだった。母と父は先生に頭を下げて僕を車に乗せた。後部座席で熱で朦朧としながら助手席の母の啜り泣きと運転席の父の母を慰める声を聞いていた。

「ユキト、来年はちゃんとステージに立つんだ。わかったな」

父は赤信号で止まって僕を見た。

「はい。」

両親は何も知らない。何も知らないから僕を叱れるんだ。唇を触って木村先生のリップクリームの蜂蜜の匂いと唾液の味を思い出していた。


小学4年の僕は行き場のないざわついた感情を殺そうとしていた。




料理屋の外。裏口の出口。僕は吐いている。

首の傷跡に血液が貯まるように感じる。

僕は近々アルバイトをやめる。川内さんに申し訳ない。よりに寄って今日、しかも木村さんと一緒にお店に来るなんて。


「君さ、やる気ないなら帰って。」

料理人が裏口の扉を開けて話しかけてきた。

「吐いたの?」

漫画みたいに目を丸くして僕を見る。

「これだから、メンヘラは」

扉を閉めて中に戻るとまた扉をあけて

「水、ティッシュ。」

「ありがとうございます。」

「辛かったら帰ってもいいんだから。いてもいなくても一緒だろ、君。」

また中に戻ると、水の入ったバケツを持ってきて僕が地面に吐いた吐瀉物を側溝に流した。

「吐くなら側溝に吐け。手間省けんだろ。」

そう言って、僕の襟首を掴んで厨房に引き入れる。

「ホール出れねえなら皿洗ってくんねえかな」

慌ただしい厨房に洗いきれないお皿がそのまま。

「とにかく、小鉢が足りねえ。洗ってくれ。」

洗い場に押し込まれて、食器洗いのスポンジを手に取る。ひたすら、何も考えず、小鉢を見つけて洗う。拭き終わったものを調理台の近くに運んで、その他の食器を何も考えずに洗った。

「おい、ちょっとは役に立つな。」

この店で褒め言葉をもらったのは初めてで、少し驚いた。大皿も小皿も取り皿も全て洗っても次が来る。

「越智くん、ここにいたの?」

美恵子さんが下げてきた食器を置きながら驚いた様子を見せてきた。

「川内さんたち、そろそろ帰っちゃうわよ。」

水の音で聞こえないふりをする。美恵子さんが蛇口を捻って水を止めた。

「あなたはあなたの仕事をしなさい。あなたはホール係なんだから。」

「はい。」

泡のついた手を水で流してホールに戻る。


僕はここに何をしにきんだろう。

僕よりもテキパキと動く他の人たちの足手纏いになるなら食器を洗い続けたほうがいいんじゃないか。


「越智くん。」

川内さんに声をかけられた。木村さんはお手洗いに行っているようだった。

「今日はごめんね。苦手な人を連れてきたみたいだね。」

「いえ、そんなことは」

「頑張ったね。ありがとう。お会計お願いね。」

「はい」

何も…頑張っていない。何をどう見て頑張ったって言ってくれたのだろう。僕は、川内さんが来て帰るまでの間、何ひとつきちんとできていないのに。


「カウンターさんお会計です。」

「はーい。」

美恵子さんが伝票を計算して木村さんが帰ってこないうちに川内さんのお会計が終わる。スマートなやり取り。

「越智くん、あのお客さんの飲み物が切れてるみたいだからオーダー取ってきて。」

「はい。」

気の利かない僕をなんとか働かせて役割を与えている。美恵子さんは美恵子さんで僕を辞めさせないように必死なんだと思う。


夜10時、仕事終わりにうなぎの炊き込みご飯のおにぎりをもらった。今日は自転車じゃなく歩いてきたからおにぎりを齧りながら歩く。

「おい。」

アイコスを吸いながら料理人が僕の横を歩く。

「お疲れ様です。」

「おにぎり食いながら歩くのやめろよ。」

「すみません。お腹すいて…。」

「それ作ったの俺。」

「美味しいです。うなぎも山椒も…タレの味も。甘すぎないし、もっと食べたい味です。」

「君に誉められてもな。」

「越智です。僕の名前。」

「知ってる。落ちこぼれ。」

「そう言われても仕方ありませんね。」

「俺、真咲っつーの。知ってた?」

「…知りませんでした。」

「だろうな。真咲敦憲だから。よろしく。」

「なんでですか。」

おにぎりを食べ終わったラップを丸めてポケットにしまう。

「僕、もうすぐやめますよ。」

「辞めないよ、君は。」

「適当なこと言わないでください。僕は辞めます。」

真咲さんは、鼻先でふふんと笑う。

「美恵子さんが親方さんに頼んでた。君を育てたいって。馬鹿らしいけど、君を可愛がってるのはよくわかる。女将さんも、美恵子さんを馬鹿にして笑っていたけど、君のこと社会人として自立させたいって親みたいなこと言ってた。…君ってなんなの?」

「え」

「やる気ないの?あるの?」

社会復帰。

このためだけに僕はアルバイトをしている。

分かりませんと答えると料理人は僕に唾を吐いて

「自分のことだろうが!」

怒りをあらわにし僕を地面に叩きつけた。


アルバイトの後は川内さんのマンションに帰っている。


次の日が休みであれば、朝までウイスキーを飲みながら起きている川内さん。

そのそばで硬い床の上、睡眠導入剤がなくても僕は眠れるようになっていった。


雨の音に目を覚ます、明け方の5時。


眠りにつく時は床に寝ていたのに目を覚ますとベッドにいる。川内さんが運んでくれたに違いない。


あの人と出会った日もこんなふうに雨の音がしていた。まだ忘れられない。他人からすれば他愛のない恋愛。僕がとても子ども染みていた。それだけのこと。


「ごめんね、もう好きじゃないの。」

あの人が最後に残した言葉。僕は、嫌われたんだ。


もう誰にも恋ができない。


あの人を好きになりすぎた。一瞬で消えていなくなったあの人を。


雨の音が聞きたくなくて布団に潜った。

無駄な抵抗だとわかっているのに。



弦群弓美。それが彼女の名前だ。


弦楽器を弾くために生まれたような名前だと思った。ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス。クラシックからジャズ、それにオルタナティヴ…。一度好きになったのにすっかり弦を抑えなくなった僕の左指が彼女の音色に微かに動いた。


才能のある人。

それはきっとこの人のことなんだろう。

弾むように転がる音は確かにヴァイオリンで、記憶に転がる音よりも煌めいて雨粒よりも輝き、路上で雨宿りする店先で弓を滑らせ弦が空気を揺らす度、僕の心臓がドクンと動く。


首筋が透き通る白。髪の黒が際立つ。ブルーベースの肌。

踊り出しそうな足元のローファー。センタープレスのロングパンツが大人に見えた。

「君、ずっと見てるね。私のこと。ヴァイオリン好きなの?」

上がった口角が印象時だった。

「とてもステキな音ですね。」

「チャルダッシュだよ。」

僕は、それは知ってるって思ってくすって笑った。

「他には何を弾くんですか?」

「今?」

「はい」

「何がいい?」

「え?」

「なんでも弾くよ。」

ヴァイオリンを構えた姿はなぜか勇敢だった。

雨の音を楽しむように天を仰いでひとつ、呼吸をする。弾き始めたのはカイザーのヴァイオリン練習曲第4番。記憶の中の僕の音色が連奏するように蘇ってくる。弾ける雨粒が共にリズムを刻んでいた。




「起きて、越智くん。」

息を吸い込むとトーストの匂いがして川内さんに羽毛布団の上から頭を抑え込まれた。

「お、おはようございます。」

布団をめくられると眩しくて敵わない。

「今日、木村さんに会うから。」

「はい。」

「君も来てくれない?」

「はい…え?」

「ん?」

「木村さん…?」

「そう木村さん。」

僕は横になったまま起きたばかりの頭で、川内さんの言うことを整理してみた。木村さんは、僕がヴァイオリンを習っていた木村先生に違いない。

「なぜですか?」

「君が拒否反応を表すのはどうしてなんだろうね。」

「わかっていて会わせるのはなぜですか?」

寝転がっている僕の身体を川内さんが抱き起こす。僕は一般的な成人男性より小さく軽い。

「真剣な話だよ。いじけないで。」

「いじけてませんよ。」

「仕事の話だ。」

「仕事の話ですか。」


木村さんには娘がいることは僕も知っている。海外で仕事をしているヴァイオリニストということは知らなかった。

仙台フィルのコンサートにゲスト出演するために帰国することになり、その期間に地元の小学校でも演奏会を開く。演奏会の演出を頼まれたのが川内さんの会社であり、木村さんをその演奏会にゲスト出演させようというのが、川内さんの企画だった。


「つまり親子共演だよ。地元の人も喜ぶだろ。」

「そうですか。それと、僕が木村さんと会う理由がわかりません。」

川内さんが僕の顔を覗き込む。

「木村さん、越智くんみたいな子に楽屋周りのお世話してほしいんだって。」

「え」

「料理屋でアルバイトしてるところ見て気に入ったんだって。」

アルバイト中の僕は全く冴えない。

「気がきがなくて、全然使えない感じが良いらしい。」

「ひどい。」

「俺が言ったんじゃないよ」

「川内さんもきっとそう思ってますよね。」

「ん?」

「いや、あの。」

「俺は君を料理屋のアルバイトとして一人前にしようなんて考えは毛頭無いから、そんなのどうでも良いんだよ。」

僕の頭に手を置いてわしゃわしゃといじりまわす。

「それとも、ホールの仕事を極めようと思っているの?良い考えだとは思うけど、人見知りだったり、感受性が強すぎる君だから、接客なんて向いてないと思うし、君はよく頑張っていると思うけどな。」

料理人に地面に叩きつけられたことを思い出す。

”やる気ないの?あるの?”

