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Those who stay

作者: 伝記 かんな




9月中旬。

気温は30℃を下回り、過ごしやすくなりつつある。


“Calando”は朝の開店時間が終わり、

休憩時間を迎えていた。


今日のまかないメニューは、

特製トマトソースをたっぷり使った

マルゲリータピザ。

“Calando”のマスター、

曽根木そねき 拓馬たくまが作る料理は、

まかないでも抜け目がない。

生地に乗っているモッツァレラチーズもバジルも、

自家栽培で作られたものだ。

厨房には、こだわりの窯まで設置してある。


その焼きたてのピザを、

従業員・藤波ふじなみ はる

小さな口の中に頬張り、

幸せなひとときを堪能していた。


「ははっ。美味しそうに食べてくれる

 晴ちゃん見ていると、こっちまで幸せになるよ。」


咀嚼する度に、美味しさが溢れる。

頬張ったピザを心行くまで堪能した後、

ようやく言葉を返す。


「拓馬さんの作るピザ、最高ですもん。」


喉を通る瞬間でさえも、美味しい。

それをまかないとして

口にすることができるのは、贅沢に値する。


「ははっ。それはどうも。

 ・・・そうだ。言っておくけど、

 明後日は臨時休業にするからね。」



“Calando”の定休日は不定期で

曜日も決まっていないが、

日曜日の夜だけ閉めているのは知っている。

盆と正月は休むらしいが、その他で

拓馬が店休にすることは珍しい。



アイスレモンティーを口に含んで

至福のひと息をついた後、晴は首を傾げて尋ねる。


「何か用事ですか?」


「・・・・・・

 毎年、この日はね。ニーナの命日なんだ。」


その一言で、晴は把握する。

気配を感じ、自分の隣のカウンター席を

ちらっと見ると、

ニーナが静かに腰を下ろしていた。

目が合うと、彼女は微笑む。


「墓参りもなんだけど、彼女との

 思い出巡りをするんだよ。」


「・・・・・・素敵です。」


「ドライブが主だけどね。」


どこか寂しげだが、

彼女と共にした時間を巡らせる拓馬の表情は、

愛に満ちている。


そんな彼の様子を窺い、

晴は微笑まずにはいられなかった。


「ニーナさんも、嬉しいと思います。」


「・・・・・・そうなのかな?」


「はい。とても。」


「ははっ。君が言うなら確実だね。

 ・・・・・・今、ニーナが傍にいるのかい?」


拓馬が目を向ける方向は、

店のステージに佇む漆黒の光沢。

グランドピアノを見つめる彼に、

ニーナは限りなく優しい眼差しを送っている。


「・・・・・・はい。」


それを聞いて、彼は微笑んだ。


「ニーナは、幸せなのかな。」


僕の傍にいて。

そんな余韻が残る言葉だった。


彼の言葉に対し、ニーナは

何かを訴えるような色を見せる。


それを、晴は感じ取った。

彼女の思いが、流れ込んだ。



チガう。

あなたが、シアワセ?

ワタシを、ソバにオイて。



その気持ちは、痛い程よく分かった。

ニーナの気持ちを汲み取り、告げる。


「・・・・・・拓馬さんが生きているから、

 ニーナさんは幸せだと思います。

 例え、拓馬さんが他の人と結ばれたとしても。」


その言葉に対し、拓馬は目を見開く。


代弁をしてくれた晴に、ニーナは

限りなく優しい視線を向けた。


「・・・・・・それは、難しいね。」


グランドピアノから視線を外し、

拓馬は晴に目を向けた。

その表情には、色濃く情念が浮かんでいる。


「心から好きになった女性の事は、

 忘れられないよ。伴侶なら、尚更かもしれない。」


時間の流れで忘却していく

思い出と、感情。

それを全力で抵抗する、強い意思。


「馬鹿だと言われてもいい。

 僕は、貫きたい。彼女への想いを。」



ニーナの頬に、涙が流れる。


一途に想ってくれる嬉しさに震える涙なのか、

もう二度と語れず、

触れ合えない悲しさなのか。


それは、とても深い。


晴は、拓馬が示した意思に俯く。



―・・・・・・心から好きになった女性。

 ・・・・・・明也も、だよね。

 真弓さんという婚約者がいた。


 彼女に対する想いは、ずっと・・・・・・



「応援してくれるかい?」


拓馬の顔には、強い想いと

揺るぎない笑顔が浮かんでいる。


晴は顔を上げ、力強く頷いた。


「勿論です。」



―自分だって、前代未聞の恋に落ちている。

 それを否定できる程、

 割り切れるものではないのも理解している。


 前に、彼が言っていた。


 

