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常世へ架る虹の橋  作者: 葉月望
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常世へ架る虹の橋  ~前編~


 私は今、彼――幡手颯馬はたてそうまとの〝約束〟を果たすため、島根県仁多町と広島県高野町の県境にまたがる猿政山さるまさやまを息を弾ませ、一歩、また一歩と草木を掻き分け登っていた。

 手つかずの自然の中を歩くのは、想像以上に過酷で重労働だが――だけど、新暦の正月を十日後に控えた十二月二十日に来れたことは、せめてもの救いであった。この時期はまだ、雪が積もっていないからだ。真冬だと、この辺り一帯は雪に覆われ、閉ざされた空間となるのだ。

 ――それでも、身を切るような冷たい風と、手つかずの樹木が私の行く手を阻む。

 それはまるで、普通の高校生だった颯馬に――

 〝神殺し〟という業を背負わせた私を責めているかのようであった。

 しかし、どれだけ厳しい道のりだろうと、どれだけ困難な障害があろうと、私は進まなければならない。

 すべては彼……いや、彼らに対する私の贖罪――

 そんな想いを胸に抱き、鬱蒼と茂る草花を踏みしめ歩く。

 紅潮していた私の頬を、優しく撫でてくれていた冬の陽射しは、今は茜色に染まっていた。確か、朝日が昇るころ猿政山に入ったのだから、半日以上は歩いている。そう思うと、足は鉛のように重く、肺もからっぽで息苦しく感じられた。

 こんな時ほど、人の身体の脆弱さがもどかしく、歯がゆく思われた。だけど、神体しんたいのままでは颯馬に逢えないし、約束を果たすことも出来ない。だからこそ、脆弱な人の身体で、この猿政山にいるはずの颯馬を探している。

 〝神殺し〟となって、高天原から命を狙われるようになっても、私にだけ、私を信じて居場所を告げてくれた。そんな颯馬の思いに応えたい。

 その思いが、疲れて沈んでいた私の顔をもう一度上げさせてくれた。

 その時だった――

 茜色に輝く夕日に照らされた木々の間から小屋が見えた。


 ――あそこに、颯馬がいる!


 何の確証もなかったが、なぜかそう感じた。

 胸に溜まっていた思いが溢れ、目頭を熱くする。

 稲佐の浜で、颯馬と別れて一か月――

 そう、たったの一か月――

 神である私にとっては、ささやかな時の移ろいのはずであったが、まるで、数百年の時が流れたように感じられた。

 ――やっと、颯馬に逢える……。

 この日をどれだけ待ち焦がれたか、それなのに、そのはずなのに、私は――

 ――怖かった。

 颯馬は私を恨んでいるんじゃないだろうか。あんな、酷い目に遭わせた私を……。

 その考えが、さきほどまで力強く歩るかせていた私の足をイバラが絡むよう縛り、胸は張り裂けんばかりの痛みに襲われた。苦しさのあまり、近くの大木に寄り掛かる。

 荒い息を整えようと、冷たい空気を力一杯吸い込んだ時だった。

 「――何者だ!?」

 殺意を含んだ冷気のような誰何が、背後からかけられた。

 その声は、神経質そうな男性のものだったので、すぐに彼ではないと分かった。おそらく、颯馬を追う高天原からの刺客だろう。

 戦う意思がないことを示そうと、両手を上げてから言葉を紡いだ。

 「私は思兼神おもいかねのかみの部下で、枳佐加比売命きさかひめのみことというものです」

 その答えを信じてくれたのか、男性から放たれていた殺気が、すうっと消えるのを感じられた。

 「オレは、天鹿児弓あめのかごゆみだ」

 振り返えると、細身の体つきに左目を前髪で隠し、身なりはしっかり整った男性が立っていた。彼は狙撃の名手で、数多くの敵を葬ってきた実績を持つ神だ。ここに天鹿児弓がいるということは、他に十柱の神々もいるということだろう。

 彼らは、葦原中国平定あしはらのなかつくにへいていや様々な戦場で活躍してきた暗殺者集団である。これほどの実力者を送り込んできたということは、高天原は本気で颯馬を殺そうとしているのだ。その事実が、私の心をさらに重くした。

 天鹿児弓と話すのはこれが初めてであったが、彼の周辺は綺麗に整理整頓され、完璧に計算されたように配されていた。おそらく潔癖症なのだろう。

 私が天鹿児弓を観察するように、彼も私ことを頭の先からつま先まで、しっかりと観察していた。暗殺者である天鹿児弓にられていると、なんともうすら寒いものを感じ体が震える。

 気が済んだのか、天鹿児弓は小屋へと視線を戻す。

 それに倣うよう、私も小屋を見つめた。

 「……あそこに、彼が?」

 「…ああ」

 私たちがいる場所から、颯馬がいる小屋までの距離は、直線にしておよそ一キロメートルほどあった。しかも、樹木に覆われ、向こうからはけっしてこちらが見えない位置に陣取っていた。

 それだけ、颯馬のことを警戒しているのだと分かった。

 他の神々の姿は見えなかったが、天鹿児弓と同じように気配を絶ち、あの小屋を見張っているのだろう。

 「……あんた、戦闘タイプの神ではなさそうだが……やはり、あの〝神殺し〟を狩りに来たのか?」

 鹿児弓の目は、猜疑を宿していた。

 彼の疑問も分かる。私はどうみても戦闘タイプの神ではない。それが、〝神殺し〟として高天原の第一級抹殺者リストに乗っている男のいる場所に来たのだから、私だって疑問に思うだろう。そんな疑念を持ったまま一緒にいては落ち着かないと思い、軽く説明する事にした。

 「あの〝神殺し〟――幡手颯馬はたてそうまとの約束を果たしに来たの」

 「約束……!?」

 さらに言葉を紡ごうとした時だった。見張っていた小屋の扉が、ゆっくりと開く。

 私たちは息を殺し、瞬きを忘れ扉を見つめた。

 風が止み、獣たちの声も止む――

 誰も彼も息を潜め〝神殺し〟が現れるのを待っているようであった。

 ――静寂と息苦しさの中、私たちは待ち続けた。

 が、誰も姿を現さない。

 時間が止まったような静寂の中、心音がうるさいほど響く。

 もしかしたら、颯馬のいる場所まで聞こえているのでは、とさえ思わせるほどだ。

 そんな時間がしばらく続き、息苦しさに耐えかねたころ、扉から腕が覗いた。

 その瞬間、血潮が奔流のように流れ、胸の動悸がみるみる高まった。

 そして、扉から颯馬の姿が見えた。

 その瞬間、私の全身は重低音を大音量で浴びたような衝撃を受けた。

 「――颯馬!」

 一か月ぶりの颯馬の姿に、私は気持ちが抑えきれず、大きな声を上げ飛び出していた。

 一瞬、警戒の色を見せた颯馬だったが、私だと気づくと、あの優しい眼差しを向けてくれた。

 「颯馬、颯馬!」

 万感の思いを込め、何度も名前を呼びながら駆ける。

 鬱蒼と茂る雑草を掻き分け、高鳴る鼓動と弾む呼吸を全身で感じつつ颯馬の元へと急ぐ。

 離れていた一か月、いろんなことがあった。その一つ一つを話したい。今まで颯馬は何をしていたのか、話したいことは夜空の星のようにたくさんあった。

 色々な思い出が胸に去来しながら走る。

 徐々に颯馬の姿が鮮明さを増し、それに比例するよう嬉しさが心を満たしていく。

 だが、颯馬との距離が五メートルあたりまで近づいたところで、ぱたりと足が動かなくなった。

 胸の奥が、ズキリと重い痛みで締めつめられたのだ。

 私の中にある罪の意識が、これ以上颯馬に近づく事を躊躇わせた。

 そう、私は怖いのだ。

 ――颯馬に拒まれるのが……。

 それだけの事を、彼……彼らにしたのだ。

 「……そ、颯馬」

 なんて声をかければいいのか分からず、ただただ、名前を繰り返すだけの私に、颯馬は出会った頃の優しい笑みを浮かべてくれた。

 「……枳佐加さん」

 一か月ぶりに聴いた颯馬の声は、掠れていた。それだけでも長い間、誰とも話していない事が窺えた。さらに髪の毛はボサボサで少し伸びており、服は最後に見た時のまま、あの時の死闘の爪痕が生々しく残っていた。

 そんな颯馬の姿を見ていると、目頭が熱くなり、頬に熱いものが流れるのを感じた。

 「……そ、颯馬……私、私ね……」

 罪悪感と拒絶されるかもしれない、という恐ろしさから次の言葉が出ない。

 締め付けられる胸を強く掴み、なんとか言葉を紡ごうと呼吸を整える。

 「あのを、果たしに来てくれたんだね」

 私の心情を察してくれたのか、笑顔を浮かべ颯馬代わりに言葉を紡いでくれた。

 本当に、出会った時から優しい男の子だった。

 その優しさに甘えた結果が、彼を高天原の第一級抹殺者リストの筆頭にまでさせたのだ。

 「ごめんなさい……ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」

 涙で颯馬の姿がぼやけて見える。

 「枳佐加さん、もう少し待ってくれないかな……あと少しで――」

 上着のポケットから何かを取り出そうとした瞬間、風を切り裂く鋭い音が聞こえた。それと同時に、分厚いものを貫く鈍い音が鼓膜を揺する。

 私の目に映ったのは、颯馬の左胸から鮮血が舞う瞬間であった。

 「――そ、そうまあああああ!?」

 私の悲鳴は、空気を切り裂く雷の轟音にかき消された。

 颯馬の額から放たれた雷は行く手を遮る樹木を薙ぎ倒し、自分を射抜いた狙撃手の方向へと真っ直ぐに掃射された。

 「天鹿児弓!?」

 一瞬、天鹿児弓の心配をしたが、すぐに視線を戻す。すると、颯馬は身を翻し山の奥へと走り出していた。それを追い神々が姿を現す。

 「オレは大丈夫だ! それより奴を追え!」

 天鹿児弓の姿は見えなかったが、声はしっかりしていた。後ろ髪引かれる思いで颯馬の後を追った。

 「ま、待って颯馬!」

 わずかの間、颯馬から視線を外しただけで、完全に姿を見失っていた。

 だが、前方で閃光と木々を薙ぎ倒す雷の鳴動めいどうが響く。それを追って、鬱蒼と茂る草木を掻き分け走る。

 すると、目の前に誰かが倒れていた。

 それを見た瞬間、血の気が音をたてて引くのが聞こえた。

 颯馬でない事を祈りつつ近づくと――見知らぬ神であった。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 その神は、足を怪我しているようだが、命に別状がなさそうだったので、申し訳なく思いながらも、放って颯馬の後を追った。

 行く先々で、闘いの爪痕がくっきりと残っていた。その場所には、必ず誰かが倒れていた。人影を見つけるたびに、胸がざわつく。

 そして、恐る恐る覗き見て、それが颯馬でないと分かると安堵に胸を撫で下ろす。

 それを何度か繰り返す。

 それにしても、暗殺に長けている神々を次々と退ける颯馬に、その実力を知っている私でさえ、驚きを禁じ得なかった。短期間で神の力が宿る〝稜威いつの欠片〟を、こんなにも使いこなせるとは思いもしなかった。

 戦いの後を追っていくと、十柱目の神が倒されているのを発見する。これで全員を退けたことになる。それだけでも驚嘆に値するのだが、さらに全員が致命傷ではなく、戦闘継続が不能な程度で放置されているのだ。

 颯馬の戦いっぷりは、いにしえの荒ぶる神〝須佐之男命すさのおのみこと〟を彷彿させるものであった。

 「……気をつけろ……奴は、強いぞ」

 痛みで苦しそうにしながらも、私に声をかけてくれた。

 それを見て、『治癒息吹いやしのいぶき』で回復してあげたい衝動に駆られたが、今は颯馬との約束を果たすことを優先させようと、忠告だけ受けとり颯馬の後を追った。

 神々を全員退けた事で、戦いの痕跡を追うことが出来なくなっていた。

 このまま見失ってしまうのかと思ったが、草木のいたるところに颯馬の通った痕跡が見られた。

 それは、血の痕跡であった――。

 颯馬の身を案じながら、その痕跡を追う。

 しばらく進むと、ぽっかりと口を開けているような小さな洞窟の入り口を見つける。

 痕跡は、洞窟の入り口付近で途絶えていた。どうやら、颯馬はあの中に入ったようだ。

 洞窟の入り口付近に立ち、恐る恐るなかを覗く。

 洞窟内は薄暗く、まるで伊弉諾いざなぎ様が妻の伊弉弥いざなみ様をお迎えに入ったという黄泉の入り口のようで、背筋を冷たい汗が流れる。

 それでも、私は颯馬と会わなければならない。彼が最後に言おうとした言葉を訊くのは、私の責務なのだから。

 その使命感に背中を押され、洞窟の中へ入ろうとした。

 「――〝神殺し〟は、この奥か?」

 神経質そうな声が、私を驚かさないよう背後からそっと話しかけてきた。振り向いた私の視界に入った天鹿児弓の姿に、目を見開き驚く。

 彼の左半身は焼け服も焦げ、むき出しとなった肌も火傷を負っていた。

 「だ、大丈夫……?」

 「ああ……矢がしっかり当たっていたお蔭で、奴の攻撃が逸れたのだろう……そうでなかったら、今頃オレは……」

 天鹿児弓の声色で、いかに際どい攻防だったのか窺い知れた。

 傷ついた状態にも関わらず颯馬の息の根を止める為、天鹿児弓が洞窟の中へ入ろうとする。彼を洞窟に入らせるわけにはいかない。あの時、颯馬が言おうとした言葉を私は聞かなければならない。おそらく、それが、颯馬の遺言になるのだから。

 「しばらく、二人にしてくれないかしら……」

 「……どういうつもりだ?」

 天鹿児弓は怒りを宿した瞳で睨む。おそらく、私が手柄を独占すると思ったのだろう。そう思われても仕方がない。私が不用意に飛びだしたせいで、天鹿児弓は命を落としかけたのだから。

 「手柄は、あなた達にあげるから、彼と少し二人っきりにさせて……お願い」

 「そんな言葉を、信じると思うのか?」

 私と天鹿児弓の間には、信頼関係が築かれていない。それなのに、言葉だけで信じて欲しいと言うのは、烏滸おこがましい事だ。まずは、こちらが誠意を態度で示さなければならない。そうして、信頼関係は築かれていくものだと――颯馬たち人間から学んだことだった。

 そこで、黄土色のフリースジャケットを脱いでみせた。

 「ど、どういう、つもりだ!?」

 私の奇行に、天鹿児弓は狼狽する。

 「この通り、神剣の類は持っていません。もし、約束を違えるようなら、颯馬――〝神殺し〟ごと私を滅すればいい!」

 これが、今の私にできる誠心誠意だ。これで信じてもらえない場合は、例え天鹿児弓を殺してでも颯馬の言葉を聞こうと、内心で覚悟を決めていた。

 薄着となった私の肌に、十二月の風は容赦なく吹きつけ、体の芯まで冷風が吹き抜けるようだった。寒さで震える私を、天鹿児弓は猜疑心が灯った目で、心を見透かすように見てくる。

 「――分かった。枳佐加比売命の言葉を信じよう。だが、待つのは十分だ! それ以上は、待たないからな」

 「ありがとう!」

 大きく頷き、颯馬のいる洞窟へと歩みを進めた。

 ――洞窟の中は温かく、深い闇が広がっていた。だが、全く見えない程ではなかった。

 右手を壁に這わせながら進んでいくと、奥にうっすらと明かりが灯っているのが見えた。その明かりに誘われるよう、ゆっくりと進む。

 しばらく進むと、土で作られた祭壇のようなものを見つける。その祭壇には、四つの仏像が並べられていた。いったいなんだろうと目を凝らしていると、祭壇の前に颯馬の姿があった。それは、祈りを捧げるよう座っているようであった。

 「……颯馬、大丈夫?」

 声をかけたが、返事はなかった。

 私に対する彼の抗議のように感じられ、チクリと心が痛んだ。

 「本当にごめんなさい。あなた達を巻き込んでしまって……」

 颯馬に拒まれるのを覚悟しつつ、彼の背に手を添える。それでも彼は、何も答えてくれなかった。それも仕方がない事だろう。つい今しがた、騙し討ちのような事をしたのだから。

 「颯馬、話を聞いて」

 先ほどの攻撃は、私が意図したことではない事を伝えたかったのと、彼が最後に何を言おうとしたのか、どうしても聞きたくて颯馬の前に回る。

 その瞬間、私の胸は氷の手で強く掴まれたような痛みと苦しさ味わう。

 「――死んでいたか……」

 蝋燭の炎の揺らぎほどのか細い声が聴こえ顔を上げる。

 そこには、外で待っていると約束したはずの天鹿児弓が、闇に浮かぶように立っていた。

 約束を破った天鹿児弓を責める事はせず、颯馬の方へ視線を戻した。

 「どうやら、それを出そうとしていたようだな……」

 僅かな罪悪感を含んだ声色で天鹿児弓が言った「それ」とは、颯馬が大事そうに抱えている作りかけの木製の仏像であった。おそらく、颯馬はこの仏像が完成するまで約束を待ってもらおうとしたのだろう。

