第十六話 その想いの名前は
『ねぇねぇ、どうして「魅力」を振り払えたのー?』
『簡単だ。「つくりもの」では敵わない、本物の好きを知ったからな』
『秘匿されし過去』の一幕にて殺戮の限りを尽くしたサキュバスの『魅力』が招いた気の迷いは振り払った。
暴力ではなく会話。
そのような馬鹿げた選択肢は排除できた。
『……ふうん。で、だったら? わたしは亜種であろうとも悪魔。「魅力」が通用しなくとも、単純な暴力でも人類ごとき圧倒できるけど?』
『それがどうした』
それすなわち、悪魔の亜種であるサキュバスとの真っ向勝負を招くということ。いかに効率的に快楽を貪れるかという方向に進化を続けた生命体とはいえ、単騎にて軍勢を凌駕する暴虐であることに変わりはない。
魔法ではなく呪法の使い手であるためにサキュバスの呪いで魔力を無効化して活路を開くこともできない。
力の差は歴然だ。
呪いによって『力』を失ったシュダ=バードフォーチュンに勝ち目はないだろう。
『俺様は約束した。リンティーナにはめくるめくハッピーライフを過ごさせてやるんだ。その邪魔をするなら、悪魔だろうがなんだろうが! 片っ端からぶっ飛ばしてやる!!』
それでも、挑戦をやめるわけにはいかない。その背に惚れた女を背負っているならば、例え世界を敵に回したとしても勝利をもぎ取る必要がある。
好きだから。好きになったから。
それ以上の戦う理由がこの世界のどこにあるというのだ。
『力』を失ったからどうした。
『力』があろうがなかろうが、惚れた女を守りたいという思いが変わるわけがない。
だったら、挑め。
力の差を覆し、『二つ』の壁を粉砕せよ。
ーーー☆ーーー
シュダ=バードフォーチュンの拳が飛ぶ。真っ直ぐに放たれた一撃がサキュバスを薙ぎ払う。
ーーー☆ーーー
シュダの記憶は捏造されていた。
『本当の過去』はもっとありふれていて、特筆することのないものだった。
(あーあ)
『秘匿されし過去』、アビスレス教団によって封印から解き放たれたサキュバスはシュダ=バードフォーチュンと対峙した。
(一目惚れだったんだけどねぇ)
それはそれとして世界に混沌を招く悪意に変化はなかった。
鳥が空を飛ぶように、魚が海を泳ぐように、世界に混沌を招き鮮血と死を撒き散らすことは悪魔の亜種たるサキュバスによっては当たり前のことだったから。
それを、シュダは否と断言した。
そんな女を好きにはなれないと言い切った。
彼だけはそばに置いてあげると、色欲の根源たるサキュバスの全霊でもって愛でてあげると誘っても靡くことはなかった。
だから記憶を弄った。
『これから』に賭けて。
(……ちぇっ。ざーんねん)
サキュバスの姿が霧散する。
超常を纏ってすらいない人間の拳ぐらいでダメージを受けるわけがないだろうに、その場から立ち去ったのだ。
一人の男に道を譲るように。
初恋に別れを告げて。
ーーー☆ーーー
ダンジョン、それも『無冠の覇者』のような冒険者の中でも最上位に君臨する強者でさえ踏破の取っ掛かりすら掴めていない難攻不落の『未踏魔域』の最奥に眠っていた魔道具が唸りをあげる。
魔剣サクリファイス。
闇が蠢くような刃より放出されるは魔力ではない『何か』、それも国家中枢に位置する武力を要である将軍や近衛騎士団長さえも瞬殺した暴威が漆黒の濁流という形でリンティーナ=ミラーフォトンへと迫りくる。
「ッ!!」
一息。
リンティーナが両手を横に広げ、その掌から紅蓮の炎を放射した瞬間、漆黒の濁流が炸裂。
ズッッッゾン!!!! と大地そのものを数十メートルも深く斬り裂く漆黒の軌跡が、しかし直撃したはずのリンティーナの全体像がブレて消える。
ジリ、と。
放射された炎はいつの間にか消えており、熱せられた空気だけが漂っていた。
空気の熱、その寒暖差が人工的に生み出された結果、その層の境で光が屈折、虚像を生み出すことで第一王子の目測を狂わせたということだ。
「はっは! だから? そのような小細工はいつまでも通用しません。いつか、必ず! 殺される未来は覆りません!!」
そんなことは、リンティーナ自身が誰よりもわかっていた。文字通りの天才。いくらリンティーナが優れた術式を編み出そうとも、生まれ持った魔力だけで凌駕する理不尽の極みとは長い付き合いなのだから。
