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カレイドスコープ  作者: NaGISA
第二章 長い夜
7/30

2-1 長い夜

 いつの間にか、強い雨が降って来ていた。誠の車は、ワイパーが忙しそうに左右への往復を繰り返す。

 梓はぼーっと車窓を眺めていたが、雨の夜の車窓など、暗闇にところどころ街頭やネオンの光が浮かび上がるだけで、見ていて楽しいようなものでもない。

 梓は指をひっきりなしに無意味に動かした。携帯電話を開いたり閉じたり、シャツのボタンをかけたり外したり。

 何かしていないと落ち着かなかった。喉が渇いてしょうがなかった。

「酷い雨だな」

 不意に誠が言った。喉に霞でもかかっているような声だった。

「そうですね」

 梓は頷いた。その一言には、別段意味はなかった。

「事故って?」

 不意に、梓はきいた。

「分からない。めぐみが事故にあったから病院に来てくれ、って言われただけだから。詳しい事は病院に着かないと、ね」

「めぐは無事なんですか?」

 こんな怖い質問をしたいとは思わなかったが、勢いで梓はそう尋ねた。

「それも分からない。まあ電話をかけてきたのは病院の事務の当直の人みたいだったからね」

 梓の予想した通りの答えだった。今は、何でもいいから早く時間が過ぎて欲しかった。

 そして誠は続けて、

「まあ、この雨で大方足元でも滑らせたんだろ。免許取って1〜2年って若い連中は、こういう危険な状態になればなるほど無茶をするもんさ」

 前を向いたまま、わざとおどけた調子で言った。

「梓くんも雨の日は気をつけて運転しないとな」

「そうですね」

 相槌を打ったが、梓にとって会話の内容などどうでもよかった。

 車窓の外で、時々街頭の灯かりが流れる。何の面白みもない風景。

 やがてその風景の流れが止まった。車が信号で停車したのだ。

 誠は、ステアリングホイールをこつこつと指で叩き続けた。モールス信号でも叩いているようだった。解読すれば「早く青になれ」とでも送信しているのだろうか。

 信号が青に変わった。車が加速する。誠のモールス信号は止まっていた。

 雨は一向にその勢いを緩めなかった。それどころかより強くなってすらいた。

 誠は、ワイパーのスイッチを高速に切り替えた。ワイパーの左右運動が、より激しくなり、2本のアームがひっきりなしに行ったり来たりを繰り返した。

 そしてしのぶは車に乗ってから一言もしゃべらなかった。

 梓は、相変らず無意味に車窓を眺めていた。

「雨、強くなりましたね」

 と、梓が言うと、誠が答えた。

「ああ。天気予報では今日は一日晴れだって言ってたのにな」

「俺、7時頃から眠ってたんで全然気付かなかったです。いつ頃から降り始めたんですか?」

「そうだな……八時過ぎからぽつぽつと、ね」

 しゃべりでもしていないと落ち着かない様子の梓に、誠が気丈にも答え、辛うじて会話は成立していた。

「もうすぐだ。そこの交差点を右折で病院に着く」

 梓ははっと顔を上げ、視線を車窓からフロントガラスの方へと移した。雨に煙ってよく見えないが、右側には確かに病院の建物があるらしかった。

 信号が変わり、誠は方向指示器を右に上げた。対向車の流れはすぐに切れ、誠はハンドルを大きく右に切った。

 やがて病院の玄関が見えてきた。速度を落とし、雨の当らない場所で車を止めた。

「さあ着いたぞ。降りよう」

 誠はドアを開き、まず車を降りた。梓も外へ出る。

 誠は助手席側に回り込むと、助手席のドアを開けた。そしてしのぶを引っ張り出す。

 しのぶの表情は青白く、足は生まれて初めて立ちあがったサラブレッドの如く震えていた。誠が横からしっかりしのぶを支える。

 梓はその後ろからついて行った。



 夜の待合室は、薄明かりがわずかに点いているだけの寂しい空間だった。誠は窓口へ歩み寄ると、そこに座っていた中年の当直担当の事務員に声をかけた。

「すみません。こちらに運ばれて来た天野めぐみの……」

 最後まで言い終えるまでもなかった。

「ああ、あの交通事故の女の子ね。えーと、ちょっと待っててください」

 事務員は受話器を取ると、何やら二言三言しゃべった。電話はすぐに終った。

「三病棟へどうぞ。ナースステーションへ行っていただければ、あとは看護婦がご案内すると思います」

「分かりました。ありがとう」

 誠は事務員に会釈した。

「三病棟のナースステーションだそうだ。急ごう」

 しのぶと梓の元へ戻ってきた誠は、そう言うと再びしのぶを支えて歩き始めた。

 三人は、無言でエレベーター乗り場を目指した。



 エレベーターで三階に着くと、ナースステーションはすぐそこだった。

 さすがに看護婦の数は多くなかったが、煌々と灯かりが灯っていた。夜の看護婦の仕事は、まだまだこれからが本番のようだ。

 誠はナースステーションから出て来た看護婦に声をかけた。

「すみません」

「はい、なんでしょう?」

 若い看護婦は事務的に言葉を返した。

「先ほどこちらへ運ばれてきた天野めぐみの家族の者ですが……」

「ああ、天野さん。はい、今手術中です。手術室にご案内しましょうか?」

 その言葉を聞き、とりあえずの無事を確認できた三人は、一様にほっとした表情をしていた。

「お願いします」

 誠が言うと、看護婦は、

「じゃ、ご案内します。ついて来てください」

 そう言って歩き始めた。誠、しのぶ、梓の順に、後をついて行く。

 手術室は、渡り廊下を渡った旧館にあるらしかった。夜の病院に、四人分のエコーのきいた足音が響く。

「事故ってどんな感じだったんですか?」

 誠がきくと、

「救急隊員によると、緩い右カーブでかなりのスピードを出していたらしく、ハンドル操作を誤ってスリップし、左の崖下に転落したようです。崖と言っても二、三メートルくらいで、そんなに高くはなかったそうですが。事故は午後八時二十分。この病院に搬送されて来たのは午後八時四十分です」

 聞いているだけで身の毛がよだつような事を看護婦はさらっと言った。

「運転手の方は怪我がさほど酷くなかったのと、こちらの病院のベッドがいっぱいだったので、別の病院に搬送されました。天野さんは怪我が酷く一刻を争う状態なので、すぐに緊急手術に入りました」

 助手席のめぐみの方が怪我が重かったという事実は、三人を一層暗い気分にさせた。

 それでも誠はなおも尋ねる。尋ねるべきことはまだまだあるのだ。

「あの、手術って?」

 と、誠。看護婦は続ける。

「手術開始は八時五十分です。私はまだ詳しい事は聞かされていませんが、整形外科の片桐先生は『手間取りそうだ』と言われてました。早くて五、六時間、長引けば七、八時間かかる事もありうるだろう、と」