 その仏像は、どことなく颯馬に似ていた。そして、並べられている仏像は、彼らにも似ていた。

 「今まで、いろんな奴の死に顔を見てきたが……こんな、悲しみと安らいだ表情を同居させた死に顔を、見たことがない……」

 私の前で祈るように座る颯馬の目はゆるく閉じられ、そこから涙が乾かず残り、口元は微笑を浮かべていた。――ようやく、颯馬は解放されたのだ。私が犯した過ちから……私があんなミスをしなければ、彼らは今ごろ青春を謳歌していただろう。

 あの事件がなければ――


 そうあれは、旧暦の九月十一日――つまり、新暦十月三十日にあたり、『神在祭かみありさい』を一か月後に控えていた時だった。

 私が〝それを〟起こしたのは――。

 事件当日――私は他の神々や眷属や式神に混じり『神在祭』の準備に大わらわになっていた。ちなみに『神在祭』とは、各地に赴任している神々が、年に一度高天原に集まって行う会合のことをいうのだが、会合といっても、ほとんどお祭りのようなもので、色々な出し物があったり、イベントを行ったりと、一週間かけて騒ぎ倒す催しである。――とはいえ、この神在祭に向けて芸を磨く神もいるほど、気合の入り方が、まさに神っている祭りなのである。

 私は、飲んで食べて見る、専門ではあるが――。

 八百万の神々が一堂に会するとあって、準備は大掛かりなものとなる。その為、高天原に残る神々は勿論、式神や眷属たち総出で祭りの準備を行う。しかも、食べ物や飲み物なども想像以上の量が必要となり、それらを上手く手配して、余すことなく分配しなければならない。

 それを完璧にこなす事――まさに、神の御業。

 ――って、みんな神様なのだけど。

 私の担当は、祭りのあと、神々が赴任先に帰任する時にお渡しする引き出物の手配であった。その目録を持って、高天原の宮殿内を右往左往していた。

 そんな私の前に、弁才天様が通りかかった。

 「神在祭でのライブ楽しみにしています!」

 私の言葉が聴こえていない様子で、弁才天様はなにやらブツブツと呟いていた。おそらく、ライブで歌う歌詞を考えているのであろう。最近、弁才天様の音楽活動が変わってきていた。以前は、琵琶でしっとりと演奏していたのが、今はエレキギターという西洋物の弦楽器を使い、数人の女神と重音部とかいうバンドを組み、騒々しい音楽を奏でるようになった。私としては、琵琶を弾いていた頃の方が好きだったのだが、人気があるので仕方がない。

 弁才天様の邪魔をしてはいけないと思い、会釈だけして通り過ぎた。その背後から、機械的な甲高い音が響く。

 「――っぱり、ここは、もっとハードに攻めた方が……」

 呟きながら、エレキギターをギャンギャンとかき鳴らす。耳が痛くなりそうなので、逃げるように廊下を走った。

 しばらく、弁才天様のエレキギターの音が聞こえていたが、ようやく、音が届かない所まで来て人心地つく。

 「あらぁ、枳佐加ちゃんじゃないのぉ!」と、間延びした声が聴こえた。

 それが、私の苦手な天宇受賣命あめのうずめのみことのものであるとすぐに分かった。聞こえなかったふりをして去ろうかと思ったが、そういうわけにもいかないので、笑顔を作ってから振り返る。

 「観念して、あたし達のグループに入りなさいな」

 肌の露出の多い服で、私に寄り添ってきた。

 「……でも、『女神48《フォーティーエイト》』って、グループ名が決まっているじゃないですか」

 天宇受賣をリーダーとした四十八柱の女神で結成された歌って踊るグループを、『女神48』という。普通に歌って踊るだけのグループならいいのだけど、肌の露出の多い服を着て、悩殺するような如何わしいダンスをする事で、男神に絶大な人気を博している所が、私は苦手だった。一部の良識ある女神からは、下品だと非難されているものの、「モテない女神の嫉妬だ」と、男神たちから一蹴されているのが現実であった。

 見ている分には、楽しくて面白いのだが、自分が参加するとなると別である。とてもじゃないが、あんな露出の多い服を着る勇気はない。

 「名前なんて、変えればいいだけよぉ。『女神49《フォーティーナイン》』ってね。思兼神おもいかねのかみには、あたしから言ってあげるわん」

 長い睫をしばたかせウインクする。

 「本当に結構ですから―――!」

 強引に勧誘されそうな勢いだったので、走って逃げた。

 「気が変わったらん、いつでもいらっしゃいなぁ~~」

 天宇受賣の甘ったるい声を背中で聞き流し、またも走って逃げている私――。

 今日は、厄日なのだろうか。

 息が切れるほど走った私は、高天原の本殿と別館を繋ぐ回廊まで来ていた。息を整えようと、美しく細工の施された欄干に手をつき、何度か深呼吸をする。

 今度こそ、本当に人心地ついたと思った。その時、肉がぶつかる重い音が響き、飛び跳ねるように驚き悲鳴をあげる。

 「これは、驚かせてしまってすまない」

 この時期に、上半身裸でしかも湯気が立つほど汗をかいている天手力男命あめのたぢからおのみことが、優しげな笑みを浮かべ、私の五倍はあろうかという丸太に寄りかかっていた。

 どうやら、相撲の稽古をしているようだ。

 「――いえ。それよりも精がでますね。今年勝てば、三十連勝でした?」

 「そうでごわす」

 満面の笑顔を浮かべ、手拭いで汗を拭く。この天手力男は、天岩戸あまのいわと伝説で活躍した神の一人で、天照様がお隠れになった岩戸を一人で開け放った怪力無双の神である。そして、神在祭で行われる相撲大会で、現在二十九連勝をしていた。

 「相撲で、天手力男に勝てる神がいるとは思えませんよ」

 「いやいや、油断は禁物でごわすよ」

 柔和な表情から、勝負師の表情に変わる。

 それもそのはず、二十九連勝の前には九十九連勝していて、百連勝は間違いないと言われていたが、思兼神から試合前に酒を飲まされ、それが普通のお酒ではなく、あの八岐大蛇やまたのおろちを酔わせたと言われる『八塩折之酒やしおりのさけ』だったのだ。酔いの回った天手力男は、無様に投げられ気を失って負けてしまった。その反省も込め、今は油断せず自制心を持って戦いに挑む姿勢を見せていた。この様子だと三十連勝は間違いないだろう。

 天手力男の稽古の邪魔をしてはいけないと思い、すぐに立ち去った。

 キラキラと秋の陽射しが射し込む回廊を抜けると、別館内は屋台の準備をしていた。所狭しと荷物が置かれ、神や式神や眷属たちが溢れかえっていた。喧噪が満ちる廊下を縫うように歩いていると、神々の活気に私の心も踊る。毎年、ここの屋台で出される美味しいものを食べ歩くのが、私の楽しみの一つであった。

 ――今から待ち遠しいな。

 押し合う群衆の中を掻き分け通路を抜けると、競技が行われる広場へと出る。

 ここでは、人間界でいうオリンピックのようなものが行われる。しかも、神々が行うオリンピックなので、規模は神級である。それ故、観客席も頑丈に作られる。その工事に天目一箇神あめのまひとつのかみを中心とした鍛冶を司る神々が、眷属や式神を操り建設作業を行っていた。

 さきほどの屋台で美味しいものを頂き、競技を観戦しながら食べるのが、神在祭での私なりの楽しみ方であった。

 心が躍る思いで建設作業を見つめる。余所見しながら歩いていると、風を切り裂く鋭利な音が鼓膜を揺する。一瞬、背筋がゾクリとする。その音がする方へ、恐る恐る顔を動かすと、そこには筋骨隆々の男神が演武の練習をしていた。とても美しい動きで、思わず目を奪われる。呼吸や動きに乱れがなく、息を飲むほどの躍動感を魅せる神は、建御雷神たけみかづちのかみであった。

 毎年競技大会の開会式で、建御雷の演武が披露される。雷の剣を操る建御雷は、高天原最強の武人と誉れ高い神である。本気で動いたら、私如きでは捉える事はできないだろう。

 建御雷は、近寄りがたいオーラを発しながら練習に没頭していた。

 声のかけずらい雰囲気だったので、なにも言わずその場をあとにした。

 こうして、色々な準備を目の当たりにしていると、もうすぐ神在祭が行われるのだと実感が湧いてくる。興奮に身を任せながら、建設されていく競技場を見つめ歩く。

 やがて、自分の仕事がまだまだ残っている事を思い出し、後ろ髪引かれる思いで建設現場を後に資料館へと向かった。

 ――この時の私は知らなかった。この先にある過酷な運命――その帰結する先は、悲劇へと繋がる見えない糸にいざなわれていた事を――

 今でも思う。あの時、弁才天様と話をしていたらと――または、天宇受賣に捕まっていたらよかったのかもしれないと――それとも、天手力男か建御雷と話をしていたら良かったのかもしれないと――

 あの時、ああしていたら良かった、こうしていれば良かった――と考えるのは無益な事だと分かっていても、考えずにはいられなかった。

 ――だって、そうしていればきっと、あの悲劇は起きなかったはず。あの出来事は私にとって、永遠に消えない悲しみの楔となって、今も心に深く刺さったままなのだから……。

 そんな未来が待ちうけているとは、この時の私は想像だにしていなかった。



 ――私が足を踏み入れた資料館は、『緑風館りょうふうかん』と言うのが正式名称で、あらゆる神事についてのデータが収められている。なにしろ、神事についての段取りは厳格で、事細かく手順が定められている。万が一にも手順を間違えば、神事は中止となり、人間界や高天原に天災が降りかかる事となる。それ故、守らなければならない仕来りや作法など、すべての神事について事前に調べておくのが決まりであった。そんな貴重な資料が保管されているのが、この『緑風館』である。

 引き出物について、最低限押さえておく目録品を調べようと、必要な資料が収められている部屋へと向かう。その途中、押し潰されたようなか細い声が、どこからか聴こえてきた。

 「……誰ですか~?」

 「………………た、すけて、くれ~~」

 今にも消え入りそうな声だったので、慌てて声の主を探した。

 「どこですか~?」

 「……こ、ここだぁはぁ~」

 どうやら、この部屋から聞こえるようだ。

 その部屋に掲げられている表札を見て、息を飲んだ。ここは、あの思兼神おもいかねのかみの部屋だ。

 思兼神とは、遥か遥か昔、天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸から出すための知恵を授けた神であり、ほかにも葦原中国平定の際、葦原中国に派遣する神の選定を行った実績もある。まさに、高天原随一の知恵の神なのだ。

 そんな偉い神が、助けを叫ぶ事態とはどんなことだろう――

 それなりの覚悟を決め、扉を開けて入る。

 私の目に飛び込んできたのは、無秩序に積まれた本の山だった。なんだって、部屋の真ん中に本の山があるのだろうと疑問に思ったが、今はそれどころではなかった。

 「思兼おもいかねどこですか~!?」

 「……こ、ここだよぉ」

 どうやら、本の山の方から聞こえてくる。まさか、と本の山に近づく。

 すると、本の間から足が生えているのを見つける。

 「だ、だいじょうぶですかーー!?」

 急いで大量の本を動かしていく。

 しばらく掘り進めると、本の山の間から思兼が姿を現した。

 「――た、助かったよ枳佐加君」

 本の上に座りずれた眼鏡をなおす。思兼の群青色の長い髪がボサボサとなり、栄養不足そうないつもの青白い顔が少し赤みがかっていた。

 「何があったんですか?」

 「ちょっと調べ物があったんで探していたら、本が倒れてきて、この様さ――ははは」

 頼りなさそうな笑顔を浮かべ頭を掻く。それだけ見ていると、とても高天原随一の知恵者には見えない。

 「気を付けてくださいね。それじゃ、失礼します」

 自分の仕事に戻ろうと立ち上がる。

 「困ったなぁ~、やらなくちゃいけないことがあるのに、これじゃ、仕事が手につかないや~困ったなぁ~」

 思兼が、これみよがしに大声でボヤいてみせる。

 「……急ぎの要件ですか?」

 「そうなんだぁ……これじゃ、神在祭に間に合わず、みんな困るだろうなぁ~」

 先ほどまで、わずかに赤みを帯びていた顔が、いつもの青白い顔色に戻り、さらに陰鬱な雰囲気を醸し出していた。私に手伝えと言っていることは、容易に想像が出来た。

 しかし、私にも仕事がある。

 「……どなたか、手伝ってくれる神や眷属はいないのですか?」

 私の言葉に、眼鏡越しに上目使いでじとりと見てくる。

 「ぼくは友達がいなくてねぇ……いやいいんだ。友達がいないぼくが悪いんだから……」

 そうボヤいたあと、丸めた背中でノソノソと動き、散らばっている本を一冊ずつ拾う。

 その姿があまりにも哀愁を帯びていたので、心が「きゅっ」となった。

 「……散らばっている本を、片づけるだけですからね!」

 小さなため息をついて、落ちている本を拾い本棚に片づけていく。私もまだまだ仕事が残っているので急いで片付ける。そのさまを思兼は口をぽっかり空け、感心したように見つめていた。

 「ほらほら、思兼も手伝ってください」

 あの高天原随一の知恵者に指示を出すって、意外に気持ちいいものだ。なんだか偉くなった気分となる。

 小さな優越感に浸っている間に、山となっていた本を元通りに片づけ終わる。思兼は顎に手を当て、満足そうに何度も頷く。私的にも上出来な仕事ぶりに、清々しい気分となった。

 「――それじゃ、行きますね」

 自分の仕事に戻ろうと、引き戸に手をかけた時だった。

 「枳佐加君の整理能力を見込んで、やってもらいたい事があるんだ」

 今度はなんだろうと、若干の面倒くささが心に湧く。

 「仕事がたくさん残っていて、とてもお手伝いする余力はありませんよ」

 間髪入れずに断る。

 その態度に、思兼は背中を丸め恨めしそうな目つきで見てきた。

 「まだ何も言ってないのに断るなんて……やっぱり、ぼくってみんなから嫌われているのかなぁ。きっと、そうなんだろうね。寂しいなぁ……。死にたくなってきたよぉ……」

 これみよがしに背中を向け、体育座りでぶつくさと呪詛の如く呟く。

 これって、私が意地悪しているようにみえるんですけど……。

 だが、私も猫の手を借りたいほど仕事が残っているのだ。

 「申し訳ありませんが、失礼します」

 「枳佐加君」

 そそくさと出て行こうとした私を、もう一度呼び止める。

 「なんですか――って、何やってるんですかーー!?」

 振り向くと、思兼が大きな本棚によじ登ろうとしている姿を捉える。

 「ぼくなんていらない神だから、せめて大好きな本に殺されようと思ってね……。お構いなく、キミは行ってくれていいよ」

 これは偽装だ! と即座に看破した。これ以上、かかわり合ってはいけないと本能が叫び、慌てて部屋を出た。それでも、万が一に備え思兼の部屋の前で聞き耳を立て様子を窺う。

 すると、全身を突き抜けるような轟音が、思兼の部屋から響いた。

 本当にやったのか!? と慌てて部屋に飛び込む。

 「――あっ!?」

 私と思兼は、異口同音で声を発した。もちろん、内容は明らかに違うものである。

 部屋に飛び込んで見たのは、倒した本棚の下に潜り込もうとしている思兼の姿だった。あたかも自殺を図ったように見せかけようと、工作している最中であった。

 高天原随一の知恵者とは思えぬ浅はかな悪巧みを目撃され、バツの悪い空気が漂う。

 「は、速いね……ははは」

 「バカな真似をしないでください!」

 部屋中に、私の怒鳴り声が響く。

 「だって、枳佐加君が話聞いてくれないんだもん」

 いいオッサンが泣き出した。これには、さすがにドン引きする。

 そして、ため息交じりに言葉を紡ぐ。

 「とりあえず、話だけは聞きますね。聞くだけですよ!」

 「本当かい。やったーーー!」

 そんな訳で、思兼の話を訊くこととなった。

 「キミに頼みたい事は、宝物殿に納められている神宝かみだからの整理と修繕箇所の確認なんだ」

 「ええええ!? 宝物殿って、あの天地開闢てんちかいびゃくの時に現れた別天津神ことあまつかみ神世七代かみよななよの時代からある宝器や神器に天璽瑞宝十種あまつしるしみずたからとくさなど、とんでもなく貴重な物が納められている所ですよね!?」