わからないと答えたのは本質で正解だと思っている。

「君がやらなければいけないことは何?」

「僕のやらなければいけないことは…。」

「わかるよね。馬鹿じゃないんだから。」

「…病気の治療です。」

「そうだよ。だから、それ以外は全部雑音だから。大きく聞こえても全く関係ない。そうでしょ?」

「はい。」

「良い子だね。」


僕の心が不安定な時、川内さんは僕を抱きしめる。僕を落ち着かせようとするために慰めるひとつの方法として。それが朝であれ夜であれ、川内さんが忙しいとかそんなことは関係なく。

川内さん自身、僕を慰めながら自分のバランスをとっている様でもあった。

僕と川内さんは同じような境遇であるようで全く違うのだけどお互いに失ったままのものを埋め合うようでもあった。

2人だけの空間でとても小さな世界の傷の舐め合いのような儀式的な行為はごく自然なことだった。



「木村さんはプライドが高いから、あまり口ごたえしないように。良いね。」

待ち合わせの場所に向かう途中、プリウスを運転しながら川内さんが怖い人に我が子を奉公に出すような顔つきで言うから少し笑ってしまう。

「俺は真面目に言ってるよ。」

「わかりました。」

「越智くんは時々、饒舌になるから危なっかしいよ。」

「では、黙っています。」

「…そうして。」

「はい。」

こんな会話がおかしくて、2人とも笑いを堪えている。

「ねえ、木村さんのヴァイオリンてすごいの?」

「なぜ、僕に聞くんですか?」

「越智くんは、木村さんの生徒だったんでしょ。」

「あまり憶測で喋ると違った時に恥をかきますよ。」

本当は間違いではないけれど、僕は隠し事にしたかったし、何より木村さんに、今の僕と記憶の僕が同じ人物であると思って欲しくなかった。

「…それ、その言い方。やめてね。木村さんの前では。絶対。棘があるよ、越智くんの否定の仕方。」

「怒らないでくださいよ。これ以外に話し方を知らないんですから。」

「困ったね…。良い子でいてよ。頼むから。」

「保証できませんね。」

「お願いね。」

「仕方ないですね。」


待ち合わせ場所は川沿いのカフェ。

新しくできたばかりの白い建物は景色に溶け込んでいる。僕よりも周りに溶け込むのが上手だと思う。


「越智くん、好きなもの食べて良いから良い子にしてね。」

「…わかりました。」


駐車場には白いビートルが一台。僕がレッスンに行っていた時は、スマートに乗っていたから趣味が変わったんだろうか。

一応、ちゃんとしたジャケットを着せられて、首の傷が見えないようにハイネックのインナーを着てボタンダウンのシャツを着た。履いているパンツもカジュアルながらきちんとしたもの、靴もそれなりの革靴。まるで七五三のようで着慣れない服に多少の違和感を覚えていた。


「僕、この服正解ですか?」

「いつものパーカーとジーンズより良いよ。」

「高いんですか?この服。」

「ん?昨日選んだから覚えてないな。」

「値段見ないんですか?」

「値段は見ない。」

「へえ。」

「ん?」

「あ、いえ。」

やっぱり、川内さんは成功者なんだ。借金だらけという出立ちでもないし。ガツガツ前に乗り出すタイプでもない。

「川内さん。」

「何?」

「ひとつ、訂正します。」

「うん。」

木村さんとのことは、川内さんならきっと一緒に内緒にしてくれると、この時の僕には確信があった。

「木村さんの生徒であったことは、間違いではありません。」

「そう。」

「ですが、木村さんや美恵子さんには、そうであるとは絶対に言わないでください。」

「…わかった。」

僕が2人に同じ嘘をついていることを川内さんは瞬時に感じ取ってくれたようだった。

「君はやっぱり俺には嘘がつけないね。」

ふっと笑ってお店のドアを開ける。川内さんが入る後についてお店に脚を踏み入れると店員さんが静かなトーンで席を案内してくれる。


木村さんは、窓の外を見ていてこちらを見ない。

「川内さん、私が先に来るって変よね。」

明らかな不機嫌のお芝居になんの意味があるんだろう。木村さんのプライドの高さは全く変わっていない。

「すみません。越智の家に寄っていたもので」

嘘には嘘の言い訳を。

「ま、座って。」

僕は通路側、川内さんは窓側に座る。僕に視線を落とす木村さんと目が合う。

「いくつ?」

「越智くん、いくつだっけ。」

「23です。」

「もっと子どもに見えるわね。」

コーヒーを飲みながらふふっと笑う。僕は、川内さんの言うことを聞いて口ごたえをせず黙ってニコニコする。木村さんに会うことを予告されていたから料理屋さんでアルバイトをするより簡単なことだ。

「越智くん、好きなもの食べて。」

「はい。」

川内さんがメニューを見せてくれた。メニューには、トーストにピザ、ケーキが数種類…。

「越智くん、ここのチーズケーキきっとあなたの口に合うわよ。好きよね?チーズケーキ。」

「僕が好きなのは…」

川内さんに膝を指で突かれる。余計なことは言うなということ。

「…では、チーズケーキをいただきます。僕だけ食べるのは気が引けるのですが…。」

「そう?それなら私もいただこうかしら。川内さんは?」

「いただきます。越智くん、頼んで。」

「はい。」



僕がチーズケーキを嫌いではないということは、間違いではない。


レッスンが終わってからおやつをいただいたことが何度かあり木村さんが時々、ベイクドチーズケーキやレアチーズケーキを作ってくれたことがあった。

娘さんの分と僕の分を作ってくれていた。

僕はだいたい、火曜日の夕方4時にレッスンに来ていて、僕の後には1コマ空いていて、おやつを食べさせてくれたのだ。


だから、木村さんは僕がチーズケーキが好きだと思っている。


そのケーキの味は全く覚えていないけれど。


「美味しいでしょ」

「はい。とても。」

しっとりとしていて、甘すぎずチーズが濃い。たくさん食べてはきっと胸焼けしてしまうが、少し小さくてちょうどいい量だ。

「で、越智なんですが、ぜひ、スタッフに加わりたいと」

僕はそんなことは言ってないけれど、会わせるということはそういうことに決まっているんだと諦めはついていた。

「そう。よろしくね。」

「はい。」

ふふっと笑ってみせた。嫌いな相手であることを極力感情の外へ出し、取り繕い隠している作り笑いだ。


川内さんに恥をかかせないために僕は良い子でいる。


「越智くんは…ヴァイオリンは好き?」

あごに指を当てながら喋るクセも同じだ。僕の中ではヴァイオリンのレッスンを受けた木村先生の記憶と完璧に一致してしまう。年齢こそ重ねているものの薄く笑い目を細める表情も全く変わっていない。

「…はい。」

「好きな作曲家はいるかしら?」

「…詳しくはわからないです。」

「正直で良いけど。…お勉強してちょうだいね。」

ただの楽屋係に何を求めているんだろうか。

「イベントスタッフなのに、何もわからないなんておかしいじゃない?ねえ、川内さん。」

僕ができないと川内さんが恥をかく。

「わかりました。越智には勉強させます。」


父と母に恥をかかせた小学4年生の頃と同じになってはいけないと思う。

僕はこの人の前で再び自分に近い人に恥をかかせてしまうかもしれない。

「よろしくね。越智くん。」

「よろしくお願いします。」

僕の嘘の笑顔を剥がすように余裕の笑みを浮かべて覗いてくる。


やっぱり、嫌いだ。


背中に流れる汗が僕の体温を一気に下げる。寒気がしてきて震えがとまらない。

「あら、寒い?越智くん。」

もう、笑えない。作り笑いの仮面は音もなく割れた。

「木村さん、越智はあがり症であまり話したことがない方の前だと緊張してしまって。」

「そうなの。あ、美恵子さんのお店でもよく失敗してるわね。あなた、本当に大丈夫?」

「…すみません。」

苦味の少ないコーヒーの温度はとてもぬるい。何のごまかしもできない。そんな気分にさせられた。

「昔、コンクールの日に熱を出した男の子がいたの。」

「え」

「あの子、私にもご両親にも謝らなかったわ。体調の管理は演奏者の基本よ。健康でいることは礼儀だから。その後からずる休みをするようになって教室を辞めたの。才能はあったけど、子どもだからって許されないことをしたのよ。」