「七、八時間……」

「で、助かるんですか?」

 看護婦は首を傾げた。

「それは何とも……。片桐先生は『難しい手術になる』と言われてましたから……」

「……」

 三人に返す言葉はなかった。

 やがて、四人は「手術中」のランプが点灯中の部屋の前へやってきた。考えるまでもなく、このランプはめぐみの手術が実行中である事を意味していた。

「こちらが手術室になります。椅子に腰掛けてお待ちください」

「ありがとう」

 誠は慇懃(いんぎん)に頭を下げた。

「では何かありましたら、ナースステーションまでご連絡ください」

「解りました」

 看護婦はそう言うと、渡り廊下に残響音を響かせ、去って行った。

 看護婦の姿が見えなくなってから、梓はぼそっと呟いた。

「どうも俺、ああいうタイプの看護婦さんは苦手ですよ」

「梓くんもか。実は僕もそう思ったよ」

 誠は苦笑した。笑っていないとやってられなかった。

「まあ、こうなったら後は僕らには待つ事しかできない。めぐみが無事戻ってくるのを、ここで待とうじゃないか」

 誠は、椅子にどっかと腰を下ろした。しのぶ、そして梓も椅子に腰掛ける。

 夜の病院は、不気味な程静かだった。

「おじさん」

 梓の声は、派手なエコーを伴っていた。

「なんだい、梓くん」

「和美ちゃんに連絡してあげた方がいいと思うんですけど」

 誠は、しばらく考えてから言った。

「いや、明日の方が良くないかな?今連絡したら不安を煽るばかりだろうし、それならめぐみの手術が終ってからの方が良いと思うよ」

 誠は、「めぐみの手術が成功して、めぐみが助かる」という前提の元に、そう言った。

 梓も、その仮定に基づいて、

「そうですね。その方が和美ちゃんも安心するかも知れませんね」

 そう言って頷いた。

 仮定というより、むしろ「希望」だった。

 もしそうでなかったら——考えたくもないが——とてもじゃないが和美に知らせる事などできそうもない。

 それっきり、三人はしばらく押し黙った。

 長い夜は、まだまだこれからだった。



 日付が変わった。手術開始から三時間余りが過ぎた事になる。まだ手術が終るような時間ではない。

 緊張感の持続に、梓はしびれてきていた。

 その時、

「母さんも梓くんも、お腹空かないか?確か病院のすぐそばにコンビニがあったはずだから、僕がちょっと行って、何か買って来よう」

 そう言って誠が立ち上がった。

「母さんは何がいい?」

 しのぶは少し考えてから言った。

「じゃあ、サンドイッチとお茶を……」

 梓は、今日誠に呼び出されてからはじめてしのぶの声を聞いた。

「サンドイッチとお茶だね。OK。梓くんは?」

 言われて、そう言えばかなりの空腹を覚えている事に梓は気がついた。

 梓はしばらく考えてから、

「ブラックコーヒーをお願いします」

 と答えた。

「ブラックコーヒーだね。食べ物はどうする?

 長丁場になりそうだし、ここはなるべくお腹にたまるものにしておいた方が良いのではなかろうか。そう考えた梓は、

「おにぎりを適当に三つお願いします」と言った。

「解った。それじゃ僕はちょっと行ってくるよ。そんなに時間はかからないから」

 誠は、渡り廊下を急ぎ足で歩いて行った。

 誠の足音がすっかり聞こえなくなってから、しのぶが言った。

「ごめんね、梓くん。こんな事になっちゃって……」

「こんな事になっちゃってって、別におばさんの責任でも何でもないですよ」

 しのぶの顔は、蛍光灯の光のせいもあるだろうが、驚くほど青白かった。梓は元気付けるように明るく振舞う。

「大丈夫ですよ。めぐは昔っから、心配させればさせるほど、実は大した事ないって事ばっかりだったじゃないですか。今回だって、案外三日も経てばぴんぴんしてるかも知れませんよ」