 「最近造られた神器や宝器も納められているよ」

 「そういうことじゃなくて、宝物殿ってどれだけ広いかご存じでしょ!」

 「迷子になるよねぇ」

 思兼は一言で済ましているが、そんな生易しい広さではない。地上で言うところの大都会に匹敵する敷地を有する。そんな広大な建物内の整理など、十年単位は掛かる仕事量だ。

 「絶対に無理ですよ!」

 「全部って訳じゃなく、ほんの一部が散らかっていて、それを片づけて欲しいだけなんだ」

 笑顔を浮かべながら話すが、思兼が笑うと何か企んでいるように見えるのは、私だけだじゃないだろうと思わせるほど不気味だった……。

 「それって、思兼が散らかしたのでしょ?」

 「……………………………………………………」

 私の指摘に、思兼は沈黙で答える。

 「思兼がやったことを、なんで私が後始末しなくちゃいけないのですか!」

 「ぼくが片づけるより、キミが片づけた方が効率的なんだよ!」

 逆ギレのように懇願してきた。その姿に、変な事に巻き込まれたと頭を抱えたい気分となる。

 「そうだ! 宝物殿の片付けをやってくれたら、お礼にキミの仕事をぼくが手伝おうじゃないか!」

 左の掌に右の拳を叩く、古典的なひらめきのポーズをとってみせる。

 しかし、思兼が手伝ってくれるというなら、仕事の効率アップは間違いないだろう。むしろ大幅な時間短縮に繋がるかもしれない。そんな邪な計算が働き、天秤にかけてみた。

 そして、すぐに結論が出る。

 「思兼もお困りのようですので、お引き受けします」

 「ありがとう~」

 手を合わせ、私のことを崇めるように礼を述べる。

 打算で動いただけなのに、こんなに喜ばれたら逆に恐縮してしまう。

 早速片付けに取り掛かるべく、思兼に案内され宝物殿へと向かった。



 ――宝物殿。正式名称は、瑞宝院五方神鳥殿ずいほういんごほうしんちょうでんという長ったらしい名前なのだが、誰も正式名称では呼ばない。

 この宝物殿は、名前の通り五つの御殿に別れており、東にある青い瓦屋根の宝物殿を鸞鳥殿らんちょうでん、西にある白い瓦屋根の宝物殿を鵠鳥殿こくちょうでん、南にある赤い瓦屋根の宝物殿を鳳凰殿ほうおうでん、北にある紫色の瓦屋根の宝物殿を嶽鵲殿がくさくでん、中央にある黄色い瓦屋根の宝物殿を鴛雛殿えんすうでんという。

 それぞれ回廊で繋がっているのだが、北の宝物殿から東の宝物殿には直接行けない。中央の宝物殿を通らなくてはならないのだ。すべての宝物殿が、そのように一旦中央の鴛雛殿えんすうでんに入ってから四方に分かれている回廊を通って、それぞれの宝物殿へと行くようになっている。

 なぜ、そのような面倒な事になっているかというと、一つに、出入り口が多いと見張りに人員を割かなければならないのと、外部からの侵入を防ぐためであった。

 住人は神様か式神か眷属しかいない高天原なのだが、神様といっても完全無欠の人格者という訳ではない。現に思兼のようなだらしない神様がいたりするのだから……。

 以前、宝物殿の宝勾玉たからまがたまなどを持ち出し、お気に入りの女神にプレゼントして気を引こうとした神がいたそうだ。

 そんな訳で、宝物殿の出入り口は中央の鴛雛殿えんすうでんしかなく、通るたびに所持品チェックを受ける仕様となっていた。中央の鴛雛殿えんすうでんに入るには、南東から伸びる回廊を通って行く。

 その長い回廊を、思兼と並んで歩いていた。

 「この時期に、ここを歩くのは初めてで知らなかったのですが、秋桜あきざくらが咲き誇っているんですねぇ」

 「そうだよ。あと、春には芝桜しばざくらが綺麗なんだ」

 陰鬱な外見の思兼が花に詳しいなんて、似つかわしくないと失礼ながら思った。

 赤や白に桃色など、淡い色で咲く秋桜が風に揺れ、まるで私たちの登場を喜ぶように靡いているようであった。毎年、神在祭の準備が忙しく、宝物殿に足を向ける神がいないものだから、花達も嬉しいのだろう。漆塗りの三角の屋根を支える漆塗りの柱が均等に並び、腰の高さまでの漆塗りの風よけの板が張られ、煉瓦れんがを幾何学模様に敷き詰めた回廊を、秋桜の匂いに包まれながら歩く。追われる日常を忘れさせてくれるこの空間に、小さな幸せを感じていた。

 そんな、至福の空気を味わいながら思兼と話すこともなく、宝物殿の中央である鴛雛殿えんすうでんの入り口に着いた。ここには、式神が衛兵として出入り口を監視していた。

 私たちは、それぞれ名前を名乗り鴛雛殿えんすうでんへと入る。

 部屋の高さは九尺で、それほど高くない。そこに三平方尺の天窓が、三十尺の等間隔で配置されているだけで、なかは薄暗く、湿度も温度も低めで、しかも、かなり埃っぽくカビ臭かった。大小様々な木造の棚が配され、そこには御桶代みひしろに納められた神宝かみだからが無造作に置かれていた。

 「それで、私が片付ける場所はどこですか?」

 「南の鳳凰殿なんだ」

 薄暗い中を、思兼がスタスタと歩いていく。その後を、私はすり足で恐る恐る歩いてついて行く。視界は悪いはずなのだが、思兼は恐れる様子も見えない素振りも見せず歩いていく。ぼんやりと浮かぶ後姿を見つめながら、陰鬱な雰囲気の思兼には、ちょうどいい暗さなのかと思い、ほくそ笑む。

 しばらく暗くカビ臭い宝物殿を歩いていると、前方に少し明るく開けた場所が見えた。

 そこは、中央の鴛雛殿えんすうでんと南の鳳凰殿を繋ぐ出入り口であった。扉は内へ開く観音扉で、そこには、鴛雛が降り立つ瞬間が彫られていた。

 ちなみに、鴛雛もそうだが、各宝物殿の名前として用いられている動物の名前は、すべて鳳凰の一種である。

 その扉の開け閉めと守護を担当する筋骨隆々の式神が二体いて、私たちをぎょろりとした目で睨む。いつ見ても、体が竦むほどおっかない形相だ。なんで、もっと柔和な感じで造らなかったのか、疑問に感じる。私と思兼が定位置に立つと、式神はゆったりとした動きで扉に手をかける。長い間、開閉されていなかったような軋む音が鼓膜を不愉快に揺する。その音に肩をすくめていた私の視界に、目を刺すような光が広がっていく。

 三秒ほど目を閉じてから、ゆっくりと目を開けた私の視界に、秋桜の淡い色が、目を優しく愛撫するように広がっていた。その風景に、ほっと胸を撫で下ろす。

 秋桜に見惚れていた私を放って、思兼は先を歩いていく。気遣う様子のない思兼に追いつこうと、少し小走りで回廊に足を踏み入れた。

 「――気持ち良いですね」

 さきほどまでカビと埃の匂いしかしなかった宝物殿とは違い、秋桜とお日様の匂いが鼻腔を優しく撫でる。その空気を、おもいっきり吸い込む。

 「ぼくは、宝物殿の匂いの方が落ち着くよ」

 お日様が眩しいのだろうか、思兼はギリギリ空いているのが分かる程度に目を開け、無理した笑顔を浮かべていた。これほど、お日様とお花の似合わない神様もいないだろう。と不敬な事を考えながら、くすりと笑ってしまう。

 軽い足取りで、鳳凰殿へと続く回廊を思兼と並んで歩く。

 次の鳳凰殿までは九町ほどある。現在でいうところの約一キロメートルほどの距離である。その間の景色を楽しんでいると、思兼がモジモジしながら、こちらを窺うように見てくる。高天原随一の知恵者の所作とは思えない動きに、見るに耐えかねた。

 「――何か?」

 声をかけたのが良かったのか、思兼は陰鬱な雰囲気のまま微笑を浮かべる。その顔を見た途端、私の背筋を冷たいものが流れ、空寒いものを感じた。

 「ここまで来てなんだけど……。やっぱり、伝えていた方がいいと思って……」

 「何をです?」――嫌な予感しかしない。

 「実は、出るだんだよね……。アレが――」

 猫背をさらに丸め、下から私の顔を覗くように思兼の顔が現れ、思わず悲鳴をあげそうになった。それを寸前で堪える。

 「……アレって、幽霊ですか?」

 「あははは、枳佐加君は面白いね」

 自分で言ってなんだが、神様が幽霊を怖がる訳がない。そもそも、神自体が肉体を持たないのだから、幽霊みたいなものだ。

 「それで、なんですか、アレって?」

 「……いわゆる、ゴッキーと呼ばれる黒い生き物だよ」

 ゆるふわなキャラっぽい名前で呼んでいるが、思兼が言っている黒い生き物とは、神でさえも恐れる暗黒の生き物――ゴキブリ。私たちの存在と共にあり、共に生きてきた生きる化石。

 とても危険な存在で、私も苦手だった。

 「思兼、退治してくださいよ!」

 「ぼくも苦手でね。逃げ回る事しかできない」

 「まさか、ゴッキーがいたから、自分で片付けをしなかったんですか!?」

 「正解!」

 今日一番の笑顔を見せる思兼に、おもいっきり白眼視を向けた。その視線に気づいた思兼は、咳払いをした後、威厳を取り戻そうと真面目な表情をつくる。しかし、時すでに遅く、私の中での思兼の株は、底なし沼のように深く沈んでいった。

 だが、条件を訊かなかったとはいえ、一度引き受けた仕事を投げ出すことなんて出来ない。仕方ないから、宝物殿の片付けはするつもりだが、取引が私の仕事の手伝いだけでは割が合わないような気がした。他に条件を付け足そうか思案していると、鳳凰殿の入り口の前に来ていた。

 圧倒的な存在感を示す鳳凰殿の扉は、鴛雛殿の扉と同じく観音開きで、鳳凰が飛び立とうとしている模様が彫られていた。特に彩色が施されているわけではないのだが、それが逆に、厳かさを際立たせているようであった。

 「それじゃ、くれぐれもゴッキーには気を付けてねぇ」

 来た時と違い、帰りは足早に戻っていく思兼を、恨めしく見送った。

 ――しばらく扉の前で二の足を踏んでいたが、覚悟を決め、躊躇いがちに扉を三度叩いて――待つ。

 すると、重々しい音を立て、ゆっくりと扉が内側に開いていく。それを、厳かな気持ちで見つめる。

 完全に開いた扉の向こうから、埃とカビの匂いが冷気と共に向かってきた。まるで、私の来訪を拒んでいるようだ。光の空間にぽっかりと空いた暗がりは、まるで黄泉の入り口のような薄気味悪さがあり、身震いをする。――意を決して足を踏み入れる。

 自分の荒い呼吸を聞きながら部屋を見渡す。薄暗く歴史を感じさせる建造物は、鴛雛殿と同じ雰囲気があった。違う点といえば、床に荷物が散乱しているぐらいだろう。

 あれか……。と思った時だった。後ろから重いものを引きずる音が聴こえ、飛びあがらんばかりに驚く。どうやら、式神が扉を閉めている音だった。胸を撫で下ろしたのも束の間、扉が閉まると、私は闇と同化していた。一瞬、混乱状態となる。だが、すぐ暗がりに目が慣れていないだけだと悟り、自分の周章しゅうしょうぶりに、穴があったら入りたい気持ちとなった。

 とにかく、目を閉じて十を数える。――ゆっくりと目を開ける。

 すると、天窓から射し込む光が、塵や埃に反射してキラキラと輝く。その光景に気持ちが和らいだ。落ち着きを取り戻した私は、片付けをしようと散乱している場所に近づき、息を飲んだ。まるで、泥棒でも入ったかのような荒れっぷりに、どうやったら、こんなにも散らかせるのだろうと呆れ果てる。とりあえず、床に散らばっている御桶代みひしろから適当に棚に戻し、次に、それぞれを定位置へ戻していこうと、頭の中で段取りを立てる。

 ――ここで少し『神宝かみだから』について話しておくと、神の能力を移した武器や防具や宝具のことを『神宝』という。なぜ神の能力を別の道具に宿しておくかというと、万が一に神が死んでも、ここにある『神宝』を使って復活する事ができるのだ。――だから神は死なないといえる。

 ただ、問題もある。今までの記憶は引き継がないので、復活した神はまっさらな状態で蘇る。神の能力はなくならないが、人格は亡くなる。だから、神でも死を恐れるのだ。ちなみに、私の能力である『治癒息吹いやしのいぶき』――その能力を宿した勾玉は、嶽鵲殿がくさくでんに保管されている。

 床に散らばっている御桶代みひしろを拾い集めながら、貴重な神宝が無造作に散らばっている状況に心を痛める。だが、視点を変えれば、これはとても貴重な体験ともいえた。ここにあるものは、どれもこれも簡単にお目に掛かれない神宝ばかりである。それを、こんな間近で見れ、触れる機会に巡り合えたのだと――そう、前向きに捉えることにした。

 コツコツと片付けを進めていると、後ろで何かが動く気配を感じ慌てて振り向く。

 薄暗くて、何かは分からなかった。――だが、確かに何かが動いた。

 ま、まさか……ゴッキー……!?

 恐怖が血液に乗って全身を駆け巡る。

 私は、そこにゴッキーがいると分かっていながらも、確認せずにはいられなかった。ヤツの姿は見たくなかったが、見えない恐怖に怯えていては仕事がはかどらない。

 腰が引けた状態で、ゆっくりと近づく――

 そして、恐る恐る棚の下を覗き込んだ。

 すると、鼻をヒクヒク忙しなく動かすネズミと目が合う。

 「なんだぁ~、驚かさないでよ~」

 緊張が解け、その場に座りそうになる。そんな私の傍を、ネズミが通りぬけて行った。

 安堵した私は、気を取り直して後片付けを再開する。すると、床が腐っている箇所を何ヵ所か見つけた。その場所を踏んで確かめてみると、若干沈んだり軋む音がする。それに、棚もグラグラとして不安定となっていた。

 「そういえば、思兼も修繕が必要みたいなことを言っていたわね」

 そのことを思い出し、石凝姥いしこりどめに報告する箇所を覚えておこうと、しっかり頭に刻む。そんなことを考えながら床に散らばる神宝を集めていると、何かが軋む嫌な音が響いた。慌てて顔を上げると、天が落ちてくるような圧迫感を伴って、棚がこちらに向かって倒れてくる。

 倒すまい! と、棚を押さえることに成功する。だが、ずしりとした重さが腕に圧し掛かり、そのまま下敷きになりそうになった。

 ――が、なんとか、棚の転倒を阻止する事に成功する。

 ほっと、胸を撫で下ろしたのも束の間、棚に収まっていた御桶代が、次々と床に落ちていく。その光景を、忸怩じくじたる思いで眺める。

 そんな私に、さらなる不幸が華麗な演武を舞いながら襲ってきた。

 棚の一番上に置かれていた五尺以上ありそうな御桶代が、にじり寄ってくるのだ。

 ――このままでは、私に当たる。

 あんな大きく重そうな物が、あの高さから落ちて来たら、どれだけの衝撃があるのだろうか――想像しただけで、痛いのは分かった。

 それを考えると、今すぐ逃げ出したい気持ちになった。だけど、この手を放せば、棚が倒れ、次の棚に当たり、また次の棚に当たるというドミノ倒し現象が起こりかねない。そうなれば、どれだけ被害が広がるか、想像したくなかった。ここは、痛みに耐えてでも棚の転倒を阻止すべきか、苦渋の決断に迫られた。

 逡巡しゅんじゅんしている私を嘲笑うかのように、御桶代は容赦なく向かってきた。半分以上が棚から顔を覗かせた時点で、棚を倒して大惨事にするぐらいなら、痛みに耐えて被害を最小限にとどめようと覚悟を決めた。

 ついに、その時がきた。

 まるで、スローモーションのように、御桶代がひっくり返って落ちてくる。

 さあこい! と歯を食いしばろうとした時だった。御桶代の蓋が開き、中から漆黒の闇が無数に散らばるのを見た――その瞬間、頭の中が真っ白となる。

 神といえ、恐怖が迫りくるときは、身動きが出来ず、硬直したままその状況を受け入れるのだと、この時初めて知り、この身で体験した。

 そして、無数の漆黒の闇が降りかかる。

 一瞬の静寂の後、重いものが落ちる音と、私の悲鳴が鳳凰殿の薄暗い部屋に大反響する。

 漆黒の闇は、素早い動きで私の頭から体全体を這いまわる。その不快な音と、得も言われぬ肌触りに、落ちていた物を拾い絶叫しながら振り回す。半狂乱で喚きながら、足元を這いまわる無数の漆黒の闇を追い払おうと、手に持っていた物を振り下ろした。すると、何かが事切れる音が鈍く響く。途端、鳳凰殿全体が揺れるような激しい揺れを感じる。

