ホンキートンクピアノミドル
家紋武範様の隕石阻止企画参加作品です
うらぶれた中年男が、煤けた街の酒場にいる。臭いなんかみんなしている。鼻が慣れてしまっているから、誰も気にしないのだ。
髪もボサボサ、ゴワゴワ、脂がテカって虱もいそうだ。時々あちこち掻いている。服は当然ボロボロに裂けて垂れ下がり、繕いなんかしたこともない。
節だらけの短いカウンターは、客のこぼした酒の染みと煙草の焦げあとで元の色など解りはしない。割れ目に吸い殻が捩じ込まれると、カウンターの向こうから薮睨みの親爺が水をかける。
紫煙に霞む薄暗い穴蔵のような酒場は、下品な言葉やばか笑いに満ちていた。中年男は、薮睨みの親爺から酒を受け取ると、穴の空いたポケットから小銭を摘まみ出して放る。よく落として失くさないものだ。或いは、殆どが穴から溢れ落ちてしまっているのかも知れない。
男はカウンターで親爺と2、3言交わしてから、徐に隅へと向かう。足を引きずるわけでもなく、ボロボロの敗残者にしては猫背でもない。ノロノロと覇気の無い足取りで向かった先は、古ぼけたアップライトピアノである。
元は茶色と思われる煤けて四角いその楽器は、ボンヤリとオレンジ色の灯りが灯る片隅に佇んでいる。蓋なんか開けっぱなしで、鍵盤のあちこちにヒビが入っていた。鍵は幾つか飛んでいる。色だって黄ばんでヤニだらけ。恐らく箱の中ではピアノ線が何本か切れて、音の出ない鍵もあるのだろう。
男は、ガタンと音をたてて背もたれが曲がった木の椅子に腰かける。先ずは一口、淀んだ琥珀色の安酒を口に含む。それから、傍らの小さく円い小机に手にしたグラスをチョンと置く。
両腕を持ち上げ、何度か肩や袖の具合を直すと、周囲を見回す事もなくいきなり鍵盤に指を打ち下ろした。
調律なんか一度もされたことが無さそうな、調子外れなピアノなのだ。優しく鍵を押したところで箱の中のハンマーは持ち上がらないのだ。叩きつけなければ音など出ない。
ガツンガツンと背中から叩き出すリズムに、酒場の酔っ払いがバラバラの手拍子を始める。膝を小さく手で打つ者もいた。
男が紡ぐピアノの唄は、明るいけれど何処かうら寂しい旋律だ。
男はピアノに黒ずんだ指先を叩きつけながら、壁際の老人に気だるい視線を走らせる。傾いたテーブルでニコニコしている髭面の歯抜け爺さんだ。
爺さんは、愉しそうに体を揺らしながら椅子の下へと手を伸ばしている。
カチリ。
微かな金属音を、ピアノ弾きの鋭い耳が捉える。楽器ケースの留め金を開ける独特の音だ。酒場女の嬌声や、ぶつかり合うグラスの音の中から、正確に捉えたその音に反応した男の眼と、老人の黄色く濁った瞳がぶつかる。
老人は、弾性なんかとっくに失われた棒切れみたいな弓を取り出し、ネジを回して張りの調整をする。
ひび割れた松脂を塗り込むシュッシュッと言う音が、ピアノに合わせてリズムを取った。
そのあと楽器を持ち上げて、軽く弾くと調弦は終わりだ。5度調弦なぞというコジャレた事はしないのだ。
髭面の爺さんが、楽器を膝に立てるように預けて、じっとピアノを聴いている。
やがて、男のピアノがやや哀愁を帯びた旋律に変わった。同じリズムと調を引き継ぎ、メロディーだけが変化した。極端に変わった訳ではなくて、類似の旋律だ。似ているが違う曲に移っている。
短い旋律を2度繰返し、後半もまた2度繰返す。新しい曲が一巡して冒頭に戻るべく、後半メロディーの終わりに近づく。髭面の歯抜け爺さんが、骨と皮ばかりの萎びた腕で、すっと提琴を持ち上げる。