―『・・・・・・真弓への想いは、

  俺が生きていた頃の証だ。

  それを、君に預けておきたかった。

  ・・・・・・俺の全てを、受け入れてもらう為に。』―



―真弓さんへの想いは、

 明也の中で消えることはない。

 それは、生きた証だと。

 それを、受け入れてほしいと。



「ありがとう、晴ちゃん。

 ・・・さてと、僕は仮眠室に戻るよ。」


思いふけっていた晴は、

はっとして相槌を打つ。


「はい。」


「いつも言うけど、食べ終わった皿は

 流し台に置いといていいからね。」


「・・・・・・了解です。」


素直に聞き入れる晴を見て、拓馬は微笑んだ。



当初、まかないを食べ終わった後

皿を洗って片付けていたら、

拓馬に止められたことがある。


―「ピアニストが、素手で洗い物したら駄目だよ。

  僕が片付けるから置いておいてくれ。」―


言われた時はピアニストという響きに、

こそばゆく感じた。

だが、しっかりした口調で言われて、

晴は何も言えなくなった。


それ以来、自宅でも水を扱う掃除をする時は、

きちんとゴム手袋を装着している。


それでも流石に洗い物を丸投げするのは

悪いと思い、自宅からゴム手袋を持参しようとしたら、

今度は明也に止められた。


―『マスターの心遣いに甘えた方がいい。

  君は妙に頑固な部分がある。』―



片桐かたぎり 明也ともやは、

とある日に晴の前に現れた幽霊である。

晴が広告代理店に勤めていた頃、出勤時の交差点で

彼の拳銃を拾った。

それは自分にしか見えず、触れられない代物で、

気づけばそれが奇妙な日常の始まりだった。


一般的な言葉でいえば、

彼女は彼に憑りつかれている。


しかし、常識では説明できない部分があり、

晴は明也と過ごしていくにつれて

“その世界”の事と、“彼ら”の事を知ることになった。

そして、彼を想うことにも繋がる。



拓馬がバックヤードに入っていくと、

隣に座っていたニーナの姿も消えていた。

ニーナも、明也と同じ幽霊である。


“彼ら”幽霊は、大きく二つに分けられる。

“意念を持つ幽霊”と、

“意念を持たない幽霊”。

二人は前者だ。


“意念”という聞きなれない言葉に

晴は当初戸惑っていたが、最近は

それを理解できるようになっていた。


“何か目的を持ち、思考することが出来る”。


それは、生きる者の心から湧き出る

生命力と繋がり、可能にしているのだ。



「・・・・・・明也。」



普段、晴の日常に支障が出ないように

姿を現さず、声を掛けても反応しない。


だが、彼はその姿を現した。

無垢材のカウンターテーブルに背を預けた状態で、

隣の席に腰を下ろしている。

目線は、彼女に向いていた。


『どうした?』


珍しく応じてくれた彼に驚きながらも、

見当が付いていた。


―さっき私が思っていたこと、

 筒抜けなのよね・・・・・・


時々、その事を忘れてしまう。

しまったな、と晴は肩を窄める。


「・・・・・・ごめん。」


『ふはは。なぜ謝る?』


可笑しそうに笑う彼は、きっと把握している。

彼女はそう感じつつ、控えめに尋ねてみた。


「・・・・・・聞いてもいい?」


『答えられる事なら、隠さず話そう。』


「・・・・・・明也が前言ってたけど・・・・・・

 幽霊になってから、

 真弓さんに会いに行ったことがあるって。」


『ああ。』


「他の誰かと、家庭を築いているって。

 本当のところ、どう思ったの?」


―明也の場合は、拓馬さんとは違う。

 気持ちは変わらないのに、不本意で別れて。


じっと表情を窺ってくる晴に、

明也は真っ直ぐ眼差しを返す。

その目には、深い情念が垣間見えた。


『何とも言えないな・・・・・・

 ただ、俺の事を突き放してくれたことは、

 心底安心した。』


「・・・えっ?」


『真弓には、幸せになってもらいたかった。

 相手は、俺じゃなくてもいいから。』


「・・・・・・」


―・・・・・・分かんない。


『俺の境遇では、彼女は幸せになれない。

 その確信があった。』


「・・・・・・分かんないよ。」


『分からなくてもいい。』


「・・・・・・もう。」


―結局、こうなるんやもん。

 肝心な所、いつもはぐらかすんやから。


『正直に答えたつもりだが。』


「・・・・・・いいよ、もう。」


『お気に召さなかったようだな。』


そう言って笑みを浮かべる彼の様子は、

いつもと変わらないように見える。

しかし晴は、話している時に垣間見た

情念が焼き付いて、離れない。


「・・・・・・ねぇ。じゃあ、もういっこだけ。」


『ふはは。まだあるのか?』


「明也のお墓ってあるの?」


その質問に、さらに笑う。


『どうしてそれが気になった?』


「・・・・・・なんとなく。」


彼は、グランドピアノに目を向ける。

答えが返ってこない時間、晴は黙って

彼の横顔を見つめた。


彼は、すぐに答えを返さない。

だいたいその時は、思考して答えを導いている。

接している内に、彼女は

それを把握するようになっていた。


『一言で言うなら、分からない。』


「分からない?」


『俺の死は、どう処理されたのか。』


それを聞いて、彼女は俯いて考え込む。


「そっか・・・・・・そうだよね。」



―明也は、命を落とす直前の出来事を

 忘れていて、今でも取り戻せていない。


 取り戻せたのは、真弓さんと別れて、

 佐川くんのお祖父さんと会って、

 どこかに行こうとする前の記憶まで。



「知りたいって、思わない?」


『あまり思わない。

 恐らくだが、行方不明とされているか、

 事故で亡くなったとして事実を伏せられ、

 墓だけ立てられているか。

 いずれにせよ、不本意だ。』


「・・・・・・確かにそうよね。」


聞いたのが悪かったと、晴の表情が曇る。

それを感じ取った明也は、

柔らかい眼差しを送った。


『でも、自分の墓があるのか確かめるのも面白い。

 あるなら、君に花を手向けてもらおうか。』


その言葉で、俯いていた彼女の顔が上がり、

嬉しそうな笑顔が浮かんだ。


「ふふっ。何で分かったの?」


『君の考えていることは、筒抜けだ。』


互いに見合わせて、笑う。



言葉にせずとも、触れられなくても、

心で思ったこと、感じたこと、それが

