2-2 宣告
午前六時。空はすっかり白んでおり、間もなく太陽が顔を出しそうな、そんな夏の朝だった。
ナースステーションの応接スペースで待機していた三人の前に、青い術着の医師が姿を現した。
若く見えるが、貫禄を感じさせる雰囲気を持った医師だった。恐らくは、彼が片桐医師なのだろう。
男は三人の前に来ると、言った。
「はじめまして。整形外科の片桐です」
果たして、その通りだった。
片桐は、シャウカステン(レントゲン写真を見やすくするため、後ろから白いライトで照らす装置)のスイッチを入れ、数枚のレントゲン写真を挿し込んだ。
誠は、片桐に深々と頭を下げた。
「先生、この度は娘を救ってくださって、本当にありがとうございました」
しのぶも頭を下げる。
片桐は片手でそれを遮った。
「別に私一人で手術したわけじゃないし、それに命にかかわる内臓の損傷などは外科の先生が手術したんです。私一人にそんなに頭を下げられても困ります」
片桐は続けて、
「それに、命は何とか助かりましたが、大変なのはこれからなんですから」
言うと、まず事務的なことから説明し始めた。
「現在、天野めぐみくんはICU(集中治療室)に入ってもらってます。意識はない状態ですが、二、三日、早ければ明日にでも目を覚ますでしょう。目を覚まし次第、一般病室へ移る予定です」
三人は、黙って片桐の話を聞いていた。
「さっきも言った通り、生命の危険はもう脱しました。今後はよほどの事がない限りは生命の危機にさらされるような合併症が生ずる事もないでしょう」
誠、しのぶ、そして梓は、それを聞いて心から胸を撫で下ろした。
そして、ここで片桐の表情がはっきりと変わった。
「さて、ここからが大事なところです。こちらの写真をご覧ください」
片桐は、シャウカステンに挿した写真のうちの一枚を示した。
「これは、天野めぐみくんの胸椎(胸の部分の背骨のこと)の、言ってみれば横からの断面図です。ここを見てもらえれば分かると思いますが……」
片桐は、写真の一点を指で指す。
「ここで、この胸椎が骨折し、その破片が脊髄を完全に遮断してしまってます。骨折自体は治療しましたが、脊髄が完全損傷しているので、下半身に麻痺が残るでしょう」
梓は、辺りの気温が、数度下がったような錯覚を覚えた。
誠は、
「待ってください。麻痺って……?」
片桐の答えは、あくまで簡潔だった。
「この位置だと、第十一胸髄(胸の部分の脊髄)から第十二胸髄というところでしょうから、下半身を使った動作は不可能になります」
事実を淡々と述べているだけにも関わらず、片桐の言葉は恐ろしく残酷だった。
「一生車椅子、と考えていただければ、まあ差し支えないでしょう」
ここはナースステーションだから、風が吹くわけはない。
だが、梓は風を感じた。それも、恐ろしく冷たい風を。
「……治る見込みは、ないんですか?」
誠がすがるような目つきできく。しかし、医師という職業は、こういう場合には憎らしいほど冷酷だった。
「治りません。脊髄などの中枢神経系は、一度損傷してしまうと回復しないのです」
梓には、片桐が言っている事が理解できなかった。いや、理解したくなかった。
めぐみが、一生下半身不随?
めぐみが、一生歩けない?
めぐみが、一生車椅子?
