0-2 めぐみと和美
昼休みの教室は、一日のうちでも最も騒がしい一時だった。
弁当を食べ終えためぐみは窓際の自分の席で、何をするでもなく、のんびりと窓の外を眺めていた。
そこへ、一人のクラスメートが声をかけてきた。
「めぐみめぐみめぐみ」
「一回言えば分かるってば。よく噛まないね」
早口でまくしたててきた級友に、めぐみは苦笑を浮かべながら答えた。
声をかけてきたのは、茶髪のショートボブの少女だった。めぐみに比べると拳一つ分くらい背が高い。
名前は八重洲和美。中学校1年生の時にめぐみと同じクラスに転校してきて以来、めぐみの一番の親友だった。
めぐみと梓のように、路地を挟んで真向かい徒歩5秒、というほどではないが、和美はめぐみの家から歩いて三分程度の近所に住んでおり、梓、めぐみ、和美の三人で遊びに出かける事も多かった。
和美は肩口のあたりで揃えられた茶髪をかき上げた。丁寧に手入れされた滑らかな茶髪が和美の肩の上で跳ねる。
黒髪に素朴なロングヘアのめぐみと比べ、恐らくは毎朝丁寧に手入れしているのだろう。一見よくある髪型だが、細部のお洒落かつ上品な処理のされかたは、いかにも今時の女子高生だった。
「で、和美ちゃん何か用?」
めぐみが言うと、和美はぽんと手を打った。
「めぐみ、今度の日曜って空いてる?」
「今後の日曜……」
めぐみは、今朝の梓との会話を思い出した。
「日曜は、あーちゃんと海に泳ぎに行く約束してるけど」
「それなら私もどうして誘ってくれないの? ……じゃなくて」
和美はびしっと右手の親指と人差し指で「L」の字を作ると、その手をリズミカルに振りながら言った。
「めぐみ、私を助けると思って、その日は遊園地に行かない?」
「遊園地?」
話を良く飲み込めないめぐみは、小首を傾げた。和美は続ける。
「あのね、実は私の兄貴とその友人四人が、一緒に行ってくれる女の子四人を探してるの。で、兄貴が私に声かけてきて。私入れて3人は都合がついたんだけど、もう1人がどうしてもね」
めぐみはようやく理解した。
「いわゆる集団デート?」
「いわゆらなくてもそうだけどね」
そんな日本語はないが、めぐみは突っ込まなかった。
「ね、お願い!」
和美は顔の前で手を合わせて「お願い」ポーズ。
めぐみは、今まで男性と一緒に出かけた事はほとんどない。例外は梓と、後は父親くらいのものだ。めぐみは考え込んだ。
「うーん……」
「もちろん、お金はタダよ。相手持ち。タダで遊園地で遊び放題で美味しいものも食べ放題!」
「うーん……」
「荘野さんとは、また今度行けばいいじゃない。いつでも行けるんだから」
「うーん……」
右に左に首を捻っては唸ってばかりのめぐみを、和美は更に一押しした。
「それに、めぐみって男の人って荘野さんしか知らないでしょ。やっぱり色んな男性を見ておいた方がいいと思うなあ。そしたら、いつも見慣れてる荘野さんの新たな魅力に気付くかもよ?」
「何よそれ……」
めぐみは苦笑した。そして、
「和美ちゃんも行くんだよね?」
「もちろん」
和美は大きく頷いた。めぐみはしょうがない、という顔で言った。
「……あーちゃんには、後で和美ちゃんからも謝っといてね」
「もちろん! 恩に切ります天野様!」
「和美ちゃん、大げさ……」
めぐみはまた笑った。
言われてみれば、和美の言う通り、梓とはいつでも出かけられる。それにもうすぐ夏休みだ。そうなれば梓とは毎日だって会えるのだ。ここは親友の頼みをきいても罰は当らないだろう。
「遊園地かあ…何着て行こっかなあ……」
めぐみはぼんやりとそんな事を考えた。
梓と出かける時は、そう言えばそんな事は考えた事もなかった。
その日の夜。
梓が部屋でぼーっとテレビを見ていると、携帯電話が鳴った。
携帯電話に内蔵の、いかにも「電話でござい」という味も素っ気もない電子音に急かされ、梓は電話を取った。
画面を開くと、めぐみの名前が表示されていた。ボタンを押す。
「もしもし」
「あーちゃん、こんばんはー」
「今朝、間に合ったか?」
おしゃべりが長引いたのと、少々渋滞に引っかかったせいで、梓の運転する車がめぐみの高校の正門前に着いたのは、かなりぎりぎりな時間だったのだ。
めぐみが、
「うん、大丈夫。ぎりぎりだけど間に合ったよ」