 「――しまった!」

 その揺れで、少し冷静さを取り戻した私は、自分が持っている物を見て驚く。

 それは鳴雷神なるいかずちのかみの神剣で、その威力は天を分かつほどのものであった。それを振り回したと知った私の心に、動揺という津波が押し寄せる。

 私の愚行をお怒りになったのか、鳳凰殿の床に無数の亀裂が走る。それと同時に、私の心にも後悔という無数の亀裂が走った。

 ――ど、どうしよう。

 そう思った瞬間、獣の咆哮のような轟音が、部屋全体にこだます。すると、床が崩壊し始めた。その崩壊に巻き込まれた神宝は、次々と地上へと落下していく。少しでも被害を防ごうと、手の届く神宝に手を伸ばす。だが、私のいる床も、崩壊の魔手に耐えきれなかった。それに巻き込まれそうになった私は、逃れようと手足を動かす。しかし、私の意志に反して手足は思うように動かず、まるで重りを付けられたように動きが鈍かった。やがて、私も崩壊に巻き込まれた。目に見えぬ何かにすがるよう手を伸ばす。だが、何もない所にすがるようなものはなく、しかも、演劇のように助けてくれる主人公的存在もいなかった。体が宙を浮く感覚と、臓腑が上へ移動するような気持ち悪さを味わう。

 声にならない絶叫を発して、無駄だと分かっていても、さらに手を伸ばす。

 すると、崩壊を免れた床の切れ端が手に引っかかり、それを掴んだおかげで、なんとか落下を免れた。

 ――しかし、完全に助かったわけではなかった。かろうじて、床の切れ端に捕まっているだけで、いつ、ここも崩壊するか分からない状態だ。

 そんな不安定な私をからかうように、風が激しくぶつかってきた。ミノムシのように、心許なくゆらりゆらりと揺れる。下を見ると、白い雲の隙間から下界がちらりとのぞく。その瞬間、背筋を冷たいものが這うような気持ち悪い感覚に襲われた。

 下を見ないようにして、なんとかこの窮地から脱出する方法を思案する。だが、足元がすーすーする心許ない感じが、思考の妨げとなっていた。

 「だ、誰か~」

 自分では精一杯声を出しているつもりだが、恐怖からか声帯が絞まり、掠れたような声しか出せない。死の恐怖が、私の心と体を支配したころ、床の端を握っている手がしびれるのを自覚する。最後まで死に抗おうと、掠れた声しか出せない声帯を揺らし叫ぶ。

 「よかったぁーー、枳佐加君が無事で!」

 この時ほど、陰鬱な思兼の顔が頼もしく思えたことはないだろう。


 ――私は、無事救われた。

 「あ、ありがとうございます……私……私……」

 安堵からか、とめどなく涙が溢れだす。そんな私の頭を思兼が優しく撫でてくれた。

 「思った以上に、酷い有様だねぇ……」

 思兼の深刻そうな声に、後ろを振り向く。床に大きな穴が空き、そこから青い空と白い雲が見えるといった違和感のある景色が覗いていた。鳳凰殿に空いた穴の大きさは、おそらく直径四十尺ほどあり、改めて、頭から冷水を浴びせられたような怖ろしさを感じた。

 そして、何より心配な事は、そこにあった神宝の行方である。

 下界に落ちている事は、疑う余地もない。

 前代未聞の事件を起こしてしまった責任の重さに、押し潰されそうになる。

 「あ、あの、思兼……私……」

 「話は後だ。大御神にご報告して、対応しなければならない」

 今までの頼りない声色と違い、凛とした口調で話す思兼に、これが本来の姿なのかと驚いた。

 「枳佐加君も一緒に来て!」

 思兼に促がされ立ち上がり、急いで天照大御神の元へ向かった。



 『天照大御神』――私たち八百万の神々の中で、最も尊い神様である。


 大御神は、御正殿ごせいでんといわれる場所に住まわれていて、そこは宝物殿から西に十里ほど離れた場所にあった。

 私たち神には、神歩かみあるきという空中を滑るよう移動する方法があり、十里の距離も十分ほどで移動ができた。それが、心の整理をつける暇を与えてくれず、あっという間に御正殿に到着する。

 ――といっても、すぐに大御神と謁見できるわけではない。御正殿には一番大外にある板垣と、次に外玉垣とのたまがき、内玉垣、瑞垣みずがきの四つの垣根があり、各垣根には東西南北それぞれに御門がある。基本的に南の板垣御門を通って、外玉垣南御門をくぐる。そして、次の内玉垣南御門に行くまでの間に八重榊やえさかきで装飾された中重鳥居なかえのとりいがあって、私のようなものがこんな奥まで入る事はない。そして、中重鳥居なかのえのとりいをくぐり終えると内玉垣南御門うちたまがきみなみごもんに到着する。この御門を通ると、後は瑞垣南御門みずがきみなみごもんとなる。それをくぐれば、いよいよ内院へと足を踏み入れる。

 そこは、高天原でも最も清浄な神域である。

 張り詰めた空気が背筋を伸ばさせ、厳かな雰囲気が息苦しさを感じさせた。

 私は、思兼に従って内院に足を踏み入れる。

 その瞬間、なんともいえない圧迫感を覚えた。それは歴史の重みか、それとも大御神の放つ〝稜威いつ〟の力なのだろうか、足を一歩踏み出すだけで、かなりの力が必要なほど圧倒される。

 一歩、一歩、と確実に足を踏み出し歩いていくと、ついに大御神のおられる御正殿の入り口の前に辿り着く。

 「思兼神と枳佐加比売命、火急の用件でまかり越しました。失礼は重々承知しておりますが、なにとぞ、ご謁見をお赦し下さいますよう伏してお願い申し上げます」

 陰鬱な外見に反して、良く通る声でスラスラと話す思兼に、今では頼もしさすら感じていた。

 少しの間を置いて、御正殿の扉が緩々《かんかん》と開く。



 まさに白――



 御正殿内部は、一点の曇りもない純白の輝きで覆われていた。

 「ご謁見ありがとうございます大御神」

 深々と頭を下げる思兼に倣い、私も深々と頭を下げる。

 「鳳凰殿の騒動の事ですね」

 太陽の匂いがする優しい声色に、強張っていた全身からほどよく力が抜けた。

 大御神の声は聞こえるが、純白の輝きを放つ部屋のどこにいるのか、まったく姿は見えなかった。まるで、純白の輝き自体が大御神であるかのようであった。

 「御意――無数の神宝が下界に落ちた模様ですが、その数は調査中です」

 「今頃、人間界は大混乱でしょうね」

 大御神と思兼は、抑揚のない淡々とした口調で話す。

 「あ、あの、すみません……私のせいでこのような……ご迷惑をおかけしてしまいました!」

 胸の奥から湧き上がる懺悔の気持ちのまま口を衝いて出る。

 「枳佐加比売命、そなたの償いの方法は、思兼神が考えているであろう」

 「ご明察恐れ入ります」

 「私、なんでもします!」

 掴みかかる勢いで思兼に迫る。

 「大御神の御前であるぞ、落ち着きたまえ枳佐加比売命」

 「す、すみませんでした」

 少し困った表情を浮かべる思兼に深々と謝る。

 「それでは、この騒動の始末について、思兼神の意見を聞きましょうか」

 「大御神の許しを得て、愚見を申し上げます。まずは、人間界の状態を知るべく、先遣としての神を派遣をして、その後、すぐに動ける神を降臨させ神宝の回収をさせるのが最善かと思われます」

 「分かりました。神選や任命権など、この騒動の鎮静化に関する指揮権を思兼に委ねます」

 「謹んで拝命いたします」

 こうして、大御神との謁見は淡々と終了した。呆気ないほどスムーズに事が進み、些か拍子抜けだった。それとも、さすがは大御神と思兼の二柱というべきか――

 私たちは内院を後にした。


 「――さて、枳佐加君の処遇だが……」

 思兼の私室で、出来の悪い答案用紙を受け取る気持ちで処罰を待つ。

 「キミは先遣として人間界に行ってもらう。そこで、つぶさに状況を報告して欲しい」

 「わ、分かりました」緊張で声が裏返る。

 私にとって、人間界は初めて行く場所であった。

 「おそらく、神宝は人間と融合しているだろう」

 「どういうことですか?」

 「――そうだね。ぼくたち神や神宝は、〝稜威いつ〟と呼ばれる特別な力の塊なんだ。稜威であるから、お互いを認識し捉える事も出来るのだが、人間は物質として存在しているので、ぼくたちを認識することが出来ない」

 「確か、人間でも感覚の鋭い人は、私たちを感じることが出来るんですよね。寒気がするとか、肩が重いなど色々な感じ方があるそうで」

 「まぁ、人間も核となるものは、小さな稜威だからね。だから、神宝の稜威が、人間の稜威と融合する事が起こるんだ」

 「融合した人間はどうなるのですか?」

 「神宝の膨大な稜威を長時間身体に納めると、器である人間の身体は壊れるだろう。その第一段階として、高熱を発する。そして、第二段階では皮膚が稜威の熱量でただれ、最後は死に至る」

 胸が締め付けられる苦しみを味わう。

 「助ける方法はないのですか!?」

 「ある道具を使えば、人間と融合した稜威を引き離すことが出来る」

 「よかったぁ……」思兼の言葉に胸を撫で下ろす。

 「――だけど、融合時間が長くなると引き離すことが出来なくなる」

 陰鬱な顔を、さらに曇らせ重々しく語る。

 「それって、どうなるのですか?」

 おそらく、私の想像している通りの事なのだろう。それでも、聞かずにはいられなかった。

 「神宝の稜威に、人間の稜威が吸収される事となる……すなわち、人間としての死を意味する」

 「それじゃ、先遣とかいってないで、全員で回収に向かいましょう」

 「それが無理なんだ。神宝の稜威と人間の稜威を分離させることが出来る道具は、今一つしかないんだ」

 「そんな……。その道具だけで、何人いるか分からない被害者を助けなければならないのですか!?」

 おそらく、数百にも及ぶ神宝が下界に落ちている。それが何処に落ち、誰の身体に入ったか分からない状況で回収するなど、時間がいくらあっても足りない。もたもたしていたら、大勢の人間が私のせいで死んでしまう。

 「落ち着いて枳佐加君。大丈夫、天目一箇神あめのまひとつのかみに任せておけば、すぐに量産してくれる」

 製鉄と鍛冶の神である天目一箇神あめのまひとつのかみは、数々の神宝を造った高天原随一の腕前の持ち主である。

 それを訊き、胸につかえていた黒い塊が溶け、それを吐き出すよう大きく息を吐く。

 「そこで、キミは一足先に下界に降りて、実際に道具が機能するか確認しつつ、被害状況を報告するのが役目だ」

 「分かりました。すぐに下界に降りて任務を果たします」

 今は、一分一秒が惜しい。

 迅速を胸に、思兼の部屋から飛び出そうとした。そんな私の背中に、思兼が神妙な声色で語りかけてきた。

 「不運が重なって起きた事故だ。キミの責任ではないから……」

 「ありがとうございます。全力で任務に当たり、一人でも多くの人間を助けてみせます!」

 今にして思えば、あの時の思兼の言葉は、全てを語っていたんだと思う。

 そうとは知らない私は、宝物殿にある神宝の稜威と人間の稜威を引き離す道具『別断離刀ことたちかれのかたな』を取りに向かった。

 高天原の宮殿内を急ぎ足で歩く私の行く手に、二柱が立っていた。一柱は欄干に腰を掛け、もう一柱は通路の真ん中で腕を組み、まるで私を待っていたかのようであった。

 「派手に壊したらしいな枳佐加比売」

 やはり、私に用があるみたいだ。

 欄干に腰かけている神は、サラサラの黒髪を肩まで伸ばし、細身の長身だが、思兼と同じく猫背であるためそれほど大きく見えない。この神は谷間にある水の神で、名前を闇淤加美神くらおかみのかみという。あまり評判のいい神とは言えない。

 そして、黙って立つ一柱は、短く刈った髪に、鋭い三白眼で私を睨み、筋骨隆々の身体が、圧倒的な存在感を見せる。武神といわれる建御名方神たけみなかたのかみだが、こちらはまさに戦う化身というべき神であり、この二柱が一緒にいることは珍しい。

 「私のせいで、二柱にもご迷惑をかけてしまって申し訳ありません」

 「本当だよ。この忙しい時期に、余計な仕事を増やしてくれたものだ」

 「すみません。すみません」

 「それで、これから人間界にいくのか?」

 「はい。先遣として地上に降り様子を見てきます」

 「わし達も準備が整ったら、手助けに行くから」

 闇淤加美の言葉は、一言一言が針のように心に突き刺さる。

 「ありがとうございます。それでは、失礼します」

 「ああ、また変な失敗をして、仕事を増やさないようにな」

 逃げ出すように歩き出した私の背中に、闇淤加美が言葉の矢を放つ。それは私の身体を貫き、忸怩たる思いを呼び起こした。暗く沈みそうになったが、地上で苦しむ人間の事を考え、なんとか気持ちを奮い立たせ歩みを進めた。

 宝物殿に着いた私に、式神が一つの御桶代を差し出す。それを受け取り中を見ると、片手に収まる大きさの黒々としたはさみが入っていた。

 どうやら、これが『別断離刀ことたちかれのかたな』であるようだ。

 それを受け取ると、大戸日別神おおとひわけのかみが造った別世界に行ける門のある『日別殿ひわけでん』へと向かった。そこは、宝物殿から西に千里ほどとかなり離れた僻地にある。なぜ、そんな僻地にあるかというと、時々、人間が迷い込むことがあるのだ。大戸日別神が創った門は、強力な稜威で出来ていて、人間には視認どころか利用もできない。しかし、生命力溢れる子どもや強力な稜威を持つ人間などが、ひょんなことで迷い込むことがあった。その為、こんな僻地に門を置き、迷い込んだ人間を下界に戻す為に式神が配されていた。

 ――辿り着いた私は、門を利用する事を式神に告げる。

 門の守衛である式神は、柔和な表情と美しい着物を羽織った天女を模していた。

 それを見た時、宝物殿の守衛の式神もこんな可愛らしい天女を模したものにして欲しかったと思った。

 門の前に立つと心臓が高鳴る。

 逸る気持ちと躊躇う気持ちの狭間に揺れながら、恐る恐る門に足を踏み入れた。

 その途端、眩い光が射しこみ、思わず目を閉じ立ち止まる。

 光が落ち着いたように感じられたので、ゆっくりと目を開けた。

 私の視界いっぱいに深く広がる蒼穹の空――それを、キラキラと輝く湖畔が鏡のように映す。その湖畔の上を踊るように風が吹き、それに乗って、しっかりとした甘い香りが鼻孔をくすぐってきた。まるで、初めて訪れた私に人間界が胸襟きょうきんを開いて迎えてくれているようだ。

 どこか懐かしさを感じさせる風景に、時間を忘れ埋没する。

 そんな私の頬を、湖畔の風がそっと撫でる。まるで、使命を忘却している私を、優しく諭すように喚起してくれているようであった。

 目的を思い出した私は、地上の様子を窺おうと見渡してみる。

 私が降り立った場所は、島根県出雲市神西沖町にある神西湖じんざいこの西側に位置していた。

 この神西湖は須佐之男命すさのおのみことの御子で、のちに大国主命おおくにぬしのみことの妃となられた須世理毘売命すせりひめのみことの生誕の地で、南端の麓谷に産湯をつかわれた岩坪がある。ここは、山と川と湖に囲まれた風光明媚なところであり、つい、観光気分で歴史巡りしたくなった。

 疼く気持ちを抑え、視界に広がる田園風景を見つめる。悠久の刻のような穏やかな景色が広がっていた。とても、天が壊れ地上に神宝が降った痕跡は窺えなかった。自分のやった事とはいえ、あの事故は間違いだったのでわ。と思わせるほど、緩やかに時間が流れていた。

 とりあえず、安堵に胸を撫で下ろす。

 それも束の間、手がかりのようなものがない状況で、神宝の稜威を探すのは、砂漠に落とした針を探すような行為に思われ煩悶はんもんする。

 どうしたものかと、風が湖面を走る音、草木が奏でる音色、鳥たちのさえずり、遠くで走る電車や車の音、それらに耳を傾けながら思案する。

 ――だが、妙案は浮かばず、時間だけが無為に過ぎていく。

 こうしている間にも、稜威の影響で人間が苦しんでいるのに……。

 焦りが思考の妨げとなり、それがまた、焦りとなって時間だけが刻々と過ぎる。

 早く稜威の力で苦しんでいる人を見つけ、この別断離刀ことたちかれのかたなで助けてあげなければ……。

 そう思った時だった。人は苦しむと病院という所に行く事を思い出す。

 そこで、湖畔近くにある病院に行ってみる事にした。

 ――その病院は、L字の形でこぢんまりとした三階建ての建物であった。外から見る分には、人の出入りが少しあるだけで、それほど大騒ぎしている様子はなかった。

 空振りだったかと思いながらも、一応病院内に入る。

 すると、廊下や待合所まで、簡易なベッドが所狭しと置かれていた。そこには性別も年齢もバラバラな人たちが、地獄の業火で焼かれるような呻き声を上げていた。その合間を、白い服を着た女性たちが忙しそうに走り回る。