13年も前の出来事だ。今ここで引き合いに出す意味などないはずだ。


「くだらないわね。こんな話は。」

コーヒーを飲む姿にイラつきを感じる。

「私をがっかりさせないで。いいわね。」


僕ががっかりさせてはいけない人は、この人よりも

「越智にはこれから勉強させます。」

「そうね。よろしくね、川内さん。」

川内さんの方だ。

固く握りしめる拳が、虚しい行いだとはわかっている。こんなことを悔しがること自体が馬鹿気ていることも。


実家の自分の部屋に帰った。

クローゼットの中、しまいっぱなしのをヴァイオリンケースを引っ張り出して開けてみた。

予想通り弦は全て切れていて毛弓はボロボロ。松脂に至っては、ツヤを失って割れている。



謝るのは僕じゃない。

あの頃の僕が何を謝らなければいけないと言うのか。


僕は誰に何を言われようと間違ってなどいなかったんだ。


レッスンをやめてからもヴァイオリンを弾き続けていたかった。


切れてしまった弦がその道を断った理由だった。



料理屋の休業日の水曜日。

午後5時の商店街はそこそこに人がいて、お肉屋さんは軒先で焼き鳥を焼いている。炭火に焼かれるタレが食べたくなる匂いで横目で見た。


「食べる?越智くん。」

僕は休みの日少しだけ散歩をする。平日なのに、お国の制度で有給を使わなければならない川内さんが僕の散歩に付き合っている。

「ここで買ったとしてどこで食べるつもりですか?」

「歩きながら食べれば?」

「ゴミはどうするんですか?」

「持って帰ればいいよ。」


川内さんはお肉屋さんに吸い寄せられて数種類の焼き鳥にコロッケまで買ってしまう。


「そんなに買って、どうするつもりですか?」

「ははっ。もう帰ろうよ。」

「散歩しにきたのに買い物するって意味がわかりませんよ。」

僕は少しだけ怒って見せた。


「よく歩いたよ。これはご褒美。」

川内さんはにっこり笑う。

「もう、大丈夫なんですね。」

「ん?」

「脅迫性障害」

「越智くんとちゃんとした食べ物は平気なんだよ。他は洗わないとだめ。人もね、俺に触るなって思う。」

「こだわりの境界線があるんですね。」

「信頼の差だね。馬鹿馬鹿しいだろ?」

「いえ。全く。」

川内さんがふふっと笑う。

「散歩はリハビリだろ?」

「はい。視線を気にしない訓練です。」

「順調?」

「以前はたくさんの人に見られている気がしましたが、今は、人はさほど他人のことなど見ていないと思えるようになりました。」

「うん。多分、ここで越智くんが砂肝を食べても誰も気に留めないよ。」

川内さんは僕の見ない間にムシャムシャと砂肝を食べていた。こんなに自由度が高い大人も珍しい。

「川内さん」

「ん?」

「僕はヤゲンナンコツが良いです。」

「ふふ。あるよ。食べる?」

「はい。」

白い紙袋を開けて軟骨を取り出して口に入れる。

「おいしいよね?」

コリコリとした食感に塩味の肉。

「僕にはご馳走です。ありがとうございます。」

「どういたしまして。ビール飲みたくなってきたな。越智くん、帰ろうよ。」

川内さんが、とても帰りたそうにしているのはよくわかる。食べ終わった串を持て余しているし。

「僕、行きたいところがあって。」

そう言いながら、ゴミが捨てられそうな場所がないか周りを見渡す。

コンビニの横を通りながらゴミ箱が目に入った。

「ついてるね、越智くん。」

「本当ですね。」

食べ終わった焼き鳥の串をティッシュで包んで二つに折って捨てる。そのまま捨てないのも、川内さんのこだわりだろうか。

「ちょっと待って」

ウェットティッシュで手を拭いて使い終わったものはゴミ箱へ。

「越智くんも使う?」

「ありがとうございます。」

「うん。」

僕も同じように手を拭いて捨てる。

「で、どこ行くの?」

「焼き鳥が冷めないように心がけますが、少し時間がかかるかもしれません。」

「ん?」

川内さんが首を傾げるのも当たり前だ。

「そこの角のご老人の方がやってる楽器屋さんです。」

「楽器?」

「直したいんです。馬鹿げていますが、弦を張り直したくて。」

合点がいったような表情を見せてくる川内さんに少し笑ってしまう。

「…ヴァイオリン、高いやつなの?」

「いえいえ、練習用で、大したものではないです。急いでいませんので…また、買いに来てもいいですし。弦が売り切れるなんてことはないはずですから。…やはり、焼き鳥を最優先に。」

「焼き鳥は、レンジで温めればいいから、弦買いなよ。」

「いいんですか。」

「嬉しそうだね。」

「直してあげたかったので、つい。」

「ふふ、いいね。」

川内さんは中に入らず外にいると言い、僕だけが小さな楽器屋さんの自動ドアを潜った。


小学生の頃、何度か父と一緒に弦を買いに来た頃とあまり変わっていない。

演歌のレコードにスティービーワンダーのCD。ピアノの楽譜は壁面の棚に並んで、尺八がショーケースに入っている。雑多な場所。壁には小学生の職場見学のお礼が貼ってある。

13年も来ていないのに、記憶との相違があまり見られない。

カウンターにはおじいさんが1人。こちらを見たり、カタログを開いたり。

「すみません。あの。」

「いらっしゃいませ。」

「ヴァイオリンの弦が欲しいのですが。」

「そこの引き出しに入っていますよ。」

おじいさんの指が示す棚の引き出しを開ける。紙に包まれたヴァイオリンの弦。E、A、G、D…4本全ての弦を手にカウンターに向かう。


「ユキト、弦の張り方、お父さんわかんないけど。」

父はそう言いながら、ヴァイオリンのレッスンの帰り道、このお店で弦を買ってくれた。レッスン中にA線が切れてしまったのがきっかけで、弦は交換しなければならないと知った。先生が弦を張り直すのを見て、張り直された弦はもっとステキな音を出してくれそうな気がした。

「今日、先生に聞いた。大丈夫。」

僕は何が大丈夫かも確信もないのに自分で交換してみようと先生に教えてもらったことを思い出していた。半年に1度は換えなければいけないのだということが、僕には何か魅力的だった。



弦を張り直したら、僕はまだ弾けるだろうか。

ボロボロになってしまった毛弓も持って来ればよかった。


僕は、もしかしたら今でもヴァイオリンが好きなのかもしれない。


受け取ったものをポケットに入れて外に出る。


「意外と早いね。」

外で待っていた川内さんが僕を見て言った。

「お腹…空きました。」

僕を優しく見るその顔は、一緒に弦を買いに来た父に似ている。

「オレンジジュース買ったから帰ろう。」

「ありがとうございます。」

もし、あの時レッスンを辞めなかったら、僕は今でも父と仲が良かったのだろうか。

「川内さん。」

「ん?」

夕陽の見える商店街。

「子どもがいたら、と考えることはありますか?」

「…ないかな。結婚するような人もいないし。」

「出会わなかったんですか?」

「ふふ、出会ったけど、叶わなかったよ。」

「そうですか。」



温め直した焼き鳥は、驚くほどに美味しくて。皮もモモもレバーも贅沢すぎる味わいだった。

川内さんにお金を渡そうとするといらないって。だから、ご馳走様ですとお礼を言う。ビールを飲んでいた川内さんはいつも通りにウイスキーを飲み始める。お気に入りのピーナッツにピスタチオ。

僕には

「マシュマロ、どうぞ。」

個包装のチョコマシュマロを2つ。

「いただきます。」

「お酒飲む?」

「いえ、いりません。」

「そう。」

「はい。」


ポケットの中の弦。手を入れて触る。懐かしい音が聞こえる気がして。


「チャールダーシュって知ってますか?チャルダッシュともいいます。僕はずっとチャルダッシュだと思っていました。」

「ダーラララーラー、ラーラーラー。……でしょ?なんで?」

「ふふ。」

「何か、おかしいの?」

「いえ。」

「…今日は少し酔ったかな。」

川内さんの照れ隠し。酔ってなどいない。

「この曲でコンクールには出られませんでしたが、とても好きでした。」

「…いいね。」

「もし、…。」

「ん?」

「いえ。」


川内さんが僕の頭をわしゃわしゃと撫でる。話してもいい、話さなくてもいい。そんな風にしてくれているようだ。


「オレンジジュース飲む?」

「はい。」

川内さんは立ち上がって、陽気なふりをしてチャールダーシュを口ずさむ。

父も気分がいい時は僕が弾くヴァイオリンを聞きながら同じメロディを口ずさんでいた。


レッスンを辞めて失ったものは父と僕の友達のような関係性。

僕は隠れてヴァイオリンを弾いていて、E線が切れてしまった後に、父に弦を買いに連れていって欲しいと言えなかった。

もうなんの役にも立たないヴァイオリンのために父にお金を出してもらうことが申し訳なかったから。


「川内さん。」

「ん?」

「木村さんのお仕事ですが。」

「うん。」

「とても怖いです。」

「…そうだね。」

「僕はヴァイオリンは好きですが、木村さんは嫌いです。」

「…わかるよ」

目の前にトロピカーナのオレンジジュースを置いて川内さんが横に座る。

「もっと、ヴァイオリンを弾きたかった。父とずっと仲良くしていたかった。母を泣かせたくなかった。僕はヴァイオリンが好きだったんです。でも辞めたのは僕です。父は怒りましたが、僕には辞める以外に選ぶものが無かった。好きなものを手放したんです。」