指板も歪んだそんな古ぼけた楽器のどこから、こんなにも魂を揺さぶる音が生まれるのだろう。
転がり跳ねるピアノの音に、フィドルが泥臭く追い縋る。跳ねて回って飛び上がり、2つの音が紫煙の中を駆け巡る。
真っ暗な角で柱の影に沈んだ大柄の女が、マントの中から手作りらしき横笛を取り出す。ピアノ弾きの中年男には、その動作ひとつひとつが真昼の街中での出来事と同じように見えていた。
笛は、粗末な木製の六孔笛である。キーも何もない。唄口だって孔だけだ。
そこらの森で手頃な枝を切り出してくり貫いたものと見える。風体から見れば女のひとり旅だ。楽器を作る為の工具は、護身用の武器にもなるのだろう。
女の取り出した笛は、手の指でOKを作った程度の太さを持つ横笛だ。長さも縦にすれば、大柄なその女性の顎から腰まで届く。6つの孔も大きめで、手指の大きな人でなければ息が漏れて音が鳴らない。この笛は、指の腹で孔を押さえるのだ。
ピアノ男が、音の隙間を器用に縫って傍らにある小机から欠けたグラスを取り上げる。男は瞬きもせずに、琥珀色の液体が波打つグラスに唇を寄せた。
ひと啜り素早く呑み込むと、汚れた指はグラスを離れ、ガタガタの鍵盤の上で再び踊り出す。
女の笛が低く掠れた音で合流した。吹きっぱなしの息を指の操作で巧みに切って、酒場女から心地よいステップを引き出した。
フロアのテーブルを乱暴に寄せて、カウンターの手前に踊りスペースが設けられてゆく。
毒々しい色のスカートを摘まんだ女達に、少し遅れて踊り自慢の男達が混ざる。
迸る命のリズムが、バラバラと合わない手拍子を牽引して行く。スプーンを二本手にとって打ち付け始めた青年が、鋭いリズムを刻む。不機嫌そうにブツブツ呟いていた老婆が、突然細い真鍮の縦笛を吹き出す。
暫くして、踊る1人の女を取り合って踊り手の男達が殴り合いを始めた。グラスが割れて酒が溢れる。笑いながら物を投げ合う女達。
中年男は、相変わらず鍵盤を叩きながら鉄臭いにおいに鼻をひくつかせた。誰かが怪我をしたのだろう。殴られた鼻血か、はたまた割れたグラスで切ったのか。不埒な若者に酔っ払い娘が反撃して文字どおり噛みついたのか。
潮時とみた中年男が、静かな曲に切り替える。あの叩きつける手付きから、魔法のように優しい旋律が紡ぎ出されていた。フィドルとフルートが寄り添って啜り泣く。
フロアの喧騒が収まって、皆で店内を片付ける。後は閉店まで静かに呑んで、三々五々と家路に着くのだ。
中には道で倒れるものもいるだろう。家もなく、酒場の壁に寄りかかって夜を明かす者もあるだろう。
健啖家は、最後に肉の塊を注文したり、揚げ物を大皿に盛り上げたりしている。ピアノの前に座り続けた中年男は、壊れた鍵盤から切ない唄を引き出しながら、淀んだ琥珀の酒を啜る。
(肉はレアがよい、野菜は要らぬ)
帰りがけにありつく予定の、報酬がわりの食事を思ってベタつく鍵を指で打つ。
場末の酒場の片隅で、ホンキートンクなピアノを叩いて呑んだくれる中年男の一晩は、こうして賑やかに始まりやがて静かに過ぎるのである。
酒場の灯りが消えた。今宵は満月だ。
ピアノ弾きの中年男が、酒場の裏口から出て横道の影に溶ける。後ろ姿がくるりと宙返りを打てば、尻尾と耳が生えてきた。瞳は鋭く金色に光り、口には牙が見えている。
大きな黒い体を満足そうに揺らして、狼に戻ったピアノ弾きは月夜の路地に消えてゆく。
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