第四話 一生忘れられない一日
砂浜にある大きな岩の影に入り、物理的な距離こそありましたが、シュダさまと見つめ合って話をしました。
何気ないものばかりだったと思います。好きなもの、嫌いなもの、どんな趣味をもっているのか、などなど、本当にそんなものばかりです。
その一つ一つがまるでキラキラと宝石のように輝いていました。シュダさまはお肉は好きだけどお野菜は苦手なんだと、おそらくお肉を口にした時は目を輝かせるんでしょう、とか、お野菜を口にすれば眉をひそめて嫌そうな顔をするのでしょう、とか、想像するだけで胸が温かくなります。
シュダさまに関することであれば、どんなお高い宝石よりも価値があるのです。
出会って今日でちょうど一ヶ月。とはいえ実際に会って話したのは数えるほどであり、シュダさまについて未だ知らないことはたくさんあります。
だからこそ。
知れば知るほど、深みに嵌るようでした。何も特別なことなんてしなくても、頭がクラクラと甘く痺れています。わたくし、いつの間にここまで溺れていたのでしょうか。
……悪い気はしないのが、もう、手遅れである証拠かもしれません。
「リンティーナ、最近よく笑うようになったな」
気がつけば、辺りは紅に染まり、夕日が海へと沈んでいきます。青い海がガラリと紅に塗り替えられていく中、波の音とシュダさまの声が心地よく響きます。
「そう、かもしれません」
笑顔くらいつくることはできますが、おそらくシュダさまが言っているのは作り物のそれのことではないでしょう。
シュダさまとこうして話しているだけで意図せずして笑顔が溢れます。貴族として、ではなく、ただの女の子としての感情が溢れて止まらないのです。
「やっぱりリンティーナは笑っているほうがいいな。予想通り、すっごく可愛い」
…………。
…………。
…………。
「……っっっ!?」
カァッ! と急激に頬が熱く、赤くなるのを自覚します。唇は痺れてうまく動かず、心臓は跳ね上がるように暴れて、どっと汗が噴き出します。
令嬢としての顔で取り繕う余裕なんてどこにもなく、言葉を返すことさえできませんでした。可愛い、とそう言われたことは初めてではないにしても、全然慣れることはありません。
「うん、やっぱり可愛い」
一人納得するように頷き、そしてこう続けました。
「本当なら、夕日を背にして『定番』の言葉を並べて結婚指輪を渡すつもりだった」
「……、えっ!?」
ちょっと待ってください! あの、そんなに一気に詰め込まれても処理しきれませんっ。
なに、え、なにをっ、結婚指輪!?
あの、シュダさまっ。ここで目を逸らしますか!? どうして呑気に夕日を見つめているんですかっ。わたくしは、もう、表情を取り繕う余裕もないというのにっ!!
「政略的なものとはいえ、そういうところはきちんと形にしないといけない……いいや、したいと思った。だから、夕日を背に『定番』の言葉で形にしようとしていたが、リンティーナのお陰でそれは何か違うと思い直してな」
ふと、気づきました。
夕日の紅でも隠しきれないほどにシュダさまの顔もまた赤くなっていることに。余裕なんて、シュダさまにもなかったのです。
それでも、シュダさまはどんっと自身の胸に拳を叩きつけ、半ば勢いに任せてわたくしを見て、こう宣言しました。
「『定番』に頼ることなく、俺様の言葉で俺様の想いを伝える。だから、もう少し待っててくれないか?」
想いは、もう、伝わっています。わたくしとの結婚をそこまで真剣に考えてくれているだけで十分すぎるほどです。
こんなにも熱く、深く想っているのはわたくしだけではなかったんですね。
「はい。待っています、シュダさま」
ああ、こんなの忘れられるわけありません。予感、いいえ確信していた通り、今日のデートをわたくしは一生忘れないでしょう。
と、そこで終わりません。
同じ馬車で海に訪れた以上、帰りも同じ馬車となります。
対角線上に座ったシュダさまが頭を抱えて、
「そうだよ、帰りも一緒じゃないかっ。う、うおおっ。なんだかこっぱずかしいこと言ってたよな、俺様!? せめて最後の最後に言えばよかったなぁ、もおっ!!」
「…………、」
う、うう。幸せは幸せなのですが、そわそわします。嫌ではありませんが、恥ずかしい、も少し違います。とにかく顔が熱くて、心臓の鼓動が激しくて、意味もなく叫びそうになっています。
こんなの、どんな教育係も教えてくれませんでした。人は十五年もの教育で培ったものさえ簡単に吹き飛ぶくらい、自分の心一つ制御できないようです。
嫌というわけでは、絶対にありませんが。
ーーー☆ーーー
──今のところは順調、と。
──サキュバスに呪われる前は『完全隠蔽』を果たす手駒として、呪われた後は舞台措置として扱うとはなぁ。サキュバスに呪われた事実を隠蔽しているあのガキは仮にも長男であろうに。
──アレの使い道として最も適していると思うが?