涙が滲むのがわかる。

「弦を張り直したところで何もかも元に戻るわけじゃないこともわかっているのに。僕は本当に馬鹿なんです。」

「木村さんが越智くんに何をしたかはわからないけど、俺は越智くんの味方だよ。木村さんはいなくてもいいけど。越智くんはいなきゃ困るんだ。」

川内さんは目線が合うと目を細める。

「ピーナッツ食べる?」

「いりません」

「なんで?」

「嫌いなので。」

ふふっと笑う川内さんに安心して、つられて僕も笑ってしまう。

「そういうなよ。」

口に入れられたピーナッツを噛み締める。

「どう?」

「…やはり、好きにはなれません。」

「あーあ。」

諦めたように笑い出す。僕は眉間に皺を寄せる。油っこさに苦みに砕いた粒の感触に。オレンジジュースで流し込むと後悔する。恐ろしいほどにピーナッツを残すものだから。

「…生きるとはこういうことかもしれません。」

「ん?」

「苦しさをいかに回避するのではなく直面し、より苦しみを味わい後味まで後悔するという。」

「飲み物が、ビールなら多少違ったかもね。まあ、慣れって言う結末もあるけどね。」

「慣れ…」

「うん。俺は逆にオレンジジュースが飲めないし。」

「そうなんですか。」

「甘くて酸っぱくて…喉が、なんか嫌なの。だから、飲まない。」

「へえ。」

「甘い酎ハイもふざけんなって思う。」

「ふふふ。」

「おもしろい?」

「はい。」


ウイスキーを注いで氷を突く。


「回避できるものはね、頭の上を通り過ぎていくのにね。」

一口、含んで飲み込んだ。

「ごめんね。断れなかった。美恵子の友だちだから。」


僕の頭をゆっくり撫でる。仔犬を愛でるようであり、憐れみのようであり。


「料理屋が嫌ならいつ辞めても構わない。木村さんのことで辛い目に合わせているし。君が社会復帰する場所はもっと他にある。」


僕が仔犬なら撫でてくれるその手を意味もなく舐めて泣きそうな顔をした目の前の人間を慰めるだろう。

僕の居場所はあなたのそばだよって簡単に意思表示をするんだろう。手放さないでと小さな声をあげるだろう。


「苦しめているのは俺かもしれない。」


瞬きをするたびに視界が歪む。


「選んだのは僕です。」

白くて柔らかいマシュマロ。齧ると滲み出るチョコレートソース。捕食する喜びを感じる生きていることを思い出す。


抱きしめられる。人の体温に性別は関係ない。手を繋ぐのは目の前にいる川内さん。手をひくのもそう。


僕は溺れないように息の仕方を忘れないように現実の波に流されないように川内さんを目印にしてきた。


たったひとつ。

心の拠り所。僕のいる場所。




ヴァイオリン教室。

その看板は少し薄れているものの僕が小学生の頃、毎週見ていたものと変わりなかった。


木村さんに呼び出された午後1時。


午前中にiPhoneが鳴って夢から現実に戻されてそのまま電話に出た。木村さんは極めて静かに話し、僕は言われるままに「はい」と返事をした。


ベッドから起き上がってシャワーを浴びて首の傷跡は隠す必要があるだろうから襟の大きめのシャツを着た。僕にしてはちゃんとした服。


仕事をする。

そんな心算でここに来た。


家屋から音色が聞こえる。きらきら星。きっと小学生が習いにきているんだろう。

レッスンの邪魔にならないように玄関の引き戸を開けて中に入った。


何も変わらない。


時が戻ったようだ。いや、ここだけ止まってるんだ。


レッスンが終わるまで玄関に座って待っていることにした。木村さんの声と、音色が交差しているが、音色が聞こえなくなった。弾くのを止めたのか。


玄関からすぐのレッスン部屋。襖を開ければ中が見える。座ったまま襖をずらす。


部屋には木村さんと小さな男の子。1年生くらい。学校の制服を着ている。その体に木村さんが触れている。


何も変わっていない。


「姿勢が大事なのよ。」

小さな体に細く長い指を這わせている。

何も言わない男の子がその行為にじっと耐えているように見える。顔が強張って今にも泣き出しそうなのに誰も助けてくれない。閉ざされた世界。


僕は僕を救えなかった。隙間から見えるこの光景に思わずiPhoneを向けた。


「あなたには才能があるわ。だから、ちゃんとがんばるのよ」

木村さんのその声に細める目に幼い頃の僕の記憶が蘇る。才能があるから木村さんから逃れられない。

「パパにもママにも喜んで欲しいわよね。」


男の子の制服のシャツのボタンを外す。僕が見ているとも知らず。男の子の体に舌を這わせる。僕は、思わずiPhoneを落とした。


先生が男の子の服のボタンを締め始めて、僕は襖を音を立てないように閉めた。iPhoneは拾ってポケットにしまう。僕が見ていたことがバレないように。僕は僕で必死だ。


襖が開く。

「来ていたの?」

木村さんが僕を見下ろしている。

「すみません、つまづきました。」

「生徒が驚くじゃない。」

木村さんの後ろには男の子が立っている。僕は取り繕って笑顔を見せた。

「綾くん、ちょっと休憩ね。リンゴジュース持ってくるわね。」

「はい。」

男の子は綾くんと呼ばれ、とても物静かに見える。

「越智くん、仕事の資料持ってくるから、待っていて。」

「はい。」

木村さんは、ダイニングを抜けて奥の部屋へ。僕と綾くんは2人きり。少し手持ち無沙汰だとは思いながらもレッスン室に入る。


やはり変わっていない。スタンドピアノがあって、壁際に2脚椅子がある。壁面には教材の楽譜と、マガジンラックには早く来てしまった生徒の暇つぶし用のガラスの仮面とドラえもん。


「お兄ちゃんも生徒?」

「いや。僕はお仕事で。」

「ねえ、ちょっと見て。」

男の子は僕の前でヴァイオリンを構えて見せた。

「姿勢悪いの?僕。」

すっと、構える出立は僕の見る中では完璧だった。

「とてもかっこいいよ。姿勢悪くないよ。」

「そうだよね。僕、ちゃんとやってるのに。いつもお仕置きされる。」

「ん?」

「肩とかぐいぐいされたり、脚もお尻もつねられる。」

俯いていじられた場所を教えてくれる。お仕置きという体裁のいい言葉で体を触られていると、僕に訴えているのだ。


「お父さんやお母さんは知っているの?」

「先生が上手になるためだから言っちゃダメって。体がザワザワして嫌な気分になるの。嫌なの。嫌なの。」

綾くんが小さな声で一生懸命話してくれる。木村さんがいつ戻ってくるか分からない。


「さっきも嫌だったね。」

「信じられないんだから。お腹舐めるの。」

「怖かったね。」

僕に自分がされたことを話していることが木村さんにバレてはいけないとわかっている。滲む涙を服の袖で静かに拭う。

「綾くん、ヴァイオリンは好きなの?」

「…好き。綺麗な音出したいの。」

「うん。先生は木村先生だけしかいないわけじゃないよ。」

「そうなの?」

「もっと大きな教室だってあるんだ。お父さんとお母さんにお話ししてごらん。違う先生に習えるようになるかもよ。ここで嫌な気持ちでいちゃダメだ。」

「信じてくれるかな。」


ポケットのiPhoneが、ずっと録画しっぱなしになっている。

「綾くん、スマホ持ってる?」

鞄から出してくれたのは偶然にもiPhoneだった。どんなご両親なんだろうと少し疑ってしまうが、エアドロで動画を送った。

「お話ししても信じてくれなかったら、これを見せるといいよ。そしたら、絶対に信じてくれるから。」

「怒らないかな。パパとママ。」

「大丈夫。パパとママは綾くんの味方だよ。」


僕がこの子を救えるわけもない。だけど、僕と同じ結末にはなってほしくない。


「ねえ、きらきら星聞いて。」

すっと構えて弦に弓を滑らせる。弾むような音色に僕は手拍子をする。楽しそうに一生懸命、左指を動かし右手で弓を滑らせている。演奏を終えた顔には自信が満ちている。

「どう?」

「とてもステキだよ。」

「うん!」


綾くんはお母さんが迎えに来て木村さんにさようならを言って帰っていった。


僕は木村さんから資料を渡された。

演奏曲が書いてあったり、楽屋に必要なものだったり。

「娘と一緒に弾く曲が2曲。」

ため息をついて珈琲を口に含む。

「私と娘じゃニュアンスが違うのよ。私があの子に合わせて弾かないといけないのかしら。」

僕は娘さんがどんな人なのかよく分からないから、黙って聞いている。


「ジュピター…。ロンドンデリー…。弾いてもいいけど私の本質じゃないのよね。娘に寄せてるのよ、気に入らない。」

聞く人にとってはどうでもいい話だろう。僕は、木村さんの言葉にあくびが出そうだった。だいたいコンサートの主役は娘さんなんだし。


「主催者の教養の無さが伺えるわね。」

つまりは、川内さんが木村さんの本質を理解していないと僕に八つ当たりしているということ。

「黙ってないで何か言ったら?」

僕は資料を読み込んでいるふりをして、

「…楽屋に必要なものは、理解できました。差し入れは受け入れていいのですね。」

理解したように話す。

「そうよ。」

「わかりました。」

「それだけ?」

「はい。」

「あなた、私と仕事するのよ。」


明らかなイラつきを見せてくるので僕も少し腹が立った。

「ピアニストの方とのリハーサルは、何時が良いでしょう。川内さんとも擦り合わせる必要があります。前日は、通してリハーサルをするそうです。楽屋には何時に入りますか?」

