第七話 お部屋訪問
早速ですが、シュダさまのお部屋です。
バードフォーチュン伯爵家本邸、その一角。ベッドと本棚が一つという貴族のものとは思えないほどに簡素なお部屋でした。
ちなみにシュダさまはこの場にはいません。バードフォーチュン伯爵家当主にして宰相とお話があるとのことで、ここで待っていてくれとのことです。
ベッドの上に腰掛けたわたくしは、もう、我慢の限界でした。
「う、うう。ううううううーっ!!」
頭ではそんな場合ではないとわかっているのです。
王城クリスタルラピアの上層が内側から吹き飛び、(帰路につく馬車の中で聞いたところによると)ガラスの破片と共に国王の首も一緒に飛び散った、なんて馬鹿げた被害をたった一人の女が撒き散らしました。
シュダさま曰く、サキュバス。
遥か昔であればともかく、今では魔獣や亜人の絶滅が危惧されているのですから、悪魔の一種であるサキュバスなどとっくに滅びたものと考えられています。
もしもシュダさま以外の言葉であれば妄言と切り捨てていたかもしれません。ですが、他ならぬシュダさまがそう言うのならばあの女は確かにサキュバスなのでしょう。
シュダさまは嘘をつかない、とまでは言いませんが、こんなつまらない嘘をつくような人ではありません。
……上手に嘘がつけるとは思えない、というのもありますが。
とにかく。
あの女がサキュバスであるなら、歴代最強である殿下ではないにしても、王族にふさわしい力を持つ国王を殺害できたのも不思議ではありません。
悪魔といえば絵本で語られるほどに風化した過去、『覇権簒奪戦争』において単騎で大国の軍勢を皆殺しとした、とまで言われている怪物なのですから。
──シュダさまが殿下を殴った際に漏らした『サキュバスの呪い』の件もありますので、シュダさまとサキュバスとは何かしら関わりがあるのでしょう。
わかっているのです。
そんな場合ではないと、きちんと頭では理解できているのです。
それでも、
「シュダさまの匂いがします……っ!!」
両手で顔を覆い、わたくしは搾り出すようにそう言っていました。
シュダさまのお部屋、なんて、もう、それだけで破壊力の塊です。簡素なこのお部屋でシュダさまは過ごすのです。今、こうして腰掛けているベッドで毎日お眠りになるのです。
もう、染み付いています。
シュダさまに包まれたように痺れが止まりません。
ぎぢ、ぎぢ、と。
わたくしの視線はゆっくりと、いけないと思っているのに動いてしまいます。
枕。
顔を覆っていながら、指の隙間からがっつりと見てしまったのです。
目についたら、もう、駄目でした。
ふらふらと、誘われるように行動に移していました。
ぼふんっ、と。
枕に顔を埋めます。
「ふ、ぁ……シュダさま、です」
わたくしは、どうしてしまったのでしょう? これでも未来の王妃候補として殿下との婚約を結んだ身。殿下がどうお考えだったかはともかくとして、身分に見合うだけの実力を積み上げ、多くの候補たちの中から殿下の婚約者と選ばれて『しまった』んです。
結果はともかく、わたくしは貴族として高みに立っていたはずです。そうあれと、進んできたのです。
それなのに、シュダさまが関わると、これです。今のこの姿が貴族としてどうか、と言えば、失格も失格、ありえないでしょう。
前のわたくしが今のわたくしを見れば、みっともないと一蹴していたはずです。それほどに、壊れています。
タチが悪いことに、壊れていくことをわたくし自身が望んでいるのですから、どうしようもありません。
本当、どうにかしてしまっています。
十五年の積み重ねなど、公爵家や王家での教育など、たった一つの想いの前にはこんなにも無力なんですね。
「リンティーナ?」
「……ひっ、ぅぅっっっ!?」
……それはそれとして、あまり壊れすぎるのも考えものかもしれません。シュダさま、いつから部屋に入ってきたのですか!?