相手に伝わる繋がり。

それを、“彼らの世界”では“共鳴”と呼ぶ。


彼女と彼は、それを可能にしている。


「でも・・・・・・

 どうやって調べたらいいのかな・・・・・・」


『それを知っている人物に、心当たりがある。』


「え?ほんと?」


『ああ。』


「・・・すぐに会える人?」


『とりあえず、御仁を通した方がいいだろう。』


「お爺さん?」



“お爺さん”とは。

明也と同じ“意念を持った幽霊”の紳士である。


和装の出で立ちと名刀を持つ彼は、

“Calando”でアルバイトをする大学生、

佐川させん まなぶと助力関係にある。

また彼も、晴と同じく

“彼らの世界”を見ることが出来る人物。

彼は生まれ持った“特殊な見え方”の為に、

日常を過ごすことに支障がある。


それを、和装の紳士の力で和らげ、

彼もまた、和装の紳士の名刀を振るって

“彼ら”が抱える問題を解決している。



「お爺さんが、

 明也のお墓があるかどうか分かるの?」


『御仁ではなく、御仁と深い関わりのある人物だ。』


そう言われて、心当たりのある人物。

ぴんときた晴は、この場にいないのに

姿勢を正した。


「すぐに会える人じゃなさそうだけど・・・・・・」


『案外、会える気がする。』


晴の様子に、明也は微笑む。


『君のピアノに免じて、な。』







夜の開店時間を迎え、客の姿がいない状態の店内で

その会合は行われる。

学が晴と目線を合わせると、

そのステージは“彼らの世界”と繋がるのだ。



細い指が、白黒の鍵盤を弾いていく。


とある作曲家の、ピアノソナタ・第1楽章。

亡くなる2カ月前の作品である。

彼らしい歌謡的な部分を展開し、

転調を繰り返してトリルが連続する。

彼は、明也と変わらない歳で生涯を終えた。


この曲に関しては、自由律を加えず

彼の意志を尊重する。

綺麗な旋律を崩す余地を与えない、

意志を刻んだソナタ。


“Calando”に働き出して、実家から

取り寄せてもらった楽譜の中の一つである。



『お嬢さんのピアノは、ますます磨きがかかるのぅ。』


演奏が終わると、

テーブル席にちょこんと腰を下ろしていた

和装の紳士が、拍手を送りながら声を掛けた。


それに応え、晴は椅子から立ち上がって

お辞儀をする。

カウンター席に座っていた明也も、

拍手と優しい眼差しを送っていた。


今夜の会合を始める前に、和装の紳士が

“一曲聴きたいのぅ”と

言い出したのがきっかけである。


「藤波さんのピアノ、評判ヤバいっすよ。」


明也が座るカウンター席から

二つ間隔開けて座る学も、

同じく拍手を送りながら言う。


「それって、良い方・・・・・・?」


晴は複雑な表情を浮かべながら

ピアノ椅子に座り直し、恐る恐る尋ねる。

拍手をひとしきり終えた後、学は力強く頷いた。


「もちろんっす。」


『言葉遣いなっとらんのぅ。』


「ヤバいくらい、すげぇってこと。」


『ますます分からんのぅ。』


「じいさんの言葉遣いも、やべぇって。」


『それはどっちの意味じゃ?!』


「うふふ。」


和装の紳士と学のやり取りは、ほぼ漫才に近い。

それをいつも見守りながら、晴は微笑む。


『今日の会合を始める前に、片桐の要望で

 すぺしゃるげすとを呼んでおるのじゃが

 ・・・・・・良いかな?』


「スペシャルゲスト?」


心当たりがないのか、学は首を傾げる。


―話を通してくれていたんだ。


晴は明也に目を向けると、彼は視線を合わせて

相槌を打つように小さく頷く。


「でも、もうこの空間は誰も入れないだろ?」


店内には、晴と明也、和装の紳士と学、

4人の姿しか見受けられない。


“彼らの世界”は、隔たれた空間で区切られ、

移動するのは危険な行為である。

“世界”に深く入り込めば、

“現実”に戻る事が困難になるのだ。


和装の紳士は、長い白髪で隠れた目を

学に向けて、ふぉ、ふぉ、と笑う。


『当代ならば、容易いことじゃ。』


「当代・・・って・・・・・・」


「このような形で、訪問してすまないね。」


突如さらりと流れた言霊は、

注目させるくらいに強い響きを持っていた。

和装の紳士の隣に、その姿はある。


「こんばんは。」


ただの挨拶の言葉に過ぎないが、その声は

晴と学の姿勢を正す。


「こんばんは・・・・・・」


「どうも・・・・・・」


二人は自然と、その場から立ち上がって

挨拶を返していた。

声の主は、優しく微笑みながら

晴に視線を送る。


「貴女のピアノは、本当に素晴らしい。

 堪能させてもらったよ。」



出で立ちは、スーツ姿。

黒髪はオールバックで綺麗に整えられ、

細く流れる目元は高貴に満ち溢れている。


優雅な雰囲気を纏うその男性の名前は、

蔵野くらの 恵吾けいご

和装の紳士と深い関わりのある人物である。



演奏中、蔵野の姿はなかったが

口ぶりからすると、演奏を聴いていたらしい。


「・・・・・・ありがとうございます。」


戸惑いながらも晴は丁寧に頭を下げると、

蔵野は、“とんでもない”と言葉を漏らす。


「こちらこそ、素晴らしい時間をありがとう。

 きちんと会って堪能したかったのだが、

 出向くことが難しくてね。

 ・・・・・・ご褒美をもらった気分だよ。」


屈託のない笑顔は、気品が備わっている。


「畏まらなくていい。さぁ、座ってくれたまえ。」


威圧的ではないのに、

従わせる力をもつ声の強さ。

蔵野の声音は静かだが、その響きを生み出す。

二人は素直に、その場へと座り直した。


『お忙しい中、ありがとうございます。』


「君の珍しい要求だからね。」


明也は、座ったまま蔵野に会釈をする。

それに対して、彼は咎める様子もない。


敬意は払うものの、明也は誰に対しても

平然としている。

その強さに、晴はいつも感心させられていた。

悪く言えば無礼だが、

良く言えば、

対等の立場で物事を見据えている証拠だ。


「聞きたい事があるそうだね。」


『晴。』


急に名前を呼ばれ、晴は、びくっとする。


―・・・えっ。私から言うの?


そんな風に目配せすると、明也は

表情を変えずに目を合わせるだけだった。


息を整え、晴は蔵野に目を向けて尋ねる。


「あ、あの・・・・・・

 明也の墓って、ありますか?