 その光景を見た瞬間、私の胸に激しい痛みが走る。自分の犯した罪の重さを意識しながら、ベッドに横たわる人々の症状をつぶさに観察する。誰もかれも、膨大な稜威の力に苦しめられ呻いていた。そんな、阿鼻叫喚と化している廊下を歩くのは、針の山を登る罪人のような気分のようで心が苛まされる。

 そんな中、一人の少年に目が留まる。まるで、導かれるように少年の元へと近づく。

 少年は黒髪を短髪に纏め、甘い顔立ちだが精悍さも備え、日に焼けたスポーツ少年タイプであった。

 ――彼がのちに〝神殺し〟という業を背負う幡手颯馬はたてそうまであり、私と颯馬の邂逅かいこうであった。

 この時の私は、そんな運命が待っているとは露知らず、苦しむ颯馬の顔を覗きこんでいた。すると、意識もないはずの颯馬が目を開け、私の方へと瞳を動かす。その行為に、心臓が止まるほど驚き後ずさる。そんな私を、颯馬は目だけで追う。

 稜威である私が、ただの人間に視認できるはずがないと思ったが、彼は今、膨大な稜威の塊である神宝を身体に宿しているのだから、私が見えても不思議ではないと悟る。

 じっと見つめてくるので、何か声をかけたほうがいいか迷っていると、颯馬がおずおずと口を開いた。

 「心配しないであお姉、俺は大丈夫だから」

 私を知人と間違えているようだ。

 それにしても、稜威のエネルギーのせいで、全身が高熱で犯されているにも関わらず、知人を気遣い心配させないよう微笑んで見せる姿に心底驚いた。

 「すぐ助けてあげるから、もう少し頑張って……」

 別断離刀ことたちかれのかたなを握り、颯馬の身体に憑りついている稜威の場所を視る。

 すると、ソフトボールほどの大きな光の玉と、ビー玉ほど小さな光の玉が視えた。おそらく、ソフトボールほどの玉が神宝の稜威だろう。二つの稜威は、複数の細い糸のようなもので繋がっていた。まるで大きな玉から触手が伸び、小さな玉を取り込もうとしているようだった。

 ここまでは、思兼の言っていた通りである。もし、二つの玉が重なっていたら、切り離すことは出来ず、神宝の稜威に人間の稜威が呑み込まれ、人間としての死を迎えるしかなかった。

 ひとまず安堵の吐息を零す。だが、ここからは繊細な手作業である。この別断離刀ことたちかれのかたなを使い、神宝の稜威と颯馬の稜威を繋ぐ細い糸を一つ一つ切断していかなければならない。万が一、人の稜威を傷つければ、その人は死ぬ。神宝の稜威を傷つければ、超新星のような爆発を起こし、地上に甚大な被害を及ぼす。失敗の許されない処置を行わなければならない。

 そう思うと、私は過呼吸となり、心臓が早鐘の如く激しく打つ。

 逃げ出したい思いと格闘しながら、震える手で別断離刀を握りなおす。

 深呼吸をして、怯え震える気持ちを奮い立たせ、颯馬の身体に別断離刀を刺し込む。

 ――慎重に、慎重に……。

 何度も心で念じながら、気持ちを落ち着かせ、稜威同士を繋ぐ細い糸のようなものを別断離刀で挟む。高鳴る心臓の音と荒い息遣いが、私のうちに広がる。

 チラリと颯馬を見ると、眉間に皺をよせ、大量の汗を流し苦しそうな表情を浮かべていた。その姿に、迷いを断つよう別断離刀に力を入れる。

 鈍い感触が手に伝わると、細い糸のような触手が切断された。慌てて颯馬の様子を見ると、先ほどと変わらず荒い息遣いのままだった。

 ――生きている。

 触手を一本切っただけで、その場に崩れそうなほどの憔悴ぶりだった。

 「まだまだ、これから」と、気持ちを奮い立たせ、次々と切断していく。

 額に大粒の汗をかきながら、手に伝わる感触を感じながら処置を進める。

 やがて、病院内の喧騒や自分の心音などの雑音が聴こえなくなり、チョキン、チョキン、と糸を切る音だけが胸に響いていた。


 ――どれぐらい時間が経ったのだろう、ついに、神宝の稜威と颯馬の稜威の切り離しに成功した。おもわず、その場にへたり込む。全身を心地いい疲労感が覆い、無事に作業を終えた安堵からか手が震える。

 「……そうだ、稜威を回収しなければ……」

 ふわりと浮かぶ神宝の稜威を掴もうと手を伸ばした時、ふと颯馬の方を見る。

 その表情は、穏やかな笑みを浮かべていた。

 本当に良かった、と心の底から思った。

 手に取った神宝の稜威を、赤を基調とした桜の刺繍を施した巾着袋に入れる。巾着袋の大きさは両手の拳を合わせたぐらいのものであるが、中は別空間と繋がりソフトボールほどある稜威でも十分収納可能であった。もう一度颯馬を見てから、神宝の稜威によって苦しめられている人々を救うべく、別断離刀を振るった。


 ――病院の窓から漏れる明かりを背に浴びながら、中庭にあるベンチに横たわる。

 人間界の時間で、十二時間ほど休まず作業を行っていた。気がつくと目が霞み、手元も震えだしたので、危険を感じ休憩がてら外に出ていた。

 神宝の稜威と人間の稜威を繋ぐ糸のようなものを切る作業は、まるで空高くに張られた一本のロープを命綱なしで渡るような感じに似ていた。しかも、ロープの先が見えないという途方もない綱渡りだ。そんな思いで切り離すことが出来たのは、颯馬を入れてたったの三人だけ。

 このペースだと、すべての稜威を回収するのに、どれ程の日数が必要なのか――考えただけで気が重くなり、ベンチの上でじたばたと暴れてみる。

 「はやく、応援来ないかなぁ……」

 弱音を口にした私の頭上から、歓声のような会話が聞こえてきた。

 「先生、息子を救って頂きありがとうございました!」

 「いえ、息子さんが頑張った結果ですよ。よかったですね」

 「本当にありがとうございました、ありがとうございました」

 どうやら、症状が緩和した人の家族のようだ。

 声のトーンだけでも、凄く喜んでいるのが伝わる。その歓び溢れる声が、疲弊していた私の心にエネルギーとして流れてきた。

 「……私のせいで、苦しんでいるんだもんね。頑張らなくちゃ」

 少し暴れた事で気が晴れた私は、疲れた体に鞭打つように立ち上がる。

 そして、別断離刀を握りしめ病院内へと戻った。

 まだまだ、大勢の患者が苦しんでいる廊下を、針のむしろを歩くような罪悪感に苛まされながら、次の患者を見つけ処置に入る。


 ――おそらく十五人目であろう、若い女性の体内に取りついた神宝の稜威を取り出した時、背後で悪寒を感じ振り向く。

 「――頑張っているな」

 嫌味を含んだ笑みを浮かべた闇淤加美神くらおかみのかみと、鋭い眼光を放つ三白眼で腕を組み威圧するように見据える建御名方神たけみなかたのかみの二柱が立っていた。

 「――お、驚かさないでください、二柱」

 「心外だな枳佐加比売。どの神々より、いの一番に駆けつけたというのに」

 心外だと言うわりに、闇淤加美神の表情はどこか遊興に来たような、本気とはかけ離れた笑みを浮かべているように思われた。

 まぁ、どんな気持ちで来てくれたにしても、今は猫の手でも借りたいほど忙しい状況だったので、感情を押し殺し二柱を迎え入れた。

 「ありがとうございます。ここは私が受け持ちますので、二柱は他に稜威を取り込んだ人間がいないかお探しください」

 「承ったよ枳佐加比売。それじゃ、行こうか建御名方」

 そう言うと、二柱は病院をあとにした。

 二柱が去った後、何とも言い難い、心がモヤモヤするような、胸の辺りがすっきりしない感情が残った。そんな、得も知れない気持ちが心に沈殿して濁す。

 ――ダメだダメだ。今は、そんな事に捉われている場合ではない。目の前の処置に集中しよう。気を散らしたせいで手元が狂い人を死なせては、悔やんでも悔やみきれない。それに、まだ大勢の人が助けを待っている。一分でも、一秒でも早く助けなければならない。

 自分のやるべきことを思い出し、私は別断離刀を振るい続けた。

 闇淤加美神と建御名方神が現れてから、次々と神々が降臨なさってくれた。それに励まされ、別断離刀を振るう手にも力が入る。

 やがて、降臨された神の数も増えていき、最終的には百柱の神が降臨して下さった。そのお蔭で、三百人にも及ぶ人間の処置を、一週間ほどで終わらせる事ができた。回収が終わると、神々は神在祭の準備の遅れを取り戻すため、急いで高天原に戻られた。神在祭の準備で忙しい中、これだけの神が手伝ってくださって、一柱一柱にお礼を言いたかったが、それはまたの機会にしようと思いながら見送る。

 全員が、高天原に戻られるのを確認してから、私は神西湖の西端に立つ。

 初めて訪れた下界だったので、歴史的名所を観て回りたかったが、神在祭の準備が残っている。これ以上、仕事を遅らせるわけにはいかなかった。

 後ろ髪を引かれる思いで、高天原への帰路につこうとした時、ふと病院で出会った少年、幡手颯馬の事が頭をよぎる。

 今頃、彼も元気になって、青春を謳歌しているんだろうな。

 そんな事を考えると、若かりしころの甘酸っぱい思いが、胸をこそばゆくさせる。そして、もう一度人間界を見渡す。

 神在祭が終わり、落ち着いたらまたここへ来よう。そう思いながら下界を後にした。



   ♦   ♦   ♦   ♦   ♦   ♦   ♦   ♦   



 ――高天原に戻った私は、稜威の回収を無事終えた事を報告するため、思兼おもいかねのところに赴いていた。

 「ご苦労様、枳佐加くん」

 書類の山に囲まれた思兼が、少しずれた眼鏡を直しながら微笑を浮かべ出迎えてくれた。

 「本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 今回、私が起こした騒動について平身低頭で謝る。それに対して、やつれた顔をさらにやつれさせた思兼が、手を振って答える。

 その姿に、心がチクリと痛んだ。

 「それで、大御神にご報告と謝罪を述べたく、謁見のお許しを頂きたいのですが……」

 「それには及ばない。ぼくがやっておくから、キミには宝物殿の整理の続きをお願いしたい」

 「あのぁ……宝物殿は、壊れてて出入り禁止だとお伺いしていたのですが?」

 「――ああ。それなら、天目一箇神あめのまひとつのかみを中心に金屋子神かなやごかみや他の神々が協力して、修繕し終えたところだよ」

 唖然とした。私が下界に行っていた間に、あれだけ派手に壊れた宝物殿の修理を終わらせていたなんて、まさに神の御業だと感心した。

 「……あのぉ、お言葉ですが、私の仕事がまだ残っていて、このままでは神在祭に間に合わないのですが……」

 自分でやってしまったこととはいえ、神在祭の準備というもう一つの仕事も疎かにすることはできない。そこで、宝物殿の整理は後回しにしてもらおうと具申したら――

 「それなら、終わっているから大丈夫だよ」

 机の上の書類に目を通しながら、しれっと言葉を紡いだ。

 私の弱い頭では、思兼の言った意味がすぐに理解できず、クエスチョンマークが羽根を生やし頭上を優雅に飛び回る。

 「――ええ? 終わったって? ええ!? あれだけの量、終わったんですかああああ!?」

 「あれぐらいの仕事ならわけないよ……そういう事で、宝物殿の整理お願いするね」

 我が耳を疑いたくなった。「あれぐらいの仕事ならわけないよ」と、嫌味とも取れる思兼の発言に、怒りを通り越して、自分の能力の低さをまざまざと見せつけられた思いとなる。

 「心置きなく、宝物殿の整理に勤しんでくれたまえ」

 「…………はい」

 その日から、私は高天原の喧騒とはかけ離れた宝物殿に独り篭り、黙々と作業を続けた。

 そんな日々を過ごしていたせいだろうか、気分はこの宝物殿の空気のように澱んで憂鬱なものとなっていた。これは、思兼による左遷ではないのだろうか。もしくは、いじめではないだろうか。後ろ向きの発想が次々と頭をよぎり、気持ちを暗く落とす。


 ――赴任先から戻ってくる神々は、それぞれ着飾り意気揚々と高天原に現れる。

 それを遠くで見つめながら、私は暗くカビ臭い宝物殿へ、しげしげと足を運ぶ日々――。

 そして、あっという間に神在祭が行われる前日となった。

 罪を償うのは大切な事だと思うし、私もそれは甘受する。――それでも、せめて、せめて一日だけでいいので、神在祭に参加したいと願う。

 だが、それすらも、おこがましいのだろうか、思兼からは何も言ってこなかった。

 今日の分の宝物殿の整理が終わり、鬱蒼とした気分で部屋に戻ろうとしていた私に、式神が近づいてきた。思兼が呼んでいる、ということだ。

 その言葉に、もしかしたら神在祭に参加してもいいとお許しが出るのではないかという、淡い期待に胸を焦がし、思兼の部屋へ急いだ。

 部屋の前に着くと、慌ててきたことを見透かされないよう弾む息を整え、何度か深呼吸をしてから声をかけ扉を開く。

 「毎日ご苦労様。とりあえず、そこに座ってくれ」

 「はい」

 相変わらず書類の山に囲まれ、顔を上げる事なく椅子を勧めてくれた。期待と違う行動に、不安という雫が心に一滴落ちる。

 「――宝物殿の整理ばかりで、うんざりしているだろう?」

 一段落したのか、思兼はペンを置き青白い顔を上げて私を見る。

 「それは……私の贖罪だから、仕方ない事だと思っています」

 「起こってしまったことを、いつまでもクヨクヨ悩んでもしょうがないよ。あれは、不幸な事故だったんだから、キミだけが悪いわけではない」

 静かな口調で語りかけてくれるが、どこか憂いを帯びているように感じ、一抹の不安が心を染める。それを打ち消すように言葉を紡ぐ。

 「そうかもしれませんが、引き金となったのは私の行動が原因ですから……」

 暗く沈む私に、思兼は困ったような表情を浮かべる。

 「……そんなキミに、この事を告げるのは躊躇われるが……」

 「な、何ですか言ってください!」

 不安が胸を締め付け苦しい。

 「キミも知っての通り、明日から神在祭が始まる……。年に一度の祭事だから、楽しみにしている神々は多い……」

 奥歯にものが挟まったような言いかたをする思兼が、私に何かを求めているという事だけは分かった。

 「あのぉ、私に出来る事なら、なんでもおっしゃってください」

 「そういってもらえるとありがたい。実は今、下界ではちょっとした騒動が起きていて、それを鎮めるため誰かを派遣しなければならないのだけど、誰も神在祭の最中に仕事をしたがらなくて困っていたんだ」

 「それなら、私が行きます」

 これで、神在祭にでれなくなった。来年まで、我慢しようと覚悟を決める。

 「ありがとう」

 「でも、下界の騒動で高天原が動くなんて珍しいですね」

 「今回の騒動の原因は、高天原にあるからねぇ……」

 思兼が苦笑いを浮かべていたので、全てを察した。

 下界の騒動は、私が起こした事故が原因なんだと――。

 「一体、何が起きているんですか?」

 「……神宝の稜威を身体に宿した人間たちがいただろ、彼らが〝憑霊体ひょうれいたい〟となって、ちょっとした騒動となっているんだ」

 「〝憑霊体〟?」

 「キミは知らなかったのか……。キミたちが頑張って人間から神宝の稜威を取り除いてくれたけど、全部取り除けていない場合があるんだ。それが欠片となって残り、人間の稜威に影響を及ぼすんだ」

 思兼の口から語られる事実に、冷水を頭から浴びせられたような恐ろしさを感じる。

 「それで、その人間はどうなるんですか?」

 「神の特殊能力ちからを手に入れた事になる。そんな特殊能力を持った人間を〝憑霊体〟と呼ぶんだ」

 「……それって、私たちが処置に失敗したということなのでしょうか!?」

 「まぁ、当たらずとも遠からずって、ところだね」

 その言葉に、忸怩たる思いに唇をかむ。

 「どうすれば、彼らを助けることが出来るのですか! ご存じなのでしょ思兼!」

 罪悪感からくる強迫観念で迫るよう詰め寄る。

 「方法はあるが、難しい任務でもある。覚悟して欲しい」

 その言葉に一瞬たじろぐ。

 ――だが、責任感の方が勝った私は、力強く踏み出す。

 「覚悟は出来ています!」

 こうしてまた、私は下界へ降りる事となった。

 望んでいたのとは、違う形だが……。



 ――私は神西湖の西端に降り立っていた。湖畔の風は、どこか寂しそうにまとわりつき通り過ぎる。あの時また、ここに来ようと思っていたが、まさかこんなに早くやってくるとは思っていなかった。しかも、また任務を帯びてである。

 あの後――思兼から稜威の欠片を回収する道具『別魂勾玉わけたまのまがたま』を受け取り、その取扱いの説明を受けてから部屋を出て、急いで日別殿ひわけでんへと向かっていると、また闇淤加美神くらおかみのかみ建御名方神たけみなかたのかみの二柱に出会った。