ーーー☆ーーー
『指示があるまで待機しろ』──それがバードフォーチュン伯爵家が当主にして宰相バラグラ=バードフォーチュンの言葉であった。
何を聞いてもそれしか言わない父親に諦めをつけて、シュダ=バードフォーチュンは婚約者を待たせている私室に向かっていた。
廊下を苛立ちげに歩くシュダへと歩み寄る影が一つ。
「お兄様、時間確保してもよろしいでしょうか?」
「ゼリアか」
ゼリア=バードフォーチュン。
床につくかつかないかほどに伸ばした髪を一本に纏めた彼はバードフォーチュン伯爵家が次男にして兄であるシュダを差し置いて次期当主となることが確定している。
いつもボロボロのコートを着ているようなシュダと違い、人を惹きつける容姿を際立たせるようにと格好にも気を遣っているゼリア=バードフォーチュンは社交界において令嬢たちの羨望の眼差しを集めている。
「お兄様が呪いと取引に封じたはずのサキュバスが観測されたのだとか。お父様は何か言っていましたか?」
「待機しておけの一点張りだ。呪いで『力』を失った俺様に事細かに説明する気はないってことだろ」
「お兄様は此度の事柄、どう思案していますでしょうか?」
「お偉方の思惑という前提がぶっ壊れた」
ガリガリと頭をかきながら、シュダは吐き捨てる。
「王族云々まではお偉方の思惑通りに進んでいたはずだ。まあ大半のお偉方の思惑さえも利用して、親父は貴族制度完全撤廃という真の目的を達しようとしていたんだろうが、その辺はどうでもいい。問題なのは、今この瞬間から流れが変わったってことだ。お偉方の思惑によって管理、つまり被害が調整できる闘争から、誰にも予測がつかない闘争へとな」
「致命的ではありません?」
「まったくだ。というわけで、ゼリア。お前も覚悟だけは決めておけ」
「民を守るために死ぬ覚悟を?」
「いいや、死んでも生き抜く覚悟を、だ」
トン、とゼリアの胸に己の拳を軽くぶつけ、シュダは真っ直ぐに言う。
「お互い、惚れた女のためにも気合入れないとな」
「国家規模の闘争が勃発しようという場面で、個人的な理由を持ち出しますか」
「ハッ! 綺麗事じゃ力は出ないからな。結果が同じなら、戦う理由はより気合が入るほうがいいだろうよ」
「……お兄様らしいことで」
そうして兄弟は互いの道を行く。
お偉方の思惑という『大人たちの檻』、窮屈だが守られてもきた加護を軽々と引き裂く猛威が姿を現した以上、いつまでも大人たちに従っているだけでは大切な人を守れない。
ならば、切り開くしかない。
己が最愛を守り抜くだけの道を。
そうして部屋に戻ったシュダを出迎えたのは枕に顔を埋めたリンティーナであった。具合が悪いのか聞いたら『少しだけ』と返ってきた。
今日は色々あったので、疲れもあるのだろう。今日はもう寝るかと告げたらベッドから転がり落ちるくらい慌てていたのだが、その理由まではシュダにはわからなかった。
ーーー☆ーーー
『日記』より抜粋。
ゼリア曰く王妃教育は想像するより過酷なもの、らしい。
俺様の婚約者がどんな女か気になって調べた(お偉方の思惑がチラついているのが気になってのことだろう)ゼリアによると、大の大人の手で無理矢理王城に連れて行かれるのも珍しくなく、血だらけで帰るのが常だったとか。
俺様との政略的な婚約を文句一つ言わずに受け入れてしまうくらいには貴族としては正しいあのリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢が嫌がるくらいの『何か』が王妃教育にはあったということだ。
思うところがないわけでは、なかった。
それでも、今日までは耐えてきた。
だけど、今日はもう無理だった。
ハッピーライフを目指すのに暴力なんて必要ないのだろうが、それでもぶっ飛ばさないと気が済まなかった!
ごちゃごちゃとクソみたいなことを言っていた。それだけでも最悪だが、あのクソ野郎はあろうことかリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢を連れ去ろうとした。泣かせ、やがったんだ。
そんなの我慢なんてできるものか。今回はお偉方の思惑が絡んでいたから問題にはならなそうだが、お偉方の思惑なんてなくとも同じことをやっていた。
どうしてだろうか。
せっかくの良縁を失いたくない? 男が女を守るのは当然? 第一王子が心底気に食わないから???
どれも嘘ではなくて、しかししっくりはこない。このどうしようもなく制御不能な感情は損得や定説、憎悪に根付いたものではない。
心の底から笑っていてほしい。
幸せになってもらいたい。
そして何より、そばにいてくれないと嫌だ。
リンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢のことが頭から離れず、いつもそんなことばかり考えているんだ。
この感情に名前をつけるとすれば。
……そうだよな、やっぱりこれしかないよな。
俺様はリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢のことが好きなんだ。政略的なんて関係なく、一生を共にしたいと望んでいるんだ。
不思議なものだ。恋ってのはもっと劇的な何かと共にもたらされるものだとばかり思っていたが、気がつかないうちに沈み込んでしまうものだったんだな。
気がついた時には、もう、手遅れだった。
引き返すことができないほどに深みにはまっていた。
そうか、俺様はリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢が好きなのか。同じようにリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢にも俺様のことを好きになってもらいたいが、それはいくらなんでも高望みしすぎだよな。
ああ。
心臓がうるさい。