 もしあるなら、

 お墓参りしたいなって思って・・・・・・」


ふぉ、ふぉ、としわがれた声が漏れる。


『お嬢さんは面白いのぅ。』


「なるほど。貴女らしい考えだね。」


笑う和装の紳士と同様に、

蔵野も顔を綻ばせている。

その後、真摯な表情を浮かべて告げた。


「彼の墓は、事故に遭って亡くなったとされて

 建てられたものがある。

 今でも、我々の管理下に存在しているよ。」



予想通りだったな。


そんな彼の意思が伝わる。

晴は一呼吸置いて、言葉を紡ぐ。


「管理下というのは・・・・・・

 蔵野さんの組織でってことですか?」


「彼の場合はね。

 建てられている場所は、

 誰でも入ることができる霊園だよ。」


「・・・・・・」


「彼を慕う者もいたからね。

 我々の為に働いてくれた功績と

 敬意を籠めて建てさせてもらった。

 ・・・・・・墓参りをしたいというのなら

 場所を教えよう。それは構わないよ。」


「・・・・・・はい。教えてください。」



明也は、この蔵野という人物が統括する

組織の中にいた。

その事は把握している。

一般人が手にすることを許されない

拳銃を持つことも、それに関わっているのだ。


彼の正体を知る事と、知ろうとする行為は

禁忌だと、暗黙の了解がある。


世間では恐れられる存在なのかもしれないが、

それは仮の姿であると、晴は理解していた。



彼らは、現実の、もっと深い場所にいる。








その日の夜、9時頃。

晴は“Calando”から帰宅し、自宅の鍵を

ショルダーバッグから取り出して開錠した。


家の鍵は、二つある。


一つは通常の鍵で、もう一つは

“灰色の世界”に繋がる鍵。

その鍵は、和装の紳士が

自分たちの為に作ったものである。


明也の拳銃を、自分が操る。

弾は、自分の生命力。心の力だ。


それを安定させる為でもあるが、唯一

彼と触れ合える時間が存在する。

不思議な現象だが、

確かに温かさも感じるし、感触も覚える。



玄関のドアを開けると、明也が

向かい合うように立っていた。

彼はいつも、優しく自分を出迎えてくれる。


『おかえり、晴。』


ショルダーバッグをドア付近に置き、晴は

両腕を広げる彼の元へ勢いよく飛び込んだ。


「ただいま、明也!」


この瞬間は、至福である。


ぎゅっ、と彼の身体に抱きつくと、

ふわりと彼女の身体を包み込む。


『よしよし。今日もお疲れさま。』


明也の大きな手が、晴の頭に

ぽんぽんと軽く触れる。

この所作は、子ども扱いされている気がして

少し複雑だが、嬉しさの方が勝って笑顔になる。


しばらく抱擁されたままの

ひとときを過ごすと、晴は明也を見上げる。


「あのね・・・・・・」


『ん?』


『明也のお墓参り、

 明後日行ってみようと思うんだけど・・・・・・」


『本当に行くのか?君は物好きだな。』


彼女の目にかかる前髪を、

かき上げるように撫でながら

彼は微笑んで目を合わせる。


「不本意だろうけど、一応明也のお墓でしょ?