 というか、待ち伏せられていたように感じた。

 「そんなに急いで、どこにいくんだ枳佐加比売?」

 事情を知っているぞ、と言わんばかりの表情を浮かべながら、闇淤加美神がわざとらしく訊ねてきた。その態度に憤りを感じ、つい険のある物言いで答える。

 「思兼から言い使った極秘の任務でして、お答えする事は出来ません」

 二柱の傍を足早に通り過ぎる。

 「そう言わず教えてくれよ、下界で何が起きているんだ?」

 「――あなた、どこまで知っているんですか!?」

 全てを知っているような口ぶりに、闇淤加美神の真意を探ろうと逆に詰め寄る。

 「どこまで知っているって、知らないから訊いているんだけど?」

 しらばくれているのは、一目瞭然だった。心を見透かそうと闇淤加美神を睨む。

 そんな私の眼光を、闇淤加美神はニヤついた笑顔を浮かべ見返す。

 どこまでも腹立たしい態度に、私は付き合いきれないと、踵を返して日別殿へと向かった。

 「なんだよぉ、ケチケチしないで教えてくれよぉ」

 含みのある闇淤加美の言い様に、腹を立てながらも背中で聞き流す。

 ――そんな、些細な不愉快事はあったが、今は下界の地を踏みしめ、湖畔に流れる風の軌跡を見つめていた。

 さて、どうやって〝憑霊体〟を見つけようか。と思案していた私の頭に、病院で出会った幡手颯馬の顔が浮かぶ。重い症状にもかかわらず、私を安心させようと笑顔をみせた彼だ。

 元気になったであろう彼が、今はどうしているのか気になったで、調査のついでに訪ねてみることにした。

 確か年の頃は十代だったはず。それに、日焼けをしていたから、何かスポーツをしていたのだろう。それを手掛かりに、まずは、この辺りにある高校から探してみる事にした。

 神西湖周辺にある高校の数はそれほど多くなかったので、しらみつぶしに探すつもりだったが――意外に一校目で見つけることが出来た。

 そこは、私立西出雲高等学校というところで、私が赴いた時は、ちょうど下校時間だった。大勢の学生が校門を通って下校していた。

 その中に、日焼けした肌に短髪といったいかにもスポーツをしていますという雰囲気のする幡手颯馬が、紺の詰襟学ランを着て友達と楽しそうに会話をしながら歩く姿を見つける。元気そうな彼の姿を見た時、幸せが胸いっぱいに広がる。

 颯馬に気づかれないよう、塀の陰に隠れて様子を窺う。

 ――姿が見えないはずの私が、なぜ隠れるのかというと、物質世界のものに触れるためには、私も物質として人間世界に存在しなければならない。そうしなければ、稜威の欠片を人間から抽出できないそうだ。そんな訳で、私は人間の姿になっているのだが、人間の身体とはなんとも不便であった。それと、高天原の服装では目を引くので、この世界に違和感がないよう、紺のパンツスタイルのスーツを着て、大きなサングラスにグレーのハット帽子をかぶった完璧なコーディネートで変装する。これで、どこからみても女神にはみえないだろう。

 さて、颯馬が稜威の欠片を宿した憑霊体かどうか、その確認をしなければならない。

 こっそりと、電柱の陰に隠れ様子を窺う。

 校門から出た颯馬に、白いユニホームを着た集団が走りながら近づく。

 「お疲れ様ですキャプテン」

 「何言ってんだ、もうお前が野球部のキャプテンだろ」

 満面の笑顔を浮かべ颯馬が応じる。

 「たまには、練習に顔出してくださいよ」

 「ゲロを吐くほどの練習が懐かしいな」

 颯馬の冗談に、野球部の全員が苦笑いを浮かべる。

 あれ? 今の冗談じゃなかったのかしら? と思えるほど、野球部員の顔が引きつっているのが見て取れた。

 「それじゃ、行きます」

 「おう! 来年こそは甲子園行けよ!」

 「頑張ります!」

 部員を見送った颯馬は、校門で友達と別れ一人で歩き出した。

 その後を、気づかれないように付ける。

 颯馬の歩いている道は、左手に田園風景が広がり、右手にはわずかの建物があるだけで、尾行するには適さない場所であった。見つからないようにするだけで苦労する。

 「――ちょっと、あなたいい?」

 背後から若い女性の誰何が聴こえ、驚きサングラスを落としそうになる。

 私に声をかけてきた女性は、薄いブルーのセーラーシャツに紺のノーカラージャケットに青のリボンを付け、紺色のプリーツスカートを穿いた西出雲高校の制服を着ていた。

 「颯馬ーーーー! またあんたのストーカーよ」

 私より少し背が低く、栗毛をショートボブにまとめた闊達そうな少女に、私は見覚えがあった。確か、颯馬と同じ病院に入院していた少女だ。

 ならば、彼女も稜威の欠片を持つ〝憑霊体〟かもしれない。

 「さすが、野球部のキャプテンさんはおモテになるわねぇ。これで何人目よ?」

 「元な! それに、勘違いかも知れないだろ」

 そういいながらも、闊達そうな女性と颯馬は、私の逃げ道を塞ぐ。

 「ストーカーじゃないなら、あんたをコソコソ付けていたのは何故かしらね」

 闊達そうな少女が猜疑に満ちた目でギロリと睨む。完全に不審者を見る目つきだった。

 これはまずい、と本能が囁く。急いで誤解を解こうと口を開く。

 「ス、ストーカーではありません! 私はこういう者です」

 こんなこともあろうかと、準備していた名刺を差し出す。

 「――出版社の人!?」

 胡散臭い、と顔に書かいてるのが読めるほどの表情を浮かべ、少女が私を覗き込む。

 慌ててサングラスを外し、愛想笑いを浮かべて誤魔化そうと試みた。

 「――!?」

 二人は大きく目を見開き、表現しがたい表情で、私の顔をまじまじと見つめる。

 体感的に五分ほど顔をまじまじと見られたあと、闊達そうな少女が、アゴでついてくるよう指示をする。

 人間って、こんなに恐ろしい生き物だったのか……。

 拒否したら何をされるか分からない様子なので、恐る恐るついていく。


 ――しばらく黙って歩いていくと、西出雲駅の近くにある喫茶店に二人は入って行った。そのお店は、外観からして老舗の雰囲気を遠慮なく放っていた。

 おっかない事務所とかじゃなくてよかったと、まずは一安心して、二人に続いて店内に入る。

 店の中は二人がけのテーブルが一組と、四人掛けのテーブルが一組と、カウンター席が四つ並ぶこじんまりしたお店であった。

 キョロキョロ辺りを見渡していると、闊達そうな少女が手招きで呼ぶ。そこは全面ガラス張りで、外からも中がもよく見える四人掛けのテーブルであった。

 私が近づくと、道路側に座らせられ、その隣に闊達そうな少女が座り、颯馬が向かいに座る。まさに、逃がさないぞと言わんばかりの陣取りに背筋が伸びる。

 店内には、私たち以外にも常連ぽいおじいさんが新聞を読んでいるだけで、従業員はカウンター内にいる六十代の女性が、肘をつきテレビをぼんやりと観ているといった趣のある喫茶店であった。

 「碧葉ちゃん元気になってよかったねぇ」

 テレビを観ていた六十代の女性が、お冷を持って陽気に話しかけてきた。

 「うん、ありがとう」

 「颯馬ちゃんもよかったねぇ」

 「ありがとうおばちゃん。今日は、焼きそば大盛りで!」

 「はいよ! で、碧葉ちゃんと、そっちのお客さんは?」

 「あたしはアイスコーヒー」

 「……じゃあ私は、このエビピラフというもので」

 人間界の食べ物を食するのは初めてなので、ドキドキする。

 注文を聞き終えたおばちゃんが離れると、横に座る碧葉が凄い形相で睨んできた。

 「――それで、出版社の人が颯馬に何の用があるの?」

 「……先日起きた、原因不明の高熱病と最近起きている怪事件について調査しています」

 なぜか丁寧語で話す私……。

 碧葉は何か心当たりがあるのか、体を少し震わせて反応を示した。

 「――えっと、あなたが幡手颯馬君で、あなたは?」

 「あたしは五百森碧葉いよもりあおば、颯馬とは幼馴染よ」

 手帳を広げ、確認するふりをする。

 「颯馬君と碧葉さんは、原因不明の高熱病にかかりましたよね……そのあと、何か身体に変化はありませんでしたか?」

 「いいや、ないよ」

 水を飲みながら颯馬が答える。しかも、平然と嘘をついた。

 まぁ、得体の知れない人に、体の変化を根掘り葉掘り聞かれれば、警戒するのも仕方がない。なにか、世間話でもして二人の警戒心を解こうと思案する。

 「お待たせ、颯馬ちゃん特製大盛り焼きそ――ばッ!?」

 料理を運んできたおばちゃんが、椅子に足を取られ転びそうになる。その瞬間、二人はあっという間におばちゃんのところに辿り着くと、颯馬が料理を乗せたお盆を受け、碧葉がおばちゃんを支える。

 「――大丈夫おばちゃん?」

 「……あ、ああ、助かったよ」

 何が起きたか分からない様子で、おばちゃんは目を白黒させて颯馬と碧葉を見る。そして、転んだことが恥ずかしくなったのか、照れ笑いを浮かべカウンターに戻っていく。

 私は、二人の人間離れした動きを見て、勝ち誇った顔をする。

 その視線を避けるよう、二人は椅子に腰かけ視線を逸らす。

 「やっぱり、隠していたわね」

 「……変に、騒がれたくなかっただけなんだ」

 颯馬は、焼きそばを頬張りながら言い訳をする。その気持ちも分かる。

 無理に訊きだそうとすれば、拒絶されるかもしれないので、私は颯馬が守ってくれたエビピラフとやらを一口食べる。

 「――ん! 美味しい!」

 二口三口と続けて食べる。高天原の食べ物と違い、味が濃くしっかりした歯触りに食べごたえがあった。おもわず、話を忘れエビピラフを食べる事に夢中となる。颯馬も焼きそばを美味しそうに食べていた。

 食べ終わると、私はその美味しさに何度も頷く。

 「今度は焼きそばを食べようかしら」

 「まだ食べるつもり!?」

 「じゃ、俺はエビピラフいこうかな!」

 「あんたもかい!」

 碧葉が一通りツッコミ、話を進めることを提案してきたのでそうすることにした。

 「――それで、枳佐加さんは何が知りたいんですか?」

 警戒の色を濃くした目で、碧葉が覗き込む。

 彼らが〝憑霊体〟なのは、先ほどの動きで分かった。それならば、事情を話して体内に残る稜威の欠片を取り除かせてもらおうと考えた。

 「……実は、私は出版社の者ではなく、天界から来た神なんです」

 二人は慌てて視線を外す。

 その瞬間、言葉を選ぶべきだったと後悔したが、時すでに遅く、二人は危ない人を見るような、眉間に皺を寄せた表情を浮かべていた。こうなったら言い通さないと――

 「信じられないかもしれないけど、私は正真正銘神なのです!」

 必死に言葉を紡ぐ。

 「……ククク――あははは、普段だったら、絶対に信用しないだけど、そうかぁ、枳佐加さんは神様なんだね」

 颯馬がお腹を抱えて笑うと、碧葉もつられて笑い出した。

 「いきなり神様とか、普通は信用しないわよ。もうちょっと、うまく話を持っていった方がいいわよ神様」

 ――あれ? 信じてもらえた? しかも、アドバイスまでうけちゃった。

 「……私が神だって、信じて下さるんですか?」

 「そりゃ、こんな力を持ってしまったら……」

 颯馬がおしぼりを握ると、それが刀へと形態変化する。

 「本当に迷惑な力よね」

 碧葉の握ったおしぼりは、槍へと形態変化する。

 間違いなく、二人は稜威の欠片を身体に宿していると証明された。

 二人が武器を放すと、元のおしぼりに戻る。

 「最初、この力には迷惑したんだ。なんたって、握った物が全部刀に変わるんだから」

 颯馬が腕を組んで不平不満を漏らすと、碧葉も同じように頷く。

 話によると、半日ほどで自分の意志で刀に変えたり変えないようにしたり出来るようになったそうだ。それは、とても速い順応性だと思われた。

 「それで、神様が俺たちの前に現れたって事は、この能力の説明となんらかの対策を用意してくれたって事でいいんだよね?」

 話が早くて助かる。

 「あなた達の身体には、神の力を有した欠片が内包されている状態なのです。私は、それを取り除きに来ました」

 「よかったわ。竹刀を握るだけで苦労していたのよ」

 碧葉は安堵の笑みを浮かべ、椅子に深く腰かける。

 拍子抜けするほど簡単に手放すと言ったので驚いた。もちろん、ごねられるよりは良いのだが、人間とは手に入れたものを意地汚く手放さない生き物だと思っていたから嬉しい誤算に、ほっと胸を撫で下ろす。

 「それでは早速――」

 セカンドバックから深緑に輝く手のひらサイズの『別魂勾玉わけたまのまがたま』を取り出す。

 「――ちょっといいかな枳佐加さん。この力を取り除く前に、何点か訊きたいことがあるんだけど……」

 「何でも訊いてください」

 「まずは、この力を取り除いたことで、何か後遺症みたいなものは残らないのかな?」

 颯馬の疑問は、至極当然であろう。

 それについては、私も思兼に同じ質問をしていたので即答できる。

 「大丈夫よ。後遺症も傷跡も残らないわ」

 大きく胸を張り、安心感を与えるよう答える。それに安堵した二人は頷く。

 「それじゃ、次の質問だけど、俺たちみたいな能力者は何人ぐらいいる?」

 どういう意図があって訊いてきたのか、その真意を測りかねた。

 だが、嘘をつく必要もないと思い正直に答える事にした。

 「最大で二百八十人が、能力者になっていると考えられるの」

 「最大でって……どういうこと?」

 疑問を口にしたのは、碧葉の方であった。

 「稜威を体に取り込んだ人数は、二百八十人だから、最大でその数字なのだけど、能力が発芽しない場合もあるらしいから、具体的に何人の能力者がいるかは、分からないのが本当のところ」

 「ふ~ん……でも、三百人近くの人間から能力を回収しないといけないんだろ。それって大変だよな」

 「――ちょっと颯馬!」

 何気ない颯馬の言葉だったが、碧葉が慌てた表情を浮かべ大きな声を上げる。

 「だって、それを枳佐加さんが一人でやるんだろ?」

 心配そうに話す颯馬と違い、碧葉は頭を抱える。

 「今のところ、その予定だけど?」

 「それじゃ、能力の回収を俺も手伝うよ!」

 「――言うと思った……」

 颯馬の申し出に、何度も目を瞬かせ反芻する。

 そして、意味を理解した。

 「こんな大変なこと、人間に手伝ってもらう訳にはいかないわ」

 唐突だったので、颯馬の気持ちも考えず無下に断ってしまった。それにも関わらず、颯馬は手伝うことの利点を色々話して、私を説得しようと試みる。

 あまりにも執拗に協力を申し出てくるので、何か企んでいるのかと勘ぐってしまい、つい、「――何が目当てなんですか?」と、口走っていた。すると、颯馬と碧葉は同時に顔を強張らせた。その瞬間、「しまった!」と、後悔の念が湧き上がる。怒りを露わにしたのは、碧葉の方であった。

 「颯馬は純粋にあんたの手助けをしようと思っているだけよ!」

 声を荒げて怒る碧葉に、私は深く反省する。

 「いや、枳佐加さんの言う通り、何か目当てがあると思われても仕方ない……」

 寂しそうな微笑を浮かべる颯馬の顔を見て、私の心はチクリと痛んだ。

 「神様には、人の善意が分からないのよ! 何を言っても無駄よ行きましょう」

 荒々しく立ち上がった碧葉は、焼きそばとコーヒーの代金を机に叩きつけるように置く。

 「それは違う!」と、喉まで出かかった言葉を、寸前で飲み込んだ。

 ここで引き留めれば、二人を欠片集めにつき合わせる事となる。そんな大変な仕事に、人間を巻き込むわけにはいかない。

 碧葉は怒りを露わにしたまま、颯馬の腕を掴み連れていこうと引っ張る。しかし、颯馬は椅子に座ったまま、私を見つめていた。

 「いい加減にしなさいよ颯馬、この人は枳佐加さんよ!」

 「分かっている。分かっているからこそ、俺は手伝いたいんだ」

 「手伝って……あんたに、何の得があるのよ?」

 「そんなんじゃない! 俺たちみたいに、誰もが簡単に能力を手放すとは限らないだろ。そうなったら、きっと争うことになる!」

 颯馬に言われる前から、その事について考えていた。一度手に入れた便利な力を、人間がそう簡単に手放すわけがない。そうなれば、力ずくでも欠片を取り返さなければならなくなるだろう。

 「私は神です。何とかします」

 例え、戦うような事になったとしても、颯馬たちの力を借りるわけにはいかない。これは、私の贖罪なのだから一人でやり遂げないと意味がない。

 「だったら、俺の力を返さない――って、言ったらどうする?」

 颯馬の発言に、私と碧葉は言葉を失う。まさか、そこまで彼が手伝いをしたがるとは……。

 一体何が、彼を衝き動かしているのだろうか?