信じられない。考えられない。ありえない。
片桐は、なおも続けた。
「恐らく、意識が戻った娘さんは、下半身が動かない事を自覚するにつれ、精神的にかなりのダメージを負うでしょう。錯乱するかもしれないし、鬱状態になるかもしれない。家族の皆さんのサポートが必要です。しっかり現実を見据える事です。我々も協力しますので」
誠としのぶは、言葉を失っていた。
「何かご質問は?」
片桐の問いに、誠としのぶはただ首を横に振るだけだった。
「質問がないようでしたら、とりあえずはこれで……」
片桐がそう言った瞬間だった。
「ふざけんなよっ!」
梓が片桐の襟首を力の限り掴みあげた。
「治せよっ!めぐの足を元通りにしろよっ!医者なんだろ?」
近くにいた数人の看護婦が、驚いて駆けよってきたが、当の片桐は、ふーっと長い息をつき、落ち着いたものだった。こんな事は慣れっこだと言わんばかりだった。
「君は医者を錬金術師か魔法使いとでも勘違いしているのか?」
片桐は、どこまでも冷静だった。
「医者など、大した力はない。偉そうに先生などと言われてるが、実際は治せない病気だらけだ」
片桐は、襟首を掴まれたまま、シャウカステンのライトを消した。
「私だって、治せるものなら治したい。治りますと言えるものなら言いたいに決まっている」
梓の手の力が弱まった。
片桐は、きいた。
「君はあの子を随分大切に想っているようだが、君の名前は何だ」
梓は、手を離した。
「荘野……梓です」
「そうか、やはりな」
片桐は、梓に掴まれていた襟首を整えた。
「あの子がこの病院に運ばれて来た時、あの子はうわ言のように『あーちゃん』と何度も言っていたが、それは多分君のことなのだろう?」
その片桐の言葉を聞いた梓は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
「天野くんには、これから大変な試練が待っている」
片桐は、シャウカステンに挿していたレントゲン写真を外し、袋へ収め始めた。
「私の襟首を掴む元気があるなら、どうかこれから少しでも彼女に力を貸してやって欲しい。大変なのはこれからだ。私もその為に力を尽くすつもりだ」
梓は、呆然と立ち尽くした。
そしてがっくりと膝をついた。
「めぐ……めぐ……どうして……!」
とめどなく涙が溢れてきた。
めぐみは助かった。助かったのに、梓の心はとてつもなく重苦しかった。
ナースステーションに朝日が射し込む。こんな不愉快な朝日なら、太陽などない方がよかった。
梓は、いつまでも立ち上がる事ができなかった。
梓は、自分の部屋で目を覚ました。
今までの事は全部夢だったらしい。
などと終ってくれればこれほどありがたい事はないのだが、そんなに甘くはなかった。昨夜の事は、忘れてしまいたいくらいに鮮明に覚えていた。
恐らく誠が自宅まで送ってくれたのだろうが、梓はあれからどうやって帰って来たのか覚えていなかった。
窓から入ってくる太陽の光は、いくらかオレンジ色がかっていた。
目覚まし時計を見ると、午後3時。8時間も寝た事になる。
梓は机の上の携帯電話を手に取った。
今朝はとても携帯電話などに答える気が起こらなかったため、電源は切ってあった。電源を入れ、サーバーからのメールや、留守番電話をチェックする。
まずはメールを確認した。
「めぐみちゃんの携帯に全然連絡つかないんだけど、どうしちゃったんですか?」
「荘野先輩、めぐみに電話が繋がりません。心配してます」
「梓さーん、めぐりんどうしちゃったんですかあ?」
めぐみの友人達からのメールばかりだった。
続いて、留守番電話をチェックした。1件が登録されていた。再生する。
「荘野さーん、八重洲です。昨日はお出かけ、楽しかったですね。また荷物持ちしてくださいね。なんちゃって。ところで、めぐみにいくら電話かけても繋がらないんです。荘野さん何か知りませんか? 心配してるから連絡くださいね。それじゃ」
普段と変わらぬ和美の明るい言葉が、梓を一層暗い気持ちにさせた。しかし、まさか放置する訳にも行かない。
メール画面を呼び出すと、ボタンを叩いて文章を打ち始めた。
「めぐは、今ちょっと携帯電話に出られない状態なんだ。大丈夫だから心配しなくていいよ」
そう打ち込むと、メールを送信した。
「まあ、全部が全部嘘って訳でもない……と思おう……」
少し良心が痛むが、今の梓には精一杯だった。
次は和美の番だった。
「どうしようか……」
めぐみの親友である和美だけに、嘘はつけなかった。そして和美だけにメールだけで済ませるという訳にも行かない。本人を呼び出し、直接言うべきだろう。
梓は電話で連絡する事にした。
携帯電話で和美の番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
呼び出し音が響くが、梓は正直、和美に出て欲しくなかった。
だが、呼び出し音が数回鳴っただけで、すぐに和美の声が聞こえて来た。
「もしもし荘野さん? 電話ありがとうございます」
「やあ和美ちゃん。昨日はお疲れ」
「ふふ、また宜しくお願いしますね」