 行ける時に行っておきたいもん。」


『本人が目の前にいるのに、か?』


よく考えてみれば、確かにおかしい。


「ふふっ。そうだけど・・・・・・

 蔵野さんの言っていたことが、ちょっと気になったの。

 “慕う者もいた”っていう言葉。」


『俺の墓参りをする人間なんて、

 いるのかどうか・・・・・・

 表向き、会社の同僚くらいだろう。』


「・・・・・・もしかしたら、と思って。」


『・・・・・・もしかしたら?』


「・・・・・・真弓さんが、

 お墓参りをしているんじゃないかって。」


晴が放ったその言葉は、明也の目を見開かせた。


「そうだとしたら・・・・・・」


―素敵だなぁ、って。


言葉にはしなかったが、それは彼に充分伝わった。


『・・・・・・君には時々、驚かされる。』


「だって、将来を誓い合うはずだった仲でしょ?」


『・・・・・・晴。』


「真弓さんがもし、明也と別れて

 後悔しているとしたら・・・・・・

 明也が事故で亡くなったとされているなら、

 もう二度と会えなくて、話も出来なくて、

 仲直りも出来ないままってことだよね。

 それって、とても悲しいと思うの。

 ・・・・・・お墓参り、するんじゃないかな。」


『・・・・・・』


「そうであってほしいっていう、願いもあるかも。

 来たことを確かめる方法って、ないのかな・・・・・・

 明也はどう思・・・・・・」


言葉が、遮られる。

彼が、不意に彼女の顔を両手で挟み、

引き寄せたからだ。


至近距離で、見つめ合う。



『・・・・・・本当に君は・・・・・・』


呟く明也の瞳は、揺れ動いている。

いつもの、深海のような静けさはない。


その揺らめきに、鼓動の波が大きく揺れる。


「・・・・・・私、おかしなこと言ってる?」


『・・・・・・』



彼はそのまま、彼女を包む。

その腕の力は、強かった。

生身ではないが、その強さは息苦しさを感じる。


「・・・・・・明也。苦しいよ・・・・・・」


『・・・・・・』


「ねぇ・・・・・・」


『・・・・・・苦しいのは、君の優しさだ。』



囁かれる彼の低い声は、晴の心を乱す。



「・・・・・・ほんとはね、私だけを想ってとか、

 言えたらどんなにいいかなぁって思う。

 でもね、それって違うよね。

 残酷な言葉だなぁって思うの。

 ・・・・・・面倒だよね、私って。」


『・・・・・・そんなことはない。』


「・・・・・・そんなこと、あるんだよ。」


―ほんとはね、嫉妬しているの。


『・・・・・・』


―明也の想いを向けられて、

 触れ合えて、愛を語れた真弓さんに。

 ・・・・・・どうしようもないよね。


『・・・・・・』


―自分は今、ないものねだりしてる。

 手に入らないものを、求めている。

 でも、それを手にすることが出来たはずの

 真弓さんには、心から思うの。

 明也のこと、忘れないでいてほしいって。


 時々でもいいから、思い出してほしいって。



彼からの強い抱擁と、

しくしく痛む心が、

どうしようもなく、苦しい。


晴は、彼の懐から離れようと

胸板に手を置く。


「・・・・・・明也、今日は、もう・・・・・・」


『愛している、晴。』



はっきり紡がれた言の葉と、名前。

それは、漏れなく耳に届いた。



『俺が今、愛しているのは君だ。』



それは、今まで言葉として

聞くことが出来なかった、彼の気持ちだった。


『足りないのなら、何度でも心を籠めて言う。』


「・・・・・・」



呼吸することを、忘れそうになった。

大きく揺らめいた鼓動の波が、

さらに激しく揺れる。


『愛している。』


「・・・と・・・・・・」


『愛している。晴。』


「と、明也・・・・・・」


やっと、名前を紡ぐ。


彼から紡がれる言の葉は、紛れもなく本心だ。

強く、真っ直ぐ、自分の心を貫いていく。


『触れ合えなくても、語れなくても、

 俺たちは心で抱き合える。

 ・・・・・・それを、忘れるな。』



自信を持て、晴。

俺の心は。

いつも、お前と共にある。



彼の言葉が、想いが、

全身を駆け巡った。


痺れるような感覚に襲われ、足に力が入らない。


それを、彼は力強く抱き留める。



「・・・・・・私もね、愛してるよ・・・・・・」


溢れる想いが、涙とともに零れる。


『君からは、たくさん聞いている。』


笑い混じりの囁き。


『・・・・・・俺もこれからは、

 言葉にして伝えよう。』


「・・・・・・破壊力が、

 すごいっちゃけど・・・・・・」


彼女も笑う。


『紛れもないからだ。』


「・・・・・・うん・・・・・・」



本心だと、真っ直ぐ伝わる。

それは、彼と自分にしか理解できない領域。


共鳴する歓び。


今在ることを、噛みしめよう。

彼女はそう強く思った。


そっと明也に腕を回しながら、晴は呟く。


「・・・・・・お墓参りには、どうしても行きたい。」


『・・・・・・』


「確かめる方法って、ないの?」


再度、彼女は訊いた。


温かく、大きな掌が頭を撫でる。


『・・・・・・不可能はない。』


「あるのね?」


『勿論、試みたことはないが・・・・・・

 確かめてみてもいい。

 だが、本当に君はいいのか?』


万が一、真弓の姿を捉えてしまえば

当時の俺の気持ちも、流れることになる。


伝わってきた彼の気遣いを受け入れるように、

晴は静かに頷く。


「・・・・・・知りたい。」


―あなたの、気持ちのすべてを。

 真弓さんの、姿を。



自分の考えは、おかしいのかもしれない。

だが、彼を愛してくれた者を

否定したくない。


その姿を捉えることができたら。

いや、できることを願って。





                  *





二日後の朝、10時頃。


見上げる空に、いわし雲が広がっている。

午後からは雨が降るという予報だった。


晴雨兼用の日傘を

ショルダーバッグに入れているので、

急な雨が降っても心配はない。


晴の右腕には、雛菊の花束が抱えられていた。

Vネックのリブニットは藤紫。

深いグレーのワイドパンツは、彼女が歩く度に

はためいて流れていく。


霊園の場所は幸い、自宅の最寄り駅から

短時間で行ける所だと分かり、

周辺を散策できる時間もある事に

晴は安堵感を覚えた。


電車から降りて、徒歩5分。


陽の差し込みは弱かったが、

風がやや強く感じる。

彼女のうねった髪が、舞い上がる。


ここへ入ってしばらく歩いているが、

“意念を持たない幽霊”と会う気配はない。

“霊園”という場所だから、

いてもおかしくはないと考えていたのだが・・・・・・


『常識的には、そう考えるだろう。

 だが、君も既に知っての通り、

 “彼ら”は思い入れる場所に縛られる。

 増しては、自分が死んだことに

 気づいていないケースもある。

 ・・・・・・墓地というのは、案外静かな場所だ。』


この霊園に着いてから、明也が隣を歩いている。

それが、とても嬉しい。


「平日だから、誰もいないね・・・・・・」


『自分の墓を参る事になるとは、思わなかった。』


「複雑だよね・・・・・・」


『ふはは。』



霊園の範囲が、思ったよりも広い。

墓石がある場所を聞いておかなかったら、

迷っているだろう。


「もうそろそろだけど・・・・・・」


連なる名前を照らし合わせながら、歩いていく。


「今さらだけど、本名よね?」


『今さら過ぎるぞ。』


明也は笑って言葉を返す。


『名字は、もらいものだ。“明也”という名前だけ

 知っている状態だった。』


「えっ?

 ・・・・・・そうなんだ。」


彼が施設で育った事は、知っている。

それ以上の事は、何となく聞く事を控えていた。


『・・・・・・あった。これだろう。』


とある洋平型の墓石に、目が留まった。

“片桐 明也郎男命”と刻まれている。


「綺麗にされてるね・・・・・・」


いつ建てられたのか分からないが

年月経っているにも関わらず、墓石は

くすみもせずに光沢を保っている。


『驚いたな・・・・・・恐らくだが、

 管理下ということは・・・・・・

 組織の人間が定期的に来ているのかもしれない。』


「きっとそうだよ。良かったね。」


『それこそ複雑だが。』


「お花も生けられているし、

 掃除もされているみたい。

 想像していたのと違って、安心した。」


―掃除しないといけないくらい

 人が来た形跡がなかったら、

 ちょっと寂しいなと思ってた。


『ふはは。確かにそうだ。』


二人は、墓石の前に歩み寄っていく。


「このお花、いらなかったかも・・・・・・」


『いや。必要だ。確かめやすくなる。』


雛菊の花束を両手に持ち、視線を落とす。


黄色の花糸が白い花びらの中で際立ち、

笑みを湛えて語り掛けてくるようだった。


『植物は、“世界”と繋がりやすく

 情景を伝えてくれることが多い。

 生けるということは、人の手が加わる。

 それを辿れば、誰がここに訪れたのか

 分かるかもしれない。』


言われている事は難しかったが、

朧気に理解できた。

しかしそれを、どうやって引き起こすのか。


『花に、触れてみようか。』


彼の言葉も、確かな調べではないように思える。


「どの子がいいのかな・・・・・・花びら?」


『茎の部分がいいだろう。

 その大きな菊にしよう。』


晴は息を整え、生けてある花たちに向き合う。


細い花びらをたおやかに広げる黄色の菊。

その周りを、

オレンジ色のスプレー菊が彩っている。



―・・・・・・お願い。教えて。

 あなたは誰に生けられたの?