だけど、ここに個人的な感情はいらなくて、ただただ事務連絡をすることに徹する。僕は、自分の感情を殺すことに慣れてきている。社会の片隅にそっと生きるために必要なこと。


「そんなこと、そっちで考えなさいよ。それを私に伝えてくれたら合わせるんだから。」

「では、そのようにお伝えします。他には何かありますか?」

「空気清浄機を置いてちょうだい。加湿器も忘れないで。ドレスはシワがよらないようにハンガーにかけておくのよ。」

「わかりました。」


主役の母は、主役よりも高みにいなければいけないのだろうか。演奏曲は3曲。

演奏技術のレベルの高い曲が並ぶ。ただ、素人向けではない。開始5秒で飽きてしまいそうなクラシックのマイナー路線。自分を見せつけたいだけのエゴイズムの塊だ。



対する娘さんの演奏曲は…当日のチラシを見て僕はそういうことかと、今まで気づかなかったことに笑うしかないと思った。


僕の忘れられない人が堂々とした姿で印刷されている。


弦群弓美 ふるさとコンサート2022


僕はとても鈍感だ思う。


ティボール・ヴォルガ シオン国際ヴァイオリンコンクール優勝。 若手のヴァイオリニストが挑戦する国際コンクール。


もう手の届かない存在になった。

僕がリハビリをしている間に遠くに行ってしまった。


路上でヴァイオリンを弾いていた彼女はどんな曲でも弾いていた。ロックにポップス、オルタナティヴ、演歌に歌謡曲まで。人気の楽曲も定番のクラシックも。弾けないものはないのではないかと思った。


彼女が木村さんの娘だと気づく瞬間なんて全くなかった。


ここにいた彼女には一度も会ったことがなかった。ここに来ていた頃僕より2つ年上の彼女がヴァイオリンをやっていることも知らなかった。


「木村さん、それではまた。」

僕が帰ろうと玄関を開けると木村さんは

「あなた、いつまで私に嘘をつく気?」

僕が、木村さんの生徒であったことには間違いがない。その記憶の正しさを僕に押し付けてくる。


「嘘などついていませんよ。」

僕は、この小さな嘘は突き通そうと決めている。

木村さんの元生徒ではない、という嘘を。




コンサートが終わるまで、アルバイトには行かなくていいと川内さんに言われていて僕はそのようにする。


2つのことを抱えるときっと僕が破綻するから。


木村さんに言われたことを川内さんに話すとふふんと鼻で笑うようだった。

コンサートのチラシを見ながら川内さんはピーナッツを食べる。

「映画の主題歌も演奏しているそうだよ。」

弓美の写真をとんとんと突きながら言う。

「どんな映画なんですか?」

「桜の舞う日におじいさんと犬が死ぬ映画。」

「……良い話の映画ですか?」

「おじいさんには過去に犯罪歴があって…犬は殺処分寸前の…。」

「へえ。」

「ね。見てみようか。ネトフリにあるかな。」

「残念ながら、死ぬ話はまだ見たくありません。」

鬱の治療中であり、人が死ぬのを目で見たら映像であれ自分の死を想像してしまうからなるべくそういった類のものは避けていた。

「そう。」

「はい。」

川内さんはウイスキーを飲みながら機嫌が良さそうだった。


「しようか、越智くん。」

川内さんがこんな風に僕を誘うのは珍しくて

「……良いですが。」

僕は少し戸惑った。

「気分じゃない顔だね。」

川内さんは機嫌がいいんじゃない。こんな時は、きっとイライラしている。木村さんのことが面白くないのだろう。


「すみません、面白くない話をして。」

「…ほんとうだよ。あんなおばさんどうでも良いでしょ。」

明らかなイラつきで、僕の唇に唇を重ねる。ピーナッツの味が苦い。ウイスキーの残り香が喉の奥を熱くする。

「川内さん。」

「何?」

首筋の傷跡を舐められる。

「僕は木村さんから虐待を受けていました。」

「え」

「今日、同じ目に遭っている男の子に会いました。その子は、僕と同じようにヴァイオリンをやめることにならなければいいと思っています。」

頭を包み込まれる。

「どこ触られてたの?」

「全てです。本当に嫌でした。その娘さんが彼女であり、弦群弓美さんで僕は頭がおかしくなりそうです。僕はどんな顔で彼女に会えばいいのでしょうか。」

「彼女のことは好きだったの?」

「大好きでした。嫌いになったと言われても今でも忘れられません。おそらく今でも大好きです。」

「越智くんがヴァイオリンをやっていたことは知っている?」

「知りません。彼女には全く関係のない僕の過去です。」

「ごめんね、君に俺がイラつくのは違うよね。怒りに任せて抱くところだった。ごめんね。」

僕を抱きしめる川内さんが僕の肩に涙をこぼしている。どうして泣いているんだろう。川内さんの腕の力が緩むと不安になる。


「あの、川内さんもっと強く抱きしめてもらっていいですか。」

「え」

「人は優しい体温で暖かいと記憶したいんです。」

「なら、越智くんもやりなよ。」

「え」

「いつも俺しか抱きしめてない。君もしがみつけばもっと暖かいよ。」

川内さんの肩に手を回した。久しぶりに人にしがみついた。子どもの頃、父にしがみついていたことを思い出す。

「いいでしょ。」

「はい。とても。」

「お酒くさくてごめんね。」

「いえ。僕にも飲ませてください。」

「どうしたの?」

「たまには酔ってみたくて。」

「いいね。」


父と母は、僕がヴァイオリンを辞めて仲が悪くなった。父は僕と口をきいてはくれないし、母も僕と距離を取るようになり、僕は家にいても1人だった。家族はバラバラで辛うじて共に食卓を囲むだけだった。


だから余計に弓美と出会えて僕の毎日は明るく見えた。彼女の弾くヴァイオリンが好きでたまらなかった。とても贅沢な時間だった。


僕には受け入れるのが難しいウイスキー。少しだけ飲んでみる。固いような渋いような棘のあるような味が僕の記憶を呼び起こす。


「好きです。父も母もヴァイオリンも彼女も。みんなは僕を求めなくなりましが。僕は、今でもずっと好きなんだと思います。」

「そう。」

川内さんがふっと笑って僕にマシュマロを2つ差し出す。

「色んな話をしてくれたからご褒美。」

「ふふっ。ありがとうございます。」


口の中に広がる渋みを緩和してくれるマシュマロの甘さ。


僕の壊れてしまった小さな世界。

僕が壊してしまった小さな世界。






修理に出していた弓を受け取った。午後2時。


街の外れの小さな楽器屋さんは、有線の演歌が流れる。店主のおじいさんは時々その歌を口ずさんでいる。


音を出すには、松脂が必要だから意を決して買うことにした。


「松脂の付け方知ってるのかい?」

「やってみれば思い出すと思います。」

「弓貸してごらん。」

僕に渡してくれたばかりの弓を貸せという。僕は抵抗することもなくおじいさんに弓を渡す。おじいさんはお会計したばかりの松脂の包みを剥がす。

「こうやって、弓を張ってから、松脂に擦り付ける。やってごらん。」

「はい。」

言われる通りにやってみる。

「上手いね。」

「覚えていたようです。」

「忘れないでね。」

「はい。」


実家の自分の部屋に入る。午後3時。

ヴァイオリンをケースから出して弦を張り直す。YouTubeを見ればなんとなく弦は張れた。調弦の仕方も覚えている。

四年生の頃に使っていたものなのに顎と肩で挟んでみるとしっくりきた。背伸びして大人用のヴァイオリンを買ってもらったのを思い出す。ずっと使うと約束して買ってもらったのだ。

弓を滑らせチューナーで確認しながら音を合わせていく。正しい音になる。



左指で弦を押さえて右手で弓を滑らせる。


昔と同じ音だ。


指が動き出す。


「とおき、やまに、ひはおちて…ほしは、そらを、ちりばめ…ぬ。」


弾ける。

僕はまだ、僕の指はまだ、ヴァイオリンを覚えている。綺麗な音も、力強い音も、全部覚えている。


「ユキト、いたのか。」

無我夢中で気が付かなかった。僕の部屋の扉を開けて父が僕を見ている。

父は交代制で働いている。早番の日は、午後3時半ごろ家に帰ってくる。


「ごめん。うるさいよね。しまう。終わりにする。ごめん。」

たたみかけて謝るより他ないと思った。今更、ヴァイオリンを弾き始めてどういうつもりだと、きっとこの後冷たい目をされる。

「まだ、弾けるんだな、ヴァイオリン。」

僕の予想とは裏腹に父は、柔らかい表情を見せてくれた。

「弦、張り直して、弓も修理したから。」

父が部屋に入ってきてベッドに腰掛ける。

「聞かせてくれ。」

「え。」

「そうだな。キラキラ星かな。」

「…わかった。」


父は、僕がなぜヴァイオリンを直したのかとか、いつもどこで何をしているのかとかそんなことは一切聞かず、僕の奏でる音を黙って聞いていた。


昔を懐かしむようで、今を取り戻すようで。

「懐かしいな」

「うん。」

このまま、また、父との距離が縮まれば良いと思った。

「お父さん。」

「ん?」

「ごめんね、…ずっと。」

「…お互い様ってやつだな。」

僕の頭を少し遠慮したようにポンポンと触る。小学生の頃に戻ったように、もっと父と話したい。

「やっぱり、ユキトはヴァイオリンが上手だよ。」

「うん。」

誰の賞賛の声も要らなかった。父や母が喜んでくれるだけで良かった。才能があるとか、そんな汎用性のある言葉なんかちっとも嬉しくなかったんだ。

「また聞かせて欲しい。」

「うん。」

父にしがみついた。そんな僕を受け入れる父はとても暖かかった。



コンサートの前日。午前10時。

退院後始めて車を運転する。

心臓が飛び出しそうなほど緊張している。後ろの席に木村さんを乗せて会場の小学校までたった10分の距離なのに。それでも手汗でハンドルが信じられないくらいに濡れている。


