1-1 センチメンタルサマー
夏の朝の空気は独特だ。早起きすれば良いのだが、太陽がある程度昇ってしまうと、空気はどろっと熱気を帯び、寝返りをうつたびに体に絡みついてくる。
そして朝っぱらから容赦無く騒ぎ立てる蝉の鳴き声が、その不快感を一層増幅させる。
「つ……」
カーテンから漏れてきた、真夏の強烈な陽光が梓の顔を照らす。梓は無意識に手で遮る。
「暑い……」
手で遮った程度では緩和できない強烈な暑さに、根こそぎ眠気をはぎとられてしまった梓は、しぶしぶと体を起こした。お世辞にも爽やかな目覚めとは言い難かった。
枕元の目覚まし時計に目をやる。短針はちょうど「八」を指していた。当然、アラームは切ってある。
梓は首を左右に倒し、立ち上がった。首の骨が軽く音を立てる。
そしてカーテンを勢い良く引き開けた。
暑いというより痛いと言った方が良いくらいの強い光が部屋に飛び込み、蝉の大合唱が梓の鼓膜を揺らした。
「もし太陽の光に攻撃力があったら」
そこで言葉を一旦切ると、カーテンを再び閉めながら、
「即死確実だな。正しく殺人光線だ」
梓はそうぼやいた。
服を着替えると、机の上の充電器に挿して置いた携帯電話を胸ポケットの中へ入れる。
「居間に下りるか……」
そう呟くと部屋のドアを開け、階段を降りていった。
八月になっていた。梓の夏休みはまだたっぷり一月以上残っていたが、特に何をするでもなく毎日を過ごしていた。
例年はあっと言う間に過ぎる夏休みだったが、今年の梓は夏休みの長さを思い知らされていた。そして、梓は相変らず梓だったが、めぐみはもはやめぐみではなかった。
今年はまだ海にも行っていない。いや、事によると今年の夏は海には行かないかも知れない。
玄関の郵便受けから新聞を取って居間に入り、エアコンのスイッチを入れる。ほどなくして心地よい冷風が梓の肌を潤した。
食卓の椅子にかけ、食卓の上で新聞を広げる。
社会面をざっと眺めた。大したニュースは載っていなかった。
良い事だ。世の中が平和な証拠である。
梓が新聞をめくった時、呼び鈴が鳴った。
時計に目をやると、まだ八時十五分。こんな時間に新聞の勧誘や訪問販売はやって来ない。
「やれやれ……」
こんな時間に梓の家にやってくる可能性がある人物を、梓は一人しか知らない。
梓は立ちあがると、居間の扉を開け玄関へ向かった。
ドアを開けると、そこにいたのは予想通りめぐみだった。
「あーちゃん、おはよ!」
いつもの声だったが、梓の方は言葉を失ってその場に立ち尽くした。
「……めぐ」
「なに?」
「めぐだよな?」
梓は、目が点になっていた。
「え?」
対するめぐみは、梓の当惑をまるで理解できていない風だ。しかし、梓が驚くのも無理はない。
生まれた頃からずっと変わらなかっためぐみの美しい黒髪は、茶色に染まり、ストレートロングだった髪型には、全体にウェーブがかかっていた。前髪も凝ったアレンジが施されており、黒髪をまっすぐ眉毛で揃えていた、以前の素朴なめぐみとは思えないくらいの変貌ぶりである。
「あ、髪型変えちゃったからびっくりしてるんだ。どう? 似合うかな?」
「えーと……」
顔を覗き込んでくるように梓に感想を求めてきためぐみに、梓は辛うじて言葉を繋いだ。
「いいんじゃないか?」
とりあえずそう言っておいた。
目の前の、とてもめぐみに見えないめぐみに、梓は「どう言う心境の変化だよ?」と尋ねた。
めぐみは笑顔で言った。
「あ、これ?黒髪のストレートより、カラーリングしてパーマかけた方が似合うって言われちゃって」
誰に言われたかなど、考えるまでもない。そして変わっていないのは笑顔だけだった。
梓は考えるのをやめ、話題を切り替えた。
「どうしたんだよ、こんな朝早くから」
「いやー、ちょっとね」
めぐみは不自然ににこにこと笑みを浮かべていた。