 その言葉に何の説得力もない事は、梓自身が一番承知していたが、こうでも言わないと梓の方も参ってしまいそうだった。

「ふふ……そうかもね。いえ、きっとそうね」

「そうですよ。っていうかそうだと信じましょう。おばさんやおじさんが信じなけりゃ、誰がめぐを信じるんですか」

 その言葉は、梓自身にも向けられていた。そうでなければ、とても持たなかった。

「そうね……梓くんの言う通りだわ」

 しのぶは遠い目で言った。

「梓くんがめぐの彼氏だったら、どんなに良かったかしら……」

「はは……」

 梓は一言もなかった。

「私、めぐみが彼氏できたよって言ってきた時、かなりショックだったのよ。まあ、それ自体はおめでたい事だけど……」

 それだけでしのぶの言いたい事は分かったので、梓はあえて詳しく聞こうとはしなかった。

「めぐに彼氏ができようが結婚しようが、いつまでもめぐが俺にとって大切な幼なじみである事に変わりはないですよ」

 こうでも言わないと梓はやっていられなかったが、これは梓の正直な気持ちだった。

「ありがとう、梓くん。これからもめぐみを宜しくね」

 しのぶは感謝をこめて、そして申し訳なさそうに言った。

「こちらこそ。……あ、おじさんが戻って来たみたいですよ」

 コンビニの白い袋を提げた誠が、渡り廊下に足音を響かせて帰ってきていた。

 腹ごしらえでもして、くだらない事は忘れてしまおう。

 梓は難しい事を考えるのをやめた。



 手術開始から五時間。時計が午前二時を回った。

 看護婦は「早くて五、六時間から、長引けば七、八時間」と言っていた。と言うことは、これからはいつ目の前の「手術中」のライトが消えてもおかしくない事になる。

 三人は、時々取るに足らない会話をしては押し黙り、また誰かが取るに足らない話題を取り上げては沈黙し、そんな繰り返しだった。

 出し抜けに、誠が言った。

「母さん、顔色も優れないようだし、少し休んだらどうだい」

 確かに、しのぶはかなり疲れ切った様子だった。だが、誠の様子も、お世辞にも元気一杯とは言えない。

 それを見てとったか、しのぶは逆に、

「あなたこそ少し休んだ方がいいんじゃないです? 昼間もずっとお店だったし……」

「それを言うなら母さんも一緒だろ。大丈夫。こう見えても体力には自信があるんだよ」

「それは知ってるけど……」

 お互いに、相手に「休め休め_」と譲り合う二人の不毛なやり取りにけりをつけるべく、梓が言った。

「じゃあ、俺が起きてますよ。2人はいざと言う時のために休んでてください」

 だが、

「いや、梓くんこそ休んだ方がいいよ」

「そうね。梓くんはしばらく横になったらどう?」

 今度は2人の意見が一致してしまった。

「いや、俺が一番若いんだし、俺は大丈夫ですから、お二人が休んでくださいよ」

「そうは行かないよ。大事な娘の一大事に、父親が休むわけにはいかん」

「だったら私だってそうですよ」

 譲り合いが続くばかりだった。

「……ま、こうなったらみんなで待つか」

 誠が言うと、しのぶと梓は顔を見合わせて吹き出した。

「別に譲り合う必要もないし、最初からそうしてれば良かったのにね」

 しのぶの表情が、少し柔らかくなった。

 そんな中、三人の目線が捕らえている視界は、一瞬たりとも「手術中」のライトを外す事はなかった。