「越智くん、会場に着いたら荷物運んでね。」


この信号は右だ。だからウインカーは下に。右手でゆっくりウインカーを下げる。


「楽屋にはミネラルウォーターを準備するのよ。ボルビックしか飲まないからね。」


青になったら、アクセルはゆっくり踏み込む。

青だ。ゆっくり。急発進にならないように。


「あと、ウエットティッシュも忘れないで。」


ここは追越車線に入らないといけない。

曲がるときに入っておけば良かったのに、すっかり車線変更のコツを忘れている。


「ねえ?聞いてる?越智くん?」


木村さんの声が近いけど、そっちに気を取られていては事故を起こしてしまう。車線変更に集中しなくてはいけない。サイドミラーもルームミラーも確認しても後ろから車は来ていない。ウインカーを出して車線変更に成功した。


「ねえ、越智くん!聞いてるの!?」


無事に右折して直進。目的地の小学校に辿り着いた。お疲れ様、僕。木村さんの話は何ひとつ聞いてなかったけど。駐車もうまくいった。自分を誉めて然るべき。


車から降りて後部座席のドアを開けた。

「ちょっと?私の話、聞いてた?」


明らかに怒りの様子を見せてきたから、少しからかってやりたい気持ちがこみあげてくる。僕は元来、少し性格が悪い。運転中に大したことでもない注文を付けてくる方がどうかしている。


「すみません。運転に集中していました。ひとつのことに集中しないといけなくて。

あ、言ってませんでしたっけ。僕、パニック障害って言う病気なんです。事故を起こさなかっただけでも良かったと判断してください。」

木村さんは、文字通り開いた口が塞がらない様子だった。

やがて考えがまとまったのか、更に怒りをあらわにした末の結末。僕の頬に木村さんの右手が飛んできた。つまりビンタってやつだ。


「あなたの仕事は私の言うことを聞くこと!!荷物!楽屋に運んで!」

他人のヒステリーを全身に浴びるのは生まれて初めてだ。こんな理不尽なことがあるんだと逆に笑いそうだ。

「それとあなた、綾くんに何を吹き込んだの?」

突然の問いかけに記憶の整理をする。レッスン生の男の子のことだ。知らないふりをしなくてはいけない。

「…誰ですか?」

「また、嘘をつくの?」

「どういったお話なのかわかりません。」

おそらく、綾くんはご両親に僕が撮った動画を見せたのだろう。だから、木村さんは立場が危うくなっているに違いない。

「今夜、少し話をしましょう。」

「時間外の労働は川内さんに怒られますので。」

「労働?それなら、川内さんに言っておくわ。」

「…そうですか。」

僕は、こんな自分勝手な人に振り回されてはいけないと自分に誓う。

口で反論する術を探しては心が揺さぶられてしまう。あえて、言われたことを受け止めないように、言葉を蓄積させないようにする。

僕の中に溜めていいのは、言われて安心した言葉だけ。


楽屋に荷物を運んで、明日木村さんが着るロング丈のドレスをハンガーにかける。真っ赤で右胸には堂々としたワインレッドのバラの花。袖はレースで、バラの模様になっている。