経験上、めぐみがこう言う表情を見せる時は、必ず何か頼み事がある時なのだ。
「頼みがあるなら早く言えよ」
梓がそう言うと、めぐみはえへへ、と笑った。
「あは、さっすがあーちゃん。話せるう」
「だから、用件を先に言えって」
めぐみは、笑顔を全く変えずに言った。
「宿題手伝ってくれない?」
「宿題?」
梓は怪訝そうな顔で聞き返した。
「夏休みはまだ半分以上も残ってるだろ。今からやってどうするんだ?」
めぐみは答えた。
「そこはそれ、なるべく早く宿題終らせないと、デートもあちこち行けないし」
幸せそうなめぐみの笑顔は、梓はもうお腹一杯だった。
「だったら、夏休み開始直後か、あるいは夏休み終了間際にしろよ。こんな中途半端な時期にやらなくても」
「いやー、あたしにも色々とね。そういう訳で、お邪魔します」
めぐみはそう言うと、靴を脱いで玄関へ上がり込んで来た。
「……ったく。大体、女の子なんだから、靴の踵は踏み潰すなよ、みっともない」
めぐみの靴を丁寧に直しながら梓がそう言うと、返事は居間から、
「だって、目の前なんだもん。大目に見てよ」
と返ってきた。
「しょうがない奴だな……」
梓は苦笑しつつ、居間へ向かった。
居間に入るなり、めぐみが梓へグラスを差し出して来た。
「はい、あーちゃん麦茶どうぞ」
「お、サンキュ」
受け取った麦茶を、ぐいっと飲み干しておいてから、梓はめぐみの頭を軽く小突いた。
「って、ここは俺の家だっつーの!」
「あは、お約束のツッコミ、ありがと」
「ほれ、椅子に座ってとっとと始めるぞ」
頭を小突いた後、ちゃんと頭を撫でるのを梓は忘れなかった。そして食卓の椅子を引いてやる。
めぐみは「ありがと」と頭を下げ、梓の向かいに座ると、持ってきたカバンから宿題の冊子をどさどさと取り出した。
「結構たくさんあるもんだな。俺は何をやればいいんだ?」
梓が尋ねると、めぐみは、
「あーちゃん、数学と化学お願い。あたしは英語と日本史やるから」
どちらも、めぐみの苦手な科目だった。
梓は、理系の大学に通っているため、数学と理科は得意中の得意である。また、高校時代も成績は悪くなかった。むしろ良かった。
そのため、高校レベルの問題ならば簡単に片付けてしまえる自信があった。
「わかった。まあ高校レベルの数学と化学なら、どうとでもなるだろ」
梓は冊子を開き、問題を解き始めた。
しばらくは、雑談の合間に宿題をやるような状態が続いた。
「ねえあーちゃん」
「ん?」
「おじ様とおば様、旅行中って聞いたけど?」
「ああ」
梓は手を動かしたまま答えた。
「昨日からね。北海道。富良野とか旭川とか札幌とか小樽とか函館とか、1週間の旅らしいよ」
北海道と聞いためぐみが、目を輝かせた。
「北海道! 『白い恋人』美味しいよねー。お土産、期待しちゃっていいのかな?」
「心配しなくても、めぐは父さんと母さんのお気に入りだから、持って帰ってくれるさ」
「持って帰ってって?」
「そりゃ、北海道新聞1週間分、とか」
「それってお土産じゃなくて、ただの資源ゴミじゃない」
呆れ顔のめぐみに、梓は、
「いや、北海道でしか読めない新聞だ。しかも旅行期間中のものとなれば、読むだけで旅行の想い出が蘇る事間違いなし」
「そんなのいらないよー」
めぐみが言うと、梓も頷いた。
「だろうな。俺もいらない」
「ね、あーちゃん。あたし『白い恋人』が食べたいな。おじ様にお願いしといてね」
めぐみのおねだりは、梓を骨抜きにする魔法の一言だった。
「ああ、今晩にでも電話かけて頼んでやるから。っていうか、俺が言わなくても多分買って帰るだろうけどね」
「それにしても、北海道かあ。いいなあ……」
めぐみは、うっとりと宙を見上げた。
「この季節、涼しくて最高だろうねー。ラベンダー畑とか、函館山の夜景とか、見てみたいなあ」
それを聞いた梓は、
「俺が連れて行ってやろうか?」
