ときめきは後回し 5、金曜日
グラスも皿も空っぽになった。
店の前を走る車の音が入り込む。
「ユカさん、良かったわね……」私はポツリと言った。
「会ってないけど、出産祝いは送ったよ。
あ、養育費は払ってないよ」
私達はフフフフと笑った。
「ユカとの結婚離婚を経験して、二度としないと決めた。
配偶者となる女性に、苦しい思いをさせたくない。
君とも結婚しなくて良かったと思ってる」
「私もそんな姑と舅、願い下げだわ」
拓己は微笑みながら、椅子の背にもたれる。
「俺には姉が二人いるんだ。
姉は両親にとって奴隷みたいな存在だ。
二人が小学生になる頃には、母親と一緒に台所に立たされた。
親族の集まりの時に、姉が席につく様子はない。
料理を運んで、空いた皿を片付ける時に、男親族が『可愛くなったね』『良い嫁になるよ』と声掛けていた。
まだ中学生の姉に、酌をさせる奴もいた。
今思うと、吐き気がする光景だ。
二人の姉は、見合いで結婚し、子どもも産んだ。
最近は義両親の世話に加えて、両親の世話もするために、時々実家を訪れるようになった」
私は彼の目がまだ怒りに燃えているように見えた。
「ふざけるな。
親共は、長男の嫁にやらせようとしていたことを、嫁いだ娘達にさせるつもりなんだ。
嫁ぎ先は自分達よりも立場の低いから、都合良く使えると思ってやがる。
どこまで愚かなんだ……」
拓己は姿勢を変えて、両肘を机についた。
ぶれない視線を机に落とす。
「姉からは俺に一切連絡は来ない。
親の世話は長男の仕事じゃないらしい。
姉達も気の毒な程に侵されている。
だから俺は決意した。両親を介護施設に入れるってな。
親が満足するような、快適なサービスと環境を提供してくれる高級な施設にな。
世話係も数人個別で雇って、俺達姉弟が関わらずに済むようにする」
拓己はフーッと息を吐いた。
「その為には金が必要だ。
親共は自分の金を出したがらない。
だからこっちで自腹で準備する必要がある。
上手く話をつけて、生前贈与が出来るまでは、とにかく金を用意しないと。
支社転勤も、昇進の為に志願したんだ。
ウチの会社にとって、ここで成果を出すのは大きなポイントになるんだ」
拓己はフッと顔を上げる。
少し疲れた、でも強さがある顔だ。
見たことのない彼の顔に、私の胸は少しギュッとなる。
「喋り過ぎた」
「全然。ありがとう。話してくれて。
責任感だけは真っ直ぐなところ、変わってないね」
「不器用だろ、俺」
「ええ、全くだわ」
その後私達はケラケラ笑った。
■■■■■
拓己が「お会計」と言いながら、財布を取り出した。
私はカウンターに戻り伝票を確認する。
その時、ケータイが鳴った。
「ごめん、娘からだわ」
私は拓己に向かって言ってから電話に出る。
「もしもし、何?」
『あ、お母さん、今どこ?』
「お店よ。もう片付けて出るところ。
あんたこそ、こんな時間まで起きてたの?
また動画見っぱなししたの?」
『違うよー。今日は皆でヘリポテ観たからだよ。
録画したから、お母さんも観る?』
「分かったから、早く寝なさいよ」
『はーい。
1時過ぎたら、なるおばさんがドアチェーンかけるって言ってるー』
なるおばさん、とは私の姉なるみのことである。
母あゆ子と長女かすみが家を出た後は、私と次女まゆみ、姉なるみと姪っ子奈々穂の4人暮らしだ。
私立中学校の家庭科教諭の姉は、今日早めに帰ると言ってたから、任せていたのだ。
電話を終えて、私は拓己の元へ向かう。
「3,410円です」
拓己はプラチナカードを私に差し出す。
再び戻り、私は端末を操作する。
「今の電話、娘って……?」
拓己が尋ねてきた。
彼はトレンチコートを着て、席を立っていた。
「かすみの3歳違いの妹のまゆみよ。
こっち戻ってからもう一人産んだのよ。
まゆみのことは、あなたには報告してなかったわね」
「そう、なんだ……」
拓己は手で口を覆っている。
様子がさっきと違うので私は声をかける。
「いや、何でもない。そりゃあそうだよね。
ありがとう、ご馳走様」
拓己はカードとレシートを受け取ると、逃げるように店を出ていった。
■■■■■
あれから2週間近く過ぎて金曜日がやって来た。
「あれ、女将、メイク変えました?」
アルバイトのホールスタッフの桃ちゃんこと桃山さんが私を見て言った。
鋭い。先日、何年ぶりでデパートで化粧品を買ったのだ。
今年の春トレンドの色で、自分の肌や顔タイプに合うものを、美容販売員さんに選んでもらい、メイク方法もしっかり教わった。
購入した翌日からそのメイクを取り入れているけど、おぐさんも客も何も言ってこなかった。
桃ちゃん。
仕事はトロいけど、こういうところは素早く反応するのね。
「そうよ。春の新生活な気分を味わいたくて」
「めちゃくちゃ素敵です!