不本意ながら、婚約を結んでいたのだ。
誰よりも近くで、その理不尽なまでの才能を見てきた。そんな天才に『魔力ではないエネルギーを秘めた』武器を与えたとなれば、この世に敵う者など存在しない。
いくらシュダ=バードフォーチュンでも、魔力以外は無効化できないのだから。
だからこそ、他ならぬリンティーナ自身がその理不尽なまでの才能を理解しているからこそ、こうして立ち向かっているのだ。
こんなものをシュダ=バードフォーチュンへと向けさせないために。命をかけてでも守りたいと想ったがために。
なぜなら、そう。
リンティーナ=ミラーフォトンはシュダ=バードフォーチュンのことが好きなのだから。
「ああ」
もう死は避けられない土壇場で。
自身の想いに真に気づいたリンティーナは──くしゃり、と顔を歪めていた。
感情を表に出すのは貴族の令嬢としては失格ではあるが、『生きた人形』ではなく、一個の意思を持つ人間として生きている彼女には耐えられるものではなかった。
「死にたく、ないですね」
だって。
死んでしまっては、こんなにも好きな人にもう会えないということなのだから。
涙で視界が霞む。
一瞬の油断も許されない極限状態であるとわかっていて、それでも集中が砕けていくのを自覚する。
感情が制御できない。シュダ=バードフォーチュンが関わるといつもそうだ。彼はいつだってリンティーナの心を狂わせる。公爵令嬢として、未来の王妃としての『いつも』をぐしゃぐしゃに潰して、今までリンティーナが感じたことのない気持ちにさせる。
良くも悪くも。
いつしかシュダ=バードフォーチュンの存在はリンティーナ=ミラーフォトンの魂の底にまで根付いていた。
だから。
だから。
だから。
シュダ=バードフォーチュンが屋敷から飛び出したその時、漆黒の濁流がリンティーナ=ミラーフォトンを呑み込んだ。
ーーー☆ーーー
状況を整理してみよう。
一つ一つを精査していけば見えてくるものもあるはずだ。
ーーー☆ーーー
漆黒の濁流にリンティーナ=ミラーフォトン公爵令嬢が呑み込まれた。それを、屋敷から飛び出したシュダ=バードフォーチュンは狙ったようにタイミング良く目撃した。
惚れた女が死ぬその光景を、間に合わなかったという現実をまざまざと突きつけられる。
……間に合ったとしてシュダに何ができたか、そこは重要ではない。間に合わなかったという結果が、半端に不確かとしてしまうことが、己の努力で結末を変えられたのではという後悔を生み出し、自分で自分を責め、自己生産の悪感情が心が砕くのだから。
そのはずだ。
だというのに、その時、シュダ=バードフォーチュンは目を見開いていた。絶望に、ではない。単純な驚きに、彼は目を見開いていたのだ。
バッヂィッッッン!!!! と。
リンティーナ=ミラーフォトンの両手が漆黒の濁流を内側から弾き飛ばしたのだ。
「な、あ……っ!?」
『未踏魔域』。
大陸でも屈指の最難関ダンジョンの最奥に眠る魔剣サクリファイスの一撃。将軍や近衛騎士団長といった国家戦力の中枢にして王妃教育に加担──すなわちリンティーナ=ミラーフォトンを散々いたぶってきた『彼女では勝てない敵』さえも瞬殺可能な力であったはずだ。
それを、漆黒の濁流を、他ならぬリンティーナ=ミラーフォトンが打ち破れるはずがない……というのに、現実は異なる。
ゾァッ!! と。
純白の光で全身を包むリンティーナ=ミラーフォトンの背中からこれまた純白に輝く六対の翼が噴出する。
翼、といっても従来のそれではなく、光の粒子が噴出して形作ったものであったが。
「な、んですか、それはあ!?」
「わたくしもなぜこれだけ多くの魔力を手にしているのかはわかりません。わかりませんが──」
ブンブンと漆黒の剣を振り回し、まるで駄々っ子のように叫ぶ第一王子へと、静かにその手を差し向けたリンティーナは言い放つ。
「シュダさまを守れるのならば、そしてこれから先もシュダさまと一緒に生きていける未来を掴み取る力となるならば、なんでも構いません」
言下にその手から噴き出した純白の閃光が真っ直ぐに第一王子へと襲いかかった。