ときめきは後回し 6、待ち人は
ラストオーダーまであと1時間半。
2軒目客をゆったり迎える時間だ。
かなり出来上がったテーブル席飲み会客の会計をする。
手書きで領収書を切る。
「また来まーす、女将さん、ありがとぉ」
上機嫌で飲み会客は二次会先を求めて外に出た。
リュウさんケンさん本田さんも、店を出る。
馴染み客達は、引きのタイミングを熟知してくれている。
おまかせご飯客がぽつぽつ退散するのと同時に、ほろ酔い二人組や、クタクタに疲れた女性客がやって来る。
カウンターは程良く埋まり、私と桃ちゃんはせっせとドリンクと肴の用意をする。
おぐさんは料理提供と仕込と片付けを同時進行していく。
2軒目客はこちらに絡んでくることが多い。
女子大生で接客も不慣れな桃ちゃんは、悪絡みに遭いやすい。
私は桃ちゃんに客の相手を求めていないので、様子を見ながら場に割り込んでいくつもりだ。
「ねぇ、どうなの、教えてよ〜」
「えーっとぉ」
おぐさんとの打合せで5分程離れた間に、ほろ酔い中年男性客が桃ちゃんに話しかけている。
お盆を持って、客の隣にいる辺り、片付け前におかわりを出そうとしたのだろう。
カウンター越しだと話しかけにくても、こうなると向こうも絡んできてしまうのだ。
「知らないのぉ? まだ若いもんね〜」
雑学話でも吹っかけられたのかしら?
私は男性客の前に行く。
「お客さん、ウチのスタッフが何か粗相しました?
あ、桃ちゃんは奥片付けて」
桃ちゃんはお辞儀をして離れた。
「いやねぇ、女将さん。
あの子にこの店の前が食堂だったこと知ってるか聞いたのよ。
でもあの子、うーんとしか反応しなくてさ」
同伴の男性も苦笑いしている。恐らく部下なのだろう。
「食堂?
ええ、このマンションが建つ前は食堂でしたよ。
私の父がやってました」
「じゃあ女将さんは木下食堂の親父さんの娘なんかい?」
「そうです。父の食堂には来てくださっていたんですか?」
中年男性客の顔が綻ぶ。
ウザい雰囲気は消え、優しい表情を浮かべる。
「若い頃、この近くの事務所にいたんだよ。
木下食堂には、よく食べに来たよ。
親父さんの豚生姜焼き定食最高だった」
「ありがとうございます。
父も喜ぶわ。仏壇に報告しときますね」
「あ、そうなんだ……。そんな齢でもなかっただろうに」
客の顔が暗くなる。
私は厨房のおぐさんに声をかける。
「お客さん、良かったら豚生姜焼き食べません?
当時父と一緒に働いていた料理人が、今はウチの厨房担当してくれているんです。
豚生姜焼き定食も作ったことあるって」
「本当かい?! じゃあ1人前お願いするよ!」
嬉しそうな中年男性客の横顔を、ホッとしながら部下の男性は見ていた。
伝票を切りながら父のことを思った。
この店は父の人柄の力で続けられてきた。
今も食堂を懐かしんでくれる人がいるのだ。
それに比べて私は……。
出入口の方を見る。
夜の静かな飲み屋の空気を遮る扉の音は聞こえてこない。
根掘り葉掘り聞きすぎたのかな?
拓己に謝るにも、連絡先を知らない。
当時の電話番号もメールアドレスも、私は残していない。
生姜とごま油の香りと、肉を焼く音が、店内にまで届いてきた。
■■■■■
他の客も匂いに誘われて、豚生姜焼きの注文が複数入った。
片付け出来ないおぐさんには申し訳ないが、売上としては有り難い。
23時。ラストオーダー30分前。
もう客は入らないだろう。
まだいる客から1杯でもドリンクおかわりをさせたいところだ。
金曜日の忙しさに桃ちゃんはまだ慣れていない。
1時間早めに上がらせよう。
「女将、タクシー呼んでくれる?」
「はーい、1台で良いかしら?」
私は、お開ききしようとする客の対応を始める。
カランカラン
「いらっしゃいませー」
桃ちゃんの高い声が店内に響く。
「カウンター席どうぞー」
さっきまでと違い、妙に元気がある声だ。
私が顔を上げると、そこに拓己がいた。
拓己! またこんなギリギリの時間に?!
私は「いらっしゃいませ」と落ち着いた声で言う。
どうして、このタイミングなの?!
化粧を直してないのに!