明るい雰囲気が一層アップです!
アイシャドウの質感、本当に可愛いですね」
褒め方が上手いなぁと感心しつつ、私はニンマリしてしまう。
桃ちゃんは現役大学生。
オシャレもそれなりに嗜むタイプみたいで、雑誌で見かけるような雰囲気のメイクと私服でいつも現れる。
仕事中はエプロン・白いトップス・黒かベージュのパンツを着てもらうけどね。
金曜日は稼ぎ時である。
閉店時間とラストオーダーも普段より遅い。
3人で頑張って回していくのだ。
桃ちゃんが表の札を「営業中」に変える。
バタつく前に、私は事務処理をしようとカウンター裏で書類を見る。
どこか心がソワソワしていることを自覚する。
メイクを新しくしたことを、気付かなくても良いから見てほしい人は、あれからまだ来ていないのだ。
開店して間もなく、大学生男女3人が入店した。
桃ちゃんがテーブル席に案内する。
その数分後に、リュウさんとケンさんも現れた。
私は書類を片付け接客モードに切り替える。
「女将、米焼酎お湯割り2つ。
あと、ポテトサラダも2つね」
「はーい」
リュウさん達にお冷とおしぼりを渡す。
二人はキョロキョロと店内を見ている。
拓己を探しているのだろう。前に来た時もそうしていた。
私には何も言ってこないけど。
桃ちゃんが大学生達からおまかせ夜ご飯3人前を受け付ける。
おぐさんに注文を通すと、私に声かけてきた。
「同じゼミの友達なんですよ」
確かに親しげにしながら、お絞りを配っていたので本当だろう。
「じゃあソフトドリンク1杯ずつサービスしてあげて」
「ありがとうございます」
桃ちゃんはニコッと笑ってドリンクの用意を始めた。
友達の前では張り切るタイプなのかしら? 手際が良い。
カランカラン
「おー! 本田さん! しばらく!」
ケンさんの声が店内に響く。
「本田さん、いらっしゃい」
「女将、これおぐさんに渡してよ。
今日の売れ残り。数もあまりないし、サービスだよ」
私は本田さんから紙袋を受け取る。
中身はほうれん草だった。
「いつもありがとう。早速使わせてもらうわね」
私はおぐさんに紙袋を渡す。
おぐさんは顔を出して、本田さんに挨拶した。
本田さんは野菜農家で、父の食堂時代から、野菜を直で卸してくれる有り難い存在だ。
規格外の野菜を周囲からも集めて、格安で売ってくれる。
供給はバラつくが、この店のメニューは元々不定期だ。
おぐさんがその日の仕入れ状況に応じて、柔軟に対応してくれている。
「今日は車だからね。
ウーロン茶とポテトサラダとサゴシの竜田揚げ」
「はーい。ウーロン茶は1杯サービスするわね」
本田さんリュウさんケンさんは、会話を始める。
やがて、会社員5名様が入店し、テーブル席が埋まる。
おまかせ夜ご飯目的のお一人様が立て続けに3組現れ、店内はほぼ満席になった。
よし! 稼ぐぞ!
■■■■■
始めに入った大学生3人組は食べたら速やかに退席してくれた。
その後新たな4人組客が入ってきた。
5人組会社員のテーブルは完全なる飲み会だ。
注文のスピードも早く、気前が良い。
下品でない程度の盛り上がり方で、店内は活気が出る。
馴染み客3人組も、食べるペースが上がり、いつもより多めに注文する。
「本田さんのほうれん草のお浸し。
おぐさんが早速作ってくれたから試食してみて」
3人は嬉しそうに中皿に箸を伸ばした。
本日のオススメメニューに手書きでパッと「ほうれん草お浸し」を書き足すと、早速4人組テーブル席から注文が入った。
おまかせ夜ご飯客達の回転は早く、待たせることなく更に4人がカウンターで食べることが出来た。
週末の緩みが、彼らにお酒1杯を促してくれる。
今日は良い金曜日だ。
年末年始を挟んで落ちた売上も巻き返せるかも。
私はワクワクしながら働いた。
でも心の奥に「まだ来ない」という感情が残っていた。