予備のヴァイオリンはケースから出さない。下手にいじらない方が賢明だ。

自販機でミネラルウォーターを買う。ボルビックを2本。楽屋のテーブルにウエットティッシュと一緒に並べて置いておく。


なんて真面目なんだろう僕は。少し疲れた。


廊下の椅子に腰掛ける。

会場からヴァイオリンとピアノの音がする。


木村さんのヴァイオリンの音を久しぶりに聴いた。やはり演奏は素晴らしくて、性格と技術は比例しないのだと思う。


少し休憩しようと目を閉じる。


足音が近づいてくる。無視して寝ようとするが、スリッパを履き慣れていないのか、リズムがおかしくて気になる。

「わあっ!」

明らかにスリッパの滑ってくる音と子どもの悲鳴のような声に瞼を開く。

目の前には片方だけのスリッパと、片方だけスリッパを穿いた女性。

「ごめんなさい!本当にごめんなさい!」

何度も頭を下げるその顔を見て、僕は思わず、ふっと笑った。


ヴァイオリン以外のことは本当にちゃんとできない人だった。履き慣れない靴が苦手で、特にスリッパは上手に履けなかった。

僕にはそんなところも魅力的だったんだ。全く変わらない。


「大丈夫です。僕には当たっていません。」

「本当に…。」

「大丈夫ですよ。それより履き慣れた中履きを明日は用意することをお勧めします。それがあなたのためかと。」

彼女が顔を上げてまじまじと僕を見た。 


「うそ。」


驚いた顔に、また、笑ってしまう。声を上げて笑いたいほどだけど我慢する。

「越智くん?」

「はい。」

「なんで?」

「さあ…なぜでしょうね。」


彼女は困ると唇を尖らせる癖があって、僕はそれを見るたびに唇をつまみたくなったけど気持ちを抑えていた。

また、つまみたい気持ちが込み上げてくる。あの頃なら100歩譲って許されたとして、今は流石に訴えられそうだ。


「…仕事です。コンサートのいちスタッフみたいなものです。大した役には立たないのですが。」

「へえ。」

「まさか、あなたのコンサートだとは思わず…。」

「…随分、他人行儀だね。」

彼女が納得のいかない顔で僕を見つめる。

「他人ですし。おすし。」

「…何それ。」


僕の隣の椅子に腰掛けて横目で睨みつける。

「少し、ふざけてみました。」

「へえ。馬鹿みたい。」

「ふざけるとは、そういうことでしょう?」

「はは。」

「ふふふ。」

嫌いになった、僕にそう言った彼女とまさか笑って再会できるとは思ってもいなかった。


彼女は、僕の顔をじっと見て、僕の前髪を掻き上げる。

「顔、相変わらずかわいいね。」

「…恥ずかしいから、やめてください。」

見事に赤面する僕は年下であることを理由にされ、頭をもみくちゃにされる。

「ううっ。」

うめき声をあげて抗う。少し、戯れ合うように。

「やっぱり、わんちゃんみたい。」

彼女はケラケラ笑う。

「なんなんですか!久しぶりに会ったのに、馬鹿にしすぎです!」

「んー、よしよし。わんちゃん。」

頬を挟まれておでこをおでこに押しつけられる。

「やめろって!」

彼女はとても楽しそうで、本気で抵抗する気にはなれないから冗談のように少しだけ強く言ってみた。

彼女は僕の頭を優しく撫でる。

「ただいま、私のかわいいわんちゃん。」


嫌いになった、そう言っていなくなったのに。


何も言わずにただ、彼女を見つめた。

「そんな顔しないで。」

僕には返す言葉がない。ただいまに対してお帰りと言えたら楽なのに。心の奥で言葉がつかえる。


「元気?越智くん。」

「弓美と別れてから元気ない。」

「うわ、責任感じる…。」

「…冗談だよ。」

「はは。」

音を立てて崩れた僕の日常。原因の中心は、彼女がいなくなったこと。僕は彼女に依存していたのだ。


「ごめんね、私、うそつきなんだ。」

「え」

「ずっと、ずっと、越智くんに会いたかった。」

「嫌いになったって…。」

「そう言わないと、離れられないと思った。」

「本当に嫌いだったってこと?」

「違う。好きだから離れたの。」

言い聞かせようと僕をじっと見る。


「……難しい。よくわかんない。」

眉間に皺を寄せて子どものように拗ねてしまうのは僕の悪い癖だとわかっている。


こんな時、彼女は少し笑って年上の余裕を見せてくる。今もそう。スリッパもまともに履けないくせに。

「お母さんに今付き合ってる人に会わせなさいって、言われたの。」

「…え。」

「絶対に嫌だった。お母さんが言うには、自分の娘と付き合ってる彼が、本当に娘を大事にする人か見極めたいって。怖いよね。」


ある意味、木村さんらしいと僕は思った。

「私、越智くんと一緒にいた頃はお父さんと暮らしていて、お母さんにはあまり会ってなかったのに。私に彼氏がいることなんとなく勘付いたのかな。嫌だね、女の嗅覚。」


彼女の母親が木村さんであることは僕はわかっているが、彼女の姓は弦群で、木村さんはなぜ木村さんなのかは少しわからなかった。

「お母さんは仕事でずっと木村でやってきたからお父さんの姓は名乗らなかったんだって。

お父さんのヴァイオリンの方が私は好きだったから、お母さんから習ったことはなかった。

お母さんが私のヴァイオリンをあまりよく思ってないのは子どもの頃からなんとなくわかってる。

それでも小学生の頃レッスン室で時々ヴァイオリンを弾いて遊んでいたの。

そういえば、小さくてかわいくて指の綺麗な男の子が、時間を間違えて1時間早く来てしまったことがあってね。」



小学2年。父に送られてレッスンに来た僕は、まだ木村さんがいないレッスン室に入って全く知らない女の子に会った。とても背が高くてヴァイオリンを構える姿が美しかった。

「先生、まだ来ないよ。時間、あと1時間ある。」

「…どうしよう」

「オレンジジュース飲む?トロピカーナあるよ。」

「いいの?お姉ちゃん誰?」

「私?先生の子ども。君、名前は?」

「ユキト。」

「ユキトくんか。私、弓美。よろしくね。」

「うん!」

コップに注がれたオレンジジュースは、氷が入っていて冷たくて、落ち着かない僕にちょうど良かった。女の子は、聞いてと言ってアニメの音楽を弾いてくれた。


僕は木村さんの娘さんがヴァイオリンを弾いている姿を見ていたのにずっと忘れていた。



彼女は昔を思い出しながら、僕が木村さんに体を触れている姿も見てしまったことがあると話してくれた。

「私が、越智くんがあのユキトくんだと知って、母には絶対に会わせたくないと思ったの。

母は、あなたが来なくなってから、私のヴァイオリンも聞くようになって、やっぱりユキトくんには才能があったとか話すようになった。

母はユキトくんに触れなくなってストレスが溜まっていくのが私にはよくわかったし、そのストレスを私にぶつけてくるようにもなったから父と2人で家を出たの。」

「僕が、レッスンを辞めたから弓美にも迷惑をかけたんだね。ごめん。自分勝手で。」

「違うよ。私は、あなたが来なくなって良かったって思ったんだから。いじめられているのをわかっているのに助けてあげられないことが辛かったんだ。」

ため息をひとつ。彼女が俯いた。

「だから、母に恋人に会わせなさいって言われた時は、あなたを守らなくちゃと思った。母に会えば、母はあなたをまたいじめると思ったの。」

僕は彼女の言うことを自分の中で順を追って組み立ていく。

「それと、僕を嫌いになるのが繋がらない。」

「…ごめんね。私に恋人がいない事実を作るための、精一杯の嘘なんだ。あなたを忘れるために、国際コンクールに打ち込んでずっとスイスにいたの。」

思考が飛躍しすぎてついていけない。

ただ、僕を守るために彼女なりに頭を使った結果が嫌いになったという言葉を投げることとコンクールの優勝だった。

「だけど、やっぱり越智くんが忘れられなかった。」

彼女は自分の足を見る。僕も彼女の足を見た。未だちゃんと履けていないスリッパを諦めたストッキングに包まれた足指。

「弓美、ストッキングだから上手くスリッパが履けないのかもしれないね。」

センタープレスのパンツを履いた脚をバタバタさせている。

「意地悪言わないで。」

また、唇を尖らせる。

「僕もね、弓美が忘れられないよ。」

少し頬を赤らめた。

「今でも、…好き。」


彼女の求めに僕は首を横に振る。


「辞めといた方がいいよ。今の僕は、弓美をがっかりさせるから。」

「私のかわいいわんちゃんでしょ?」

「違う。つぎはぎだらけで汚い。」


自分で切った首筋の傷跡を見せる。どんな顔をしたかは見なかった。でも、泣いているのがわかった。


「ごめんね、越智くん。私が隣にいなくて。」


僕がこうなったのは彼女のせいじゃない。彼女と出会えたことは間違いなく僕にとって幸せなこと。


「僕は弓美と一緒にいた時間とても幸せだった。また弓美のヴァイオリンが聴けるのが嬉しいよ。」


求めることにはもう疲れている。

求めなくてもただそこにいると知っているだけで幸せだ。

「コンクール、おめでとう。」


彼女の泣き声に謝る言葉が見つからなくて、隣に座っていた。








気づけば、緑が眩しい夏になっていた。

太陽は沈むことを忘れたように西の空に居座っている。


料理屋のテーブルに美恵子さんと向かい合って座る。

「あなたを返してって川内さんから言われたの」

封筒にはアルバイト代が入っていて、テーブルの上を滑らせるように僕の元に差し出された。

「お世話になりました。」お礼を言って受け取ると

「私と川内さんはね…」美恵子さんが話し始める。


他愛もない身の上話は2人の小さな過去の物語だった。それを聞いたからと言って僕は2人を見る目が変わるわけではない。

川内さんの元を離れた理由も僕からすればありふれた別れ話でタイミングさえ良ければきっと2人は結婚していたのだろうと思わされた。


お店の裏口、出ようとする僕に

「じゃあな、落ちこぼれ。」

料理人の真咲さんが手を振る。

「お世話になりました。」

僕はお辞儀をして料理屋のアルバイトを辞めた。



受け取ったお金をミックスナッツに換えて川内さんの家に向かう。


玄関を開けて部屋に上がり込んだ。

「お帰り、越智くん。」

僕は少し恨めしい顔で川内さんを睨め上げた。

「怖いね。どうしたの?」

ミックスナッツを押しつけて、洗面所で手を洗ってうがいをした。

「越智くん?」

ティッシュで口を拭いていると後ろから抱き抱えられて、リビングに連れて来られた。

「怒ってるね?ん?」

「…クビになりました。僕は、びっくりしています。」

「ははは。そう。」

「笑い事じゃありません。」

「悔しいの?」

「川内さんが、僕を返してと言ったそうですね?どういう意味ですか?」

「んー?そのままだよ。」

「わかりませんよ!」

感情をあらわにする僕に対して、川内さんは、はははって笑った。

「明るくなったね、越智くん。」

「何を言ってるんですか!僕は大真面目にやってきたのに。いつだってちゃんとやっているのに。」

「落ち着いてよ。ね。」

耳をつねられて力が抜ける。川内さんの行為にはいつまで経っても慣れない。


「やっぱり、耳が苦手だね。」

僕は川内さんに以前より心を許していて、力が抜けると、もたれかかってしまう。


椅子に優しく座らせられる。

「急に大人しくなったね。」

僕は思わず赤面してつねられた耳を触った。

「良い子。」

頭をわしゃわしゃと撫でられた。


テーブルには夕食が並ぶ。

「食べるよ。いただきます。」

「…いただきます。」

川内さんの作ったご飯。今日は、肉じゃが。じゃが芋はそんなに好きじゃないし、にんじんは大嫌い。玉ねぎとお肉だけが好きなもの。でも、作ってくれたんだからちゃんと食べる。目をつぶってにんじんを口に入れる。噛んでみる。