タクシー到着の連絡が来たので、私は客を外へ案内する。
桃ちゃんは見るからに嬉しそうに拓己にお冷とおしぼりを出していた。
一組帰すと、続けて女性客も「お会計」と言った。
桃ちゃんはおぐさんに注文を通し、麦焼酎の水割りを作り始めた。
実にテキパキしている。
「ご馳走さまでした〜」
「お気をつけて。またお越しください」
私と年齢が近そうな女性客は、少しフラつきながら店を去った。
おぐさんが出したポテトサラダを桃ちゃんがカウンター越しに拓己に出し、こちらに戻ってくる。
そのタイミングで桃ちゃんを厨房に呼ぶ。
「桃ちゃん、今日は忙しかったし、休憩も取れてないから、ラストオーダー取ったら上がってちょうだい」
「えー、最後までいちゃ駄目ですか?」
予想外の言葉に私は目を見開く。
「何で?」
「あのお客さん、私の推しなんですよ!
渋イケメン!
前に女将さん休みの時に来て、それからやっと会えたんです!
もう少し眺めさせてくださいよ〜」
拓己が、推し。
恐らくおぐさんは、拓己が私の元恋人であることを、彼女に伝えていないのだろう。
若い子には拓己の雰囲気が「渋い」になるのね。
「じゃあ片付けは私がやるから、ラストオーダーまでカウンターにいて良いわよ。
でも、話しかけるとかは駄目よ」
「はーい」
桃ちゃんは嬉しそうにカウンターに戻る。
戻った途端「おかわり何にしますかー?」と明るい声が聞こえてきた。
「女将、悪いな。後で俺からも言っとくよ」
おぐさんは申し訳なさそうに言った。
桃ちゃんはおぐさんの従姉弟の娘なのだ。
「良いわよ。拓己も相手しないだろうし」
そう、私は思いたかった。
「あと女将、嫁から連絡が入ってさ。
お袋の体調が悪いらしいんだ。
片付けが終わり次第早めに上がらせてくれないか?」
「ええもちろんよ。
片付けも私が出来るところはやっとくから」
おぐさんは深くお辞儀をして、作業に戻った。
■■■■■
ほうれん草のおひたしとセロリスティックを出し、桃ちゃんは拓己にラストオーダーを尋ねた。
「砂肝の柚子胡椒炒めと麦焼酎おかわり」
桃ちゃんは注文を通し、麦焼酎水割りを出した後、深々と頭を下げ、挨拶をしながら裏へ行った。
入れ替わりで私がカウンターに出る。
隙を見て化粧を直した私は、拓己の方を見る。
目が合い、私は微笑んだ。
拓己は少し目配せしただけで、黙々と食べ続けた。
桃ちゃんが裏から出たことを確認する。
私は入口の札を『準備中』に変えた。
おぐさんが手早く砂肝炒めを台に置く。
「俺、もう失礼しますね」と小声で言った。
湯気の立つ皿を拓己の席へ運ぶ。
「ちょっとご無沙汰ね。
仕事、忙しいの? 来る時間も遅めだし」
「まぁね」
拓己の反応は前回と違って随分素っ気ない。
何か不満がありそうだ。
でも嫌なら、店に来ないはず。
その時、スマホが鳴る。
電話だ。姉のなるみからである。
「ごめん、家族からの電話だから、出るわね」
私は拓己から少し離れて電話に出る。
「なる姉、どうしたの? まだ仕事中よ」
『分かってるわよ。でも早く確認したくてさ。
あんた、契約書どこにあんの?』
「契約書?」
『かすみのアパートの契約書よ。
かすみから送ってほしいって連絡がきたから探したけど見当たらないのよ』
「かすみのアパートの契約書な、らかすみが持っているんじゃないの?
何で、それが早く必要なのよ?」
『かすみが不動産屋に聞いたら、実家に送ったって言われたらしいわ。
よく分からないけど、かすみ、騙されてアパート契約したかもしれないんだって』
「かすみが騙された?!」
思わず声が大きくなった。
拓己が私の方を見てる。
私は慌てて背を向ける。
『詳しくはかすみに聞いてよ。
ねぇ、あんたも一緒に部屋探ししたよね?
おかしいところは無かったの?!』
なる姉の声が苛立っている。そりゃそうだ。
なる姉はこういう揉め事は大嫌いだからな。
『とにかく、かすみに連絡してよね。
まだ繋がるはずよ!』
なる姉は一方的に電話を切った。
私は通話終了のスマホ画面を見つめる。
「かすみが、どうかしたの……?」
拓己はその場で立ち上がる。
「かすみがちょっとトラブルに巻き込まれたみたいで……。
後で電話するわ」
「今、しなよ」拓己の声は重く鋭かった。
「出来ればここで。
俺がいることは言わなくていいから。俺は飯を食ってる」
私は再びスマホを見る。
よく見たら、かすみからのメッセージ通知が何個も届いていた。
「かすみに電話してみるわ」私はスマホ画面を撫でた。