和美は、まだ昨日のモードのままのようだったが、梓は昨日の昼の事など、とうに忘れ去ってしまっていた。
「ところで、めぐみはどうしちゃったんですか?」
和美から切り出してきた。梓は、用件だけさっさと片付けることにした。
とは言え、臨時休業中のメリー・ウィドウは使えないし、人が多い場所もまずい。梓は考えた結果、
「今から神社まで来れる?」
と言った。目的は特に告げなかった。
「ええ、行けますけど……めぐみに何かあったんですか?」
和美の言葉は、形だけは疑問形だったが、疑問ではなかった。
梓は、和美が電話で何かを察する前に、電話を切ってしまいたかった。
だから、
「来たら話すから」
とだけ言って、和美の返事を待つことなく電話を切った。
梓は携帯電話を折り畳んで胸ポケットに収める。
梓にとって、これまでの人生で最も果たしたくない約束だったが、行かねばならなかった。
和美にどうやって伝えるべきか。それだけを考えて、梓は部屋を出ると、重い足取りで階段を降りていった。
自転車を後分ほど漕いで、梓は近所の神社までやってきた。神社の前まで来ると、雑木林からの蝉の鳴き声が一層やかましく響く。
境内へ続く石段の前で、自転車を止めた。石段の上を見上げる。
和美はもう来ているのだろうか。
だがここまで来たら覚悟を決めるしかない。
梓は自転車のスタンドを立て、鍵をかけると、石段をゆっくり登っていった
境内に入ると、すぐに和美の姿が見えた。
和美も梓の姿を即座に見つけたのか、脇目も振らずに梓の元へ駆け寄ってくる。
「荘野さん」
和美は、全力で走ったのか、少し息を切らしながらそう言った。梓は、
「やあ、和美ちゃん」
と答えるが、自分の声がまるで他人のようだった。
「めぐみに、何かあったんですよね?」
決めつけていた。頷くしかなかった。
梓は抑揚を抑えて、淡々と語った。それが一番良い方法だという結論に辿り着いたのだ。
「昨日、めぐの奴デートに行ったろ」
「はい」
「その夜、事故った」
あまりにも梓が淡々と語るため、和美は最初、事の重大性が理解できなかった。
「……え? 事故?」
「聞いた話だと、右カーブでスピード出し過ぎて、車ごと崖下に落ちたらしい」
そこまで聞いてはじめて、和美の顔がみるみる青ざめていった。
「荘野さん、めぐみは? めぐみは無事なんですか?」
梓は、あくまで淡々と続けた。感情を入れてしまうと、彼の方が泣き出してしまいそうだったからだ。
「昨日の夜病院に運ばれ、今朝まで手術だった。手術は無事に成功して、めぐは助かったよ」
それを聞いた和美は、安堵の吐息をついた。
「良かったああ。めぐみにもしもの事があったらどうしようかと思いましたよ」
和美は笑みを浮かべたが、こんなところで安心されては困る。本題はここからなのだ。
「で、ここから先が問題なんだけど……」
「え?」
和美の表情が強張った。和美が何か反応する前に、梓は言った。
「命は助かったんだけど、事故で脊髄が損傷したから、下半身に麻痺が残るでしょうって」
今朝は、片桐の説明を聞いて、何と言う血も涙もない冷たい医者だと思ったのだが、こうして自分で説明する側になると、何の事はない。片桐同様、事実をそのまま伝えるしかないのだ。
和美は固まっていた。
「それ、どう言う意味ですか?」
そうきいてきたので、梓は同じ内容の事を表現を変えて、もう一度言わねばならなかった。
「めぐは一生歩けないって。車椅子の生活になるでしょうってさ」
梓は、自分の発した言葉のあまりの冷酷さに自分で驚いた。
「言霊」と言い、言葉には相応の力があると言う。だとしたら、この言葉は恐るべき凶器だ。刃を持ち、人の心を抉る凶器だ。
そしてこれから先、めぐみは何本も心に凶器を突きたてられなければならないのだ。
そのことを思っただけで、梓は暗澹たる気持ちになる。
和美はしばらく沈黙したあと、不自然なくらいに明るい表情で梓の肩を叩いた。
「またまたあ、荘野さんったら冗談ばっかり。エイプリルフールはとっくに過ぎたんだから、つくならもうちょっとほんとっぽい嘘を……」
「俺も、実は冗談でした、なんて言えたらどんなにいいかと思うよ」
精一杯冗談めかしてそう言った梓の言葉に、和美の表情は、そのまま硬直した。
時間が止まったような数分が流れた。
「荘野さん……」
「なに?」
梓が和美の顔を見た。いつも快活で、年上にも物怖じしないが、それでいて礼儀正しく気の強い少女は、見る影もなかった。
和美は梓の肩に手をつき、胸に頭をぶつけると、泣き崩れた。
「めぐみが二度と歩けないなんて……あんな良い子いないのに……」
「……」
梓は、黙って立っている事しかできなかった。
「どうして? ねえ、どうしてめぐみがそんな目に遭わないといけないの? ねえ、荘野さん!」
和美は顔を上げると梓のシャツを掴んで激しくその体を揺らした。梓は、和美の質問に対する答えを何も持っていなかった。むしろ梓の方が聞きたいくらいだった。
和美は膝からがっくり崩れ落ちた。梓にはそれを支える力もなく、ただ無言で和美を見下ろすだけだった。
境内に蝉の鳴き声が響き続ける。梓は呆然と立ち尽くし、和美は顔を覆って泣き続けた。
夏は、まだこれからだった。