そっと、黄色の菊の茎に触れた。


ふわ、と風が起こる。

微力だが、注がれる感覚が生じた。



茎に触れている手と、

皺が刻まれた小さな手が重なる。


晴は、はっとして

その手の主を目で辿った。


自分と同じくらいの背丈の、歳を重ねた淑女。

刻まれた皺は多いが、凛と佇む姿は美しい。


『・・・・・・玉玲か。』


彼は小さく紡ぎ、微笑む。


「玉玲って・・・・・・もしかして

 佐川くんのお祖母さん?」


『ああ。』



一ヶ月くらい前、学の妹―ゆりが

“Calando”に来店したことがあった。

その時、明也が漏らした名前が

その“玉玲”という女性である。


「・・・・・・

 ゆりちゃんが、おばあちゃんになった感じ。」


『似てるだろう?』


「うん。そっくり。」


“玉玲”は束の線香を炊き、香炉に置くと

手を合わせて目を閉じる。


彼女の足元には、

霊園から借りたであろうバケツとタオルがあった。

墓石が綺麗なのは、彼女が定期的に

ここへ訪れている可能性が高い。


『彼女に会うことがあったら・・・・・・

 お礼を言っておこう。』



“玉玲”の姿が消えると、

晴は小さく息を漏らす。


「・・・・・・時間を遡れないかな?」


―知りたいのは、この墓石が建てられてから、

 ここに真弓さんが訪れた可能性。


『そうだな・・・・・・』


明也は、右手で左ひじを支えるように置き、

左手を顎に添えて、じっと墓石を見据える。

考え込むような様子だが、

視線は一点に注がれているようにも見える。


『・・・・・・なるほど。

 俺たちの考えは、お見通しらしい。

 素直に配慮を受けるとしよう。』


彼の言葉の意味が分からず、首を傾げて

墓石に目を向けた、その時。


ぬっ、と墓石の影から出てくる頭。


「きゃあぁっ!!」


予想もしていなかった人影の出現に、

晴は思わず声を上げて後ろに飛びのく。



『おやおや、すみません。』


顔だけ出していたその人影は、

20代後半の男性に見える。

穏やかな口調で言葉を紡ぎ、全身を現した。


黒縁の眼鏡の奥から窺える細い目は、

音楽記号のスラーのように見える。

ふくよかな身体が、どうやって

墓石に隠れていたのか見当もつかない。


完全に意表を突かれた晴は、

腰が引けてしまう。

男性は、開いているか分からない細い目を

彼女に向け、にこにこしている。


『驚かせてしまいましたね。』


「い、いえ・・・・・・」


―気づいていたんなら、教えてよぉ・・・・・・


そう訴えるように、晴は明也へ

じっ、と目を向ける。

その視線に気づき、彼は笑みを浮かべている。


『お二方が何の目的でここに来なさったのか、

 見極める必要がありまして・・・・・・

 隠れていたことをお詫びします。』


ぺこりと頭を下げる頭は、坊主頭だ。

場所と柔らかな雰囲気のせいか、

住職ではないかと錯覚する。


「えっと・・・・・・

 あなたは、その・・・・・・」


“幽霊”ですよね?

言葉にせず、目で訴える。

それに対して男性は、ペコリと頭を下げて

和やかに答えた。


『はい。その通りでございます。

 初めまして、

 私は“柳田やなぎだ”と申します。

 片桐さまと同じく、“意念を持つ者”でございます。

 この姿になった今でも、“記録屋”をしております。』


「“記録屋”・・・・・・?」


『“記録屋”、か。なるほど。』


聞きなれない単語に首を傾げる晴に対し、

明也は納得している様子だった。


―確か・・・・・・明也は、“潜入屋”だったよね。

 蔵野さんのところで働く人なの?


―『・・・・・・まぁ、そんなところだ。』


―“記録”って、何の記録?


―クライアントが要望する記録だ。

 ・・・・・・幽霊になった彼が今、

 何の記録をしているのかまでは分からないが。



言葉にせず会話をする

晴と明也を交互に見ながら、男性―柳田は

何度も頷いている。


『いやぁ・・・・・・実際、私も驚いています。

 お二方のような境遇は珍しいです。

 奇跡とも言えますねぇ。

 藤波さまは生きていらっしゃいますし、

 普通に片桐さまと共鳴なされています。

 しかも、好き合っていらっしゃいます。』


さらりと衝撃発言をされて、晴は頬を

ほんのり赤く染めた。

明也の表情は変わらないが、

穏やかな雰囲気で言葉を返す。


『君は“管理人”が手配した者だと見受けるが、

 俺たちの要望に応えてくれるのか?』


『はい。ご存知の通りです。

 ・・・私は今この通り、幽霊になってしまいましたので

 “管理人”さまのご要望をお応えするとともに、

 この地の情景を記録する“意念”があります。

 ・・・・・・墓地という場所は、

 生きる者が、命を落とした者に語り掛けられる

 貴重な場所ですから。

 真意が、鮮明に残る聖域でございます。

 私は、この場所が好きなんです。』


穏やかな口調で語られる声のお陰で、

晴は落ち着きを取り戻す。

明也の隣に歩いていくと、柳田に向かい合った。


「えっと・・・・・・じゃあ、もしかして

 このお墓に来た人を、全員記録している・・・とか?」


『そうですねぇ。

 片桐さまのお墓だけではなく、この場所にある

 お墓の記録全てです。』


この霊園は、都内でも規模が大きい。

訪れた者全ての様子を、

彼は記録しているという。

その事実に、晴は思わず尋ねる。


「名指しをしても、分かりますか?」


『片桐さんが記憶する方ならば、すぐにでも。

 実行するには、ある程度深い所まで

 お付き合いくださらないといけませんが・・・・・・

 藤波さまのお心構えは、宜しいでしょうか?』


その問いに、しっかり頷いた。


「・・・・・・はい。大丈夫です。」


『了解致しました。

 それでは、一つお願いがございます。

 ・・・その雛菊を一輪、私にくださいな。』


柳田は、晴が右腕に抱えていた

雛菊の花束に目を向けて、

クリームパンのような両手を差し出す。


「これを一輪・・・ですか?

 でも、触れないのでは・・・・・・」


『晴。気づいていないようだから言うが、

 君はもう、“俺たちの世界”に入っている。』


「えっ?!そうなの?!」


『この霊園に踏み入れた時からだ。』



“意念を持たない幽霊”に会った時、

空気が重たくのしかかる感覚がある。

“灰色の空間”に入った時でさえ

空気の違いを肌で感じるというのに、

柳田が現れて今の今まで

その予兆に気づけなかったのだ。


―・・・そっか・・・・・・

 だから、明也は姿を・・・・・・


驚きを隠せない晴に、彼は変わらず

にこにこ顔を向けている。


ほんわかした雰囲気のせいなのだろうか。

気づけなかったことが、少し怖かった。


『ふふふ。はい。一輪で構いません。』


まだ戸惑いを隠せなかったが、

晴は素直に花束から一輪抜き取り、

柳田の両手へ寝かせて置いた。


『ご協力ありがとうございます。

 それでは失礼して・・・・・・』


彼は雛菊の茎を持ち、縦に立てた。

どうするのかと、晴は注目する。


あーん、と柳田の大きな口が広がる。

ぱくっ、と花を覆うように含んだ。

えっ、と晴は声を上げる。


むしゃ、むしゃ。

スラーの目尻は下がり、ふくよかな頬が波打っている。

茎だけになったそれも、大きな口の中へと消えた。


『・・・ふむふむ。美味です。』


呆気に取られている彼女に、

花を飲み込み終わった柳田は声を掛ける。


『片桐さんのお墓に訪れた方の中で、

 知りたい方がいるということですよね?