 「――ちょっと、何言ってるの颯馬!? 枳佐加さん困っているじゃない」

 「困らせるつもりはないんだ……ただ、俺は枳佐加さんを助けたいだけなんだ」

 十代の男の子の真っ直ぐな気持ちとは、こんなにも熱く重いものなんだと知り、私は戸惑った。それに、人助けをしたいという颯馬の気持ちを、無下にするのも忍びなく思い熟考する。

 「――分かりました。ご協力お願いします」

 颯馬の様子を見ていたら、諦めてくれるようには見えない、気持ちに応える事にした。

 まぁ、颯馬の真っ直ぐな思いに感化されたのは否めないが……。

 「よっしゃああああ!」

 大喜びする颯馬を見て、私まで嬉しい気持ちとなる。

 「――言い出したら引き下がらないんだから……だったら、あたしも手伝うわよ」

 「そんな、碧葉さんまで手伝ってもらわなくても」

 「颯馬だけだと心配だし、手伝わせないっていうなら、あたしの能力も返さないわ!」

 さっきまで、颯馬のことを「言い出したら引き下がらない」なんて言ってたけど、碧葉も颯馬に引けを取らないほど頑固者のようだ。

 一人が二人になった所で、差異はないだろう。

 「……分かりました。碧葉さんもお願いします」

 「あたしは、あくまでも颯馬のお目付け役としてよ」

 こうして、人間界に来てすぐに、二人の憑霊体を仲間に? する事ができた。

 「……さかさん? 枳佐加さん!」

 「は、はい!?」

 「遠くを見つめて回想に入ろうとしないで、普通の人と能力者の違いについて教えてもらえるかな?」

 颯馬の声で、慌てて現実に戻る。

 「見た目で分かるものなの?」

 「――ええ。口で説明するより、見てもらうほうが解り易いわね。まずは、お互いの心臓部分を見て」

 颯馬と碧葉は、言われた通りお互いの心臓を見る。

 「ぼんやりとした炎のようなものが見えない?」

 「……あ! 見えるわ」

 碧葉が先に声を上げると、颯馬も遅れて声を上げる。

 「それを、もっとよく見てみて――どんな形している?」

 「…………碧葉のは、剣――のように見える」

 「颯馬のも、剣のように見えるわね」

 「それは、憑依ひょうい系よ」

 「憑依系?」

 颯馬と碧葉が首をかしげ、異口同音に問いかける。

 「憑依系とは、欠片の能力を宿した人間に神の力が憑依して、肉体を強化してくれる事を指すの。さっき、あなた達がおばちゃんを助けた時のような動きが出来るよう肉体の能力を向上させ、神の力の源を体現させるの」

 一気に話してみたが、二人はきょとんと、目を丸くしていた。

 どうやら、理解できなかったようだ。

 「そうね、颯馬の稜威の欠片の本体である御神体は、志那都比古神しなつひこのかみという武人で剣と風を司る神。ゆえに、その能力を颯馬は受け継ぎ、剣と風を自在に操ることが出来るわ」

 「……剣と風ねぇ……」

 自分の右手を見つめ、なんとなく理解をしたように呟く。

 「そして、碧葉ちゃんは伊波比主神いわいぬしのかみという槍使いの武人ね」

 「あたし剣道部なのに槍使いの神なのね……颯馬代えてよ!」

 「代えれるものなの?」

 「できるわけないでしょ!」

 「――ケチィ~」

 碧葉は口を尖らせ、ふてくされたように呟く。

 「そんな簡単にとっかえひっかえできるわけないでしょ」

 「碧葉の冗談だよ枳佐加さん」

 「神様のわりに、大人気ないわねぇ」

 ――私、バカにされているのかしら? バチ当たりな事を……。

 そんな事を考えながら、さらに説明を続ける。

 「他に、操作系と変化系があり、操作系は勾玉であらわされ、変化系は鏡であらわされているの。そして、それぞれが相剋そうこく関係になっていて、鏡は勾玉より強く、勾玉は剣より強く、剣は鏡より強いといった感じよ」

 「へぇ~、ゲームみたいで面白そう!」

 「ゲームと違って、リアルなんだから気をつけないと!」

 颯馬の軽口に、碧葉が厳しい口調で説教をする。

 「碧葉ちゃんの言う通りよ。欠片の能力は、奪うことが出来るの」

 「そんな便利なことが出来るなら、最初っからそうすればいいんじゃ」

 颯馬は呑気に言うが、事実を知れば、そんな軽口は叩けないだろう。

 「それはしたくない――だって、能力を奪うということは、その人間を〝殺す〟ということなの」

 息を飲む音が、私の鼓膜を揺する。

 自分の言葉が、いかに軽率なものだったか分かった颯馬は、反省したように俯く。

 ちょうどいいと感じた私は、この仕事に付き合うリスクについて知ってもらおうと思った。願わくば、それで諦めてくれる事を祈りつつ、低い声で脅すように語ってみた。

 「欠片の能力を奪おうと、殺し合いが起きる可能性もあるのよ。欠片集めは、死と隣り合わせなの……。どう、手伝いを止める気になったかしら?」

 「――いいや。そんなに危険なら、ますます枳佐加さんを助けようと思った」

 相変わらず、颯馬はまっすぐな目で見つめてくる。その視線に、私の方が折れる。

 「分かったわ……それと、まだ続きがあるの。あなた達の剣は何色?」

 「俺は赤」

 「あたしは青だわ」

 「まず、颯馬の赤色だけど――憑依系の赤は近距離が得意で近接戦闘向き。そして、碧葉ちゃんの青は中距離が得意って事ね」

 「他には、どんな色があるの?」

 「色分けでは、赤と青と黄色の三種類しかないわ」

 「それじゃ、枳佐加さんの赤い勾玉はどんな能力?」

 颯馬が私の心臓を指す。そうか、私の属性も見えるのだった。

 「私のは、物質の操作系よ。主に治療などの回復が得意なの」

 「戦うばかりの能力じゃないんだ」

 感心するように颯馬が頷く。さらに言葉を紡ごうとした時、ため息交じりに呟くおばちゃんの声が聴こえた。

 「――物騒なニュースばっかりだよ」

 その言葉に、私たちは自然とテレビの方を見る。そこに映っていたのは、眉間に皺をよせ切羽詰まったように話す男性リポーターと、忙しなく動き回る警察関係者の姿があった。

 『――これで、今月に入って三件目の殺人事件です。警察関係者によると、おそらく同一人物による連続殺人事件の可能性があるとの事です』

 「連続殺人事件……?」

 「なんだいおねえちゃん、知らないのかい?」

 おばちゃんの問いに頷く。

 「最近の若いもんはニュースも観ないのかい……やれやれ――あれは二週間前だったかな、最初の事件が起きて、犠牲者は確か……」

 「大学二年生の男性が、斧のような大きな刃物で頭を割られた状態で発見されたのが、最初だったわ」

 思い出せないおばちゃんに代わって、碧葉が被害者の特徴を話す。

 「さすが碧葉ちゃん、ちゃんとニュースを観ているね。その後は、深夜の公園で二十代のサラリーマンが、全身を焼かれた状態で発見されて、そして今回、二十代のアルバイト男性が、河川敷で首を絞められ遺体で発見されたのさ」

 したり顔でおばちゃんが話し終える。テレビの方も、ニュースが終わりコマーシャルが流れていた。

 「それが、島根県で起きていると?」

 「いや、出雲市周辺で起きている」

 「まったく、早く捕まえてほしいものさ」

 おばちゃんは、頬杖をついてテレビに視線を戻す。

 「この事件て、この能力と関係があるんじゃ?」

 碧葉が小声で問いかけてきたので、少し考える。

 おそらく、能力の特徴を知った〝憑霊体〟が、別の〝憑霊体〟を殺して能力を奪っているのだろう。すでに、能力の奪い合いが起きていて、颯馬たちも狙われる可能性を示唆していた。

 そのことを、正直に言うべきか迷った。怯えた二人が、暴走する可能性もあるのだから……。

 しかし、私は二人を信じて話すことにした。

 「……断定はできないけど、おそらく、能力を奪うための殺人だと思う」

 私の言葉に、二人は顔を引きつらせ息を飲む。

 「だとしたら、この先も、能力を奪い合うバトルロイヤルが行われるって事だよ……な」

 颯馬の言葉に、碧葉は眉をしかめ不快感を前面に出した表情を浮かべる。颯馬は口元に笑みを浮かべていたが、目には恐れの色が窺えた。

 そう、彼らにとって、このバトルロイヤルは他人事ではなく、自分たちも、いつ襲われるか分からない現実であった。そう考えると、颯馬が私の手伝いを申し出てくれたことが、良い方向へ転んでくれたと思う。彼らが傍にいることは、私が守れるのだから。

 こうして、人間界の現状を知り得た私は、颯馬たちと行動を共にする事にした。

 喫茶店から出ると、颯馬たちは着替える為に一旦家に帰えった。そして、駅前で集合という事で彼らと別れた私は、もう少し情報を得ようと、駅前をぶらっと歩くことにした。

 別れる前に、碧葉が神妙な面持ちで話しかけてきたのが気になったが……。

 「――ちょっと、訊きたいのだけど……枳佐加さんのその姿って、自前なの?」

 質問の意味が分からず、首をかしげる。

 「だから……その顔、誰かをモデルにしているのかって事よ」

 「いいえ、勿論いじっていませんよ」

 どういう意図があっての質問か計りかねたが、私の答えに満足したように、碧葉は安堵の笑みを浮かべ帰路についた。その後姿を見送りながら、私の胸には釈然としない思いが残った。


 ――情報収集といっても、道行く人に「最近起こっている殺人事件について何か知っていませんか?」と、尋ねたりはしない。そんな事をすれば不審がられるのは、颯馬たちで学習したのだ。ただ、町を歩き人の様子や会話などに意識を集中させる。それほど大きな町ではないので、まばらにしか人はいなかった。その人たちに意識を集中しながら歩く。

 三十分ほど歩いてみたが、たいした情報は得られなかった。落胆の色を浮かべ、颯馬たちとの待ち合わせ場所に向かう。

 駅に着くと、すでに颯馬と碧葉が待っていた。

 颯馬はグレーのパーカーに黒のヘンリーネックの長袖Tシャツにカーキ色のカーゴパンツを穿き、とてもさわやかな感じがした。

 碧葉は、上はグレーを基調として黒とピンクのラインを施し、下は黒を基調としてピンクのラインを施したジャージで、今にもランニングを始めそうな雰囲気で立っていた。

 「ごめんなさい、待たせた?」

 「いや、大丈夫。それより、もう一人仲間に入れていいかな?」

 「どいうこと?」

 「能力者についてツレに訊いてみたら、そいつも参加するって言いだしたんだ……」

 捨てられた子猫のような上目使いで訴えてくるので、嫌とは言えず頷いてしまった。

 「ありがとう!」

 颯馬の弾けた笑顔を見て、楽しそうに笑うなぁ、と感心する。

 その友達は、あとで合流するとのことなので、私たちは電車に乗って出雲市内へと向かった。

 「――それで、その能力者はどこにいるの?」

 気持ちのスイッチを、戦闘モードに切り替えるよう碧葉が威勢よく問いかける。

 「商店街通りにあるゲームセンターにいる事が多いそうだ」

 「じゃ、さっさと片付けましょう」

 出雲市駅に降り立った碧葉が、ずんずんと進んでいく。それに引っ張られるよう、私と颯馬は後をついて行く。

 「碧葉さんって、頼もしいですね」

 隣を歩く颯馬に囁くよう話しかける。

 「あいつ、剣道部の部長を務めるほど、しっかりしているんだ」

 「お二人は、お付き合いしているのですか?」

 その質問に、颯馬は考えるように空を見上げる。

 「……俺と碧葉は家が隣で、小さい頃から一緒だから家族のようなものかな」

 「家族ですかぁ……」

 颯馬はそう言ったが、碧葉の方はそれだけではないように見受けられた。しかし、人間の恋愛に口を出してはいけないだろうと思い、その事は告げなかった。

 告げなかったが――二人の恋の行方は気になった。欠片の回収をする合間の楽しみにしようと、不謹慎にも考えていた。

 そんな事を企みながら歩いていると、颯馬が言っていたゲームセンターに着く。

 「ここですか……」

 歴史を感じさせる古びた外観に、色あせたポスターが張ってあった。

 そんな、年季の入ったゲームセンターの前に立ち、どんな人物が欠片を宿しているのか、願わくば、颯馬たちのように協力的ないい人であることを祈り、ゲームセンターの中に入ろうとした。

 「うわあああっ――た、助けてくれええええ」

 三人の男が血相を変え、転がるようにゲームセンターから出てきた。

 ぶつかりそうになった私たちには目もくれず、慌てふためいた様子で走っていった。

 一体、なかで何が起きているのだろう……。

 私たちは固唾を飲み、再度なかに入ろうとしたときだった。

 ――ウィーン、と自動扉が開く。思わず一歩さがる。

 出てきたのは、目元を隠すほど前髪を伸ばした中学生ぐらいの男の子であった。

 「……あんたたちもか」

 聞こえるか聞こえないかほどのか細い声で呟くと、奥歯を噛みしめる鈍い音が響く。それを合図のように、少年の足元から砂状のムチが伸び、私たちを払うようにしなる。

 「危ない!」

 颯馬の誰何が、私の身体を押すように聴こえた。そのお蔭で、少年の攻撃をかわすことができた。

 「ちょっと待って、あたしたちは争いに来たんじゃないの!」

 「騙されるもんか!」

 少年は碧葉の言葉を一顧だにせず、一切の迷いもなく砂状のムチを私たちに向け叩きつけてきた。ムチが近くを通るたびに、風を切る甲高い音が鼓膜をつんざく。当たれば、生半可な怪我では済まない。少年は憎しみに顔を歪め、殺さんばかりの形相でムチを振るう。

 何が、彼をそこまで追い詰めているのだろうか……。

 「話し合いが出来る状態ではないわ。仕方ないからやっちゃいましょう颯馬」

 碧葉の提案に、私も賛成だった。

 「うわああああああ!」

 碧葉の言葉を聞いた少年は、半狂乱のように叫びだした。

 「怒涛砂血潮たけくるいしすなのちしお!」

 少年の足元から大量の土砂が、まるで津波のように道幅狭しと広がり、天を覆うように向かってきた。

 「一旦逃げよう」

 颯馬に言われるまでもなく、私たちは逃げ出していた。

 身長の倍以上はあろうかという高さの砂の津波が迫ってくる。その恐怖に、何も考えることが出来ず、ただ手足を動かし飲み込まれないよう必死に走る。それでも、一般人を巻き込まないよう場所を選んで走った。

 「逃がさない!」と、悠然と大津波の上に立ち、逃げる私たちを執拗に追いかけてくる。

 ――しばらく逃げ回り、ようやく人気のない空き地に辿り着いた。

 そこで、少年を迎え撃とうと散開する。

 目標を失った砂の津波は、静かに元の地面へと戻る。

 「なぁ、俺たちもキミと同じ能力者なんだ」

 優しく諭すような口調で、颯馬が少年に語りかける。

 「だから何!?」

 「この人……枳佐加比売命っていう神様で、俺たちの能力を回収しに来たんだ。だからさ、その力返してくれないかな」

 颯馬の言葉に、少年は考える仕草をとる。

 話し合いで片付けば、それにこしたことはない。颯馬の説得が通じるよう祈るが、どうも、そうはいかない雰囲気を肌で感じる。

 「ダメだ……この力は返せない」

 「そんな力があっても困るだけだろ」

 「ダメだダメだ! この力を失ったら僕はまた――」

 頭を激しく振って拒否する少年の足元から、砂状のムチが現れ無茶苦茶な動きをしながら襲い掛かってきた。まるで、少年の感情を表しているようだった。

 「枳佐加さん、彼の能力は?」

 ムチの攻撃をよけながら、碧葉が訊ねてきた。

 「赤い鏡なので、物質の変化系ね。稜威の持ち主は石土毘古神いわつちびこのかみ、土や砂を司るわ」

 「相克そうこく関係は?」

 「剣剋鏡けんこくきょうで、あなた達の方が優勢です」

 「――だそうよ颯馬、どうする?」

 碧葉は、手ごろな石を掴むと槍へと形態変化させた。どうやら戦う気でいるみたいだ。

 それを見た少年は、怯えたように後ずさる。

 「……碧葉も枳佐加さんも、ここは俺に任せてくれ」

 颯馬は素手のまま、少年と対峙する。

 「またはじまった……」

 「どういうことです?」

 「颯馬って、ああいう子を放って置けないのよ」

 ため息交じりに言葉を漏らす碧葉だが、その表情はどこか晴れ晴れとしていた。

 「俺は幡手颯馬っていうんだ。キミは?」

 「……右遠うどう

 「右遠君か……なんで、その力を手放したくないんだ?」

 「……あ、あんたには、関係ないだろ」

 「枳佐加さんは、その力を回収しないといけないんだ。そうしないと、高天原ってところで叱られるらしい」

 出来の悪い生徒みたいな事を言われ、つい口を挟みそうになった。そんな私に、碧葉が申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて謝る。