──ま、なんでもいいか。我がミラーフォトン公爵家がこの国の頂点と君臨できるのならばなぁ。
──計画は半ば完遂している。我がバードフォーチュン伯爵家に適当な罪をでっちあげるのも時間の問題だろう
──貴様もよくやるよなぁ。
── ノブレスオブリージュ。貴族であれば当然のことだ。
──ま、なんでもいいか。率先して我らの躍進のための礎となるというのだ。わざわざ止めやしないわなぁ。
ーーー☆ーーー
出会って一ヶ月記念にしてデートの日から三日が経ちました。あの日からシュダさまとは会っていません。
決して会いたくないわけではないのです。会いたいのは会いたいのですが、今シュダさまの顔を見ると悶えてしまいそうで……。
精神を制御し、頭の先から爪先までの動きを支配するなんて初歩も初歩、貴族としての嗜み……なのですが、シュダさまを前にすると今まで積み上げてきたものが一切通用しなくなるのです。
シュダさまに出会うまでは知らなかったもの。自分が自分じゃなくなる衝撃は、しかし決して嫌ではないというのだから困ったものです。
と、そんな風に自室のベッドの上で枕を抱きしめて唸っていた時でした。
扉の先から『お嬢様、お時間よろしいですか?』と聞き慣れた専属メイドの声がありました。
「は、はい」
返事するのも一苦労、なんて、シュダさまのことを考えているだけでこのザマですか……。
失礼します、という声と共に扉が開き、妙齢の女性が入ってきます。
ルナアルナ。
わたくしが生まれた頃から公爵家に仕えてきた女性であり、わたくしの専属メイドです。
一時期はメイド長になるのではという話もあったほどには優秀な女性です。……その頃はちょうど王妃教育の真っ只中であり、わたくしが精神的にも肉体的にも参っていた時期でした。それもあってか、ルナアルナはメイド長へと昇進する話を断ったんです。
口にはしませんでしたが、より長くわたくしに付き添うためにでしょう。本当、わたくしは恵まれています。
そんな優秀な専属メイドですが、唯一気になる点があるとすれば何でもその大きな胸にしまう癖があることでしょうか。わたくしのそれも平均よりは大きいみたいですが、ルナアルナのそれには遠く及びません。
男の人はやっぱり大きいほうがいいのでしょうか。それこそシュダさまだって……。
「あら。お嬢様はそのままで十分に魅力的ですわよ。だから、そんなに気にせずともシュダ=バードフォーチュン様もありのままのお嬢様を好いてくれますわよ」
「……、わたくし口に出していました?」
「いいえ。ですが、お嬢様のことでしたらわかりますわよ」
目元の泣きほくろが印象的なルナアルナはサラリとそんなことを言いながら胸元に手を突っ込み、何かを取り出します。
それは封筒でした。
それも王家の刻印が刻まれたものです。
「流石に扱いが雑ではありません?」
「お嬢様を散々苦しめてきた連中に礼を尽くす理由はないですわよ」
ふんっ、と拗ねたような表情を浮かべるルナアルナ。そうして怒りをあらわとしているのもわたくしのためなのでしょう。一人が感情的になれば、もう一人は冷静になれるものですからね。
わたくしは気が効く専属メイドから王家の刻印が刻まれた封筒を受け取ります。そこに書かれていたのは──
ーーー☆ーーー
『日記』より抜粋。
リンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢との婚約が決まって十日が経過した。婚約したからにはと顔を合わせ、何度かお茶を共にしてきたが、刺激が強すぎる。
表情こそ取り繕ってはいるが、十日も観察していれば(目が離せなかったとも言う)、多少は読み取ることもできる。
チョコケーキを口にして嬉しそうにしている、とか、俺様のちょっとした冗談に和んでくれている、とか、そんな些細なことがわかってしまい、なんというか、刺激的で仕方ない。
チョコケーキであんなに喜んでくれるなら今度はもっと良いものを持ってこよう、とか、今度はリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢が取り繕う余裕もないくらい面白い冗談を言ってやろう、とか、最近はそんなことばかり考えている。
まあ、一番リンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢の表情を変えたのは俺様の口調が絵本の王子様を真似たものである、というのはちょっと気になってはいるが。……格好良くない? ふははっ、とか最高じゃない???
とにかく、だ。
リンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢を幸せにしてみせると意気込んでいながら、幸せになっているのは俺様という有様だった。
少しでいいから、リンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢も俺様と一緒にいることで幸せだと感じていてくれればいいのだが。
少なくとも嫌われてはいないと思うが、願望に目がくらんでいる可能性もあるよな。自惚れないようにしないと。