「…甘い。」

「ん?」

「おいしい。」

「人参?」

「はい。」

もうひとつ食べて、確認する。

「すごい。なぜ、こんなに美味しいんですか。信じられません。」

「そんなに喜んでくれるなんて思わなかったなあ」

川内さんは笑いながら僕が食べるのを見ている。

「今日は越智くんに提案があるんだ。」

「え?」

川内さんは少し真剣な顔で

「うちの会社においで。」

と言って、にっこり笑う。僕は急な話でよくわからない。

「コンサート楽しかったでしょ。」

「はい。」

僕は返事をしながらも次々に食べ物を口に運んでいる。



コンサートの日ステージに立つ弓美を舞台袖から見ていた。

弾むようなリズムに優雅さも備え響き渡るヴァイオリンの音色。


僕と目が合うと、口角を上げる。

雨の日に出会ったあの日と変わらない力強さも、儚げな感情も空間に広がる奇跡。


ずっと今なら良い。

ずっとこの音の中にいられたら良い。

鼓膜が揺れるたびに時間が過ぎていく。

始まれば終わってしまう一瞬の中で生まれては消えていく大切なものたちを掬い上げたい。


好きだった

好きなんだ

大切だった

大切なんだ

ずっと

ずっと

忘れられない

今手が届くのに

取り戻すのを

拒んだのは僕だ


夕方の空は優しい赤で、車に荷物をしまう僕の時間を止めようとしてくれる。


今、向き合わなければ一生後悔する。


胸に生まれ頭に浮かんだ言葉は、僕を彼女に向かわせた。


「弓美。」

彼女の背中に声をかけた。振り向いてなどくれないかもしれない。終わった僕たちは、それぞれに道を作らなければ歩いていけないから。

「ごめん。僕は嘘つきなんだ。」

何も言ってくれなくても良い。声を聞いて。僕の言葉を文字にして記憶に残してほしい。

「今でも、好きだよ。」


振り返る弓美が僕を抱きしめた。

「越智くん、幸せを見つけよう。

この世界は優しくないけれど。

私と越智くんが一緒に過ごした世界はいつも優しいから。

ヴァイオリンの音は、私と越智くんの共通の世界だよ。」


僕も弓美を抱きしめた。

「きっと、越智くんのそばに帰ってくる。元気でいてね。私のかわいいわんちゃん。」


夕日の沈む小学校の校庭は2人の影を伸ばしていた。




川内さんの会社で働き始めると、僕は薬を飲まなくなって病院にも行かなくなった。

毎日頭を使って疲れるし、実家の自室に帰れば、ベッドに転がってすぐに睡眠導入剤がなくても眠れてしまう。


パニック発作は、どこに行ったのか心の浮き沈みを気にすることもなくなっていった。


川内さんも手荒れが治っているのを見るところ、きっと良くなっているのだろう。


「越智くん、会場の下見に行くよ。」

川内さんと向かうのは公会堂。

僕が小学四年生の頃、出るのを辞退させられたコンクールを思い出す。

舞台装置の確認にステージを見せてもらう。ステージからの景色は素晴らしかった。もしここで演奏していたら、ライトを浴びながら拍手をもらったのだろうか。

きっと、木村さんも舞台袖で僕を見て微笑んだのだろうし、父も母も僕を緊張しながら見守ってくれただろう。


「僕、このステージに立つはずでした。」

ステージから、客席にいる川内さんに声をかけた。


「ん?」

「ヴァイオリンのコンクールに出るはずでした。」

「いつ?」

「4年生のころです。」

「何を弾く予定だったの?」

「チャルダッシュです。」

「あー、チャールダーシュね。」

「ふふっ。」

「何?笑っちゃって。」

「良い景色だなあ。」

ピンスポットのついたステージの真ん中、立ってみると眩しくて客席はほとんど見えない。

「僕ちっちゃいですか?」

「何、当たり前のこと言ってるの?ちっちゃいよ。」

「ふふふ。」

「楽しいの?」

「はい。」

「だいたいわかったから、帰るよ。」

「えー。」

ステージの真ん中にしゃがみこむと、川内さんもステージに上がってきて、僕の襟首を掴んで持ち上げた。

「だめ、帰るからね。」

まるで子犬を扱うようだ。

「なんか、越智くん、だんだんわがままになってきてるよね。」

「僕は元来わがままな駄々っ子で人を困らせる悪い子なんです。」

「やめなさい、そんな冗談。」

「ふふふ。」

川内さんに冗談を言いながら、ステージを降りる。


”ねえ、ヴァイオリンやろうよ。”

声をかけられた気がして振り返る。

ステージには4年生の僕がいる。

”せっかく直したんだから”

四年生の僕が見ることができなかった世界を今の僕に見せてあげることはきっとできない。

「だけど、弾いてみるよ。」

声をかけると微笑んで消えた。


「越智くん、何か言った?」

「いえ。」

川内さんの後ろについて歩く。ステージをもう一度見ても4年生の僕は二度と現れなかった。


外は夏の日差し。汗が滲み出てくるのがわかる。傷跡を隠すため夏でも首の隠れる服を着ている。

「首、暑そうだね?」

「大丈夫です。慣れました。」

「そう?」

「はい。」

車に乗ろうとすると暑過ぎて乗れない。思わず2人で笑った。

「まいったなあ。」

川内さんがそう言いながらエアコンをつける。

外にある自販機で冷たいコーヒーとお茶を買った。

川内さんにコーヒーを渡すとサンキューって言われて、少し照れた。


缶コーヒーはプルタブ式だときっと飲めないから蓋のついたものを買ったから、

「さすが気がきく。」と言われ、余計に照れ臭い。


僕が黙っていると、川内さんは、僕の頭をくしゃくしゃ撫でる。汗をかいた頭を触られるのはあまり好きじゃない。

「久しぶりに一緒に飲もう。」

同じ職場で働くようになってから、僕は川内さんの家にあまり行っていない。

「川内さんの家行く前にピーナッツ買ってきます。」

「そしたらさ、ヴァイオリン持ってきなよ。」

「え」

「聞いてみたいな。」

「良いですよ。」

車内の温度が下がって中に入る。

「川内さん…」

「ん?」

僕は声をかけたわりになかなか言い出せない。川内さんはじっと待ってくれて何も言わずに車を走らせ始める。


「あの…マシュマロ食べたいです。」

最近もらえていなかった、川内さんが買ってくるマシュマロが欲しかった。

「かわいいね、越智くんは。」

僕が生きていると実感できたマシュマロの味。

「チョコレートマシュマロだよね?」

「…はい。」

「お酒とオレンジジュースどっちが良い?」

「…オレンジジュースです。」

「うん。」



夏の夕方は嫌いじゃない。午後6時。


落ち着かない空模様は天気予報の通りに雨粒が落ちてきてパラパラとビニール傘を打つ。片手にヴァイオリンケース。ビニール袋にはミックスナッツ。


鍵の開いている部屋に入り込む。

「お帰り、越智くん。」

キッチンから川内さんの声がして

「はい。」

川内さんにミックスナッツを押し付けるのは僕のこの家に来た時のお決まりの行動。

「手を洗ってうがいをしてね。」

「はい。」

大人になりきれない僕だからせめて素直に言う事を聞こうと思う時もある。

「ヴァイオリン、リビングに置いとくね。」

「はい。ありがとうございます。」

手を拭いて、リビングに行く。

テーブルには、パスタにサラダに生ハム…いつもよりも他所行きのお料理が並んでいる。

僕は少し、後退りした。

「越智くん、今いくつ?」

「にじゅう…あ。」

「24歳の誕生日おめでとう。」

「…わ…。」

思わず涙が滲む。

「全部作ったんですか?」

「ふふ、まあね。」

「…すごい。」

「座って。」

インターフォンが鳴る。川内さんが出て、エントランスのセキュリティを解除する。

「もう1人、お客さんが来るからね。」

「え」

グラスは3つ。

川内さんがワインを注ぐ。

「飲みやすいから飲んでごらん。」

僕に差し出すタイミングで玄関が開いた。


「こんばんはー。」

聞き覚えのある声。

川内さんが玄関に迎えに行く。洗面所で手を洗う音。スリッパをうまく履けない足音。


僕は思わず息を飲む。


「ハッピーバースデー、越智くん。」

片手にヴァイオリンケースを持って現れた弓美。

僕は何も言えずただ、じっと彼女を見ている。その姿にクスクス笑い出す二人に僕も同じように笑い始める。

「なんでいるの?」

初めに出た質問がこの言葉で

「越智くんの誕生日だからだよ」

答えをもらっても納得できなかった。

「また、スイスに行くの?」

「こっちに戻ってきたよ。もうどこにも行かない。……あ、仕事で行くか…。でも、海外にはもう住まない。」

「じゃあ、ずっといるの?」

「嫌?」

「嫌じゃない。」

僕たち二人を見ながら川内さんが取り皿を並べる。

「二人のために作ったから冷めないうちにどうぞ」

川内さんだけ、ソファーの近くのテーブルへ料理を運び僕たち二人をリビングのテーブルに座らせた。

「いただきます。」


3人の空間は気は使わない。

弓美の仕事の話も僕の病気の話も3人で話している。

「川内さんと越智くんはどこで知り合ったの?」

「入院した病院のルームメイトだよ。」

僕が言うと二人が笑う。ルームメイトじゃ学生寮だよって。

「弓美は、こっちでどんな仕事をするの?」

「演奏の仕事だよ。オーケストラとか…来月、公会堂でコンサートもするよ。」

「川内さん、さっきの下見は…。」

「うん、弓美ちゃんのコンサート。」

僕が川内さんと仕事の話をすると弓美も楽しそうに聞いている。川内さんの作った料理を食べながら時間は過ぎていった。


ヴァイオリンをケースから出して弓を張った。

約束通り僕は川内さんに自分の演奏を聞かせる。お酒を飲み交わす僕たちは少し酔い始めているけど、僕はヴァイオリンを手にすると少し神経を尖らせることができた。

「少しだけ弾きます。」

僕はそう言ってドヴォルザークの家路を弾いた。ヴァイオリンを直して最初に弾いた音色を思い出す。ほろ酔いの二人を前に。


弓美が目を閉じて音を聞いている。

川内さんはゆっくりウイスキーを飲んでいる。

僕は自分の懐かしい音が心地よかった。


「越智くん、一緒に弾くよ。」

弓美が、そう言って自分のヴァイオリンを弾き始める。


弓美と毎日いた頃は空想でしかなかったこと。


僕の音と彼女の音が重なって輪郭がはっきりする。言いようのない高揚が僕に湧き起こる。


「すごいね、どっちも上手じゃん。」

川内さんは笑ってピーナッツを食べ始める。


「越智くんチャルダッシュ弾けるよね」

「うん」


二人共通の音は、昔の思い出を引き連れて、今を現実に感じさせてくれる。


彼女がいなくなってから同じ気持ちでずっといた。


会いたいとずっと思っていた。


川内さんが会わせてくれた。

僕たちを偶然にも再会させてくれた。


生きていれば生きてさえいれば叶わない夢も叶う。会えなくなった人にも再び会えると諦めかけた人生を諦めなくて良かったと思う。


「はい、俺から二人にご褒美。」

個包装のチョコレートマシュマロ。

「なんのご褒美ですか?」

弓美はケラケラ笑う。

「今日も生きていたから。」

川内さんもふっと笑う。

「川内さんも生きましたね。」

僕からはミックスナッツをあげた。


チョコレートマシュマロを口に入れる。唾液が出てきて体に取り込もうとする。


生きている。

今日も、きっと明日も生きていく。


好きな人と同じ空間の小さな世界を持ちながら。

結局は生きていて良かったって思ってください。

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