と答えたので、梓はほっと一息ついた。
「そりゃ良かった。心配してたんだ」
「あは、ごめんね心配かけちゃって」
「まあ、俺が休みの時は送ってやれるけど、普段はそうは行かないんだから気をつけろよ」
梓がそう言うと、めぐみのちょっとむっとした調子の声が聞こえてきた。
「あーちゃんがあたしより早く起きた事って、あったっけ?」
梓は薮を叩いて蛇を出してしまった。
「う……」
「それに今日だって、そもそもあーちゃんを起こすために時間遅くなったんだからね。今日から夏休みだって教えてくれてたら良かったのに」
「悪い悪い。今度埋め合わせするから」
梓は、申し訳なさそうに頭をかくしかなかった。
「あは、いいよ気にしてないから。でも、もしもあたしが遅れる事あったら、また宜しくね」
「ああ。謹んでお送りさせていただきます」
めぐみの笑い声が聞こえてきた。
しばらく雑談が続いた後、梓の方から切り出した。
「で、どうしたんだ?何か用事あるからかけてきたんじゃないのか?」
「あ……」
図星を指されためぐみは、黙り込んでしまった。
「……どうした?」
「あのね、あーちゃん」
少しの沈黙の後、めぐみは重そうな口を開いた。
「今度の日曜、あーちゃんとお出かけするって約束したじゃない?」
その一言で、梓はめぐみの言いたい事を理解した。
「行けなくなったのか」
「ごめんなさい!和美ちゃんにどうしてもって頼まれちゃって……」
「そっか。和美ちゃんのお願いならしょうがないな」
梓は、あまりがっかりしていなかった。めぐみとはいつでも行けるのだから。
「その次の日曜日は大丈夫だから、その次の日曜は絶対海に行こうよ」
めぐみが言うと梓は、
「ああ、そうだな。なんなら和美ちゃんも誘うか?」
「うん。ってあーちゃん。水着の女の子2人見放題、とか思ってない?」
「思ってないって」
梓は肩をすくめた。
「あは、冗談冗談。あーちゃん、来週までにお弁当のリクエスト考えといてね」
「ああ。考えとくよ」
「それじゃ、そろそろ切るね」
「うん。お休み」
「お休みなさーい」
電話はそこで切れた。梓は携帯電話を閉じる。
と、その瞬間。
今切った電話が、また鳴った。
「うわ。またかよ」
梓は閉じたばかりの携帯電話を再び開く。液晶画面には和美の名前が表示されていた。
梓は受信ボタンを押した。
「もしもし」
「荘野さんこんばんは。八重洲です」
「やあ和美ちゃん。たった今めぐから電話あったよ」
梓がそう言うと、和美は申し訳なさそうに、
「うう……すみません荘野さん。荘野さんの方がめぐみと先に約束してたのに、私の兄貴にどうしてもって頼まれて」
「いや、気にしてないよ」
実際、梓は全く気にしていなかった。
「で、日曜はどこ行くの? めぐと買い物にでも?」
「遊園地です。兄貴とその友人四人組と」
「ああ、それで女の子も四人必要だったと」
「そうです」
そう言えば、梓も高校生の頃は集団デートには良く行った事がある。女の子と二人きりとなると、めぐみ以外では和美の買い物に一、二度付き合わされた程度だが。
「そっか。楽しんでくるといいよ」
「はい。なんたってタダですから」
「はは……」
いかにも現金なところが和美らしい。梓は思わず笑った。
「で、その次の日曜にめぐと海に行くんだけど、和美ちゃんも良かったらどう?」
和美を誘ってみると、
「わーお! いいですねえ。もちろんOKです。水着準備しときますね」
二つ返事だった。梓も間髪入れずに言葉を続ける。
「うん。楽しみだね」
「可愛いの用意するから、期待してていいですよ」
「そっちも楽しみにしてるよ」
梓は、そう答えてから二人の水着姿を想像しようとして、やめた。
「じゃ、もう遅いから切りますね。どうもすみませんでした」
「ああ、お休み」
「はい、お休みなさい」
電話が切れた。梓は液晶画面を見て通話時間を確認する。
十分以上話していたような気がするが、画面に出ていた時間は五分にも満たなかった。
すっかり和美の話のテンポに引きずられた格好だった。梓は携帯電話を閉じて、机の上の充電器に挿しこむ。
「……さて、ちょっと遅いけど風呂にでも入ってくるかな」
梓は大きく背伸びをした。
暑い夏も、熱い風呂でたっぷり汗をかく。これが梓の流儀だった。
梓は部屋の扉を開けると、階段を降りて行った。