 名前を教えてください。』


―・・・・・・そういえば、

 “真弓”という名前だけで、フルネームを知らない。


ちら、と晴は明也に目を向けると、彼は

こちらに目を向けることなく、柳田に告げた。


『・・・・・・山枝やまえだ 真弓まゆみだ。』


『承知致しました。・・・・・・』


分からない程の微妙さだったが、

細い目を閉じて、しばらく柳田は黙り込む。



『・・・・・・

 ・・・・・・ふむふむ。

 ・・・・・・そのお方は、

 一度だけここへ訪れていますね。』


告げられた言葉に、二人は目を見開いた。


『それでは、お見せしましょう。』






                  *





雨。

しかも、勢いはとても強い。

土砂降りの為見通しが悪く、

広がり佇むマゼンタピンクの傘が

幸い目に飛び込む。

だが、その鮮やかな色も

激しい雨に打たれて、かすんでいる。


晴の視点からは、その傘と細い後姿、

背中まで真っ直ぐ伸びた黒髪、

すらりとした白い足が確認できた。



―・・・・・・真弓さん。



明也が記憶を取り戻した、最初の時。

その彼女の、真っ直ぐな黒髪を見たことがある。


隣に並ぶ彼からは、何の感情も流れてこない。

彼の、考えている事も。


それが、とても不安に感じた。

彼へ目を向けるのに、躊躇う。



「・・・・・・返すわよ。」


真弓から、ぽつりと声が漏れた。

その響きは、凛としている。


墓石に歩み寄ると、彼女は

その直ぐ下に何かを置いた。



「・・・・・・馬鹿・・・・・・

 何で、いなくなるのよ・・・・・・

 あんな別れ方、ないでしょ・・・・・・」



ぽつりと漏らした声は凛としていたが、

言葉を紡ぐ度に語尾が震えていく。



「もっと言いたいこと、あったのに・・・・・・

 嫌いになってやろうと、思ってたのに、

 もう、できないじゃない・・・・・・

 やり直すことも・・・・・・もう・・・・・・」



途切れて震える声が、嗚咽に変わっていた。

膝を抱えるように

しゃがみ込み、泣き崩れる。



「・・・・・・明也・・・・・・

 明也・・・・・・・

 帰ってきてよ・・・・・・

 ねぇ・・・・・・」



真弓から、悲痛な想いが注がれる。

あまりの痛さに、晴は拳で胸を抑えた。



明也。

何で、話してくれなかったのよ。

隠している事、あったんでしょ?

・・・・・・

でも、だからって、本気で

嫌いになると思う?


あの時、あなたを信じることが出来なかった。

隠し事をするあなたが、信じられなかった。


ただ、それだけなのよ?


愛しているって、もう伝えられないの?

ねぇ、明也。愛しているわ。

帰ってきてよ。

悪い冗談よね?

事故で亡くなるなんて、あなたらしくない。

本当は生きているんでしょう?

ねぇ・・・・・・


冗談だって、言いに来てよ・・・・・・

もう怒らないから・・・・・・


明也・・・・・・

明也・・・・・・




彼女の深い訴えが突き刺さり、

晴の目から涙が溢れ出す。

悲しみ、怒り、そして、後悔。

この涙は、

彼女の心に流れた血潮なのかもしれない。


彼女の、彼に対する想い。

それは紛れもなく、本心だ。


どうすることもできない、悔しさ。

彼にすがって、甘えたい気持ち。

言葉を交わし、

触れ合うことがもう叶わない、寂しさ。


複雑に混じり合い、流れ込む。



―真弓さん・・・・・・

 やっぱり、そうよね。


 あの時は、本心じゃなかったんだ。


 本当は・・・・・・




流れてくる彼女の悲痛に耐えている中、

明也は一歩、踏み出す。


泣き崩れる真弓の隣まで歩を進め、明也は

彼女が置いたものを確認した。


『・・・・・・』


慟哭する彼女へ視線を落とした後、腰を落として

しゃがみ込むと、双眸を向ける。

その眼差しは、宥めるように優しいものだった。


『・・・・・・すまない。』


謝罪は、彼女の耳へは届かない。

知っている上で、彼は言葉を掛ける。


『お前はここに・・・・・・

 俺への想いを置きに来たのか。』


それが、どんなに苦しい事だったか。


『お前らしいな・・・・・・

 ありがとう。真弓。

 お前には、最期まで迷惑かけてばかりだった。

 ・・・・・・

 俺と共に歩もうとしてくれたこと、

 想ってくれたこと・・・・・・

 心から感謝する。』



彼女に掛ける彼の言葉は、一言一句

想いで溢れていた。


言葉にし難い、深い想い。


それが、晴の心に溢れていく。


彼の想いも、紛れない。

お互いに、お互いを想い合う、心。

二人だけの、かけがえのない時間だ。



真弓が墓石の前に置いたものは、

飾りのない銀色の指輪が二つ。


それは、互いに指にはめるはずだった

婚約指輪だった。



晴は、しゃがみ込む二人の後姿を見守る。


明也の頬にも、涙が流れている。

雨に紛れているが、確かに彼から溢れている。


それを見届けることができて、

心の底から安心した。



二人の想いは、永遠に生き続けているのだと。







                  *






『・・・・・・おかえりなさいませ。』


柳田に声を掛けられて

晴は、はっとする。


『藤波さまは、とてもお優しいお方ですね。

 この記録を届けることが出来て、

 とても良かったと思います。』


見上げると、青い空が広がっていた。

真上に昇る太陽の光に照らされ、そよ風が

草木のにおいを運んでくれている。


大きな手が、自分の頬を覆う。

その親指が、目に溢れていた

涙を拭き取った。


「・・・・・・明也・・・・・・」


すぐ隣にいる彼の方へ目を向け、合わせる。

優しい微笑みと、温かい眼差し。

いつもの、穏やかな彼の表情が写る。


『・・・・・・ありがとう、晴。』


晴は、首を振った。


「私は何も・・・・・・」


まだ、胸が痛い。


『それでは、私はこれにて・・・・・・』


終始にこやかな柳田の姿は、

ぺこりと頭を下げたと同時に消え去る。


明也の姿も、視界に映らなくなった。



「・・・・・・」


晴はショルダーバッグからハンドタオルを取り、

尚もあふれ出る涙を拭き取る。

深呼吸をしても、止まりそうにない。


右腕に抱えていた雛菊の花束に

視線を落とすと、ぽたぽたと涙が零れ落ちた。



しゃがみ込み、涙を流す二人の後姿は

晴の心に深く刻まれ、焼き付いていた。



―結ばれるはずだった、二人。

 それが、小さな綻びから

 戻れないところまで割かれてしまった。


 それでも。

 きっと今でも、真弓さんの心に刻まれている。

 明也の心にも。


 深く。


 