 「僕も、この力がないと……困る」

 「その力で、弱い者いじめでもしたいのかい?」

 「違う!!」

 おどおどと話していた右遠が、颯馬の言葉に声を荒げて否定する。

 「違う事ないだろう。そんな力、いじめ以外に何の役に立つって言うんだ?」

 「僕のこの力は、いじめてきた奴らから守るためにあるんだ!」

 感情が高ぶった右遠の足元から、砂のムチが出現して颯馬に襲い掛かる。

 「よけなさい颯馬!」

 絹を裂くような碧葉の叫び声が空き地に響く。それと同時に、颯馬の身体が砂のムチに打たれる鈍い音が鼓膜を揺すった。地面に倒れる颯馬。その様子を見た右遠は、顔をひきつらせ後ずさる。

 「……ぼ、僕は、そんな……」

 颯馬が避けると思って攻撃したつもりだったのだろう。それを正面から受けられ、右遠に動揺の色が浮かぶ。心配した私と碧葉が駆け寄ろうとした。

 「大丈夫だ。俺に任せてくれ」

 ゆっくり起き上った颯馬の額から、血が流れていた。そんな事を気にするそぶりも見せず、口元に笑みを浮かべ颯馬が立ち上がる。

 「なんだ、いじめから身を守るための力じゃないのか? 俺はキミをいじめてないんだがな」

 「……だ、黙れ黙れええええ!」

 右遠の絶叫が空き地にこだます。恐怖を振り払うよう、砂のムチをめちゃくちゃに動かす。それは、誰も近づけないように張った結界のようであった。

 そんな荒れ狂うムチの結界へ、颯馬が近づいていく。

 「止めなくちゃ!」

 「無理よ。ああなった颯馬は、誰にも止めれないから……」

 辛そうに顔を歪める碧葉が、私の腕を掴んで引き留める。

 ムチの結界に足を踏み入れた颯馬の身体を、遠慮なく打ち据える。その度に、肉を打ち付ける甲高い音が、鼓膜に突き刺さるように響く。あまりの不快音に耳を塞ぎたくなった。

 一発一発が重い衝撃として、颯馬の身体に苦痛を与えている。それなのに、颯馬は笑みを湛えたままゆっくりと歩みを進める。

 攻撃をしているはずの右遠の方が、苦痛に歪んだ表情を浮かべ颯馬を見つめていた。

 「――もう来るなぁああ、『怒涛砂血潮たけくるいしすなのちしお』!」

 天を覆うほどの砂が津波となって襲い掛かる。恐怖で逃げ出したくなるほどの大津波にも、颯馬は臆することなく立ちはだかる。さすがに、あれをまともにくらっては無事では済まない。

 助けに向かおうと思ったのも束の間、あっという間に大津波に飲み込まれた。

 一瞬の出来事に、私たちは何もできなかった。背筋に冷たいものが流れ、心臓が締め付けられる。碧葉の顔も青ざめ引きつっていた。

 「颯馬あああああ!」

 砂の波が収まると、私と碧葉は大地に向け名を叫ぶ。何度も何度も叫んだが、返事はなかった。悪い予感が胸の奥から湧き上がる。それが、私の全身を覆い溺れたような苦しさを味あわせた。やっぱり、仲間にするんじゃなかったと後悔した。

 その考えがよぎった時、地面を突き破って颯馬の腕が現れた。私と碧葉は同時に駆け出し、急いで掘り起こす。姿を現した颯馬は、激しく咳き込む。

 颯馬が生きていたのが嬉くて、涙が零れそうになった。碧葉も安堵の吐息を漏らすと、大きく息を吸う。

 「あんたーーーーーッ!」

 眉を跳ね上げ、右遠を睨み叫ぶ。その迫力に右遠は後ずさる。

 「――よせ、右遠は悪くない」

 碧葉の腕を掴み、颯馬が立ち上がる。体中傷だらけで、すぐに病院へ行った方がいいほどの状態にも関わらず、颯馬は笑みを湛え右遠を見つめる。あまりにも異常な光景に、ちょっと引いてしまった。

 「颯馬って、そういう趣味の人なのですか?」

 そんな兆候を何度か見かけていたので、つい碧葉に問う。

 「……半分当たっているけど、半分ハズレているわ。颯馬のアレは、別のものなの――」

 碧葉が次の言葉を紡ごうとした時、右遠が怯えたように叫ぶ。

 「僕の力は、絶対に奪わせないぞおおおおお!」

 胸を締め付けるような、悲痛な叫び声をあげる。

 「それだけはっきり言えるんだ、力がなくても大丈夫だろう」

 小さい声だったが、颯馬の思いがこもった言葉に右遠は叫ぶのを止める。

 「力のある俺たち相手に、屈することなく自分の力を守ろうとしたんだ。だったら大丈夫――力を手放しても、キミならできるはずだ」

 颯馬の優しい声色に緊張が解けたのか、右遠は身体を震わせ目元に涙を湛えていた。

 「殴られても殴られても立ち上がって向かってこられると、怖いものだろ?」

 確かに、いろんな意味で怖い。それは直接対峙した右遠が一番分かっただろう。

 「いじめてくる奴らに、同じように歯向かってやればいいんだ」

 「――でも、でも……やっぱり……」

 「もし、それでもダメだったら相談に来い。力になってやるから」

 全身ボロボロの颯馬だが、毅然と言い放つ。

 「颯馬だけじゃないわよ。なんだったら、あたしがそのいじめっ子をブッ飛ばしてやるわ」

 颯馬の言葉を援護するように、碧葉も景気よく言い放った。

 「……ぼく、ぼく……」

 どう反応していいか分からず、右遠はオドオドしていた。そんな右遠に颯馬が近づく。

 あれだけ抵抗を示していた右遠が、今は颯馬が近づくのを黙って見つめていた。

 右遠の元に辿り着いた颯馬は、優しく頭を撫でる。その途端、今まで堪えていたものが堰を切ったように溢れ、右遠は大きな声で泣き出した。

 こうして、颯馬は力を振るうことなく、右遠から石土毘古神いわつちびこのかみの稜威の欠片を回収する事に成功したのだった。

 私一人だったら、果たして右遠から稜威の欠片を回収することが出来ただろうか――そう思わせるほど、颯馬の手並みは素晴らしいものだった。

 右遠と連絡先を交換した颯馬たちは、次の憑霊体の情報を得る。

 それによると、この近辺に『死神』と呼ばれる憑霊体殺しがいるらしい。さすがに、颯馬と碧葉は怖気づくかと思ったが、逆にやる気を出していた。私も颯馬が役に立つと感じ、それに甘えるよう同行を許していた。

 『死神』を探しに行く前に、颯馬の傷の回復を行おうと服を脱いでもらう。

 細身だが、しっかりと筋肉の付いた逞しい身体つきであった。そのお蔭か、あれだけ殴られたにも関わらず、どの傷も深手とはなっていなかった。簡単な治療で済みそうだと、ほっと胸を撫で下ろす。

 颯馬の治療をしていると、首から下げた年季の入ったお守りが目に入る。碧葉も、そのお守りをしげしげと見つめながら口を開く。

 「――まだ、あたしのあげたお守り付けてる」

 「ないと落ち着かなくてさ」

 古いお守りを、しみじみと眺める。

 「新しいの買ってあげるわよ」

 「いや、これじゃないとダメなんだ」と、古いお守りを持ちながら、満開の笑顔を浮かべる。

 その答えに、碧葉ははにかんだ笑顔を浮かべる。だが、一瞬切ない表情を浮かべたようにみえた。なにか、二人にとって思い入れのあるお守りなのだろうか……。

 気になったが、詮索は後回しにして治療に専念した。



 夕焼けが影を長く伸ばす。そんな黄昏時の空気を吸いながら、私たちは田舎道を歩いていた。右遠の話では、『死神』はこの近くに出没するらしい。その情報をもとに、私たちは徒歩でそれらしい人物を探していた。

 『死神』と呼ばれる憑霊体が、能力を奪っているというのが事実なら、すでに、いろいろな能力を手に入れているだろう。もし、いつくもの能力を手に入れた人間が複数現れ協力するような事になれば、人間界は勿論、高天原も巻き込む大騒乱に発展しかねない。それだけは、絶対に防がなければならなかった。だが今は、颯馬たちが返り討ちに遭わないよう、私がしっかりサポートしなければと、息巻き歩く。そんな私に碧葉が近づき、そっと囁いた。

 「――驚いたでしょ枳佐加さん」

 何のことか分からず、首をかしげる。

 「颯馬のドMっぷりよ」

 碧葉の言う『ドM』とは、いじめられて歓びを感じる特異体質の人を指す人間界での用語だ。

 「最初は驚いたけど、途中から胸の奥が『きゅん』とするような、切ない感情が込み上がってきて驚いたわ」

 この感情を、なんていうのか分からなかったが、今まで味わった事のない気持ちだった。

 「やっぱり枳佐加さんも感じた!? あたしの思った通り、枳佐加さんもこっちの人種かぁ」

 嬉々として話す碧葉の真意が掴めず、何のことか問おうとした。

 「今度、本貸してあげる」と、耳元で囁きウインクしておどけてみせる。

 そんな碧葉に、つい言葉が漏れてしまった。

 「碧葉ちゃんは、颯馬の事が好きなの?」

 不干渉でいようと思っていたのに、好奇心が理性を追い越し自然と口を衝いて出ていた。

 内心で激しく後悔する。

 碧葉は驚いた表情を浮かべていたが、やがて、決心したように口を開こうとした。

 その時だった――

 全身を突き抜けるような轟音が響く。

 「うわああああ――」と、男の悲鳴が、それに続く。

 その瞬間、私たちの全身に緊張が走る。『死神』の狩りの最中に出くわした。と、誰もがそう感じた。私たちはお互いの顔を見て頷き合うと、声が聞こえた方へ走り出した。

 そんな私たちの前に、落雷をよけ走る日本狼の姿を捉える。

 「気を付けて二人とも、大雷神おおかみなりのかみの攻撃力は高天原でも最強よ」

 「了解」と、二人は一気に加速する。

 断続的に降り注ぐ雷は、身体の奥まで伝わる重い響きと、大地を焼き穿つほどの威力だった。その力を目の当たりにして、身の毛がよだつ。

 機敏な動きで雷をかわしていた日本狼だが、颯馬たちの姿を見て助けてもらおうと、こっちに向かってきた。その動きが直線的になったせいで、大雷神の一撃を喰らう。

 閃光と轟音が鎮まると、黒焦げとなった日本狼が大地に横たわっていた。

 「くそ、間に合わなかったか」

 「颯馬あそこ!」と、碧葉が槍で指し示す。

 その先に、黒のショートパンツにグレーのパーカーを羽織り黒のブーツを履いたスラリと背の高い女性が立っていた。彼女は姫カットの黒髪ロングを煩わしそうにかきあげ、私たちを警戒するよう睨んでいた。

 「――ちょっと、俺たちの話を聞いてくれ」

 颯馬は右遠と接したように、まずは話し合いから入ろうとする。

 「あなたたちも能力者ね。だったら――敵! 『大雷咆哮おおかみなりのほえたけび』」

 姫カットの女の額から閃光が走る。

 反射的によけた場所に、閃光が舐めるように走る。少し遅れて、空気を引き裂く轟音が響く。

 砂埃が落ち着くと、地面に大人一人が入れるほどの穴が穿たれていた。

 「さっきの少年のようには、いかないようよ」

 碧葉が槍を強く握り斬りかかる。それを、姫カットの女は雷のカーテンで防ぐ。

 たまらず間合いを取る。その碧葉を追うように、大地を切り裂きながら雷が迫る。俊敏な動きができる碧葉だが、光速の雷に勝てるわけがなく、眩い閃光が眼前まで迫る。恐怖で顔をひきつらせる碧葉の無事を、私は祈る事しか出来なかった。

 耳をつんざく嫌な音が響く。

 生きていれば、私の『治癒息吹いやしのいぶき』で助けることが出来る。お願いだから生きていて、と心の底から願った。

 「――グッドタイミングだ豊」

 安堵した颯馬の声が聴こえ顔を上げる。

 そこには、学生服を着た男性が、碧葉を庇うように立っていた。

 「遅れて済まない――いや、遅れてよかったと言うべきかな」

 豊と呼ばれた男性は、日本人離れした高身長にスラリと伸びた四肢の持ち主で、右手でくいっと眼鏡をなおす仕草がさまになっていた。

 碧葉が助かり、ほっと胸を撫で下ろした私の耳に、呻き声が聴こえた。それは、黒焦げとなって倒れている二十代男性のものであった。どうやら、この男性がさきほどの日本狼の正体のようだ。急いで『治癒息吹いやしのいぶき』を施す。

 徐々に男の傷は回復していく。ほっと安心したのも束の間、颯馬の誰何が鼓膜を揺すった。視界の隅で閃光が走るのを捉える。咄嗟に目を瞑った私の鼓膜を、爆音が激しく揺する。

 雷の一撃が私を捉えたと思ったが、その直前、小さな扉が現れ身代わりになってくれた。

 「なるほど、俺様の力は、こんな風にも使えるんだな」

 感心したように、豊は目の前に小さな扉を出現させる。

 彼の稜威は青い勾玉――空間の操作系であり、稜威の源は大戸日別神おおとひわけのかみという門を司る神である。その能力は、彼が行ったことのある場所なら、門を出現させ、それをくぐるだけで行けるという便利な力だ。

 豊の登場で、姫カットの女性は様子を窺うよう距離をとる。

 颯馬たちも、雷の攻撃を警戒して迂闊に飛び込めなかった。

 「なぁ、もう争うの止めないか」

 膠着状態を突破しようと、颯馬が説得を試みる。

 「相変わらず、ゆるいことやっているな」

 「そこが、颯馬の良い所でもあるんだけどね」

 呆れたように話す碧葉と豊だが、全幅の信頼を置いているような声色だった。

 姫カットの女は、颯馬の言葉に耳を貸す様子はなく、戦闘態勢のままだった。

 しばらく睨み合いが続きそうだったので、今のうちに大口真神おおくちにまかみの稜威の欠片を回収しようと、男の身体に別魂勾玉わけたまのまがたまを添える。淡い光が灯ると、男の身体から稜威の欠片がゆっくりと現れ、別魂勾玉わけたまのまがたまの中へと吸い込まれていった。

 これで二つ目。と安堵の吐息を漏らした時――

 「ちょっと待ってくれ!」

 颯馬の叫び声が聴こえた。顔を上げると、雷を弾幕として逃げようとしている姫カットの女の姿があった。

 それを見て、ほっと息を吐いたのも束の間、姫カットの女を追って颯馬が雷群の中に突っ込んでいくのが見えた。息が止まるほど驚いた。さすがに無茶が過ぎる。碧葉たちも同じ思いで、止めようと追いかけた。

 「あのド変態が! 大戸日別門おおとひわけのもん

 豊が手をかざすと、颯馬の前に観音開きの門が出現する。突然だったので、颯馬は勢いを殺すことが出来ず扉に突っ込んでいった。

 私たちの眼前に門が出現すると、そこから颯馬が姿を現わした。

 颯馬は瞼を激しく瞬かせ、目の前に私たちがいる状況が理解できないっといった表情を浮かべていた。そんな颯馬に豊が近づくと、ポンと肩に手を置く。

 「いくら貴様が頑丈に出来ているといっても、あの中に突っ込むのは無茶だ」

 「そうよ。一人で殺人鬼に向かって行くのは、無謀もいいとこ」

 口調は厳しいが、碧葉も豊も颯馬の事を心から心配しているのが伝わる。人間とは、これほど他人のことを心配する生物だったかと軽く驚く。人間の歴史は、争いの歴史と言っても過言ではない。例えそれが肉親だろうと、骨肉の争いを繰り広げるのが人間の本性であるかのように。彼らを見ていると、人間に対する認識を改めなければならないと感じさせられた。

 状況を理解した颯馬は、慌てた様子で姫カットの女の行方を探す。

 「あの人は、殺人鬼ではないと思うんだ」

 「何言ってるの、あの男の人は襲われていたじゃない」

 「そうだけど……あああもう! 上手く説明できないや」

 髪の毛をくしゃくしゃにして颯馬が叫ぶ。

 「とにかく、時間も遅い。親が心配するから今日は帰るぞ」

 いつの間にか、夜の帳が町を覆い、近くにいないと、お互いの顔を識別するのが難しいほどであった。納得のいかない表情を浮かべたまま、颯馬は頷いた。


 こうして、色々あった一日が終わろうとしていた。


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