化学の問題集を解く手を休めて、そう言った。めぐみは、
「いいねー。北海道は無理だけど、どっか近いとこなら夏休みの間1回くらい行きたいね。最近あーちゃんと一緒に全然お出かけしてないし」
梓は冗談で言っただけなのだが、めぐみは間に受けてあれこれ考えているようだった。
「安心しろ。冗談だ。彼氏のいる女の子と2人でお出かけなんて、恐れ多くてできないよ」
「それもちょっと寂しいものがあるなあ……」
めぐみは少し寂しげに呟いた。
「まあ、買い物とかそういうのなら付き合ってやれるから」
梓が言うと、めぐみは嬉しそうに頷いた。
やはり、めぐみは変わっていない。梓は少しだけ嬉しくなった。
それからしばらくは、2人とも無言でシャープペンシルを走らせた。(尤/もっと)も、走る速度にはめぐみと梓で大差があったのだが。
「めぐ、はかどってるか?」
「うーん、あんまり」
予想通りの答えだった。梓は苦笑いを浮かべた。
「まあ、今日全部終らせる必要があるわけでもないし、ゆっくりやればいいさ」
「そう言うあーちゃんはどう?」
「俺は……数学が7ページ、化学は5ページくらいだな」
その答えを聞いためぐみは、目を丸くした。
「うわ、あーちゃん凄い。早すぎだよ」
梓は、問題集を解く手を休めなかった。
「当たり前だ。現役の理系大学生が、高校二年の数学と化学で苦戦してどうする」
「まあ、それはそうだけど……あたしも頑張らないと、と思いつつ進まない……」
「何か気になる事でもあるのか」
「うん。今日のデートは何を着て行こうかなー、とか」
それを聞いた梓は、数学の薄い問題集で、めぐみの頭をひっぱたいた。
「誰のために一生懸命問題解いてると思ってんだ」
「うう……ごめんなさーい」
そう言ってめぐみは舌を出した。あまり反省しているようには見えなかった。
「ねえあーちゃん、あーちゃんはあたしが今日お昼から、何着て行けばいいと思う?」
言ってるそばからこれだ。梓はため息をつきつつ言った。
「俺が好きな服を着て行ってもしょうがないだろ」
「大丈夫。あーちゃんがいいって言うなら間違いないから」
梓は、少しばかり考えてから言った。
「水色のワンピースはどうだ?」
梓と夏に出かける時に、めぐみがいつも着て行くのが、めぐみお気に入りの水色のワンピースだった。梓のとても好きな色でもあった。
「あ、去年の誕生日にあーちゃんがくれた奴?」
「そう」
めぐみは、シャープペンシルのノックボタンであごをつっついた。
「うん、いいかもね。あたしもあのワンピース、好きだし」
そう言って、
「よーし、じゃ着ていく服も決まったし、張り切って宿題やるぞー!」
めぐみのやる気は確実に上がったようだ。
「よし、その意気で頑張れ」
「うん!」
めぐみは大きく頷くと、再びシャープペンシルを走らせ始めた。
どれくらいの時間が経っただろうか。かなりの間、問題集と格闘していた梓が、筆記用具を置いた。
大きく後ろへ体を反らし、宿題のし通しで固くなった体を十分にほぐす。壁にかけてある時計は、十一時半を指していた。
「ふう……。あらかた片付いたか。思ったよりはかどったな」
そう言って、もう一言付け加える。
「それに、めぐも結構頑張ったじゃないか」
「あは。あーちゃんのお陰でやる気出たかも」
「ま、俺も少しは役に立ったみたいでよかったよ」
梓が言うとめぐみは、
「少しじゃなくて、すっごく助かったよ。ありがとう、あーちゃん」
梓は、その言葉が聞けただけで何よりだった。
「で、後は何が残ってるんだ?」
梓が聞くと、
「えーと、数学と化学はあーちゃんがほとんど今日やってくれたし、国語と英語も半分以上終ったから……後は……」
めぐみは指を折って数えている。梓は、
「じゃ、めぐの苦手そうな科目は置いていけよ。やっといてやるから」
「え……?」
めぐみは驚いたように言葉を失う。