 三人とも、この状況には慣れてきてはいたが、緊張感は逆にどんどん高まっていた。わずかな物音にも光の変化にも敏感に反応した。

 その瞬間は、いつ訪れるか分からないのだから。



 午前五時半。手術開始から八時間四十分が過ぎていた。

 もういつ目の前の扉が開いてもおかしくない。

 そして、梓の緊張も極限に達していた。

「……」

 何の目的もなく、あちこちを見回す。意味もなく手術室前を行ったり来たりする。

 落ち着きがないと言えばそうなのだが、この状況で落ち着けという方が無理だった。

 そして誠としのぶは、さすがに昼間の仕事で疲労がたまっていたのか、長椅子に腰掛けたまま寝息をたてていた。

「手術が終ったら、すぐ起こしますから……それまではゆっくり休んでてください」

 梓はそう言うと、視線を手術室の入り口へと戻した。

「めぐ……頑張れ……頑張れ……」

 梓には、そう言い続ける以外にできる事はなかった。ただひたすらめぐみの無事を祈り続ける。

 汗の(にじ)(てのひら)を、軽く振って乾かした。

 暗かった渡り廊下は、日の出が近い太陽の光で、うっすらと光が射してきていた。それだけでも重苦しい気持ちが幾分は和らぐから、不思議なものだ。

 そんな事を考えて、視線を渡り廊下から戻した梓は、呼吸が止まるかと思った。

「……!」

 「手術中_のライトが消えた。手術が終ったのだ。

 耳をすませば、手術室の中が慌しく動く様子が伝わってくる。

 梓の心臓が早鐘のように鳴り続ける。心臓どころか、胸の中に時限爆弾でも入っているような錯覚にとらわれた。

「おじさん、おばさん、起きてください! 手術が終りました!」

 梓は誠としのぶの体を揺り動かした。さすがに2人ともすぐに目を覚ました。

「何だって!」

「終った……の?」

 二人はそう言うと、目の前の「手術中_」のライトが消えているのを目の当たりにし、一気に表情が硬くなった。

 やがて、手術室の扉が開いた。

 三人は息を飲んだ。

 青い手術着に身を包んだ数人の看護婦が、ストレッチャー(患者運搬用の台車)を押してきた。

 チューブがたくさん付けられてはいたが、その上に乗っていたのは、間違いなくめぐみだった。

 誠は、看護婦の一人に声をかけた。

「あ、あの、手術は?」

 看護婦は、振り返って答えた。

「ええ、成功しました。当面、生命の危険は脱した状態です」

 誠、しのぶ、梓の三人は、緊張の糸が切れたのか、全身の力が抜けていくのを感じた。

 看護婦は、ストレッチャーを押しながら、

「後で執刀した整形外科の片桐先生が詳しいお話をされると思います。三病棟のナースステーションでお待ちください」

 そう言うと、渡り廊下の方へストレッチャーを押して、すぐにその姿は見えなくなった。

「……」

「……」

「……」

 三人は、しばらく無言だった。誰も何も言えなかった。

 不意に、しのぶが両手で顔を覆い、嗚咽をあげ始めた。

「あの子は……めぐみは、助かったのよね? 夢じゃなくて本当に……」

 多分、それは誠と梓に共通する思いでもあった。梓にも、熱いものが込み上げてきた。

 誠は、しのぶの肩に手をかけた。

「行こう」

「ええ、そうね……」

 三人は、ここへ案内された時とはまるで異なる心境を抱いて、渡り廊下をナースステーションへ向けて歩いて行った。

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