そっと花束を二つに分け、花受けに

生けられていた菊たちの中に差し込んだ。


墓石の前に立ち、瞼を閉じると

胸元で静かに手を合わせる。


 

愛を誓い合い、想いをともにしながら、

成就されなかった二人の無念。


深く刻まれたその想いとともに、晴は

生きていこうと心に誓った。










                エピローグ






晴がお墓参りを終えて自宅に戻ってきたのは、

雨が降り出して灰色の雲が覆い、

既に暗くなった時刻だった。


真っ直ぐには帰らず、途中寄り道をして

都心を歩き回った。

歩く度に、ふくらはぎ部分に雨水が跳ね、

傘を差している意味がなくなる程

ワイドパンツが濡れていった。


その気持ち悪さも気にしない程、歩いた。

ただ、家に戻るのを遅らせたかった為に。



胸の痛みが、全然引かなかったのだ。



玄関前のドアに立ち尽くし、晴は

掌に乗せた二つの鍵を眺める。


しばらくして決意し、

晴は鍵を取ってドアを開けた。



「・・・・・・ただいま・・・・・・」



小さく呟く。

目の前に広がるのは、見慣れた自分の部屋。


最近は、“灰色の空間”を通すことが

日課になっていた。

それを使わず普通に部屋に入るのは、

何ヶ月月ぶりなのか。

しかしこれが、数ヶ月前は普通だったのだ。



部屋の照明を付け、

ショルダーバッグを所定の棚に置いて

晴は、ふぅ、と息をついた。

洗面台で手を洗った後、

ローベッドに腰を下ろして天井を見上げる。


静かな空間。

前は、寂しいと思わなかった。


せわしい外の世界から解放される、唯一の城。

今では、明也がいないと

寂しいと思ってしまう。

明也と会話をして、心を通わす時間が

当たり前になっている。



―・・・・・・当り前じゃ、ないんよね。



今日改めて、痛感した。



―時間は、限られている。

 ・・・・・・同じ時は、ない。


 だからこそ、大事にしないと。

 好きなことを、好きだと言える自分に。

 


「・・・・・・明也。」


彼女は、彼の名前を呼ぶ。


応えてくれないかもしれない。


そう思いながらも、愛しい彼の名前を呼んだ。



『・・・・・・今夜はもう、

 呼んでくれないだろうと思ったが・・・・・・』


言葉が紡がれた後、

ローベッドに腰を下ろす晴の前に

明也の姿が現れる。


微笑む彼は、普段通りに見えた。

その表情を、彼女は窺う。


彼と視線を通わせる時間は、どんな時でも

幸せな気持ちになる。


胸の痛みが引かないのは、自分の中で

煮え切らない想いがあるからだ。


それに向き合い、晴は

ぽつりと彼にお願いをする。



「・・・・・・ねぇ。

 真弓さんとは、どこで知り合ったの?」



明也は答えを返さないまま、しばらく晴を見つめる。

深海を思わせる双眸は、

彼女へ真っ直ぐ向けられていた。


明也は、彼女の隣に

ゆっくり腰を下ろして言葉を紡いだ。


『・・・・・・真弓とは、

 施設にいる時からの知り合いだ。

 彼女も俺と同じ境遇で、

 家族と親戚の有無が分からない。』


語り出す彼の視線は、フローリングに向いている。

その横顔を見つめながら、晴は耳を傾けた。


『・・・・・・互いに、

 家族というものに対する羨望が強かった。

 気づけば惹かれ合い、一緒にいる時間が増えた。

 ・・・・・・きっかけとか、立派な理由はない。

 今思えば、癒えない傷を舐めあう

 関係だったのかもしれない。』


「・・・・・・そんなこと、ないと思う。」


―それだけの関係なら。

 あんなに深く、想い合えない。


『・・・・・・』


「私に遠慮しないで、明也。

 ・・・・・・真弓さんのこと、

 心から愛していたことは・・・分かっているから。」


―だから、その想いを、

 私に預けようと言ってくれたんだよね。


『・・・・・・晴。』


「お墓参り、できて良かったなぁ・・・・・・」


少し後ろに身体を傾け、

両腕で支えるように手を置いて

晴は微笑む。


「真弓さんの代わりなんて、

 到底敵わないけど・・・・・・」


『代わりなんて、なる必要はない。』


「・・・ふふ。うん。」


『君に見届けてもらえて、良かった。』


生きていた証を。


彼の想いが、言葉で流れてくる。


「・・・・・・うん。」



―・・・・・・

 大事な想いを、私に預けてくれたんよね。


 ありがとう。明也。



『・・・・・・晴。

 もう一度外に出て、

 玄関を開けるところからやり直せ。』


「・・・・・・えっ?」


『今、君を抱きしめたくて仕方がない。』


「・・・・・・ちょっ」


『早く。』


「な、何言ってんの・・・・・・?」


『一日たりとも、欠かせたくない。』


「・・・・・・」


『ほら、晴。』


茶化さず、真剣に訴える明也の眼差しを、

晴は顔を真っ赤にして受け止める。


「・・・・・・今夜は、いいよぉ。」


『俺が駄目だ。』


「・・・・・・ふふっ。」


思わず吹き出す。


駄々をこねる子どものような彼は、珍しい。

笑わずにはいられなかった。


「わざわざ、やり直すの?」


『わざわざ、やり直してくれ。』



くすくすと晴が笑うのを見て、

明也も顔を綻ばせる。



気づけばもう、胸の痛みはなった。




















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