「あ、ただし古文とか社会はめぐが自分でやった方が多分早いぞ。特に俺は古文なんて全然だから」
梓はそう言って、自分にできそうな問題集をテーブルの上から一冊、二冊と選んで取っていく。そんな梓を見て、めぐみはしみじみと言った。
「あーちゃん……」
「何だ?」
「あーちゃん、本当に優しいね」
「優しいというか、これだけ放っておけない奴がそばにいたら、誰でもこうなる」
そう言った梓に、めぐみは突き刺さるような一言を放った。
「あたし、あーちゃんの事が好きだったら良かったのになあ」
「……」
梓は一瞬言葉を失い、激しく動揺しかけたが、すぐに立ち直る。
「……くだらない事言ってるなよ。彼氏に申し訳無いだろ」
「うん……でも、あーちゃん。今日は本当にありがと」
「ま、毎年の事だからな。俺もどうせ暇だし気にするな」
「うん。また来るからね」
問題集をカバンに片付けながらめぐみが言った。
「で、今日はどこに行くんだ?」
梓はそう尋ねた。めぐみは、
「はい、今日はまずお食事。それから水族館に行って、映画を見た後、晩御飯食べて、ドライブで夜景を楽しみまーす」
めぐみはとびっきりの笑顔で答えた。梓にとっては、あまり快い笑顔とは言えなかった。
「そりゃまたヘビー級な行程だな……」
梓は、
「ま、楽しんで来いよ」
そう言って、めぐみの頭をぽんと叩いた。
「うん。帰って来たら電話で色々話してあげるからね」
「おいおい……」
梓は苦笑しながら、
「ちょっとは彼氏に気を遣え」
そう言った。めぐみには意味が伝わらなかったらしい。
「何で?」
梓は仕方なく説明してやる事にした。
「つまりだ。男としては、自分の彼女が自分とのデートの内容を他の男にぺらぺらしゃべる、なんてのは、あんまり気分が良くないものなんだよ」
「そんなものなの?」
めぐみは、少し考え込んだ。
「うーん、だからと言ってあーちゃんに電話するのを止められるのは辛いなあ……」
「誰も俺に電話かけるななんて言ってないだろ。雑談目的の電話なら、いつでも付き合うぞ」
めぐみは、それを聞いて安心した様子だった。
「だよね。電話かけるななんて言われたらどうしようかと思っちゃった」
「言わないよ、そんな事」
梓は笑顔で答えた。
そして梓とめぐみは、玄関にやって来た。靴を履いて帰宅——と言っても路地を横切るだけだが——するめぐみを梓は見送りに来ていたのだ。
「あーちゃん、今日は本当にありがとね。助かっちゃった」
「どういたしまして。けど、彼氏いるのにあんまり俺の家に来たりするのは問題がないか?」
梓の質問に、めぐみはやっぱり笑顔だった。
「やだなー。彼氏とあーちゃんは別だよ。あーちゃんは特別なんだから」
喜んでいいやら悪いやら、判断に困る言葉だった。
梓は一応、
「そっか。光栄だな」
と言っておいた。
「じゃ、あーちゃんまたね。また連絡するから」
「ああ、それじゃあな」
めぐみはそう言うと、手を振りながら玄関を出た。
めぐみのいなくなった玄関を、梓はしばらくぼーっと眺めていた。
「俺は特別、か……」
ついさっきめぐみが言った言葉を思い出してみる。思い出せば思い出すほどやるせない気持ちになっていった。
「俺も出かけて、昼飯でも食べに行くかな」
梓は気を取り直して、ジーンズのポケットを確認した。財布はある。
靴を履いて、玄関のドアを開けた。
梓の頭上から、殺人光線が降り注いできた。梓は、足早に路地を横断し、真向かいにある喫茶店「メリー・ウィドウ」を目指した。
「メリー・ウィドウ_」は、めぐみの両親が経営する喫茶店である。近いし、梓にはよくサービスもしてくれるので、梓はしょっちゅう利用していた。
コーヒーや紅茶の味も良く、料理もリーズナブルかつ美味しいので、住宅街にありながら結構隠れたファンも多いらしい。
道路をはさんで徒歩五秒。梓は、メリー・ウィドウのドアを開けた。